未完成の映画のレビュー・感想・評価
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名匠ロウ・イエ監督の虚構と現実世界に見事に翻弄される新感覚を味わえる傑作
試写会にご招待してくださりありがとうございました😊
だからといって甘い評価をつけたわけではございません。本当にすごいものを観た😳というのが率直な感想なのです。2025年はじまって初めての星5かもしれません。
本作は、フィクションをドキュメンタリー映像のように見せかけて演出する表現手法-「フィクションドキュメンタリー」とか「モキュメンタリー」日本語でいえば「半自伝」とかいう方法で作られています。簡単にいえば半分ウソで半分ホントということかな。私もまんまと騙されていました。はじまりは多分ノンフィクション。10年前に中断された未完成の映画を完成させるため、キャストとスタッフを集めて説得する場面からはじまります。主人公チン・ハオさんの断り方がリアル。「10年前とはみんな状況が変わったんだ」とかさ。「ん?」でもなんでこんな場面にカメラ回してるんだろう??やっぱりここもフィクションなんか?!これ台詞?リアルは、縦型のスマホ画像の部分だけだったのか🙄
感想書きながら、改めて混乱中⚠️
少々お時間いただきます…
主人公チン・ハオさんの奥さんとして何度となく登場したチー・シーさんを本当の奥さんだと勘違いしていました愚か者のワタシ😅こんな赤裸々な映画もあるんよね〜なんて思いながら観てたけども、よく考えたら「んなわけあるかーーー!」ってことやんね。コロナという未曾有のパンデミックの記憶がまだとても生々しく、勝手に全てノンフィクションのドキュメンタリーだと思わされてしまう巧みな構造。時折混ざるスマホ動画の映像がリアルさをプラスさせて虚構世界をリアルさと切実さをもった世界へと誘う。映画を観終わったあと色々調べてみたら、チン・ハオさんの本当の奥さんは10歳年上で台湾人歌手の伊能静さんであること、赤ちゃんはその頃本当に生まれていたらしいことなどを知りました。どこまでがホントでどこまでがフィクションかわからないこの新しい感覚に興奮度MAXでございました。
素直にもう一回観たい。
ウソホントの正解知りたい。
そんなこと関係なしに伝わったのは
どんな絶望的な状況にあっても
人は何度でも立ち上がれるのだということ
人は人と繋がって生きているのだということ
守るべき大切な人の存在は時に人を臆病にさせるけれど、
守るべき大切な人の存在こそが、
人をもっとも強く勇敢にするのだということ。
コロナ禍の大切な記録映像として多くの人に鑑賞をおすすめしたい映画です。またコロナ禍において多くの人々の為に勇敢に闘った医療関係者の皆さまに感謝しつつ、コロナ禍でこの世を去った人々のご冥福を心よりお祈りいたします。
Film is Archaeology
There are many intriguing elements in Lou Ye's cut-up collage of a film, Unfinished. The most compelling aspect that stood out to me is the director's exploration of how film evolves—or devolves—over time. The narrative fluidly shifts between documentary footage, traditional film scenes, Zoom calls, and TikTok videos. This experimental approach might evoke comparisons to Jean-Luc Godard's later works, such as Farewell to Language or the more recent La Bête, both of which examine how our relationships with emerging technologies are reshaping narrative structures. However, unlike those films, which often mourn or satirize this new era, Lou Ye seeks to construct a cohesive meaning from these fragmented elements.
