陪審員2番のレビュー・感想・評価
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シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
タイトルなし(ネタバレ)
よかったです。
起訴された被告はこの件では無罪でも過去に悪いことやってそうなので、有罪になってもいいんじゃない?と思ってしまった。それもこの映画の意図なんだろうけど。
怖いことだが実際どうなのか
重い。けれど、事の成行から目が離せない。
いきなり陪審員の数人が、有罪で良い、早く終えようと言う。さらに、議論しようと言う人に無駄だと言って食ってかかる。瞬間的に小学校でのグループ活動を思い出した。どうでも良いから早く終わって帰ろうとする。残念ながら大人になっても、目的や結果を考えない人がいる。だが、事は裁判、冤罪を生むかもしれない。嘆かわしい。
最終的に主人公は有罪としてしまった。真実を隠して罪を免れた。家族のために、純粋な正義感や罪悪感を押し殺して。全くの自己都合で考え方を変更した。でも、この結果、後々心が蝕まれるかもしれない。最後の検事長の訪問が何のためなのかは明確にされずに終わったが、真実を明らかにした方が、主人公の心の健康のためには良いかもしれない。
この物語は、陪審員制度には問題があることを提示している気がするが、その意図があるかは定かではない。ただ、問題があることは、よく示されていたと思う。日本の裁判員制度で同様の事が起きていないことを望む。
正義!
事件当夜のフラッシュバックでもラストまで飲酒したかははっきりと見せない。最後に主人公は禁酒を守った事が明らかになり、家族のために頑張ってる事が明らかになる。観客は立ち直った主人公を許したくなるが、イーストウッドは許さない。
容疑者を無罪にしようとするも、自分が納得出来る言い訳が見つかると、容疑者を見捨てる事も厭わなくなる。 判事もラスト直前まで同じ。(私も含め、皆さんも一緒?)
家族がいなかったら、最初からただの自己保身のストーリーだよね?
面白いんだけど
死因に対する捜査が雑過ぎて・・・・。陪審員の中に居た元刑事が裁判のやり取りだけで真相に迫ってるのに。
陪審員だけでの話し合い・・・・いや、いきなり評決取ろうかって、それで良いんかい!
と言うか、主人公は何がしたかったんだろう?(やべぇ、あの時、自分が撥ねたのは鹿じゃなくって人だった)と思ったら、それを言うor被告になすりつけるかのどちらかだろうに、話し合いを誘導してもっと調べようって方向に持っていく・・・でっ、最後は結局被告になすりつけ・・・・・うーん。
と言うか、実は最後にどんでん返しが有って、他の陪審員が犯人とかって思ってた。
【”確証バイアスに囚われた陪審員、検察官。だが・・。”今作は”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の良心、正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。】
<Caution!内容に触れています。>
■ジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)は、身重のパートナー、アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)と暮らす物静な男である。
ある日、彼の元に陪審員の召喚状が届く。彼は辞退しようとするが、裁判長から”仕事と同じ時間には返すから。”と言われ引き受ける。
被告は、ケンドル・カーター(フランチェスカ・イーストウッド)の恋人で、旧道沿いのバー”ハイド・アウェイ”で喧嘩していたジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)という全身刺青の入った大男である。
