Playground 校庭のレビュー・感想・評価
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不安・恐怖・成長の追体験に誘う“子供の情景”
被写界深度をごく浅く設定したカメラで撮影した映像が特徴的。主人公の7歳の少女ノラの目線の高さにカメラを合わせ、ノラの表情や彼女が見る対象をフォーカスが丁寧に追い、それに伴い周囲の視界がボケる。本作が長編デビューとなるベルギーのローラ・ワンデル監督の狙いは、ノラが目にする世界を観客に体感させること。それはすなわち、誰もが通ってきた幼少期の、幼稚園や小学校に入り見知らぬ大勢の中に放り込まれたときに感じる不安や恐怖を追体験させることでもある。幼い頃は余裕がなく、身の回りの見える範囲が“世界のすべて”だったことを思い出させる。フランス語の原題「Un monde」の意味はずばり「世界」だ。
冒頭からノラは心細くて泣いている。コミュニケーションが苦手のようで、仲間外れなどの軽いいじめにあう。だがより深刻なのは3歳上の兄アベルのほうで、心身のダメージを伴う攻撃を数人から受けている。大好きな兄が校庭や校舎内でいじめられているのを目撃したノラは、なんとか兄の力になろうとするのだが……。
演技を感じさせない子供たちの自然な表情と言葉(もちろん監督の演出の賜物でもあるだろう)が、ドキュメンタリーを観ている錯覚さえ起こさせる。多少なりとも人付き合いに苦手意識がある人、新しい集団に馴染むのに苦労した経験がある人なら、ノラの心情にきっと共感するはず。そして、泣き虫だった彼女がつらく苦しい体験を経て成長する姿に、不安や孤独を克服した幼い自分を思い出して重ねるに違いない。
痛いほどわかる
閉塞感の連続
こどものゆらぎ
ラスト、兄の悔恨の言葉を聞きたかった気もしないでもないが、
あそこでバツっと切ったのは、あれはあれで、
観る側に強い印象を残す終わり方ですね。
曇りの中に、少しだけ光が差したと思いたい。
子どもの世界、それも学校の教室と食堂と校庭が中心だけども、
人間関係の難しさ、人間の心の機微、
良さも悪さも凝縮したような内容に息が詰まりそうになりました。
子どもゆえの純粋さと残酷さの繊細過ぎる心の動きに、終始ヒリヒリしてしんどかったです。
大人になって、図太く生きるということを学んでしまったので余計にね。
このような普遍的な人間社会のコミュティの中で、自分を確立する難しさを、
子どもたちの世界で、ドキュメンタリーの様相で映像化した監督の力と才能に感服いたしました。
弱肉強食
息苦しくなるほどに胸を締め付けられる。
子供の世界。そこに大人は介入することもできなければ楽求められてもいない世界。
子供達の中での生存競争に、どんな子供たちも巻き込まれていく。慈しみとか情けなどない。
ただ、暗闇を照らす蝋燭の炎のような儚く、か細い愛だけが互いを浄化する。
国境や民族、宗教など関係ない、すべての大人に向けた作品であることは間違いない。
劇場を後にしてから涙が溢れた。
きっと、大人は判ってくれない。
3月26日(水)
母の入院や自分の小指骨折等で行けなかった散髪に久しぶりに行く。サッパリした。
「教皇選挙」は時間が合わない。新宿シネマカリテで「Playground 校庭」を。
カメラは終始ノラの表情を捉えていて、カメラの焦点深度が浅く、ノラにしかフォーカスしていない(周辺がボケる)。またはノラの視点でもの見ている。校舎内や校庭では子供たちの声等で音楽はない。
初登校のノラは兄に、父にしがみつく。校門から中には両親でも入れない。先生に手を引かれ心細くて泣きながら校舎に入って行くノラ。校舎に足を踏み入れた瞬間に子供達の声やざわめきがノラを包む。
見知らぬ人ばかりの中で人見知りのノラは名前も言えない。
休み時間の校庭で兄を探すが、兄アベルに冷たくあしらわれてしまう。
靴ひもが結べないノラは結び方を教わったりして、友だちと遊ぶようになる。
体育の授業で水泳や平均台をやるのも苦手なノラには苦痛だ。
小柄なアベルが階段で大柄な同級生3人からイジメられているのを見てしまうノラ。ノラの担任の先生に注意してもらうが、注意された彼らの言い分は「あんたは俺達の担任じやない!」