過酷な状況下で終わりなき道を歩み続ける
ドキュメンタリーと劇映画の要素を併せ持ち、なおかつ地球上の誰もが体験したパンデミックの生々しい記憶を内包した異色作。鑑賞しながら思わず自分が登場人物の一人としてあの混乱の日々ともう一度対峙しているかのような気持ちに浸った。冒頭は製作チームが昔のPCに電源を入れ、懐かしい未完成映像を映し出すというノスタルジックな場面が描かれ、心残りを取り戻すための再撮影が始まり、かと思うと雲行きが怪しくなり、急に宿泊先が封鎖され・・・。刻々と事態は急変し、その都度、映画のジャンルがガラリと形を変える。これはある意味、社会、時代、政治体制、人といった一見バラバラな要素を「未完成」というテーマのもと、一本の線へと重厚に編み上げた映画だ。未完成とは、終わりがない、ということ。しかし決して絶望ではない。その中で、歩みを止めない、あきらめない。己の目線を貫き続けるロウ・イエ監督の心の叫びが聞こえてきそうな一作である。
「青い凧」田壮壮
「未完成の映画」は、
そのタイトルが示唆するような「未完成」とは何の事なのか、
現実と虚構の境界線上で観客を揺さぶり続ける意欲作だ。
ドキュメンタリーを予期している観客は、
その期待が裏切られる形でロウ・イエ特有の、
フィクションの世界へと誘われる。
「青い凧」の田壮壮がロウ・イエ同様、
撮影できない時期に、
インタビュアーとして朋友宮崎駿の創作の核心に迫った、
「『もののけ姫』はこうして生まれた」のような、
いわゆる「制作過程のドキュメンタリー」を想像したり、
「ロスト・イン・ラマンチャ」に見られるような撮影現場の切実な現実を覚悟したりするならば、
本作は異なるタイプの「切実さ」を提示する。
それは、モキュメンタリー風の体裁を取りながらも、
ロウ・イエの確固たる意志に基づいたフィクション作品として結実している点に圧倒されるかもしれない。
ボロボロのセーラームーンのモノマネ、
ひょうひょうと疾走する野良犬、
あるいは何の変哲もないQRコード、
同じホテルなのに、
各部屋に分断されて、
リモート飲み会をする、
各スタッフの顔(笑7割哀3割)、
顔(泣4割苦6割)、
顔(迷9笑1)と、
笑うしかない気持ち、
張り裂けそうな心、
微妙な感情のグラデーション全部乗せ、
というか、
全部魅せ、
一見無関係な要素を巧みに雄弁な武器として取り入れながら、
本作は観客を飽きさせないポップなエンターテインメント性を確立している。
そのポップさの裏、遠い背後まで、
監督が伝えたい切実なメッセージが隠されているのかもしれない。
スクリーンサイズの変化といった形式的な遊び心さえも、
登場人物の傷跡や足元から彼らの家族、
そして背景に横たわるコロナ禍といった現代社会の状況までをしっかりと射程に入れる、
ロウ・イエ監督ならではの視点が貫かれている。
この鋭敏さこそが、
監督自身が時に「撮れなくなる」状況に陥る理由なのだろう。
ジャハール・パナヒ、
ユルマズ・ギュネイ(youtubeで詳細を話してます)、
田壮壮、チャン・イーモウ、ジャ・ジャンクーといった、
名だたる監督たちが直面してきた表現の困難さと、
ロウ・イエ自身の創作への姿勢が、
観客のみならず、アジアの仲間、
あるいは世界中の人々が、
この作品を通じて静かに、力強く響き合うように、
鎮魂のトランペットが響き渡っていた。
本作は、単なるアイデア満載のエンターテインメント作品にとどまらず、社会の深層に潜む切実なテーマを、
ロウ・イエ独自の、
ドキュメンタリー以上、
フィクション未満の手法で炙り出した作品である。
観終わった後も、
その「未完成」が意味するものについて、
深く考えさせられるだろう。
少し落ち着きましょう中国人さま。
ロウ・イエ監督の新作を(いつも、だと思う)
上映してくれる横浜シネマ・ジャック&ベティにまず、感謝です。
(吉祥寺アップルリンクまでは遠いので。)
中国でのコロナパンデミックの様子と、
未完成の映画を完成させるべく撮影する舞台裏と重ねて描くセミドキュメントの様な感触。
