「深い懐疑と「それでも」の論理」陪審員2番 文字読みさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 深い懐疑と「それでも」の論理

2025年8月11日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

2024年。クリント・イーストウッド監督。妻の出産が近づいている青年は、ある殺人事件の陪審員になると、審議中にその事件の渦中にいたことに思い至る。実質的に自身の行為が被害者の死を招いたこと(過失致死)を疑いながら、相談した弁護士から申し出るのはやめた方がいいといわれて身動きができない主人公。無実の被告人が処罰されることに罪悪感を抱きながら、真実との間で行う決断とは。
まず、真実を求める法制度への深い懐疑がある。同期らしき検察官と弁護士は夜な夜なバーで「ないよりまし」な法制度をめぐって酒を酌み交わすし、ほかの陪審員たちの関心も真実の追求自体は断念したうえでの、被告人のふるまいに集中している。しつこいほど描かれる「真実への断念」は昨今のアメリカ社会を映す鏡のようでもある。ただし、イーストウッドの映画史のなかでは珍しいことではないが。それは。裁判所前の「正義の女神像」の天秤が常に揺れていることで映像的にわかりやすく示されている。
そして、その深い懐疑のなかで、それでも真実を目指して動く一人一人の人間の正義感がある。選挙で決まる検事総長になろうとする検事も、その同僚の真摯な弁護士も、陪審員たちも、「それでも」の論理で動いている。主人公の青年が最終的な告白によって真実に振り切れるのではないのが今作の特徴だが、この青年には「真実」を言い出せない状況が積み重ねられている。①アルコール障害からの立ち直り過程②かつての出産の失敗による心の痛み③妻への愛。かつてのイーストウッド映画とはことなって、青年はこれらの状況に打ち勝って真実を告白するのではないし、検事総長も自らの地位をなげうって真実を求めるわけではない。そうした行為の後、真実の蔓延ではなく状況による追求が延々と続くことがわかっており、それに辟易しているからだ。「それでも」やはりラストシーンで検事総長は青年の家の玄関に立つ。ここがイーストウッドのかっこいいところだ。しびれます。

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