ステラ ヒトラーにユダヤ人同胞を売った女のレビュー・感想・評価
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関連作品を見ていれば理解が進むかもしれない。
今年46本目(合計1,588本目/今月(2025年2月度)9本目)。
見る方によってかなり解釈が分かれるのはあるとしても、現代タイトルの英語版(ドイツ語版)は、「ステラ、一人の(女性の)生涯」程度の意味合いで(多少こなれた訳にしています)、「ユダヤ人同胞を売った」というような語はどこを引っ張っても出てこず、ここは彼女の評価につき賛否両論ある現状において、できるだけ平等な立場であってほしかったです。
実在する人物を描くこと、歴史通りに進むこともあり、淡々と進む部分はどうしてもあります。そして映画内でも示される通り、彼女は被害者でも加害者でもあります。
彼女がある程度こうしたナチスドイツと接近できた理由として、いわゆる容貌の良さで当時の重役に気に入られたことがあげられますが(このことは、このサイトの映画短評でも触れられている)、人種問わず、ナチスドイツによる政治があったドイツのこの当時はいわば戦争末期であり(だから、ドイツが空爆等されるシーンがいくつか出る)、もはやナチスドイツと言えども「使える人は人種関係なく起用する」という考え方がありました。一方で、ナチスドイツがいうところの「使えない人」は容赦なくガス室送りにされたのは周知の事実です。
映画内で、「ドイツ人は人種で差別するが、私たち(ユダヤ人)は頭で勝負できる」という趣旨の発言をする方がいますが、色々なテクニックを駆使してベルリンに多くの「知識層」であるところの彼ら彼女らが潜伏して偽造パスポートの作成に尽力して命を救ったり(一部の意味で「命のパスポート」と似る)したところがあります。この点は、本映画で登場する「偽造パスポート」の点で登場するツィオマに焦点を当てた「ヒトラーを欺いた黄色い星」(2018。アマゾンプライムでは見られる)ではそちら視点で描かれており(もちろん、本映画の主人公であるところの彼女=ステラも出る)、色々な観点で見るのがよいのかな、といったところです。
個人的には「やや被害者面が強い、加害者的な観点は否定できない」程度の見方です。
採点に関しては以下まで考慮しました。
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(減点0.2/原題タイトルの翻訳時に、一つの思想を押し付ける行為)
上述通り、現代タイトルに「同胞を売る」とか「裏切り」といった語句は含まれていませんので、この点は忠実であってほしかったです(特に、ナチスドイツを扱う映画においては、史実に即してありのままに描くことが大切だと思います)。
(減点0.2/ドイツ語の字幕がないところがある)
もっとも、「アウシュビッツ」や、英語との対比で推測ができる部分も多々あり(この映画で「アウシュビッツ」等一部の語句は常識扱いでしょう)、ある程度は仕方がないですが、字幕について配慮が欲しかったです(もう少しきちんと看板など翻訳が欲しかった)。
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生きるか死ぬか
究極の二択
第二次世界大戦中にゲシュタポの密告者として働いたドイツ系ユダヤ人、
ステラ・ゴールドシュラーク(1922年~1994年) の史実に基づいたフィクション作品。
最初がジャズの楽しい演奏シーンから始まり、ゲシュタポに追われる生活、密告者としてのターンと、戦後のシーンと雰囲気が変わり、最初から最後まで目が離せません。
ドイツ人が理想とする“アーリア人”的容姿である金髪碧眼を備えた(しかも美しい)ステラは、強制労働のあと、こっそりユダヤ人のダビデの星を外し、街を歩き、クラブで遊び、同胞であるユダヤ人とか、ドイツ人将校とも付き合ったりも…
ただ、時代はそれほど甘くない。彼女の生き方は、ナチスの独裁政権下のユダヤ人迫害には通用しなかった…
タイトル通り、ステラは密告者を選ぶ。
でもね。
ゲシュタポに捕まり拷問を受けたのが奇しくも21歳の誕生日。そんな若さで身勝手、自己中な行動をしても責められないよね…
夫が連行された時、ゲシュタポに捕まった時、両親の元で、周りに咎められるほど大泣きする甘えん坊。
そんな彼女に突き付けられた究極の選択
死が待つ強制収容所へ行くか、同胞を売って密告者になって生き延びるか?
実話ベースなだけに考えさせられる作品でした。
パウル・ベーアの緻密で肝の据わった演技と勇気が圧巻
列車に乗せられること、アウシュヴィッツ始めKZ行きは死を意味する、それがそんなに明らかに当時において既に知られていたことにショックを受けた。
夢があるステラはドイツから出たい、死にたくない、生きていきたい。あれだけの激しい拷問を受けたら私はどうするだろう?