多数の人がその喧嘩を目撃しており、大雨の中、彼女を追って行った彼の仕業であると、多くの人が疑わない。
そして、第一回目の陪審員裁判でジャスティン・ケンプは、一人ジェームズ・サイスの無罪を主張するが、被害者ケンドル・カーターの旧道脇の小川に墜死している写真を見て、トイレで激しく嘔吐するのである・・。
<感想>
・今作は非常に重厚で、見応えがあるヒューマンドラマである。12人の陪審員同士の協議の間に、事件当時の光景が何度も映し出される。
そこには、ケンドルとサイスの姿の奥に、ウイスキーの入ったグラスをテーブルに置いて彼の人生の中でも素晴らしき日になる筈だった日に、ある哀しき出来事が起きてしまったために沈痛な表情をしながらも、飲むことを逡巡しているジャスティン・ケンプの姿が映し出されるのである。だが、彼がグラスに口を付けている姿は、最後まで映し出されない。
■陪審員同士の協議中に明らかになる、数名の陪審員の真実の姿。
1.ハロルド・チコウスキー(J・K・シモンズ)・・22年間、殺人課の刑事をしていて、リタイア後は自適生活。だが、彼は刑事の経歴から”サイスは無罪ではないか、実はケンドルは何者かにひき逃げされたのではないか”と疑い始める。
2.マーカス・キング(セドリック・ヤーブロー)・・17歳の弟がサイスと同じ刺青をしていて、抗争中に流れ弾に当たって死んだ辛い過去を持つ。故にサイスの有罪を固く信じている。
3.ジャスティン・ケンプ・・4年前に急性アルコール中毒で死んでもおかしくない程、酒を飲み運転し、木に激突するもその後は断酒会に通って酒を断っている。
そして、ハロルドと独自に調査を始めるが、その事がきっかけでハロルドは陪審員を外される。
ご存じのように陪審員が独自に捜査する事は禁じられており、更に元刑事と言う事もありハロルドは居なくなる。ここが大きなポイントになってしまうのである。
・この作品の脚本が上手いのは、ジャスティン・ケンプが酒を飲んでいる所を映さずに、只彼が自分の車である緑のSUVのハンドルに凭れて泣いている姿を映している所である。
そして、彼がバーに寄った後に、激しい雷雨の中、旧道を、運転している際に何かにぶつかったシーンで、何とぶつかったかは映されずに”鹿に注意”という標識が映される所である。
解釈は観る側に委ねられるが、矢張りケンプが哀しみを紛らわすために、少しだけ酒を飲んでしまい、”何か”を撥ねたのだろうという事が推測出来る、と私は思ったのである。
■ここからの、ケンプを演じたニコラス・ホルトの良心と、身重の妻を想う気持ちとの間で揺らぐ心を演じる様が、抜群である。
又、それまで直ぐに裁判が終わると思っていた検察官フェイス・キルブルーを演じたトニ・コレットが、徐々に独自に捜査していく過程で、ケンプが緑のSUVでケンドルを撥ねたのではないかと言う疑念が膨らむ様や、自身が裁判に勝てば検事正に昇進するという思いの狭間で悩む姿も抜群である。
<そして、陪審員達が出した判決。それは、サイスは有罪であるというモノであった。サイスは無期懲役、しかも減刑なしと裁判長から言い渡される。その際に、検察官フェイス・キルブルーに笑顔はない。
その後、彼女はケンプと会い、二人は夫々の正義について短く語り合うのである。
ケンプには娘が生まれ、妻と幸せを分かち合っている時に、家の玄関のドアがノックされ、ケンプがドアを開けるとそこには真剣な表情のフェイス・キルブルーが立っており、画面は暗転するのである。
今作は、”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。>
■もう”MALPASO”という文字を、新作で観る事は出来ないのだろうか・・。
ゾクっとするエンディング
こんなことあるのか。
いや、ありえるか。
すごいなこれを考えたイーストウッドさん。
法廷ものは難しくて苦手なのだが、本作品は飽きずに観ることができた。
裁判、陪審員制度、課外学習のようにみんなで出掛けて現場を見るなど、知らないことがいろいろあって興味深かった。
