Playground 校庭のレビュー・感想・評価
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目隠し鬼の記憶
突然の喧騒に、すっと引き込まれる。校門前で登校を渋る女の子・ノラとのやり取りに、親の顔は登場しない。不安げな彼女が顔を寄せる、たるんだお腹が大写しされるだけ。性別さえも分からない。その後も、子どもの視線で物語は進む。大人はほとんど登場しない。声が上の方から振ってくるばかりで、かがむか座るかして視線を落としたときだけ、彼らはふっと現れる。子どもの世界で、大人は単なる遠景、もしくは脇役。絡まっていく事態をほどくことは、とても期待できないのだ。大人の非力に気づき、絶望した子どもの、孤独なたたかいが始まる。
友だちがふえ、彩りを得ていく妹・ノラと反比例するかのように、兄・アベルはいじめのターゲットととなり、追い詰められていく。そして、順調に見えたノラにも新たな影が…。
めまぐるしく、容赦ないパワーゲームに気を取られながらも、ノラの友人たちのおしゃべりがちくりちくりと胸に刺さった。「サッカーやる子は差別主義者」、「差別主義者は自分が一番な人たち」、「無職者は怠け者」となどという短絡的な価値観を、彼女たちはどこで得たのか。無神経な大人の言葉が、子どもに取り込まれ、暴力性をあらわにしていくさまが生々しい。
共に遊び、笑い合える瞬間がきらきらとするほどに、これがいつまで続くのかと、不安がよぎる。中盤、目隠し鬼のシーンが印象的だった。鮮やかな青い布ですっぽりと顔を覆い、ぐるぐると回り、歓声の中で手探りするノラは、目隠しを外すのが少し怖かったのではないか。子どもの遊びには、目をつぶったり目隠ししたりと視覚を奪われるがものが色々ある。そういった遊びは少し非日常でワクワクするけれど、ちょっとした怖さもある。目を開いたとき、周りはどうなっているのか、目の前に広がる世界が様変わりしていないか、自分だけ取り残されていないか…。そんなひんやりとした記憶が、ふっと蘇った。
ラスト、ノラが選んだ必死の行動は、ささやかな光だ。すさみかけた、観る者の心を温めてくれた。けれども、解決とは言えない。問題は、そこからだ。もし、大人が彼女と同じ行動を取ったら、どうなるだろう。そもそも、同じ行動を取れる大人は、どのくらいいるだろう? だからこそ、必死のバトンを受け取れる大人になりたい。ほろ苦さを噛み締めながら、そう思った。
(追記: ほとんど情報なく劇場に駆け込んだので、鑑賞後に、ちらしを改めて手に取った。フランスではなく、ベルギー作品だったのか。ベルギーと言えば…と思ったら、ローラ・ワンデル監督の次回作は、ダルデンヌ兄弟が製作に加わるとのことだった。納得。期待!)
不安・恐怖・成長の追体験に誘う“子供の情景”
被写界深度をごく浅く設定したカメラで撮影した映像が特徴的。主人公の7歳の少女ノラの目線の高さにカメラを合わせ、ノラの表情や彼女が見る対象をフォーカスが丁寧に追い、それに伴い周囲の視界がボケる。本作が長編デビューとなるベルギーのローラ・ワンデル監督の狙いは、ノラが目にする世界を観客に体感させること。それはすなわち、誰もが通ってきた幼少期の、幼稚園や小学校に入り見知らぬ大勢の中に放り込まれたときに感じる不安や恐怖を追体験させることでもある。幼い頃は余裕がなく、身の回りの見える範囲が“世界のすべて”だったことを思い出させる。フランス語の原題「Un monde」の意味はずばり「世界」だ。
冒頭からノラは心細くて泣いている。コミュニケーションが苦手のようで、仲間外れなどの軽いいじめにあう。だがより深刻なのは3歳上の兄アベルのほうで、心身のダメージを伴う攻撃を数人から受けている。大好きな兄が校庭や校舎内でいじめられているのを目撃したノラは、なんとか兄の力になろうとするのだが……。
