ブラックバード、ブラックベリー、私は私。のレビュー・感想・評価
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ヒロインの日常に差し込み始めた新たな光を独自のタッチで紡ぐ
ジョージアの小さな村で一人暮らしを続ける女性エテロの話である。48歳。私と同世代。年代的に感じ入るところは多い。しかしそれ以上に彼女の表情、目力、日常に自分なりの聖域を見つけ出す姿がユニークで、その動線に不思議と見入ってしまう自分がいた。冒頭、印象的に映し出されるのは、流れ落ちる水、野生のブラックベリー、ブラックバードのさえずり。実に長閑だ。このテンポで日々が描かれゆくのだろうかと感じた矢先、意表をつくショットが我々の心臓をギュッと掴む。その刹那、彼女の中の何かが変わる。生き方が少し大胆になる。他人の目を気にせず、自分に正直に行動し始める。そして忘れられないのはエテロが、物心つく前に亡くなった母の墓に寄り添うシーン。風変わりな本作がどのように帰結するのかは明かせないが、生と死という要素をナチュラルに織り交ぜながら彼女の生き様を見つめる視座が印象的だ。小さくとも個性的で忘れがたい一作である。
奇跡続きの物語
沁みるラスト
48歳に至るまでひとりで生きてきた女性エテロが主人公。
彼女の中年で青春を迎え&愛を知る作品だと思った。
彼女が生まれてすぐ母親がなくなり、幼少時代も寂しい生活を送っていたようで、
それが今まで続いているという、実にせつなくも悲しい半生だと思ったが、
本人にとってはせつなくも悲しくもなく、ひとりがよいというあたり、
やはり価値観というものは人それぞれだし、他人が決めつけるものではないと
あらためて感じた。
私のように思う人物が映画世界の周囲にたくさんいるのがリアルだと思った。
孫がいる男性と双方恋に落ち愛を育むエテロだが、
子宮がんではないかという症状が現れ病院にいくと、なんとご懐妊だという。
このあたりの演出が巧みで、私はまんまとエテロと同じ認識をしてしまい、
懐妊しているとは予想だにしていなかったので、あっと驚いた。
自分の死に向かい合っていたのに、新しい生を宿したことを知ることを経て
ここからのラストに至るエテロの感情・表情が素晴らしく、
実に深く余韻がたなびくラストショットだった。
全編淡々と進行するので、若干退屈さも感じたりはしたが、
(前半は鬱屈した気持ちにもなるし)
このラストにはやられた。
沁みた。
音、音楽が印象的。
まず、遠い異国の生活が満喫できる。
主人公の心の状態に合わせた曲のチョイスが絶妙で主人公と同じ心境になれる。
主人公はありのままだ。
本当に、ありのまますぎるほどありのまま。
映画でそんなありのままでいいんすか、ってくらい。
最後、主人公がカフェで結構な時間泣くのだが、それが嬉しさなのか嘆きなのか、長い時間観客はグルグルと思考を巡らす。
そして、最後に見せる主人公の眼差しは、どの観客が見ても決意に溢れている。
揺るぎない彼女に相応しい眼差しだ。
こんな異国の映画が日本でも共感され上映されるというのは、驚きであるとともに人としての悩みとか苦しみ(喜び)っていうのは、距離も時間も越えて共通するものなのだなと実感。
主人公に感情移入しちゃって面白かったです
話しを単純化すれば、田舎村に住むブサイクなオールド・ミスが、ハプニングでの気持ちの高ぶりと更年期障害で身体が火照って、思わず手近な男と不倫に走り、予期しない妊娠をしちゃいました。終わり。
ってことなんだけれど、まあ、物語の全ての段階で、それぞれに色々と必然的な事情がある訳です。
結構、主人公に感情移入しちゃって、面白かったです。
ジョージアの映画は、ゴンドラの映画と、ブラジャーの映画と、これで3本目。
それぞれに味があって楽しかった。
独特の空気感、主演のエカ・チャヴレイシュヴィリの演技が素晴らしい
ジョージアの女性作家 タムタ・メラシュヴィリ原作の大ヒット小説をもとに、東欧ジョージアの村に暮らす独身の中年女性を描いたドラマ。