ロウ・イエ監督はチン・ハオさんが好きなんだな。
その愛情が痛いほど分かる。
(私の偏見ではないと思う)
なぜ中国人はこんなに怒りやすいのか。
怒りやすいというか、ものの言い方が乱暴・無神経・配慮に欠ける等など、
コレじゃパニックにもなるよなぁ、
と呆れ果てて観ていた。
ロウ・イエ監督は、ただそのパンデミックを描いただけ。
ロウ・イエ監督の演出撮影が、僕には東陽一監督や今村昌平監督の様に、生々しく人を捉えようとする姿勢にみえる。
気になる監督で新作はできるだけ観ようとしている、
が、好きな作品はどれかと訊かれても困り、衝撃的だったのは『スプリング・フィーバー』かな?と答えるくらいである。
日本人の私は日本でのコロナ禍は周りが案外穏やかで、
近親者職場にも感染者はいない状況。
困ったことは職場で配布するマスクをズルして数枚ガメる(女性)スタッフがいたことか。
事務所で指摘されたので私は数人のガメるスタッフをチクり、解決策を求められたのでマスク配布は事務所管理と提案。
問題は無事に、解決された。
日本人は、そんなもの。
コロナという中途半端な悲喜劇を直視する
10年前に資金不足で中断した映画の撮影を再開したら、今度はコロナに襲われたという映画。監督や俳優はじめクルーが宿泊したホテルでスタッフから感染者が発生、主演俳優は軟禁状態に。映画の撮影自体が実はフィクションだが、緊迫した実況中継のように話は展開する。
行動が制限されるなか、命綱のようにスマホにすがりついて家族と通話したり、オンライン飲み会を開催したり。こうした場面から、数年前のことなのに忘れてしまったコロナ当時の記憶がよみがえってくる。
若干映画からは離れるが、なぜコロナをこんなにも忘れてしまいたいのだろう。コロナが終息して何周年などの形でお祝いするとか、当時を懐かしむ気持ちにもなれない。
「コロナに打ち勝つ」などと勇ましく言われたこともある。でもコロナを自分たちの力で乗り越えたという実感は何もない。どこか後ろめたい気持ちで日常に戻って来たというのが実情ではないか。
映画に出てくるようにオンライン通話を新しいおもちゃのように感じてはしゃぎ、出勤しなくていい解放感を味わったことも気恥ずかしく思い出される。「新しい生活様式」を一瞬信じそうになったが、結局暇つぶしを言い換えただけであり創造性のある日々ではなかった。
そのような意味でコロナは悲劇としても喜劇としても中途半端なものだった。一方、亡くなった人や後遺症を抱えた人がいるのは厳然たる事実だ。映画の後半で描かれる中国での鎮魂の場面は、発生源となった国ならではと言えるが、区切りの儀式として必要なことだったのではないか。
映画は後ろめたく恥ずかしいコロナ期に正直に向き合わせてくれる。同時に、単に日常に回帰するというハッピーエンドにも陥っていない。そもそも頓挫した映画を撮り続けるという、どこか無謀な試みを続ける人たちの話だ。人生を中断させたり、再生させるのはコロナだけではない。
スマホで撮影したような縦型の映像が多用されるが、最後には通常の画面に戻って映画が終わることに安心させられた。コロナとは、スマホ画面に生活を閉じ込める流れを加速させてしまった出来事でもあると思う。しかしお手軽に生活を複製しただけではない物語を映画は作っていく、そういうメッセージを勝手に受け取った。
ロウ・イエ的CV-19保存データファイル
コロナ震源地武漢を舞台にしているだけあって、発生時の半端ない臨場感があります。現場の孤独や家族関係者の不安もビビッドに表現されています。
ただ現実に即しているがゆえに、後半の隔離期間中の描写は映画的には起伏を付けるのが難しくなったのではないでしょうか。まさに健康な濃厚接触者が2週間ステイホームを強いられた時の持て余す時間と似ている気がします。
実際のニュースやSNS投稿、夫人とのチャット、仲間とのオンライン宴会などいろいろ工夫は凝らされているのですが、ロウ・イエ監督が本来得意なケレン味ある演出が発揮しにくいところでした。ここに擬似ドキュメンタリーの限界があるように感じました。