別の日にアベルはトイレで3人にイジメられてビショ濡れに。目撃したノラが監視員(ベルギーの小学校には休み時間の校庭等に監視員がいる)に言っても他の子供に対応していて来てくれない。やっと来てくれた時にはイジメは終了。ビショ濡れのアベルに監視員は「トイレでふざけないで」
ノラ「どうしてやり返さないの?」
アベル「絶対に黙っていろ」
イジメられっぱなしで反撃しない兄もノラには理解不能だ。
アベルは(多分イジメられて?)オシッコを漏らしてしまう。ノラの隣でお弁当食べるアベルに「臭い」とノラの友だち。
失業中で毎日学校へ送って来る父親(母親は登場しない)。
「失業者って、働かないでお金を待ってるんだよ」小学1年生は家族に聞いたような事を平気で言う。
ある日アベルはイジメっ子の3人組に校庭のゴミ箱に閉じ込められる。それを目にしてもノラは黙っていろと言われたので監視員に言わない。
しかし、その事がバレて3人は親を呼ばれてアベルに謝り、握手するのだが…。
ノラの事を理解してくれていた女性担任も学校を去り、新しい担任はノラに優しくない。
イジメられている兄のせいでノラものけ者にされ、お誕生会に呼んでもらえなくなる。無視されて校庭でキレるノラ。
原題は「世界」。小学校も、校庭も、子供たちが感じる小さな世界。そして子供にとっては全て。
不安、孤独、苦しみ、子供の残酷さ。それは言葉にならずに、わからない感情のまま心に溜まって行く。
ラスト、校庭で自分より弱い者をイジメる側に回った兄を止めるため抱きしめて放さないノラ。そして抱きしめ返すアベル。
クレジットは完全に無音だった。
ノラを演じたマヤ・バンダービークは演技が上手い。外国の子役は本当に凄いわ。
監督ローラ・ワンデルの長編デビュー作だそうだが、次はどんな作品を撮るのかな。
デビュー作は感性がみずみずしくても、子供の感性のようにしぼんでなくなってしまう監督もいるからね。
子供社会、素直な分だけ残酷。
記憶を呼び起こすトリガーとしての映画
マドレーヌの香りで幼少期の記憶がありありと蘇るのはプルーストの『失われた時を求めて』に描かれた、香りが記憶を呼び起こすトリガーとなる現象だ。中勘助の『銀の匙』にも、かつての感覚が匂いや音、何気ない光景をきっかけにして立ち上がってくる場面が繰り返し現れる。
記憶を思い出すというのは、それは単なる情報の再生ではない。それは当時の感覚が、現在の身体の中にもう一度体験的に立ち上がってくることだ。
映画『Playground』は、極めて鋭利な“感覚のトリガー”である。この作品が思い出させてくれるのは、懐かしさや温かい記憶、楽しみさの記憶ではない。幼少期の人生がいかにタフで、理不尽であったか、それを観る者に容赦なく思い出させる。
世界に対してむき出しであった幼少期の鋭敏な感覚そのものを再体験させる映画だ。
6歳の少女ノラが小学校へ入学する場面から始まる。
明確なストーリー展開も、説明的なセリフもない。
観客は終始、彼女の背中を追い、彼女の視線の高さで、彼女の感情のスピードで、世界を知覚していく。
特徴的なのは、極端に寄った構図と、浅いピントである。画面の中で焦点が合っているのはノラの顔や背中、その表情の揺れだけ。周囲の教師やクラスメイト、教室や校庭の風景さえ、しばしばぼやけ、背景に沈んでいく。
この撮影スタイルが、子どもの“世界の知覚の仕方”を体現している。
子どもは、まだ世界を“俯瞰”する力も、“意味づける”技術も持たない。だから、彼女にとって重要なのは「目の前で何が起きているか」ではなく「目の前で何かが起こりそうな感じ」なのだ。
この映画が映し出すのは、世界がまだ秩序を持たず、善悪も理解できず、未来の見通しも立たない頃——生きることがそのまま不安定さの中に投げ込まれていた時間の感触である。
『Playground』が映し出す知覚の世界は、あまりに不安定で、混乱し、感情の揺れに満ちている。
だがこの不安定さこそが、子どもの世界のリアルな“生”の感触ではなかったか。世界を体系的に理解する前、言葉で整理する前、人は感覚で世界に触れている。