両親と兄を亡くし、日用品店を営みながら、独身の生活を愛しつつ暮らす中年女性エテロ、初めての男性との関係をきっかけに、人生において、起き得る意図せぬ展開をじんわりと描く。
映画としての造りは抜群で、主人公エテロを演じる、エカ・チャヴレイシュヴィリの存在感ある素晴らしい演技に圧倒される。
独身中年女性の生き方を、皮肉も込めて程よいテンポで描いており、東欧のジョージアという見知らぬ国を舞台にしている点でも、独特の空気感を感じる。
劇場は年齢高めの女性を中心に、平日ながらも結構な入り。生々しい性的描写もあり、万人向けとはけして言えないが、女性に止まらず、人生について訴えかけてくる作品だった。
【”ブラックベリーと黒ツグミの贈り物。そして人生はそんなに悪くない。”今作はブラックベリー好きの中年女性が崖から落ちて死を感じた事から、笑顔無き人生が動き出す様を描いた人生肯定映画である。】
■ジョージアの村で日用雑貨を扱う店を営むエテロ(エカ・チャブレイシュビリ)は、いつものようにブラックベリーを詰みに行った時に、観たことが無いような黄色い嘴の黒ツグミを見る。が、その瞬間に川沿いの崖をズルズル―と落ちてしまい、死を意識する。
彼女は、店に戻ると商品を配達に来たムルマンに顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いでから、自ら積極的にセックスをする。そして、48歳にして処女を失うのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・まずは、エテロの怒っているような大きな眼のインパクトが凄い。身体も大柄だ。お店に行って大好きな”ナポレオン”を食べていると、ウェイトレスから”あのお爺さんが、あの女は何であんなに太っているんだ太っているんだ、と言ってます。”。などと言われてしまうが、彼女はギロッとした目と太い眉でお爺さんを見るだけだ。クスクス。
・小さな町の口さがない女性達も、48歳独身のエテロの生活に興味津々。”男も愛も知らないんじゃない?おっきなお尻!”などと言われるが、逆に彼女は”何で、愛を知ってるアンタたちは幸せそうじゃないの?”と言い返すのである。
・けれど、妻のいるムルマンと、頻繁に密会するエテロ。ムルマンは積極的に彼女にアプローチをする。エテロは笑顔一つ見せないが、それに応えるのである。この辺りが観ていて何だか、可笑しいのである。
・だが、ムルマンはある日”トルコに行って、トラックドライバーになる。ここの一か月分の給料が一日で稼げる。だから、暫く会えない。”と言うが、エテロはあんまり気にしない。そして、ムルマンから”一緒に来てくれないか。”と言われるも”独りの生活が良いの!”と言って意に返さないのである。
・そんなある日、エテロはブラックベリーを詰みに行った時に、小用をする。すると、ショーツに黒茶のおりものが付いていて彼女は不安になる。彼女の母は、子宮がんで亡くなっているからだ。大好きなブラックベリージャムを食べても、味が変なのである。
序でに彼女の父と兄は酷い人だったらしい。それも彼女の生き方に影響を与えているようだ。ロック好きの青い髪の少女に子宮がんについてスマホで調べて貰い、町の女達に首都トビリシの腕の良い産婦人科を教えて貰い、父と兄の遺品を町の女達に上げてから彼女はバスで診察に行くのである。
■病院でエコー検査をして貰うエテロ。相変わらず仏頂面だが、少し不安そうだ。だが、老医師の口から出た言葉は”おめでたですよ。貴女の年では珍しい。”であった。
エテロは、町の喫茶店で大好きな”ナポレオン”を注文するが、それには手を出さずに、その横のエコー検査の写真を取り出して見るのである。
その瞬間、彼女の脳内には黒ツグミの妊娠をお祝いするかのような鳴き声が響き渡り、彼女の大きな目はみるみると涙に満たされて行くのである。
<今作は、ブラックベリー好きの中年女性が崖から落ちて死を感じた事から、笑顔無き人生が動き出す様を描いた人生肯定映画なのである。>