演技を感じさせない子供たちの自然な表情と言葉(もちろん監督の演出の賜物でもあるだろう)が、ドキュメンタリーを観ている錯覚さえ起こさせる。多少なりとも人付き合いに苦手意識がある人、新しい集団に馴染むのに苦労した経験がある人なら、ノラの心情にきっと共感するはず。そして、泣き虫だった彼女がつらく苦しい体験を経て成長する姿に、不安や孤独を克服した幼い自分を思い出して重ねるに違いない。
眩しすぎるほどに暗い
人格形成の段階。なんて言うが実際は人なんて一度でも人生を諦めたら、それが小学生の時であろうと決定的に人格は変わるし以前の自分と比べると文字通り"終わって"しまう。それが人生や一般常識から見た時の善し悪しは視点によって変わるが、元に戻ることは決してない。悪人が更生しても幼少期の善人に戻るわけではない、悪人を経験した善人があるだけだ。もっとも善悪なんてものがそもそも在るのかは置いておくとして、この映画はその心、人格が移り変わる瞬間をできるだけ映画に収めよう、再現しようとしていたように思う。現実ではないがフィクションとは言い切れない、あまりにも現実的で現実世界を濃縮して72分にしたような映画だった。
兄妹の演技がすごい……けど
これもまた…
子どもの世界はこうだよね。自分も通ってきた道。
だからこそアベルの判断が自分には全くない発想過ぎて理解に苦しむ。
自分が虐められる▶親介入▶ヤラれる側に戻りたくないから加害者になる
え?なんで?
ヤるかヤラレるかしかないの?
あれだけ人がいてなんでそのグループの人としか居られないの??
自分の過去を振り返る。
心ない女の子からの突然の御達し→「今かららまちゃんと口聞いた人は絶交ね」→自分の身に降りかかる女子グループからの完全無視。もちろん身に覚えはない。
そりゃされていい気分はしないけど、初めてされたときは悩んだけど、理由もないのにきまぐれに繰り返されてたら、そのうちに振り回されるのが馬鹿馬鹿しくなってきて自分の方から試合を降りた(?)とでもいうのかな。おかげでそれまで挨拶くらいしかしなかった子とも仲良くなれた。
この映画のアベルのような目に今、現実で遭ってる子からしてみたら辛いし、綺麗事言うなーって感じだとは思うけど、「このままこの人達と付き合っていかなきゃならない」という自分を縛っている呪縛みたいなものを解いてから考え直してみてほしいなー。
ノラの癇癪はさらにあたしには完全理解不能。
なぜ、なぜ、なぜ、の連続
7歳の内気な少女ノラは3歳上の兄アベルが通う小学校に入学したが、なかなか友だちができず校内に居場所がなかった。ある日、兄が大柄な少年にいじめられている現場を目撃しショックを受けたノラは大好きな兄を助けたいと思ったが、兄から、イジメがひどくなるから黙っておけ、と言われてしまった。その後も兄へのいじめは繰り返され、トイレに顔をつけられたり、校庭の大きなゴミ箱へ入れられたりと兄へのイジメはエスカレートしていった。せっかく出来た友だちからも、臭い兄が居ると仲間はずれにされて再びひとりぼっちになったノラは、ある日、校庭で兄が黒人の子をいじめてる姿を目撃しショックを受けた。そして・・・そんな話。
ベルギー作品、という事で、フランス語かな?オランダ語かな、なんて思ってたら、フランス語だった。
ずっとノラ目線でのカメラワークが彼女の気持ちに入れる様になっててとても良かった。唯一、平均台のシーンだけ下からだったので、あのシーンもカメラをノラ目線まで上げて欲しかった。
なぜ母が居ないのか、なぜ父は仕事をしていないのか、兄がいじめられる様になったのはなぜ、など、いくつもなぜが有るが、ノラ目線だとわからない事も多い、という事なのかも。
ベルギーの小学校には監視員という人がいるんだと知れたのは良かった。
ノラ役のマヤ・バンダービークが目力が有って涙を流すシーンなども素晴らしかった。しいてあげれば、笑顔のシーンも見たかったかな。
まるで刑務所みたい!?