土砂降りの中の故意ではない不運な事故。
主人公がぶつかったのが本当に鹿で、他の誰かが女性を撥ねたとか。
なんてことはないか。
アル中から立ち直った主人公。
奥さんにもらったセカンドチャンス。
なんとか無駄にしないで…と願わずにいられない。
それと痴話喧嘩もほどほどに、だね。
裁判制度の違い
長文でごめんなさい。
静岡のラジオ番組wasabiで24/12/31に紹介されて、早速鑑賞しました。この1年、裁判傍聴に毎月通っています。陪審員2のタイトルを聴いて、すぐに興味が湧いた次第でした。
米国では開かれた裁判として、陪審員が参加して評決を下す事は正しいかもしれません。本編のように思惑が、検察・陪審員に含まれることによって、正しくない可能性が有り得るとの示唆しています。死因となる物証も無くても、黒判決になるものか。検視官の力量不足がそもそもの原因。
日本では陪審員になった事はありませんが裁判傍聴で流れは理解しています。状況証拠、自白証拠を検察・弁護側と集めて、公開の場で審議する。グレーは、白判決も有るかも知れませんが、日本の裁判制度で良かったと思った次第です。
最後に、劇場公開されなかったのでしょうか。一定の人気があるクリストファー・イーストウッドさんの作品が鑑賞できなかった事は非常に残念です。何かの忖度か。
一人のブレない男
クリント・イーストウッド。御年94歳。
100歳を超えても生涯現役を宣言していたが、本作で引退の噂が…。
最後になるかもしれない作品なのに、アメリカではノープロモーション小規模限定公開の後、配信。日本ではU-NEXTの独占配信のみ。
イーストウッド作品であるにも拘わらず劇場公開が見送られた事は、後々映画界の大いなる過ちとして語られるかもしれない。
だって本作は、『運び屋』『リチャード・ジュエル』以来、近年出色の出来。確かに『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』『チェンジリング』『グラン・トリノ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』…外れナシの傑作揃いの頃と比べると精彩に欠けるかもしれないが、今一つだった『15時17分、パリ行き』『クライ・マッチョ』などよりずっと。これならキネ旬でベストテンに選出されても異論ナシ。
本作が劇場公開されていたら、イーストウッド崇拝のキネ旬では間違いなく洋画今年の1位になっていただろうに(キネ旬ベストテンでは配信映画は選考外)。残念だったね、キネ旬。
まあ、そんなひねくれ意見はさておき、映画界の生き神様が“最後の作品”で描きたかった事は…
イーストウッド初の本格法廷サスペンス。
有罪がほぼ確実視される殺人事件。その裁判の行方。
評決を託された陪審員たち。イーストウッド版『十二人の怒れる男』と言っていい白熱議論。
正統派と思いきや、一捻り。
もし、真犯人が“その場”に居たら…?
タウン誌で働くジャスティン・ケンプは妻が出産間近。平凡な幸せを送っている。
ある日、陪審員の召喚状を受ける。辞退しようとしたが、陪審員に選ばれる。
務める事になったのは、世間で注目の裁判…。
ある雨の夜。バーで飲んでいたカップル。サイスとケンドル。
口論となり、店の外に出ても続く。多くの客の目撃証言あり。
ケンドルは雨の夜の中を歩いて帰る。
程なくサイスも車に乗って帰る。彼女の後を追ったかのように。
翌日、ケンドルが橋の下で無惨な死体となって発見される。
容疑者として逮捕されたサイス。彼女の後を追い、殺害に至ったか…?
場所はよく鹿との衝突も多く、雨の夜だと見渡しも悪い橋の上の道。そこで車を停めた男の姿を見たと言う近くの家に住む老人の証言もあり。
サイスは否認。そのまま家に帰ったと。
しょっちゅう口論はしていたが、自分は恋人を愛していた。誓って、殺したりなどしていない。
なら、口論したとは言え、何故雨の夜を一人で帰らした…?
