陪審員2番のレビュー・感想・評価
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シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
言い出せない悪
イーストウッド監督は物事を両面から考えさせる作品ばかりで好きだ。
本作もそう。
1年前の10月、前が見えないほどの豪雨の日に運転していて何かに当たった衝撃はあったが鹿に注意の標識もあり、何も見えないので鹿かも?と思った男が翌夏、陪審員に選ばれる。
タウン誌記者をしているが事件については何も知らずに参加した男。
家にはハイリスク妊婦の妻が待っていて本当はそばにいたい。
裁判について聞いてみると、それはもしや1年前、妻が双子出産予定日に流産したあの日、1人でバーに入った帰りに鹿に当たったかもしれないあの時か?と気づく。
被害者は鎖骨両方折れて頭蓋骨陥没するほどの現場写真に狼狽えて吐く男。
でも、男には飲酒運転の前歴と、妻の体調を最優先にしたい今と、子供が産まれ父親になる未来がある。
しかし、被害者の交際相手の元ヤンの人生がかかっている。第1級殺人なので、陪審員が有罪で一致すれば、おそらく死刑か終身刑。
裁判が進むたびに名乗り出るべきか揺れるが、妻子を守らねばならない未来を思うと、前歴の身でバーに入れば飲んでなくても飲酒運転轢き逃げとみなされ終身刑だろう。それはできない。
せめて陪審員によく考えさせようとする。
陪審員の中には、蓋を開けてみれば元シカゴ刑事の生花店おじいちゃんや一刻も早く帰りたい子持ちのおばちゃん、医師の卵など色々揃っていて、みんな検証にその気になり出すと、ひき逃げではという真実に迫ってきて、自分が追い詰められていく。
一方担当検事も、検事長になるため確実に有罪にする事に最初は躍起になっていたが、凶器も証拠もなく、勾留されている被害者の交際男性が本当に真犯人か確証が持てなくなっていく。
そこで、元シカゴ警察の陪審員が独自に調査したため陪審員から外された際に残した、修理歴がある車のリストをあたっていくと、男の妻に辿り着く。
家を訪ねて、夫婦の写真も後ろに飾ってある中で妊婦の妻と会話をするが、鹿をはねたのは違う道だと妻が答えるので、納得して家をあとにする。
いよいよ真犯人に気付くかと思ったが間一髪気付かず、判決は結局冤罪の交際男性が無期懲役。
判決直後、検事は車の持ち主の夫が陪審員2番だった事に漸く気付くが既に被告人は勾留されに連れ去られた後だった。
後味の悪い判決だが、無事検事長に上がり事なきを得たかに思えたものの。
出世祝いに届いた花に刺さる、宛名プレートには、検事の名前が。FAITH KILLBLUE。
アメリカの青は、民主党、憂鬱、陰湿、忠実などの意味を持つ。組織に忠実にのし上がったが事実を知りながら裁判結果に反映させずなんか晴れない心と真実を影に潜める陰湿をやっつけなければ!信頼という名前なんだから!という封印されそうだった正義感が飛び出してきたと一瞬でわかる、すごい名付けセンス。
ハイリスク妊婦な妻にも、1年前のような流産にならずに無事出産が訪れ、事実は伏せたまま子供との家族の人生が続くかに思われたが、ピンポーンと検事がやってきたところで映画は終わる。
実に後味悪く、クリントイーストウッド監督らしさ満載。
ただ、このあと、鹿をはねたと話していた別の場所にはいなかったという証拠が取れないと有罪にはできないのではと感じた。SUVの売却は決まった直後だが、現物があれば修理済でも何かわかるのか?
あの日あのバーに居合わせた証言はスタッフから取れても、立証は難しい気がした。
果たして男の人生はどうなってしまうのだろう?