大人になるにつれて、私たちは客観的視点や、社会的な認知の仕方を身につける。しかし、それは学習によって獲得された技術であり、ある種のフィクション化でもある。
世界を「合理的に見る」ことはできるようになるが「生々しく感じる」ことを置き去りにすることでもある。
この映画はその虚構を剥ぎ取り、かつて体験してたであろう「わからなさ」「予測不能さ」「説明不能な感情」へと引き戻す。
かつて自分も、あのような世界の中で、言葉にならないまま、
ただ感覚だけを武器にして立っていたことがある、と思い出させる。
ノラは兄アベルが学校で苦しんでいる姿を見る。よく知っていたはずの兄も、学校という異世界ではノラにとっては理解不能な他者である。
学校の大人たちが、どれだけ倫理的に配慮し、見守り、目を光らせていたとしても、子供達の世界は別世界で理解不能であることも見事に描かれる。
だから、子どもは分かり合えない他者である親や教師を前に沈黙する。
この映画を観ていると、もう一つの問いが立ち上がってくる。「大人になる」とは一体、どういうことなのだろうか?
ノラのように、世界をむき出しの感受性で感じ、目の前の現実をまっすぐ受け止めていた、かつての自分を思い出す映画でもあった。
今の自分には、もうあのような鋭敏さはない。それは成長なのか、それとも鈍感化という生存戦略なのか。
俯瞰して見る力や合理的に説明する力は、世界を理解する技術であると同時に、世界の本質から目をそらすための虚構にもなり得る。
世界がこれほどタフなものならば、それをそのまま鋭敏に受け止める感覚は、失わなければ生き延びられないのかもしれない。
現実の世界には、言葉にできない感情や、話し合いによっては埋められない分断が確かに存在する。
いじめの構造、子ども社会の暴力性、そしてその中で何もできない自分——映画の中のノラと同じように、観客もまた、ただそこにいるしかない自分を体験する。
この映画が与えてくれるのは、そのままに世界を受け止め、わからなさとともに在るということではないだろうか。
現代社会におけるさまざまな分断——ジェネレーションギャップ、文化的隔たり、言語の限界——に直面したとき、誠実なまなざしで他者を見つめるための、小さな準備になるのかもしれない。
この映画を観たあと、私たちは“思い出してしまった”ことに気づく。
あの頃の自分、あの知覚、あの世界は完全に戻ることはないけれど、思い出すことによって、今の世界を生々しく体験するための大きなヒントときっかけをくれる映画だった。
25-043
観るべきである。
残酷で美しい映画である。
子供達が学校で体験する、恐れ 悲しみ 緊張 苦しみ 憎しみ 悩みを72分の全てで同感、追体験することができる。 ほぼすべてのカットが子供目線(子供側から見た、そして視界高さ)であり、大人たちの愚鈍さが際立つ。 入学したての小学生よりも教師や保護者が愚鈍というのも不自然なのだが、大人たちはそれぞれ役割を全うしている。 にもかかわらず子供と同じ視線に立った観客からは愚鈍に思えてしまうのだ。
子供社会の問題を扱った作品は多々ある。 日本にも沢山存在し見聞きはしてきたが、これほど子供視線なものは過去になかろう。 何が起きた、誰がどうなったとカテゴライズして評価する話ではない。 ここにいる、この子達の苦しみの話なのである。 苦しみの原因や解決方法など子供に分かるはずもない。 だから作品中には何も語られない。 ただただ苦しみが進行していくだけなのだ。
上映時間が夜なので当然の様に観客は大人だけだ。 子供に見せる作品じゃないのか? そんなことは無い! このような作品こそ大人と子供が一緒に見て話しあうべきだ。 これはドキュメンタリー様のフィクションだが、同様な事は世界中で起こっているし、子供だけの話でもない。 そうなのだ。 つまりは人間の本質の問題であり、だからこそ全ての人間が常に向き合っていかなくてはならない事なのだ。 強いものが弱いものを叩く、普遍的で且つ現在世界中で累進的に悪化している問題を、ローラ・ワンデルは直感的に受け取れる形に表現した。
この映画の美しさ、人間に残された光は唐突に表れる。 そしてこの物語に終わりがなく、我々も同じように苦しみ続ける事を暗示する様に、無音のクレジットが流れる。