サイスには麻薬の売人だった過去もあり。目撃証言や状況から、犯人である可能性が濃厚。
いや、犯人だ。それが世間や検察や陪審員のほとんどの見方。
そんな中、ケンプは激しく動揺する。
犯人を知っている。その犯人とは、自分だ…。
あの雨の夜、ケンプは同じバーにいた。
口論も目撃し…どころではなかった。悲しい事があり、周囲の事になど気にも留めず。
憂さ晴らしに酒でも飲もうとしたが、結局手を付けず、そのまま帰った。
その帰り道…。見渡しの悪い雨の夜のあの橋の道。
何かをはねた。
一旦車を停めて確認したが、何も見つからず。
鹿か…? 橋の下にでも落ちたか…?
ろくに確認せず、そのまま立ち去ったのだが…、
今この場ではっきり分かった。被告とされている男の恋人を轢いてしまったのだ、と…。
陪審員の一人が裁判中に自分が真犯人かもしれないと気付くトリッキーな展開。
だけど、本当にそんな事があり得るのか…?
陪審員って厳正な選考の上で選ばれる筈。
本作、微妙な矛盾点も多い。
警察は殴打などでサイスが恋人を殺したと断定したが、もし轢き逃げが本当だったら、現場検証の時そういう証拠が出てくるのでは…?
陪審員は裁判中、事件に関わる事に見聞してはならない。気が気ではないケンプは事件について調べ始めたり、J・K・シモンズ演じる陪審員の一人も事件について調べ始め、尚且つ自分が元刑事である事を漏らしたり…。その後陪審員から外されるが…。
疑念を持ち始めたトニ・コレット演じる検事も自分のフィールドを超えた行動したり…。
よく分からないが、実際にあり得る事なのか…?
本作は徹底的なリアルさ追求より、エンタメであると同時に、ストレートに訴える。
人が人を裁く難しさ。
善悪を迫られた時、人は…?
本作での“疑い”ははっきりとしたものではなく、“グレー”な部分が多い。
例えば、サイス。家に帰ったと言うが、その描写はない。かといって、彼が恋人を殺した描写もない。
ケンプも同様。彼がケンドルをはねた描写もない。そうかもしれないと確信はしているが…。
もし、サイスの言う事が偽りで、本当に恋人を殺していたら…?
もし、ケンプの確信が見当違いで、はねてなどいなかったら…?
どっちに傾いてもおかしくないし、だからこそ危うい。
真実とは…? 天秤に掛ける責任や事の重大さ。
だけど人は、重圧逃れや世の流れや思い込みで、時に見誤り、間違えてしまう。
そして冤罪が起きてしまう。
冤罪とは、人一人の人生を変えてしまう大罪。
今年国内でも再び大きく注目された冤罪。
司法が完全じゃない事の証し。
しかし法に携わる者たちは、出世や面目からそれを軽く見てしまう。
今一度問う。クロ間違いナシと思えても、ほんの一点でもグレーな点があったら、見直せ。疑え。考えろ。
それを怠り判断を間違ってしまったら、取り返しが付かないのだから。
サイスに関してもそうだ。
私はどうも男の姿を見たと言う近くの家の老人の証言が引っ掛かって仕方なかった。
“男の姿を見た”と言ってるだけで、“男の顔を見た”という事ではない。それは即ち、サイスの顔を見た訳でもない。
警察にサイスの顔写真を見せられて、そうかもしれないと思い込み。容疑者をサイスしか挙げなかった警察の怠慢でもある。
陪審員の中で唯一、サイスは犯人じゃないかもしれないと説いたケンプ。
自分が犯人かもしれないとの確信があったからではあるが、真犯人だとしても、大多数の意見が固まった中で勇気ある発言。自分が真犯人と知られるかもしれないのに…。
実際ケンプは、悪人ではない。自分の罪を激しく後悔し、名乗り出るべきかどうするべきかを知人に相談。
サイスを庇ったのは、彼なりの罪悪。もし彼が有罪となったら、彼の人生を奪う事になる。自分はのうのうと幸せに生きていいのか…?