とはいえパンデミック発生時の人々の心理、連帯の記録として意義ある作品であることには間違いありません。
もがきながらもこの時代に深い愛を
どんな冷たい視線でコロナ禍の中国を描いてたか知りたくて観た映画だが、
良い意味で裏切られた。
そんな世の中でも、ロウ・イエ監督が映画の役割への問いかけを忘れず、中国人たちが生活への情熱を捨てずにいられた。
ロックダウンの必要性、中国人の過激な感情表現、とか。これはなぜ中国が社会主義国家になったのかと同じくらい複雑なもので、触れないことにしよう。
(なぜ日本人の政治への関心が薄いか、自粛とアベノマスクの意味、くらいややこしい)
重要なのはこの映画の持つ客観性とその時代意義だと思う。
一個人として共感が多かった。
不自由の身になって人間は初めて日常のありがたさを意識し、自分の大事なものが何なのか、わかるようになる。
そして時には、本当の自分に戻ってくる、、寂しさゆえに同じ境遇の人が群れて楽しいことをやろうとする。「同病相怜」、「苦中作乐」がそういうこと、中国人の得意分野。この辺りの描写がとても繊細でうまかった。
何よりも実際に経験してなくても感動できたのは、映画の中にいろん愛の形があるからだと思う。
暴力を振る舞った者は妻子への深い愛情を持つものでもある、秩序を守るものは感染のリスクを冒しながら働くものでもある、国家権力がすぐ働いて対策したことだって容易じゃない...
悪は存在しない。
劇中の言葉を借りると、ただただ、
なぜよりによって(私たちが)コロナに遭ってしまったのか。
ぶつかりながらも、多くの人が一致団結して14億人の間の感染を抑えた、みんな頑張って生きてきた、誰かが自己犠牲までして他人を救おうとしてた。
コロナ禍の時間が、人の記憶、そして歴史だけに残るものになっても、消えることがないよう祈ってる。
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実際にロックダウンを経験する人たちがこの映画が観れないこと、とても残念に思ってたが、こんな苦痛な出来事は一回だけで済んで良かったと。むしろその場にいなかった人間として、ロウ・イエ監督の記録と表現に感謝しかない。
現実と虚構の境目がなくなる映画
アップリンクの試写会で観賞。
日本でも最近増えてきたモキュメンタリーだが、ロウ•イエ監督はこの作り方がなんとも上手い。最初30分は映画の撮影を巡るドキュメンタリー風だが、それ以降は殆ど未曾有の感染症に振り回されるスタッフたちや武漢の人々を描いている。実際のスタッフがスタッフ役で出演するなど、リアル感に一役買っている。
コロナ禍における武漢の実際の映像などを織り交ぜて進行するストーリーを見ている内に、現実と虚構の境目が無くなりそうだ。
筆者はコロナ禍のときにNZに住んでいたが、スーパーや薬局など生活の必須な店舗を除いてレストランも小売店もオフィスもすべてが閉鎖され、映画の武漢と同じように人気の消えた街を思い出した。ディストピア映画のようで何とも奇妙な心地にさせられたものだ。
あれを経験したからこそ身に迫る映画であると思う。コロナ禍を知らない人からしたら単なる記録映像に見えるのかもしれない。
未完成は未完成のまま。
ドキュメントの様に見える映画のことをモキュメントと呼ぶんだってね。
まさに本作がそれ、実際にロックダウン当時撮られた映像も使っているらしい。
話は途中まで撮ってた中国じゃ公開できない様なBL系映画を完成させようと田舎ホテルロケに集まるスタッフと俳優がコロナのロックダウンで缶詰状況になってしまう話。部屋に隔離され家に帰ることも出来ない極限状況の日々を描いてます。
1人で部屋にいる時、もう一台カメラがあるからフィクションだと分かるが編集も上手くあの家から出れない茫然自失の日々を思い出した。まあ生きてるうちに流行病でロックダウンなんて経験出来ると思わなかったもんね。
あれ?で未完成の映画の方はどうなったんだっけ?