子供にとって学校がすべて
痛いほどわかる
閉塞感の連続
弱肉強食
子供たちを主人公にした大人に向けた作品。
子供の世界。そこに大人は介入することもできなければ求められてもいない世界。
子供達の中での生存競争に、どんな子供たちも避けて通ることはできず、絡め取られていく。そこは慈しみや情けなど微塵もない残酷な世界。
そんな小さく濃密な世界の中でも暗闇を照らす蝋燭の炎のような、儚くか細い愛が存在し、深い傷をゆっくりと浄化する。
国境や民族、宗教など関係ない、すべての大人に向けた作品であることは間違いない。
劇場を後にしてから涙が溢れた。
子供社会、素直な分だけ残酷。
記憶を呼び起こすトリガーとしての映画
マドレーヌの香りで幼少期の記憶がありありと蘇るのはプルーストの『失われた時を求めて』に描かれた、香りが記憶を呼び起こすトリガーとなる現象だ。中勘助の『銀の匙』にも、かつての感覚が匂いや音、何気ない光景をきっかけにして立ち上がってくる場面が繰り返し現れる。
記憶を思い出すというのは、それは単なる情報の再生ではない。それは当時の感覚が、現在の身体の中にもう一度体験的に立ち上がってくることだ。
映画『Playground』は、極めて鋭利な“感覚のトリガー”である。この作品が思い出させてくれるのは、懐かしさや温かい記憶、楽しみさの記憶ではない。幼少期の人生がいかにタフで、理不尽であったか、それを観る者に容赦なく思い出させる。
世界に対してむき出しであった幼少期の鋭敏な感覚そのものを再体験させる映画だ。
6歳の少女ノラが小学校へ入学する場面から始まる。
明確なストーリー展開も、説明的なセリフもない。
観客は終始、彼女の背中を追い、彼女の視線の高さで、彼女の感情のスピードで、世界を知覚していく。
特徴的なのは、極端に寄った構図と、浅いピントである。画面の中で焦点が合っているのはノラの顔や背中、その表情の揺れだけ。周囲の教師やクラスメイト、教室や校庭の風景さえ、しばしばぼやけ、背景に沈んでいく。
この撮影スタイルが、子どもの“世界の知覚の仕方”を体現している。
子どもは、まだ世界を“俯瞰”する力も、“意味づける”技術も持たない。だから、彼女にとって重要なのは「目の前で何が起きているか」ではなく「目の前で何かが起こりそうな感じ」なのだ。
この映画が映し出すのは、世界がまだ秩序を持たず、善悪も理解できず、未来の見通しも立たない頃——生きることがそのまま不安定さの中に投げ込まれていた時間の感触である。
『Playground』が映し出す知覚の世界は、あまりに不安定で、混乱し、感情の揺れに満ちている。
だがこの不安定さこそが、子どもの世界のリアルな“生”の感触ではなかったか。世界を体系的に理解する前、言葉で整理する前、人は感覚で世界に触れている。
大人になるにつれて、私たちは客観的視点や、社会的な認知の仕方を身につける。しかし、それは学習によって獲得された技術であり、ある種のフィクション化でもある。
世界を「合理的に見る」ことはできるようになるが「生々しく感じる」ことを置き去りにすることでもある。
この映画はその虚構を剥ぎ取り、かつて体験してたであろう「わからなさ」「予測不能さ」「説明不能な感情」へと引き戻す。
かつて自分も、あのような世界の中で、言葉にならないまま、
ただ感覚だけを武器にして立っていたことがある、と思い出させる。
ノラは兄アベルが学校で苦しんでいる姿を見る。よく知っていたはずの兄も、学校という異世界ではノラにとっては理解不能な他者である。
学校の大人たちが、どれだけ倫理的に配慮し、見守り、目を光らせていたとしても、子供達の世界は別世界で理解不能であることも見事に描かれる。
だから、子どもは分かり合えない他者である親や教師を前に沈黙する。
この映画を観ていると、もう一つの問いが立ち上がってくる。「大人になる」とは一体、どういうことなのだろうか?