モヤモヤするが、交際男性が大雨の中帰宅する被害者を放置したのと同じかそれ以上に、事実に気付きながら名乗り出ず、あの日あのバーにいたと気付かれたり再審にならないように最後の陪審員投票の日に欠席した故意の操作は罪深いだろう。陪審員の他のメンバーも違和感を感じていた。
世の中些細なことでも、真実とは違う内容で説明されていることなどごまんとある。
でもその結果、損する立場、得する立場がいるのかいないのか、よく考えることが、真実に気付く大事な習慣だったりする。
最近の選挙同様、誰かがよく考えようと言い出さないとなんとなく決まる流れは、日本人には多い。
アメリカでもそういうのあるんだなぁと見た。
法廷バトルモノかと思ってた
役者や演出のクオリティは高いので飽きずに観られるのだが、結構ベタな設定・展開で終わったので、淡白な印象。
冤罪を扱った作品なので、検事や弁護士、陪審員も少しおバカなのは仕方ないのだが、状況証拠だけで物語が進むのが違和感有り。
アメリカの法廷バトルモノ(ザ・プラクティスとか)で育ったので少し物足りない、、
もし自分が主人公と同じ境遇なら、とっとと陪審員から降りるだろう。
あるいは無罪を固辞しつつ、口を噤むか。
饒舌に「人は変われる」だの、「正義」だのを語り出すのは、ちょっとサイコパスすぎて理解できない。
そういう役割は元警察官のおじさんに任せればいいのにと思ったら途中脱落、再登場なしでしょんぼり。
そりゃね
疑いの時点でも自首しないとか。。。
ましてやもうすぐパパになる人なのにね。
奥さんも隠し通そうとしてた感じだよね。
罪もない人が終身刑になったってのにサイテー、、、
、、て思ってたら
ラストはやっぱり正義の真実を求めて弁護士がやってきたね。
そこでエンドだったけど、
あの後はもうね、そうだよね。
捕まる、弁護士は昇格したてだったけど降格、終身刑の彼は勿論無罪で釈放、警察は冤罪容疑、
て展開をあえて見せないラストにしたんだね。
一番厄介にしたのは、、
橋の近くに住んでる家のオジサンじゃない?
あのオヤジが犯人の顔を見たとかいって確かでもないのにコイツだ、とかいうから警察も確信持って信じてしまったんじゃん。
御大、まだまだいけますよ!!
久々に観ていて胃がチクチク痛む様な思いをしました。
私なら初審を最後に何かしら言い訳して陪審員を辞退するでしょう。
主人公ケンプも何故に最後まで付き合ったのか。
しかしながらケンプがひき逃げしたという確証も無く
時間差でケンドルが転落した後に本当に鹿を跳ね飛ばしたしれません。
そこを落とし所にするしかケンプの人生は救われませんが、、、
ラストシーンの展開の続きは?
しかし状況証拠と目撃証言だけで終身刑になってしまうのは怖すぎる。
こんなの見たことない&ネタバレ厳禁!
法廷物って、映画も小説も好きなので、結構見てます。
だけど、このストーリー展開は初めてかも。
実はチラッと映画.comの感想を見ちゃったんだよねー、しまったー。
というのも。
事件の犯人が最初に明かされるんです。コロンボ的な感じで。
それが誰かはすぐわかるけど、見ちゃったので驚きが・・・。
陪審員の事前評決、ほぼ「有罪」。
それが審議される話に、本当の犯人の心の中の話が挿入されていて。
いつバレるのか、被告はどうなるのか。
嫌な汗かきまくりでした。
渋い作品ではあるけど、劇場で見たかったよ(マジ)。
トニ・コレット、JKシモンズ、キファー・サザーランドの助演も、光りました。
⭐️今日のマーカーワード
「真実が正義とは限らない」
このように劇場公開から配信に変わっていくのか
なぜか劇場公開されないイーストウッド監督の本作。国際線の飛行機の中で見たが大傑作だった。