ステラのジャズシンガーとして賞賛を浴びる夢、承認欲求と上昇志向、それゆえこの映画を見た観客は複雑な気持ちになる。ステラにシンパシーを持ち難いからだ。目立つ美しい金髪に青い目、ステラは何度自分の顔を鏡に映したことだろう、化粧しただろう。ステラはたまたまユダヤ人だった。自分でどうしようもないこと故に捕まり拷問を受け地獄のような恐怖を覚える。痛みと恐怖から逃れるには「同胞」を列車に送り続ける密告者になるしかなかった。
パパに点子ちゃん(Puenktchen)と呼ばれていたステラは、小さい時にエーリッヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』のお話を読み聞かせてもらったか自分で読んだのだろうか。点子ちゃんが好きだから、またはステラは点子ちゃんみたいに小柄で可愛いからパパはそんな風に呼んだのかも知れない。パパはドイツ人として戦争に出かけた、自分はドイツ人だと言っていた。ケストナーも自分はドイツ人だと主張しながら、反ナチであり反ファシストでケストナーの本は焚書の対象になった。
ナチに翻弄された人は山ほどいる。それは複雑で簡単にわかろうとしたりわかった気になることは到底できない。ステラが実在の人物であることをこの映画で初めて知った。その人物を見つけ出し映画にしたのがドイツ人監督であることの意味はとても大きい。
"金髪の毒婦" より質問です... 時期が悪すぎた?
映画も始まり間もなく、主人公の女性の自己愛の強さが分かるシーンが出てくる。
稚拙な私は知らなかった... ステラ・ゴルトシュラークが実在し、世紀末近くまで生きていたことを。
その彼女の半生の始まりは...
1940年、ナチスがフランスを陥落させた年から物語が始まる。躍動感のあるステラの絶頂期である動的なミュージック・シーンから一転して、3年後のユダヤ人たちの働く暗くて、フィルムスコアを寄せ付けない彼女の容姿を一変させた単調な工場で働くシーンへと...
もし、仮にあなたが何かになりたいと思うなら...
自分なら次の条件ならどうのようにするかを想像してみてください。
ステラ彼女自身はブロードウェイでの華やかなジャズ シンガーになるという大きな夢を持っています。その武器は青い目にブロンドに染めた髪、まだ二十歳ソコソコの若い美しい女性です。でもドイツ占領下の
"あなたはユダヤ人です。"
「自分はまだ若い」との思いと同時に「アウシュヴィッツへ行くのは次はあたしの番ね!?」、というジレンマが自分のことしか考えれなくさせています。
そして第二のジレンマが究極の選択
「他人の命」か? それとも
「自分の命」か?
その選択こそが、同胞を裏切る行為となり自分自身のアイデンティティの分断に繋がり、魂を揺さぶる証明であり検証でもある。それを目の当たりにすることこそが、他人を犠牲にまでしても構わない、何も恐れることのない揺るぎない確固たる "自己愛" が極端な状態となっているナルシストを... "自己愛" こそが過去のユダヤ人のホロコーストを描いた映画とは趣が違い、身近に感じられることで、低レベルな利己的な者への讃美歌となっていく。
執拗に悪の最も邪悪さが極限状況にある普通の人間を怪物に変えてしまうのか?
ゲシュタポによるステラへの拷問とも呼べる尋問は、優雅さと残酷さへのリアリズムであり、また、こころにははっきりとしない綿雲のような恐怖をアクションであり、サスペンス、そして性的衝動が波状的に現れ、芸術的演出と撮影により、ツマビラカに展開されます。
この万華鏡のような作品は、今までにないユダヤ人を身近に感じられ、共感を呼び、そしてまた新しいニッチな作品となっているのかもしれません。しかしながら...?
被害者なのに加害者になってしまう悲劇
アメリカでジャズシンガーになることを夢見ていたユダヤ人女性のステラだったが、ナチスに囚われ、生き延びるために密告者となり…
ユダヤ人として生まれたがために背負わされる過酷な運命。つい最近『ブルータリスト』や『リアル・ペイン』と、ユダヤ人が主人公の作品を立て続けに観たこともあり、ホントにユダヤの民っていつの時代も虐げられてしまうのかと気の毒に思ってしまう。
色んな意味で観ているのが辛いし、被害者なのに加害者にもなってしまった彼女を一概には責められないだろう。というか我々は責める立場にない。
本作の監督キリアン・リートホーフは、パリの同時多発テロ事件で妻を亡くした男を主人公にした『ぼくは君たちを憎まないことにした』を撮っている。憎悪から得るものは何もない、というメッセージが込められたこの作品と本作の根底が一緒なのが興味深い。
ただ蛇足だが、本作といい『ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男』といい、分かりやすくする為とはいえサブタイに「ヒトラー」を用いるのは少々短絡すぎないか。
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