だけど結局、名乗り出る事は出来ず。彼にも欲はある。守りたいものがある。
妻と間もなく産まれてくる子。
待望の子供なのだ。妻は以前も妊娠していたが、流産。その悲しみは両者にとって大きかった。ケンプがバーで悲しみに暮れていたのも、これ。それを乗り越え、ようやく生命を授かろうとしている…。
あの時バーでお酒を飲もうとして、飲まなかった。実はケンプは、アルコールで問題を起こした過去あり。その時出会い、支えになってくれたのが…。人は変われるとも教えてくれた。
ケンプも過去や悲しみから今の幸せを失いたくないのだ。
自分の幸せばかり考えて、相手の無罪を訴えるのは偽善ではないのか…?
本当に相手の事や人生を考えたら、真実を…。
それを隠し、罪を背負ったまま生きるのは幸せと言えるのか…?
自分は変わったのではないのか…?
陪審員の中には、人は変わらないと言う者もいる。サイスの麻薬の売人の過去と訳あり。
今一度、秤に掛ける。真実か、保身か…?
ケンプたった一人の無罪から、6対6に。
割れに割れ、評決は決まらず、異例の陪審員たちの現場検証。
納得いくまで自分たちの目で見、自分たちで話し合い、遂に至った。
評決は…。
これで良かったのだ。
これで良かったのだと信じたい。
裁判を終え、剣と天秤を持つ女神像の前で、ケンプと検事が話し合う。
お互い、サイスや事件に関して疑念を持った身。
これで良かったのか…?
これで良かったのだ。
各々通した“正義”でもある。
真実や真犯人は明かされないままか…?
それはフィクションの中だけでしかないのか…?
常に弱者の立場に立って正義を訴えてきたイーストウッド作品に於いて、意外な結末…かと思った。
子供も産まれ、自分の幸せの“正義”を選んだケンプの前に、思わぬ訪問者。
それはその訪問者にとって、やはり納得いかなかった事を正す“正義”である。
ケンプにとっては、あのラストシーンの後。彼の今後の人生や妻子の事を思うとバッドエンドのようにも思えるが、ただ後味が悪いだけではない。
真実と正義。今一度、人は変われると証明するチャンス。
今度こそ、真に秤に掛けて。
難しい役所に挑み、見事応えた、ニコラス・ホルトの複雑内面演技。
トニ・コレットもさすがの巧助演。
J・K・シモンズとキーファー・サザーランドはちょっと勿体なかったかな…。
派手な作風ではないが、2時間コンパクトに纏め、終始見る者を引き付け、離さない。
キャリア集大成は言い過ぎかもしれないが、じっくりと社会派とエンタメを融合させた円熟の手腕は一つの頂の域。
最後かもしれない作品でも、正義を訴え、人間を正面から真っ直ぐ見据える。
クリント・イーストウッドはブレない男であり続けた。
配信になったらすぐ見ようと思っていたが、今年のトリのお楽しみに。仕事が忙しくて見る時間も無かったけど。
やっと短い年末年始休み。今年のベスト級…とまではいかないが、締め括りに良し。
それでは皆様、良いお年を!
ホントにこれで最後なの?
クリントイーストウッドらしさ全開!
主人公は善人なのか?悪人なのか?偽善者なのか?嘘つきなのか?
自分(と妻)の幸せと他人の無実の間で揺れる心…と見せながら、
最後には暗黒面に堕ちたのか?(そんなんだから酒におぼれるのだ)
堕ちた理由は見えづらかったけど、
そこを含め、
いつものように映画の中では答えを出さず
観る人に委ねるクリントイーストウッド。
最後のシーンも、それ。
ドアの外に立つ検事。複雑な顔の主人公。
罪を背負うのは、刑務所の中だけではない。
自分は彼は逮捕されなかったろうが、検事は検事としての矜持を見せ、
彼女なりの正義を示した…と思うのだが、どうだろうか。
これを観ないと勿体無いよマジで❤️🔥👍
偏見の怖さをリアルにみせつけてくるのよな🫣
まずネタバラシスタートってのが面白くて始まった瞬間に陪審員なのに自分が犯人だから被告が無罪なのにほぼ全員が有罪だよねあんなやつってところからスタートっていうツカミのスピーディーさが良いですね!