「12人の怒れる男」ベースに陪審員自身が当時者になり困惑する展開は先行きどうなるか気になる作品だ。元警官JKシモンズの着眼点からの詮索からの発覚の退場あたりもかなりの盛り上がり。
そこからの展開も素晴らしく十分満足した。
タイトルなし(ネタバレ)
ある殺人事件の陪審員に選ばれたジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)。
初公判の日、事件のあらましを説明された際に、いやな思いが湧き上がってくる。
それは、事件が起きた同じ雨の夜、車を運転中、事件現場で何かを轢いてしまったこと。
確認したが何もなく、鹿が頻出する場所であることから、ぶつかった鹿がそのまま逃げたと思ってそのまま立ち去ったこと。
よもやあれが被害者女性だったのか・・・
といったところからはじまる物語で、2時間サスペンスだと「アホくさ・・・」と馬鹿にするような設定。
が、映画はそういうふうにならない。
というか、事件の真相は明確には描かれていない。
(まぁ、彼が轢いたと思うひとが大半かもしれないが、やっぱり鹿かもしれない)
主題は、クリント・イーストウッドがマルパソ設立当初からこだわってきたこと。
「ひとは人を裁けるのか。そして、裁きに正義があるのか」
(マルパソ第1作が『奴らを高く吊るせ』)
なので、裁きも正義も(事件の真相も)観る側に委ねられる。
演出的には丁寧で、事件そのものの描写は「目撃する者」と「事件当事者」とでは異なるため、同じシーンでも微妙に異なって撮られていますね。
近年のイーストウッド監督作品でも上位に位置する作品と感じました。
以下、余談。
わたしが主人公だったら、事件のあらまし聞いた時点で、事件の発端となったバーに居たんだから、「関係者です」と名乗り出ちゃうなぁ。
轢いたのは、やっぱり鹿で、事件には関係ない、と思い続けるかなぁ。
なにせ、ひき逃げ説が浮上するのは、評決審議の中。
公判では、ひき逃げ説は出ていないので、深く考えなければ、やっぱり鹿だなぁ、と。
まぁ、卑怯といえば卑怯だが、本作の主人公の心情よりは安心できるからね。
「失って初めて気づく」の逆で表す大人の映画
最後のシーンは鳥肌立ちました。
主人公のジャスティンは、アルコール依存症を克服し、流産を乗り越えて我が子を授かり、自分がひき逃げを立証するかもしれない不安要素のSUVも売れる算段が立ち安心を、検事のアリソンは検事長を「手に入れた」。
彼らそれぞれの人生の生きがいや目的を手中に納めた瞬間、手に入れた瞬間、人としてどう生きるべきかという方向性に気づいた。それが最後二人が向かい合うシーン。
「本当に大切なものは、失って初めて気づく」とよく言うが、その逆をいく「全てを手に入れて初めて、本当に大切なものに気づく」パターン。
ラストシーンの後、きっと、「このままではダメ。明らかにすべきよ」という話し合いが行われる……のかもしれない。ただ、「このことは私たちだけの秘密にしましょう」という話し合いかもしれない。
陪審員制度に鋭く切り込む内容で、痛快。社会派。陪審員に元刑事がいることに気づけなかったことに、裁判官は確認しなかったあなた(弁護士)が悪いと言い放つ。これは、立証責任を“正しく”果たさない検察が悪いというメタファーにも思える。「判決は決まりましたか?」と陪審員に尋ねるシーンでは、全員一致でなければ評決不能という制度に、「じゃ裁判官いらなくない?」「裁判官っていつからMC扱いなん?」というツッコミを入れているような。
毎度毎度、襟を正して見させてくれる監督の作品は、まだまだ見たい。次回作も楽しみです!
さすがイーストウッド!
法廷劇や12人の怒れる男みたいな密室劇を予想していたら、また全く新しい形の裁判ドラマで面白かった!
