「真実が正義とは限らない」陪審員2番 かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 真実が正義とは限らない

2025年6月22日
Androidアプリから投稿

クリントン・イーストウッドが自身の遺作として発表した本作がアメリカで物議を醸した。配給元のワーナーブラザーズが「まだ商業的魅力を持つ映画製作者にとっては奇妙なアプローチ」と称して、本作を一部限定的上映にとどめ一般公開を見送ったのである。映画自体はすでに2023年に出来上がっていたものの、時はバイデン民主党政権の真っ只中、司法の正義を世に問いただす映画などもってのほかとばかりワーナー側が忖度したのか、はたまた民主党陣営から圧力がかかったのかはわからない。その限定公開もトランプ政権が正式に発足してからというのだから、胡散臭いことこの上ないのである。日本の配給会社も当然ハリウッドの動きには逆らえないわけで、残念ながら劇場公開は見送られ配信のみの上映となってしまった1本だ。

ジャスティン・ケンプは雨の夜に車を運転中、何かをひいてしまうが、車から出て確認しても周囲には何もなかった。その後、ジャスティンは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われた男の裁判で陪審員を務めることになる。しかし、やがて思いがけないかたちで彼自身が事件の当事者となり、被告を有罪にするか釈放するか、深刻なジレンマに陥ることになる。  映画.comより

陪審員の中で唯一容疑者が無罪であることを知っているジャスティン(ニコラス・ホルト)は、おそらく良心の呵責に耐えかねたのだろうか、ほとんどの陪審員が“有罪”に傾くなか、「もうちょっと審議を続けてみよう」と態度を保留する。やがて、医大に通っている日本人女性陪審員から“ひき逃げ”の可能性について指摘があると、なんと有罪:無罪が6:6のイーブンに。ここまでの展開はシドニー・ルメット監督の傑作法廷劇『12人の怒れる男』とそっくりだ。

すんなり犯人が無罪になってTHE ENDと思いきや、最近はすっかりなりを潜めておとなしめの映画ばかり作っていたイーストウッドは、最後の最後にして伝家の宝刀を再び抜いて、その切っ先を観客に突きつけるのである。『ダーティハリー・シリーズ』や『ミリオンダラー・ベイビー』、そして『アメリカン・スナイパー』でも見せていた、“法”と“良心”を禁断の秤にかける悪魔的演出を見せているのである。結論をあえて観客の手にゆだねるイーストウッド流の問いかけはいつも以上にキレがあり、リベラルの終わりの始まりが見えてきたちょうどその時期にぶつけてきたあたり、完全な確信犯と言えるだろう。身体はヨレヨレに見えるけれど、おそらくまったくボケていなかったのだ。

大学同期生の国選弁護人に「今のあなたは政治家だ」と指摘され、心の中に眠っていた良心がグラグラと揺れ出す遣り手女性検事フェイス・ブルーキラー(民主党殺し?)をトニ・コレットが好演している。直近の出演作の中でも出色の存在感と言えるだろう。事件をもう一度洗い直してみると、捜査線上になんと陪審員の一人ジャスティンが浮かび上がる。「僕は家族を守り、あなたは州民を守ればいい」すっかり人が変わってしまったジャスティンの言葉に、フェイスは自問自答を繰り返すのである。何かがおかしいのに、このままでいいの?

『ダーティハリー』では正義の鉄拳を弾劾される刑事、『ミリオンダラー・ベイビー』では再起不能ボクサーの自殺幇助に手を貸す老トレーナー、『アメリカン・スナイパー』では戦争中毒にかかった英雄を通して、イーストウッドは“法による正義”と“人としての良心”のどちらが人間にとって心地よい秩序をもたらすのかを問い掛け続けてきた。今作では“些細な殺人事件”を検事長になるためのステップとしか思っていなかった女性検事が、人としての良心に目覚め行動するまでを描いている。本作を観る限りこのイーストウッド、やっぱり“隠れトランピアン”だったような気がするのだがはたしてどうだろう。

コメントする
かなり悪いオヤジ
PR U-NEXTで本編を観る