あと激しいシーンゼロなのも良し👌(普通裁判て淡々とやるもので落下の解剖学も同じテイストで良かったです!)あとキャスティングがいちいち良いし主人公がずーっとヤバイヤバイヤバイヤバイどうしよう🤮ってなっているのも良かったですねえ🥺(主人公が逃げたいのか自白したいのか自分は逃れつつも自分のせいで有罪になりそうなヤツを助けたいのかよくわからん展開が続くからそこは低評価になる要素でもありますね)
まあラストをあそこで終わらせたのが良くて あの後をわざわざ見せる必要無いしイーストウッドも余韻の作り方が上手いですね(クリスマスイブ🎄🤶にふさわしく最高に嫌ーな気分になれたしグッジョブ🤮👌)
しかしまあよく出来た法廷モノでみなさん絶対見た事あるとは思いますが特に日本🇯🇵の裁判モノにありがちな😡演出的に盛り上げたいからって無駄に裁判長〜って大声で叫ぶ超バカシーンとか無くて本当に良かったです(自分は裁判長って叫ぶシーンや裁判所で声張り上げて叫ぶシーンのある作品はその時点で生理的に無理なので見るのをマジで辞めますし劇場でもその時点で観るのを辞めて帰るくらい映画のシーンで一番あり得ない超絶バカシーンだと思ってますし叫ばなくても裁判映画は面白く作れると思いますよマジで😡)
揺れ動く良心の呵責
ニコラス・ホルト演じる主人公ジャスティン・ケンプを始めとする
登場人物それぞれの正義と家族愛で揺れ動く良心の呵責を描いた作品です。
ジャスティンは事件当時、鹿を車で轢いてしまった疑惑を自分自身にもっていて、
それが陪審員として選ばれた事件の轢き逃げだったのではないか?と
やや確信めいた判断をしているところが、すごく重要です。
おそらく轢いたのはジャスティンで間違いないものと思われますが、
直接的な表現は避けていて、ここも「そうだろう」的な見え方になっています。
容疑者は、普段の悪い素行が背景にあり、事件当時の様子からも
犯人と断定され、目撃情報も曖昧ながらも、冤罪となっていく様は
すごく恐ろしいなと思いました。
日本のドキュメンタリー作品でも、こういうことはあるんじゃないかと思う作品に
出会いますが、冤罪のつくられかたを見せられている気がして怖くなりましたね。
ジャスティンは自分が犯人だろうから、容疑者が犯人じゃないことはわかっていて、
そこで最終的には家族や自分の人生との天秤にかけていき、
正義が客観的なものではなく、主観的なものとして貫かれていく。
そんな会話を、ラスト近くで検事とする。ここが本作のクライマックスでしょう。
ラストは検事(検事長に昇進していますが)がジャスティンの玄関先に現れて終わるのですが、
検事は検事で自分の正義を貫くつもりなのでしょう。
おそらくジャスティンを容疑者として裁判が開かれるのでしょうね。
直接的にはそこまで描いていませんが、私はそう捉えました。
正義の脆さみたいなものを突きつけられた気がします。
何と奥深い作品なのでしょう。
クリント・イーストウッド監督の期待に応えているニコラス・ホルト、天晴れだと思います。
素晴らしい作品でした。
できれば劇場で鑑賞したかったです。
最高の引退作
クリントイーストウッド引退作。引退作としては惜しみたくなる傑作だった。
ニコラスホルトが演じる主人公は陪審員に選ばれる。殺人事件の裁判であり被告人が殺人の有罪か無罪かを問う裁判。
被告人は過去に反社会行動をし直前に加害者の女性と喧嘩もしている。しかし確固たる証拠はなく、状況証拠と陪審員の早く事を終わらせたい気持ちからさっさと有罪で終わらせたい者が多い。
そんな中ホルトは事件の本当の容疑者は自分じゃないかと疑う。