イーストウッドの今までの作品にも通じる、1つの事実も見方を変えれば違うみたいなテーマがグッときた。
今観るべき映画。
【導入について】
最初は普通のドラマだが、陪審員のお知らせが来てからは、
陪審員に決まるとこんな感じの段取りなのかぁと普通に興味深々。
その後一気に引き込まれるのが
裁判冒頭の主人公がびっくり事実に気付くシーン。
事件当時の様子の回想シーンかと思ったらそこに主人公もいて…という演出が、
観客の意表をつきつつ、状況を伝えるために
映像でしか出来ない表現をしていてとても良かった。
【主人公、検事、陪審員
それぞれの事情による事件への向き合い方の違いと
心情や考え方が変化していく様子が面白い!】
陪審団が最初ダルイからさっさと決めちゃおう、ってノリだったのに、次第に真剣に取り組んで行く変化がよかった。
最終的に判決は変わらなかったが、その姿勢が検事の行動に影響を与える結果に繋がる展開も、市民の少しの行動で大きな事が変わっていく事が感動的。
検事は敵かと思ったら裁判の途中で疑問を抱いて行動に出る正義の人だった。それとは対照的に主人公は普通の善人だったのに、最後の方は開き直って無罪の男を有罪にする。それぞれの変化が予想外で面白かった。
人間はそれぞれの経験によって、先入観やバイアスがある。
陪審員になった時や選挙の時、それ以外にも人生で色々判断しなければならない時に、
自分の視野が狭くなっていないか、一時の感情や目先の利益だけを考えていないかしっかり考えていきたいと思った。
【最後の場面で作り手側の明確なメッセージ】
ラストは、正義が絶対ではない現実の厳しさを描く作品としてこのまま終わるの⁈と思いきや、
最後のセリフのない検事の表情がこの作品の前向きなメッセージを提示していて、映画の後味は爽やかなものだった!
人間の弱さ
12人の怒れる男と似ているがもっと深く考えさせられる。結局容疑者は無実の罪で終身刑。やりきれない。しかし主人公は刑務所には入らなくてもずっと地獄だろう。良心があるから。
ラストはこれからなにが起こるのか、という終わり方。それもいい。
ただの法廷劇ではない仕掛け
あのイーストウッド監督作がまさかの配信スルー。本国でも劇場公開の期間は短く早々に配信へと移行した今作だがそれらの背景や一見法廷劇とも思えるようなキャッチを見るとなかなか重そうな気がするが、観始めてしまうと物語に引き込まれ、展開にエキサイティングしてしまうほどだ。観終わってしまうと何故これをスルーにしたのかが疑問に思う程である。近年のイーストウッドの作品の中でも重厚なテーマ性がありつつもダレない作りになっていてとても観やすい作りになっている。
出演陣も実力派ばかりである。
米国の裁判制度では陪審員制度を取り入れており、
判決に陪審員団の評価が考慮される司法制度になっている。
ただし陪審員に選ばれた人たちは公正な判断を下す為に情報統制などの拘束下に置かれる事になる。
OJシンプソン事件を取り扱ったドラマシリーズの「アメリカン・クライム・ストーリー」では今作のように短期間で終わると見込まれていた裁判が長期に渡り、その間にTVを見る事や電話も出来ない陪審員団が精神的にも追い込まれ、終わらせたいがために本意とは違う評価を出そうとするような場面もある。
真実に近づけば近づくほど、期間が長引き、精神的にも陪審員は追い込まれていくのである。
本作にもそのような描写があるので陪審員裁判での陪審員の過度の負担は現代でも問題とされているのだろう。
完璧とは言い難い証拠しかない中で彼女を殺害したと疑われている被告人だがその裁判の陪審員であるニコラス・ホルト演じるジャスティンが実は彼女を轢き逃げしていたのかもしれないという疑惑が持ち上がるのが本作の大筋だ。
この“かもしれない”や“疑惑”等の思い込みで進行する本作は、近年のソーシャルメディアでの個人特定や法廷闘争中であるにもかかわらず、如何にも結果が決まっていると断定しているような書き込みやマスコミュニティなど民主主義とは言い難い状況を表しているのだろう。
被告人は過去の人物像から殺害を疑われるが、その証拠はなく有罪と断定するには不十分である。
そこでジャスティンも自らが真犯人だと思い込んで入るが
事故当時ジャスティンもその場で周囲を確認しており、