少しは進んだみたいだったけど、、なかなか面白かったんだけどそれだけ気になった。
フィクションとドキュメンタリーのはざまで
2019年、10年前に資金がショートして未完に終わった映画を完成させようとするところから話が始まる。武漢にも近い南昌市で撮影が行われるが、翌年1月、春節(中国のお正月)の直前、武漢ウイルスの感染が及んでくる。ロウ・イエ監督の映画では見慣れた(ごひいきの)チン・ハオは逃げ遅れ、ホテルに強制的に閉じ込められる。てっきりこの場面からは、ドキュメンタリーと思って見ていた。監督や、役者、制作スタッフたちは、基本的にスマホで交流するのみ。チン・ハオは、北京に残してきた妻と生まれたばかりの赤ん坊とも、盛んにやり取りをする。そのうち、幾つかの点で、これはフィクションであった(撮影していた)ことに気づく。
後半は、武漢や、その周辺で撮影・投稿されたドキュメンタリーが織り込められる。
どこがよかったか。何といっても、撮影しているチームのヘアメイク担当スタッフが武漢出身者であったことから、ホテル滞在が拒否され、ロックアウトにより、個々のスタッフや俳優がホテルの部屋への長期滞在を余儀なくされたところ。あの頃、日本でもあった。
逆に困ったのは、後半、武漢とか、それに関連してウイグル自治区などの実際の映像が出てくるんだけど、スマホで撮ったような映像は、逆に個人的すぎて、あまり迫ってこないんだな、これが。
フィクションとドキュメンタリーが入れ子になった映画だったが、ドキュメンタリーに似せたフィクションの部分が一番迫真に迫っていて、現実と創作の違いの秘密に迫る思いがした。
未完の映画とコロナ禍を上手く噛み合わせて描けてなく残念
なまなましい過日の記憶
たとえば戦争の映画などに心が動かされることはあっても、実感できるところがないのでどこか一歩ひいてつねに冷静にみてしまうけれど、コロナ禍は実際に自分も経験し、あの不安と狂乱をなまなましくおぼえているので、ものすごい緊張感と臨場感でみた。
できるだけあらすじなどの情報をいれないで映画をみにいくことが多いので、この映画も最初はドキュメンタリーだと思ってみていました(カメラワークとかでだんだん創作だとわかった)
ホテルを封鎖しようとしているくらいなのにマスクつけてるひとが少なかったり、わりと平気で外出しようとしたり、コロナ禍のはじまりのいびつさがとてもリアルだった。
あの時期は『乗り越えた』というより『過ぎ去った』だけのような気もする。
ふと 絆-きづな- という言葉を思い出し 涙が止まらなくなる ロックダウン下で生活する人たちの姿に虚実を超えた「真実」を見た
文字で書いて小説という形式にすれば記録文学ということになるのでしょうか。ロウ•イエ監督はそれを映画の形にして見事に結実させました。冷静になって見れば、ちゃんとした脚本があり、プロの俳優さんやそれに準ずる人たち(スタッフが本人役で出ている例もあるとのこと)が役を演じているということが分かりますが(なぜなら、都合よくそれを撮影しているカメラが常にそこにあるわけですから)、実録か再現劇か、そんなことはどうでもよくなるくらい、圧倒的な映像の力を感じました(一部は実際の当時の映像を使っているようですが)。それは、たとえそれが再現劇であるにせよ、あの時そこにあった「真実」を伝えることに成功したということに他なりません。
特に、登場人物それぞれがホテルの部屋に缶詰め状態になり、人との直接の交流を遮断され、孤独な生活を余儀なくされた後の描写は圧巻でした。結局は家族や仲間たちとオンラインで交流してゆくしかないんですね。オンライン飲み会で仲間たちそれぞれが自分は大丈夫、元気だからと示し、かつ、自分の元気な姿で皆を元気づけようといろいろと工夫しているのを見て私は目頭が熱くなりました。ふと、あの東日本大震災の後に流行した 絆-きづな-という言葉を思い出し、涙が止まらなくなりました。やはり、人は人との関わり合いの中から希望を見い出してゆくんですね。