ローラ・ワンデルは第一作で恐ろしく高いハードルを自ら掲げ飛び越えた。 次回作がどうなるのか心配になるが、この俊英は更なる高みに届くものと信じている。
また、この映画を上映した映画館の勇気を称えたい。
子供たちは皆んな大変なんです、。
小学校の時の記憶などほぼないが、あまり楽しいことは無かったと思う。
人はいわゆる大人になり、広い意味で社会と関わることができて初めて生きている実感が持てるものだと思う。だから大人になるまでの嫌なことや小さい頃のイジメや仲間はずれの記憶は忘却の彼方に追い払うようにすべきだ(勿論その為にはそれなりの努力は必要)。
だが、そんな事を言ってもリアルの子供たちは大変だ。ベルギーじゃなくてもどんな国でも。
映画はノラの目線からカメラがひたすら追う。余計な音楽もなく校庭や教室やプールの生の音を拾う。まるでドキュメンタリーを見ているようだ。7歳のノラは初登校では学校という別世界に放り出され心細くてしょうがないので涙ポロポロ。唯一の頼りは兄アベルだが、学校内ではかまってくれない。それでも頑張って靴紐の結び方など色んなことがひとりできるようになり友だちも出来た。これはノラの成長物語と思いきや、アベルが壮絶なイジメを受けていることを目撃。そこから親や先生や監視員などの大人が絡み物語は動き出しアベルはイジメから解放、。なんて簡単にはいかず今度はアベルがイジメをする側になり、衝撃のラストになる。
72分の比較的短い映画だからよかったが、長く観ていることがちょっと辛くなる映画だった。
だが、観て良かった。独特の映画作りが斬新だったし、社会、学校、子供たちに色々と思いを馳せらせることができた。教育に関わる全世界の人々に見て欲しい映画である。
子ども達の閉じられた世界
中々に凄まじい映画でした。
ドキュメンタリーみたいな生々しさがあった。
学校という閉じた社会は、子どもの生活に重大な影響を与える場所であることを、これでもかと見せつけられる物語だった。
原題は「Un monde」。フランス語で、直訳すれば「世界」みたい。
こちらの方が、この映画のテーマや主人公兄妹の心情をより的確に表しているようにと思う。
「Playground」=「校庭」も、悪くはないけれど。
誰もが正解を導き出せないはず
中学生の時に軽いいじめにあい、そのとき強く暴力的に反発したことでいじめから抜け出した経験がある。だから、大人になってもしばらくはいじめには暴力で反発するしかないと思い込んでいた。本作のノラのように。でも、向き不向きもあるし万能な対策ではない。いじめは本当に複雑な問題だと思う。
本作は、妹ノラの目線で描かれる。ノラの目線で、ノラの周辺しかスクリーンには映らない。それこそ、原題のようにノラが感じている「世界」を描いているかのよう。小学生なりのデタラメな知識や思い込み、表層的な理解による偏見も存在するし、大人から吹き込まれた嫌な情報もあったりする。子どもの世界って、そんな不確かなものに日々左右されていくんだよなと改めて感じたりする。その怖さを感じる内容だった。
家庭環境や学校の実情(先生の事情とか)はほとんど語られない。あくまでノラが感じる世界の話だから。だから、兄に起こっている事柄よりも、ノラにとっては自分が孤立する状況の方が深刻だったりする。そんな描写がとてもリアルだった。
あくまでノラの目線で語られているのに、こちらの捉え方は大人目線になってしまう。校庭に監視員がいるんだ!とか(またこの監視員が役立たず)、そこ順番が違う!とか、お父さんはその対応でいいのか!?とか、先生が辞めることになった理由は何?とか。でも、そんなことを考えている自分に正解を導き出せるわけでもない。それくらいいじめは難しいってこと。
ラストは何か解決に向かいそうな気もするし、何にも解決しない雰囲気も感じる。でも、現実を切り取った映画として深く胸に刻まれることになった。自分みたいにどんよりした気分で劇場を後にする人が多いんだろう。それだけでこの映画の意味はある。
兄妹愛
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