遺体を確認しているわけではないので確実にそうだとは言い難い。車のDNA鑑定等すればわかるかも知れないが、殺意があった訳ではないし、被告人を無実にしようとする姿勢は考慮されてもいいのかもしれない。
エンディングでは警察ではなく、検察が個人的に家に来るところで終わるがこれも何か別の取引があるのかもしれない。
タイトルなし(ネタバレ)
よかったです。
起訴された被告はこの件では無罪でも過去に悪いことやってそうなので、有罪になってもいいんじゃない?と思ってしまった。それもこの映画の意図なんだろうけど。
怖いことだが実際どうなのか
重い。けれど、事の成行から目が離せない。
いきなり陪審員の数人が、有罪で良い、早く終えようと言う。さらに、議論しようと言う人に無駄だと言って食ってかかる。瞬間的に小学校でのグループ活動を思い出した。どうでも良いから早く終わって帰ろうとする。残念ながら大人になっても、目的や結果を考えない人がいる。だが、事は裁判、冤罪を生むかもしれない。嘆かわしい。
最終的に主人公は有罪としてしまった。真実を隠して罪を免れた。家族のために、純粋な正義感や罪悪感を押し殺して。全くの自己都合で考え方を変更した。でも、この結果、後々心が蝕まれるかもしれない。最後の検事長の訪問が何のためなのかは明確にされずに終わったが、真実を明らかにした方が、主人公の心の健康のためには良いかもしれない。
この物語は、陪審員制度には問題があることを提示している気がするが、その意図があるかは定かではない。ただ、問題があることは、よく示されていたと思う。日本の裁判員制度で同様の事が起きていないことを望む。
正義!
事件当夜のフラッシュバックでもラストまで飲酒したかははっきりと見せない。最後に主人公は禁酒を守った事が明らかになり、家族のために頑張ってる事が明らかになる。観客は立ち直った主人公を許したくなるが、イーストウッドは許さない。
容疑者を無罪にしようとするも、自分が納得出来る言い訳が見つかると、容疑者を見捨てる事も厭わなくなる。 判事もラスト直前まで同じ。(私も含め、皆さんも一緒?)
家族がいなかったら、最初からただの自己保身のストーリーだよね?
面白いんだけど
死因に対する捜査が雑過ぎて・・・・。陪審員の中に居た元刑事が裁判のやり取りだけで真相に迫ってるのに。
陪審員だけでの話し合い・・・・いや、いきなり評決取ろうかって、それで良いんかい!
と言うか、主人公は何がしたかったんだろう?(やべぇ、あの時、自分が撥ねたのは鹿じゃなくって人だった)と思ったら、それを言うor被告になすりつけるかのどちらかだろうに、話し合いを誘導してもっと調べようって方向に持っていく・・・でっ、最後は結局被告になすりつけ・・・・・うーん。
と言うか、実は最後にどんでん返しが有って、他の陪審員が犯人とかって思ってた。
【”確証バイアスに囚われた陪審員、検察官。だが・・。”今作は”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の良心、正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。】
<Caution!内容に触れています。>
■ジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)は、身重のパートナー、アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)と暮らす物静な男である。
ある日、彼の元に陪審員の召喚状が届く。彼は辞退しようとするが、裁判長から”仕事と同じ時間には返すから。”と言われ引き受ける。
被告は、ケンドル・カーター(フランチェスカ・イーストウッド)の恋人で、旧道沿いのバー”ハイド・アウェイ”で喧嘩していたジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)という全身刺青の入った大男である。
多数の人がその喧嘩を目撃しており、大雨の中、彼女を追って行った彼の仕業であると、多くの人が疑わない。