<2025年3月16日 刈谷日劇にて観賞>
65点ぐらい。ラブストーリー
幸せの黒い鳥
48歳で独身のエテロはブラックベリーを摘みに来た河川敷で黒ツグミに目を奪われ崖から転落しそうになる。
死を意識した彼女は経営する雑貨店にいつも配達に来るムルマンと関係を持つ。今まで彼女は男性との付き合いをしたこともなければ結婚などしたいとも思わなかった。母親のいない家庭で長年父と兄の世話を強いられてきた彼女にとって結婚に対して幻想を抱くことはできなかった。それは結婚のいやな面だけを見てきた彼女には無理もないことだった。
いまだに処女崇拝が残るような閉鎖的で古い考えに縛られた人たちが暮らすジョージアの田舎の村。その中でも彼女の家庭は異常で、エテロは父や兄から精神的な虐待を受けて育った。
独身の自分を揶揄する茶飲み友達にも彼女はこう答える。自分は結婚による苦労を背負わずに済んだ、この年になっても肌のつやもあり髪が白くなることもない、役立たずのドラ息子を育てて国に貢献したなどという彼女らに対して図星をつくきついパンチをお見舞いする。またカフェで独身の彼女を侮辱した高齢男性には結婚やペニスが幸せをもたらすというなら結婚した世の女性たちはすべて幸せなはず、でもとてもそうは見えないと言い返す。彼女の芯をついたその言葉に彼は返す言葉もない。
河川敷にテラスのある小さな家を建ててブラックベリーを摘みながら新たな人生を過ごしたいという彼女にブラックバード(黒歌鳥)の奏でる歌声は幸せをもたらすのかあるいは死をもたらすのか。
関係を持ったムルマンは孫もいるような男性だが詩を詠むロマンチストであり彼女は彼に惹かれて逢瀬を重ねる。
しかし彼の一緒になろうという言葉をはねのける。いまさら人の世話をするために残りの人生を使いたくない。父や兄、男たちから解放されてやっと自分のための人生を生きられるようになったのだから。
いつものように河川敷に来ていた彼女は以前から続く不正出血にただ事ではないことに気づく。自分も母と同じ子宮頸がんなのでは、死の影が彼女に忍び寄る。
しかし彼女が診察に訪れた病院で告げられたのはご懐妊の事実だった。ブラックバードは彼女に死ではなく命をもたらした。しかしそれは彼女にとってある意味死よりも辛い残酷な仕打ちだったのかもしれない。
ひとりカフェでナポレオンを頬張りながら、お腹のレントゲン写真を見つめてむせび泣く彼女。その涙がうれし涙ではないことだけは確かだろう。
結婚はいい面もあれば悪い面もある。パートナー次第では昔ほど自分が犠牲を強いられることもない。またそもそも結婚制度にこだわる必要もない。異性間同性間にもこだわる必要もない。
一人でいることは気楽である一方で寂しい面もある。ラストの彼女の涙はそんな相反する思いがごちゃ混ぜになったような涙だったのかもしれない。
中年期の女性の性と生を皮肉とペーソスいっぱいに溢れる作品に仕上げた。これはなかなかの拾い物だった。
ちなみにあのエテロが好んで食べていたナポレオンパイ、ミルフィーユみたいなものかな、ちょっと食べてみたいけど彼女の姪(?)は一切手をつけてなかったからかなりの高カロリーだろうな。男の目を意識せずボディーラインを気にする必要のないエテロにとってはカフェでのあの時間は至福の時だったろうに。
結婚やペニスが幸せを運ぶなら、
そろそろ落ち着いた生活を考えるような歳になって、強烈に割り込んできた人生の転換期とも呼べるイベント。どう向き合うのが良いものかと悩ましい気分にさせられる作品です。
黒い鳥と黒い実。何かを象徴する言葉なのだろうかと、予告を
観てから気になっておりました。危うく不慮の事故で命を落と
す所だった主人公のその後の行動も気になりました。
そんな訳で鑑賞することに。
…したのですが うーん。
あまりプラスの感情が出てこない作品だったような気が…。
というのが正直な感想です。*△*;
主要な登場人物はというと…。
主人公はエテロ♀。48歳独身。雑貨屋を営み生計を立てている。
仕入業者のムルマン♂。孫がいるらしい。エテロより年長か?