ノラのように、世界をむき出しの感受性で感じ、目の前の現実をまっすぐ受け止めていた、かつての自分を思い出す映画でもあった。
今の自分には、もうあのような鋭敏さはない。それは成長なのか、それとも鈍感化という生存戦略なのか。
俯瞰して見る力や合理的に説明する力は、世界を理解する技術であると同時に、世界の本質から目をそらすための虚構にもなり得る。
世界がこれほどタフなものならば、それをそのまま鋭敏に受け止める感覚は、失わなければ生き延びられないのかもしれない。
現実の世界には、言葉にできない感情や、話し合いによっては埋められない分断が確かに存在する。
いじめの構造、子ども社会の暴力性、そしてその中で何もできない自分——映画の中のノラと同じように、観客もまた、ただそこにいるしかない自分を体験する。
この映画が与えてくれるのは、そのままに世界を受け止め、わからなさとともに在るということではないだろうか。
現代社会におけるさまざまな分断——ジェネレーションギャップ、文化的隔たり、言語の限界——に直面したとき、誠実なまなざしで他者を見つめるための、小さな準備になるのかもしれない。
この映画を観たあと、私たちは“思い出してしまった”ことに気づく。
あの頃の自分、あの知覚、あの世界は完全に戻ることはないけれど、思い出すことによって、今の世界を生々しく体験するための大きなヒントときっかけをくれる映画だった。
25-043
子供たちは皆んな大変なんです、。
小学校の時の記憶などほぼないが、あまり楽しいことは無かったと思う。
人はいわゆる大人になり、広い意味で社会と関わることができて初めて生きている実感が持てるものだと思う。だから大人になるまでの嫌なことや小さい頃のイジメや仲間はずれの記憶は忘却の彼方に追い払うようにすべきだ(勿論その為にはそれなりの努力は必要)。
だが、そんな事を言ってもリアルの子供たちは大変だ。ベルギーじゃなくてもどんな国でも。
映画はノラの目線からカメラがひたすら追う。余計な音楽もなく校庭や教室やプールの生の音を拾う。まるでドキュメンタリーを見ているようだ。7歳のノラは初登校では学校という別世界に放り出され心細くてしょうがないので涙ポロポロ。唯一の頼りは兄アベルだが、学校内ではかまってくれない。それでも頑張って靴紐の結び方など色んなことがひとりできるようになり友だちも出来た。これはノラの成長物語と思いきや、アベルが壮絶なイジメを受けていることを目撃。そこから親や先生や監視員などの大人が絡み物語は動き出しアベルはイジメから解放、。なんて簡単にはいかず今度はアベルがイジメをする側になり、衝撃のラストになる。
72分の比較的短い映画だからよかったが、長く観ていることがちょっと辛くなる映画だった。
だが、観て良かった。独特の映画作りが斬新だったし、社会、学校、子供たちに色々と思いを馳せらせることができた。教育に関わる全世界の人々に見て欲しい映画である。
誰もが正解を導き出せないはず
中学生の時に軽いいじめにあい、そのとき強く暴力的に反発したことでいじめから抜け出した経験がある。だから、大人になってもしばらくはいじめには暴力で反発するしかないと思い込んでいた。本作のノラのように。でも、向き不向きもあるし万能な対策ではない。いじめは本当に複雑な問題だと思う。
本作は、妹ノラの目線で描かれる。ノラの目線で、ノラの周辺しかスクリーンには映らない。それこそ、原題のようにノラが感じている「世界」を描いているかのよう。小学生なりのデタラメな知識や思い込み、表層的な理解による偏見も存在するし、大人から吹き込まれた嫌な情報もあったりする。子どもの世界って、そんな不確かなものに日々左右されていくんだよなと改めて感じたりする。その怖さを感じる内容だった。
家庭環境や学校の実情(先生の事情とか)はほとんど語られない。あくまでノラが感じる世界の話だから。だから、兄に起こっている事柄よりも、ノラにとっては自分が孤立する状況の方が深刻だったりする。そんな描写がとてもリアルだった。
あくまでノラの目線で語られているのに、こちらの捉え方は大人目線になってしまう。校庭に監視員がいるんだ!とか(またこの監視員が役立たず)、そこ順番が違う!とか、お父さんはその対応でいいのか!?とか、先生が辞めることになった理由は何?とか。でも、そんなことを考えている自分に正解を導き出せるわけでもない。それくらいいじめは難しいってこと。
ラストは何か解決に向かいそうな気もするし、何にも解決しない雰囲気も感じる。でも、現実を切り取った映画として深く胸に刻まれることになった。自分みたいにどんよりした気分で劇場を後にする人が多いんだろう。それだけでこの映画の意味はある。
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