そして、第一回目の陪審員裁判でジャスティン・ケンプは、一人ジェームズ・サイスの無罪を主張するが、被害者ケンドル・カーターの旧道脇の小川に墜死している写真を見て、トイレで激しく嘔吐するのである・・。
<感想>
・今作は非常に重厚で、見応えがあるヒューマンドラマである。12人の陪審員同士の協議の間に、事件当時の光景が何度も映し出される。
そこには、ケンドルとサイスの姿の奥に、ウイスキーの入ったグラスをテーブルに置いて彼の人生の中でも素晴らしき日になる筈だった日に、ある哀しき出来事が起きてしまったために沈痛な表情をしながらも、飲むことを逡巡しているジャスティン・ケンプの姿が映し出されるのである。だが、彼がグラスに口を付けている姿は、最後まで映し出されない。
■陪審員同士の協議中に明らかになる、数名の陪審員の真実の姿。
1.ハロルド・チコウスキー(J・K・シモンズ)・・22年間、殺人課の刑事をしていて、リタイア後は自適生活。だが、彼は刑事の経歴から”サイスは無罪ではないか、実はケンドルは何者かにひき逃げされたのではないか”と疑い始める。
2.マーカス・キング(セドリック・ヤーブロー)・・17歳の弟がサイスと同じ刺青をしていて、抗争中に流れ弾に当たって死んだ辛い過去を持つ。故にサイスの有罪を固く信じている。
3.ジャスティン・ケンプ・・4年前に急性アルコール中毒で死んでもおかしくない程、酒を飲み運転し、木に激突するもその後は断酒会に通って酒を断っている。
そして、ハロルドと独自に調査を始めるが、その事がきっかけでハロルドは陪審員を外される。
ご存じのように陪審員が独自に捜査する事は禁じられており、更に元刑事と言う事もありハロルドは居なくなる。ここが大きなポイントになってしまうのである。
・この作品の脚本が上手いのは、ジャスティン・ケンプが酒を飲んでいる所を映さずに、只彼が自分の車である緑のSUVのハンドルに凭れて泣いている姿を映している所である。
そして、彼がバーに寄った後に、激しい雷雨の中、旧道を、運転している際に何かにぶつかったシーンで、何とぶつかったかは映されずに”鹿に注意”という標識が映される所である。
解釈は観る側に委ねられるが、矢張りケンプが哀しみを紛らわすために、少しだけ酒を飲んでしまい、”何か”を撥ねたのだろうという事が推測出来る、と私は思ったのである。
■ここからの、ケンプを演じたニコラス・ホルトの良心と、身重の妻を想う気持ちとの間で揺らぐ心を演じる様が、抜群である。
又、それまで直ぐに裁判が終わると思っていた検察官フェイス・キルブルーを演じたトニ・コレットが、徐々に独自に捜査していく過程で、ケンプが緑のSUVでケンドルを撥ねたのではないかと言う疑念が膨らむ様や、自身が裁判に勝てば検事正に昇進するという思いの狭間で悩む姿も抜群である。
<そして、陪審員達が出した判決。それは、サイスは有罪であるというモノであった。サイスは無期懲役、しかも減刑なしと裁判長から言い渡される。その際に、検察官フェイス・キルブルーに笑顔はない。
その後、彼女はケンプと会い、二人は夫々の正義について短く語り合うのである。
ケンプには娘が生まれ、妻と幸せを分かち合っている時に、家の玄関のドアがノックされ、ケンプがドアを開けるとそこには真剣な表情のフェイス・キルブルーが立っており、画面は暗転するのである。
今作は、”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。>
■もう”MALPASO”という文字を、新作で観る事は出来ないのだろうか・・。
ゾクっとするエンディング
こんなことあるのか。
いや、ありえるか。
すごいなこれを考えたイーストウッドさん。
法廷ものは難しくて苦手なのだが、本作品は飽きずに観ることができた。
裁判、陪審員制度、課外学習のようにみんなで出掛けて現場を見るなど、知らないことがいろいろあって興味深かった。
土砂降りの中の故意ではない不運な事故。
主人公がぶつかったのが本当に鹿で、他の誰かが女性を撥ねたとか。
なんてことはないか。
アル中から立ち直った主人公。
奥さんにもらったセカンドチャンス。
なんとか無駄にしないで…と願わずにいられない。
それと痴話喧嘩もほどほどに、だね。
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