その他、エテロと昔からの知人女性が数名。性格悪い気が…。
エテロの母は、恐らく出生時に体を壊したことで早世。
そしてこれも恐らくなのですが、エテロがある程度の年齢になる
と、家の中のこと全般をするようにと父と兄に押しつけられたの
ではないかと思われました。うーん。
人との出会いの機会が無い生活の中では、恋愛などは望むべくも
なく、この家の女中のような生活を強いられ、あげく二人とも亡
くなったものかと、これも想像。
残されたのは雑貨屋。そこからの収入で細々と暮らす毎日。
時折、近くの山へと出かけ、崖の上でプラックベリーを採取して
はジャムにするような慎ましい生活をしていました。
そんなある日、崖から落ちかけます。
綺麗な黒い鳥が飛んで行くのを眺めていたヘテロ。
家に帰ろうとした瞬間、足を滑らせて崖の下に滑落。きゃー。
必死に崖の上まで昇りきったヘテロ。
帰り道の橋の上で、溺死体となった自分の姿を想像し身震い。
” 死とは、こんなにも身近に !”
そのことを強烈に認識したヘテロ。
仕入品の配達に来た男に” 異性の匂い ” を感じると同時に
強烈な性的欲求が沸き起こり、男と肉体関係をもってしまう。あー
徐々に変化が起きていく。
本人の意識にも、行動の仕方にも、そして周囲との付き合い方にも。
そしてある日。この日も山に出かけたのだが、
尿意を覚えてお花積み(※)。そこで、あることに気がつく…。
” ? ”
病気を疑って都会の病院に検査に行くのだが…。
※他の言い方もあるようです。キジ撃ちとか。
と、まあ
一人の女性の人生の中で
50歳を目の前にした女性に起きる変化を、途中まではとても
淡々と描いたお話でした。最後のイベント発生までは…。
人生の一大事ともいえる重大事の連続。
一難去ってまた一難(?)のエンディング
これからどうするだろうか
問題を上げ欠けられて投げ掛けられて終わったような
そんな気分で映画館を後にしました。
観て良かったか は、微妙です。
けれど色々と鑑賞後に考えさせられる作品なのは、
間違いないかと。@-@ウーム
◇あれこれ
■飾られている写真
棚の上の写真(3人分?)が誰の写真か気になりました。
普段 飾っているのはおそらく 父と兄?
もう一人の写真は、小さい頃 兄から写真を盗んだ女の子?
それとも、ヘテロには記憶もない” 母 ” なのか。
■ブラックバード
何かの象徴として描かれているような気がしたのですが
良く分かりませんでした。・△・
崖から落ちる場面以降は出てこなかった気もしますし…。
あまり重要な意味は無かったのでしょうか…? @_@
ちなみにヨーロッパでは「クロウタドリ(ツグミ科)」を指す
ようです。(ジョージアはヨーロッパ?アジア? 境界?)
■描かれる時代
この作品の時代がいつなのか、ヘテロの生活環境を見る限り、
日本の感覚としてはそれなり昔の話かとも思えたのですが、
友人の娘に病気の症状の検索を頼む場面をみていると、単に
ヘテロの生活が前時代的なだけのような気もしました。
ジョージアの都市部と田舎、中年と若者の違いなのかな。
◇最後に
診察を受けた後の場面。
突きつけられた現実を受け入れきれず店の中のテーブルに突っ
伏し、自分の感情を持て余しているかのようなヘテロ。
恐らく泣いていたのではと思うのですが、顔を上げたその表情
に、一転して笑みが浮かぶのです。
この微笑みがどんな感情を表しているのだろうか と考えている
のですが、結論に至りません。
絶望なのか (どうしようもなくなったら、あの崖から…)
決心なのか (何としても産んで育ててやろうじゃないの)
決意なのか (あの男、逃がさないわ 追っていくわよ)
悟りなのか (何を考えても始まらないわ、無の境地よ)
良い未来へとつながる選択肢は何でしょうね。うーん。
※ジョージアに赤ちゃんバンクってあるのかな…
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
どうしましょう・・
上映が終わって、
ロビーに出て、当映画館の女社長の顔を見たときに「どうしましょうー😱💦」しか声が出ませんでした(笑)
本日の塩尻・東座は20名の入りでした。で、そのほとんどが6〜70代の女性たちでしたけど、
館内が明るくなったあとに、皆さん席を立たずに座ったままで ザワつくことザワつくこと!