もちろんこちらも確固たる証拠はないのだが事件を追えば追うほど自分が加害者だったと確信に近づく。
罪悪感からなんとか被告人を無罪にしようとするも、前任一致でなければ次の陪審員達に委ねられることになり事件の真相を追われることを恐れる。最終的に自分が陪審員の立場で事件を終えることを望み被告人を有罪にする決断をしてしまう。
ホルトの罪悪感と自己保身の狭間をうまく描いた作品であっという間の120分だった。
自分がホルトの立場であったらどういう判断決断をするのか、それらを自分に置き換えながら見ると心苦しく見られる。もちろん悩んでる時点で自分も善良な人間ではないのだろう。
何が正しのかはもちろん分からない。ただ一つ言えることは真実を隠す事なく伝える事が正しいのであって、そこから逃げ隠れ、嘘をついてしまった時点でホルトが正義を語る資格は残念ながら失う。
そんな正しい判断ができない立場の人間でも人を裁く立場になりうる陪審制度の欠陥もまた実感させられ恐怖を覚える。
クリントの作品はこれまで何作も鑑賞し貴重な時間を過ごさせてもらった。引退作というのは寂しい限りだ。それ以上にこんな偉大な監督の引退作を日本では劇場公開スルーというのがあまりにも残念。
しかしながら配信でも傑作に変わりはない。1人でも多くの人に見て感じで欲しい作品だ。
クリントイーストウッドに改めて敬意を表したい。
一人の青年の身に起こる事件《正義と良心の呵責》
10月下旬に全米で短期間・小規模で公開された
クリント・イーストウッド監督の最新作
「陪審員2番」が、12月20日から、
U-NEXTで配信が始まりました。
陪審員を題材にした法廷ミステリーです。
陪審員制度の問題点、
司法制度の盲点を考えさせられる良心作でした。
評決の有罪と無罪の間に、グレーゾーンの判決
(例えば、執行猶予や交通事故での禁固刑などがありますが、)
有罪でなければ、その反対は無罪しかないのか?
私個人としては、
この2択しかない狭さ、そして怖さを感じる映画でした。
《ストーリー》
陪審員に選ばれた青年(ニコラス・ホルト)か、
審議する事件の内容を聞いて顔色を変えます。
「審議する事件」
ある夜、バーで恋人と激しく言い争うカップルがいました。
怒ったガールフレンドは雷雨の中を徒歩で帰宅したのです。
翌朝、彼女は崖下の小川で、頭を砕かれた死体で見つかるのです。
そして言い争いをしていた男性が、殴って殺して捨てた罪で
逮捕されます。
ニコラス・ホルトには心当たりがあったのです。
その夜、問題のバーに立ち寄り、車で現場近くの道を帰り、
《鹿にぶつかった》との感触があり、車を修理に出していたのです。
興味深いことに陪審員の中には、J・K・シモンズ演じる元警官で
刑事だった男が含まれていました。
彼はすぐに【ひき逃げ事件】だと判断するのです。
J・K・シモンズは、修理工場をあたり、16件の当日後に修理された
車のリストを揃えてきます。
そのことが、陪審員が【捜査をしたりしてはならない】
この規則を破ったために彼は陪審員を外されます。
実に良く出来た脚本です。
陪審員2番であるニコラス・ホルトの中で、
真実を告げるべきという良心と、しかし自首したら妻を守り、
生まれてくる子供を育てられない・・・2つの葛藤がせめぎ合います。
彼の保身と狡猾な面も、徐々に明らかになってきます。
人間の弱さや保身が浮き彫りになります。
アルコール依存症でグループセラピーを受けて4年経つこと。
飲酒運転の微罪があること。
事故当日には妻が最初の双子を流産した直後だったこと。
ラストの展開は半ば予期したこととは言え、辛いものがありした。
正義は成されるのだとの思いと、被害者に落ち度はなかったのか?