あのパンデミック突入から5年ほどたち、嵐は去ったとの感がありますが、突入から約3年、いわゆるコロナ禍の緊張感のもとで暮らしたことはこの先も忘れずにいようと思います。幸いにして私の周囲にはコロナ禍で命を落とした者はおりませんでしたが、不幸にもこの世を去ることになった世界中の人たちのご冥福をお祈りいたします。
文句なし❗️ユニークだが、忘れてはいけないコロナ禍の生活
文句なし❗️ロウ・イエ監督の最新作だが、ドキュメントとドラマの融合はなるほどと思わせた。マオ・シャルルイ監督が10年前に完成させようとした映画を完成させようとキャストとスタッフを招集し、2019年からのシーンだが、武漢近くの都市を舞台に映画制作をするが、撮影終了間近の2020年頃からウィルスの噂が広まる。そして、パンデミックへ。
コロナ禍前〜コロナパンデミック、武漢のロックアウト後の中国と映画制作者、キャストの現実を見事に描きだした。色々考えさせられたし、コロナ禍を通じて生活、社会の向き合い方を改めて痛感した。日本だけでなく、中国も事情があっても結局は一緒だと改めて感じた。ユニークな作風だったが、コロナ禍の生活は改めて忘れてはいけない。いつどこで同じ事が起きるかもしれないから。ドラマだが、ドキュメントの要素もあり観ごたえがあった。素晴らしい❗️年間ベスト候補にあげたい。
あの頃武漢では
10年前と変わってしまった世界
10年前に未完となっていた映画は、同性愛を扱った映画。未完の理由は資金面とのこと。2009年ぐらいであれば、そういったテーマの映画は、国の制作許可がおりたのでしょうが、2019年時点ではそういうテーマの映画の制作許可は、規制により難しい状況になっているため、出演俳優である江誠は、再始動についてイマイチ乗り気ではないということがあります。徐々にいろいろと世の中が厳しくなっている中で起こったのが、コロナのパンデミックであり、人々はさらに極端に抑圧されていくことに。
映画は、当時の実際の映像も一部含まれていますが、基本的にはこの映画用に撮影されたものながら、実際に隔離されている中、SNSのビデオ通話画面を多用する等、十分に当時の現場の状況は伝わってきています。コロナは一つの要素であり、監督が伝えたいのは、徐々に厳しくなっていく息苦しさではないかと思います。
エンドロールで2曲流れますが、1曲目「黄昏」の歌詞が、この映画で一番訴えたいことではないかと思います。
渦中の人
コロナ禍、ホテルに隔離された映画撮影クルーたちの話。
2019年7月、映画監督と仲間たちが10年ぶりに開いたPCから未完成の映画をみつけて、足りない部分を撮影し、完成させよう!となって巻き起こっていく。
みつかった映画は完成させても検閲を通らないとかなんとかな話しになるけれど、どんな思想でどんな作品を作ろうとしているかわからないし…何て思っていたら、あっという間にもう半年後?
そしていよいよ撮影に…と思ったら、えっ!ホテルに隔離?
逃げ出そうとしたり抵抗して暴れたりな自己中な流れから、諦めて部屋で過ごす様子をタラタラタラタラ…当時のSNSに投稿された映像みたいなものも織り込んでまたタラタラ。
結局未完成の映画のことはどうでも良いのですね。
渦中や直後だったり、今より更に10年20年経った後に当時はこうだったとみせるならまだしも、そしてフェイクじゃなくてドキュメンタリーならまだしも、今これをみさせられてもなんだかねという感じだった。
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