映画は、出演は48歳のエテロと、
同年代の村の女友だち。
赤シャツの看護師や町のスーパーの女性カップル。
お金持ちの家の今どきのミニスカートの娘と、反抗期真っ盛りのパンクな女の子。
そして首都トビリシの病院の検査技師や看護師たち。
みんなみんな女たちだった。
どの女たちも、それぞれに、人生の時どきに、進退の決心をしながら今日までやってきた女たちなのだ。
早い遅いはあっても みんながいろんな選択をしながら自分の生き方を辿ってきている。
そしてそこにエテロの物語も同時並列に始まったわけで。
噂話や悪口や足の引っ張り合いなんて、年齢は関係ないでしょ?
そして支え合いも仲間作りも年齢は関係なし。
ジョージアではこの原作が大ヒットだったらしいが、きっとほとんどが女たちによる講読だったのだろうと想像できるよね。
地味だけどジョージアの“セックス・アンド・ザ・シティ”なのだと思った。
エテロがこの先どうするかは分からない。
でも我々も人生の折り返し点を通過した頃、
「死ぬ気になって」
「取り返しのつかない冒険」で
「生活設計がめちゃくちゃになる」のも
そんなに悪くない。むしろこんなのもいいのではないかなーと思わせる。
なんでもかんでも失敗が怖くて安全な道を つい選んでしまう僕たち現代人だもの。
ブラックベリーが実り、きれいな黒ツグミがそこには待っている。
「崖」に接近して下を覗いてみるのも悪くない。
どうせ死ぬんだし、
どうせ今は生きてるんですから。
・ ・
同じ東欧の独身女のドラマとしては「ペトルーニャに祝福を」が記憶に新しいくて、プロットもよく似ている。
男たちの世界はあんまり変化の起こっていないこの20〜21世紀だけれど、かたや女たちが主人公になる映画は、地殻変動が目覚ましい。
ジョージアでも旧ユーゴスラビア (現北マケドニア) でも、東欧の女性たちに漸く春のきざし ということなんだろうな。
実はこの映画、年上の独身の親友が薦めてくれたものでして、僕は今からその感想を彼女にメールで書き送らなければならないんですが、
さて、どうしましょうかね!!
🐦⬛🫐
開始即崖落ちイベントで「えっ!もう⁈」と驚いた。
男女イベントにも「えっ!もう⁈」おぱい丸出しと下の毛量が...💧不倫とわかった時点でスーンとなる。会いたいというよりヤリたいでは?ポケットに不倫がバレそうなノート入れておくなよ... 男はシャワー浴びたけどエテロは浴びないの? 2人とも裸体が見苦しい...申し訳ないが全く応援できない恋だった。
回想で 食卓に座っている父と兄に 1人だけ立って食事を切り分けてるエテロのシーンがしんどかった。ずっと世話係だったのだろう。そりゃあ残りの人生は自分のためだけに自由に生きていきたいよなぁと思った。
かといって不倫でできた子を産んでその村で育てていけるのか?その年で1人で育てる?周りの視線は?厳しさしかないのでは?とハッピーエンドとは感じられなかった。 野放尿にもだいぶ驚いた
予告でとても好印象を受けて公開を楽しみにしてたけどあまり好きでは無い要素の方が多くて。
曲は良かった。
ラストの主人公の笑顔は嬉しい笑顔と信じたい
あらかじめ設定を知っていたので、一人でブラックベリーのジャムを作ってそれなりに日々充実してる48歳の独身女性というのはわかったけど、なんの予習もなかったらどうだったかな?ちょっとわかりにくかったのでは?と思ったり。最初お祖父さんにしか見えなかった人が寝て次に会うときはなんだかイキイキちょっと若返ってた気がして。主人公が終始怒ってるような表情で気持ちが分かりにくかったのだけど、ラストガンではなく妊娠と分かった時声高らかに笑うのが印象的だった。一人がいいと思ってた主人公だけど全く違う人生を黒ツグミが連れてきたんですね✨雨のシーンが多かったけどみんなあまり傘を刺してないのが不思議でした。あと、最後のカフェで食べてたのなんだろ?パイ?なんかパスタ食べるみたいにクルクルフォーク回しててそれも不思議でした。誰か知ってたら教えて。