などと考えさせられて複雑な思いを抱きました。
それにしても一人の人間の終身刑のような重い刑が
決まるもしれない評決が、
陪審員の下す「有罪」で、いとも簡単に決まってしまう事。
陪審員の多くはさっさと役目を片付けて普段の生活に戻る・・・
その事で頭の中は一杯です。
状況証拠と怪しい目撃証言に検死医の簡単な所見のみで、
有罪が決まるとしたら、本当に恐ろしい。
いち早くクリント・イーストウッド監督の93歳での
最新監督作品を配信で観る事が叶い感謝します。
地方在住者や名作座が遠いなどの場合もあります。
近年は真面目で娯楽性の薄い作品は劇場公開が厳しいようです。
悲しい事ですが、前向きにとらえて、観る機会に恵まれて
本当に嬉しく思います。
捻じ曲げられる正義
陪審制度の危うさを描いた「十二人の怒れる男」。本作はそれにプラスアルファ、陪審員に選ばれた主人公の抱く葛藤や苦悩、そしてサスペンスフルな展開が見る者を魅了する作品。
ある殺人事件の陪審員に選ばれた主人公。彼はその事件の詳細を知らされ事件の被害者を誤って車ではねたのが自分であることを知ってしまう。唯一真実を知るのは自分だけ、しかし他の陪審員たちは被告人をほぼ有罪と判断。このままでは無実の人間が有罪になってしまう。
誠実な性格の主人公ははじめこそ無罪の主張をするものの、被告人の無罪を主張し続ければいずれ自分に追及の手が伸びてきてしまう。真実を貫くか、自己の保身に走るか苦悩する主人公。出産間近の妻、そして自身も依存症と戦う身である主人公は究極の選択を迫られることになる。
過去のアルコール依存症の経歴から自分の罪が重罪で裁かれると知った主人公は自首をためらう。しかし被告人をこのまま有罪にもできない。何とかして自分の罪も免れ被告人を無罪に持っていきたいが、ひき逃げの可能性があるという説が注目されると陪審員の中の元刑事が事故車の調査に乗り出し主人公は追い詰められていく。このあたりのサスペンスは秀逸だった。
そして主人公がとるべき道を見る者に丸投げする強烈なラスト。あなたならどうしますかという投げかけであり、裁判員制度が採用される日本でも他人ごとではない。さすがにこういうシチュエーションに置かれることはないにしても。
とても内容が濃くて骨太な法廷ドラマ。しかし御年94歳のクリント・イーストウッド監督の引退作ともささやかれてる作品ながら、劇場公開は日本では見送り。本国アメリカでも短期間の小規模上映だったとのこと。
正直、巨匠の作品に対してこの扱いは信じられないが、映画評論家の町山氏によると最近のハリウッド映画では映画好きが好むようなこういう作品が冷遇されてるとのこと。
子供に受けるアニメやシリーズ物のように大きく採算が取れる作品ばかりが重視されて、儲けが少ないこのような通好みの作品には出資者も金を出さないとのこと。
ただ、このような現象は邦画界にも如実に表れていて先日公表された今年の映画興行ランキングでは、ベストテンはアニメとかテレビ局出資のテレビ映画ばかりで洋画はランキングにも入っていなかった。
洋画なら今年は「人間の境界」、「オッペンハイマー」、「関心領域」、「DUNEパート2」などなど素晴らしい作品が多かったにもかかわらず。ちなみにベストテンの作品は一本も見ていなかった。
ハリウッドでは今後本作のような作品はますます作られにくくなるという。もしそうなら映画業界の未来は暗い。
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