元始、女性は太陽であった。
ジョージアの片田舎で暮らす48歳のエテロは、ブラックベリーを摘もうとして黒ツグミに見惚れ、川岸を転げ落ちる。その後、自分が川で溺れて引き上げられるところを幻影で見てショックを受け、生まれて初めて男性と交渉を持つことにより、人生の楽しみ、生きる喜びを覚えて、変わってゆく。
彼女は、男性社会で暮らす同年代の女性たちには、肥満した独身女性であることを、さんざん揶揄われる。しかし、少しも怯むところはなく、実際、お尻はとてつもなく大きいものの、肌にはすこしの緩みもない。特に、ムルマンという男性と知りあってからは、顔も身体も輝いていて、温かい太陽のようだった。一番思い出されたのは、フランスの女性監督たちの映画。そう言えば、最近、ジョージアのガールフッド映画「ゴンドラ」もあった。
母を早く喪っているエテロが一番大事にしていることは、季節になるとブラックベリーを摘んでジャムを作ること。父と兄から引き継いだアパートの一室に住み、村で日用品店を営みながら、堅実な暮らしを続けてきた。普段は、出入り業者であったムルマンの定期的な物品の補給を受けるだけだったが、2週間に一回は、街に買い出しに出掛けて、村の顧客の要望に応える。
ロケの時期にもよるのだろう、映画の前半は毎日が雨で、しかも雷を伴うこともあった。ただ、誰も傘をさしていない。ジョージアにも、こんな地方があるのだろう。私の目には、彼の地は、東西の文化の通り道に見えた。
宗教色は、ソ連からの離脱の影響もあるのか極めて希薄だ。あえて言えば、ギリシア正教か。立ち居振る舞いには、西域の影響が感じられる。その向こうには、モンゴルが見える。中年以降の年代には、フランスへの憧れがある。若い世代の興味の中心はやはり米国、ロックを聴いている。エテロも引退したら、英語を学びながら、悠々自適の生活を送りたいと言い、貯蓄はドルでしていた。
一番、印象的だったのは「ナポレオン」と呼ばれていたミルフィーユ。私の目には、素朴に焼き上げた柔らかいパイに見えた。エテロは街に出かけると、カフェで決まって頼み、ミルクコーヒーと共に美味しそうに食べていた。きっとこれは、帝政ロシアの宮廷に、フランス文化が取り入れられたことの名残だろう。
そう言えば、エテロとムルマンが、始めてのデートでドライブに出かけた時、車のなかで流れていたのはシャンソン。シャルル・アズナブールの声に聞こえたけど。この映画の撮り方には、私たちの好きなアキ・カウリスマキの影響がある。多分、ファスビンダー監督の香りも。
きっと、この映画に足を運ぶのは、若い人というよりは、酸いも甘いも噛み分けた中高年の人たちだろう。間違いなく、良い映画だ!
よしてよ、ブラックジョーク
自営業で暮らせている所以外、最悪だなというのがエテロに対して抱いた正直な感想。
ミドフォーにして処女という設定があってか、同性からの扱いやら彼女の心情の移り変わりはやけに生々しく映り、観ていて目を背けたくなった。年明け早々観るには色んな意味できつかったな。
主体性のない人間の行く末がこれか…とさえ感じてしまい、自分はこうはならんぞと反面教師にさえなったのでこの2,000円と2時間は無駄にはならなかっただろう。
結末があまりにも最悪で溜め息が出た。けれどそこからの彼女の変化を想像すると、続編が上映された日には怖いもの見たさできっと劇場に足を運んでしまいそうではある。
死と生の物語
全48件中、1~20件目を表示