「映画なりのオチをつけたと思うけど、破綻してない?」九龍ジェネリックロマンス Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
映画なりのオチをつけたと思うけど、破綻してない?
2025.9.2 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(117分、G)
原作は眉月じゅんの同名漫画
記憶を失くした女と、語れない過去を持つ男を描いたファンタジックラブロマンス映画
監督は池田千尋
脚本は和田清人&池田千尋
物語の舞台は、かつて香港に存在した九龍城砦を再現した町
そこには、行くあてのない人々が集い、ある種の「何でもあり」のコミュニティが生まれていた
その町にある不動産屋「旺來地産」に勤める鯨井令子(吉岡里帆)は、先輩社員の工藤(水上恒司)に想いを馳せていた
工藤は麻雀仲間たちとギリギリまで遊んでから出勤し、いつもギリギリにタイムカードを押すようなズボラな性格をしていた
支店長の李(山中崇)もそんな2人を微笑ましく観ていたが、彼も不思議な男で、退勤時間になると時間ぴったりに帰っていた
ある日のこと、空き物件のメンテナンスをしていた工藤と令子は、その作業を終えて休んでいた
ソファで寝てしまった工藤を起こそうとした令子だったが、工藤は突然令子を出し寄せてキスをしてしまう
そして、耳たぶまさぐるようにさわると、「間違えた」と言って、令子を突き放してしまった
動揺した工藤は上着を置き忘れて帰り、令子は工藤とキスをしたことで舞い上がってしまう
だが、彼の上着から1枚の写真が見つかり、
事態は雲行きが怪しくなってしまう
それは、その写真に「自分そっくりな女と工藤」が写っていたからだった
令子は自宅にあった付けたことのないイヤリングのことを思い出し、自分は記憶を失くしているのでは?と思い始めるのである
映画は、ジェネリックテラ(地球)という衛星のようなものが上空に浮かんでいる世界で、そこには人々の記憶が記録されていると言う
それを可能にしたのがジェネリックと呼ばれる技術で、九龍の中には「ジェネリック(後発品)」と呼ばれるコピー人間のようなものが存在していた
令子も工藤と一緒に写真に映る令子B(親友の楊明(梅澤美波)が命名)のコピーであることが中盤になってわかり、それがこの世界を作り出した蛇沼(竜星涼)の特別な研究対象となっていた
また、工藤と令子Bの仲を知る茶館のタオ・グエン(柳俊太郎)は、令子の写真によってこの世界の謎を明かそうとして暗躍し、蛇沼と出会うことによって、情報共有をして行くことになった
蛇沼は「亡くなった母の再現」というものを試みていて、そのためにジェネリックテラという装置を開発して、その実験をこの街で行っていたことが判明するのである
とは言え、映画内から全てを理解するのは難しく、設定を知った上で観た方が理解度は高くなると思う
冒頭からテレビCMでジェネリックテラの宣伝をしているし、上空に浮かぶ謎の物体、時折歪んでしまう世界などを紐解いていくと、この空間がバーチャルのような世界だとわかる
この中で生活している人の誰が人間で、誰がジェネリックなのかの境界線は難しいのだが、感覚的には令子、支店長、楊明はジェネリックで、工藤、タオ、蛇沼は人間であると思う
そして、工藤の麻雀仲間の周さん(嶋田久作)はこの世界の歪みを知る人物のようで、彼の導きによって、ジェネリックである令子はこの世界での自分というものを確立して行くことになったように思えた
映画では、時折地震などが起こり、それが工藤の感情と連動していることがわかるのだが、それはこの世界の中に住むオリジナルが影響を及ぼしているように描かれている
そして、その感情の揺らぎを生み出しているのが令子の存在であり、令子は令子Bのコピーでありながらも、別人になろうとしていた
オリジナルとは別の人格になろうとするジェネリックの存在が世界を根底から揺るがし、そして工藤をその世界から助け出そうとする令子が描かれていくのである
個人的には、工藤を対象とした実験を行っていて、蛇沼が彼の自殺した恋人・令子Bを再現することで、ジェネリックテラの概念を完成させようとしているのだと思っていた
その目論見はジェネリック令子の目覚めた自我によって崩壊することになるのだが、その揺らぎこそがこの計画の克服すべき課題であるように感じていた
射沼は母親を再現したいと思っていたが、この技術で再現したとしても別人が投影されるだけであり、記憶や情報だけでは人を完全には再現できないということなのだろう
原作の設定とかは分からないが、故人を復活させることに意味はなく、過去と決別することでしか未来は訪れない
令子は令子Bになって工藤のそばにいるのではなく、オリジナルとしてそばにいたいと考えていた
だが、それを可能にするよりも、外の世界に工藤を連れ出して、彼を救うことを選んだということになる
そして、エンドロール後にはジェネリックテラが消滅した街を描き、そこで工藤と令子が再開することになるのだが、この映像のおかげでさらに意味がわからなくなっている
もしかしたら、蛇沼の計画がさらに進化を遂げていて、ようやく完成形としてのジェネリック令子が再現できたようにも見える
だが、映画の主題を考えるとその構成はおかしくなってしまうし、あの映像を正当なものと考えるのならば、「実は令子Bの自殺すらもプログラムの一環」のように思えてしまう
工藤に目をつけて、最愛の人を失くした人物にジェネリックを会わせる目的があり、それすらも蛇沼の計画だったというものなのだろう
そうして、工藤を令子Bが死んだ世界に閉じ込めて、そこで令子と再会させることによって、実験データを取ろうとしていた
そう考えると、令子Bは実は死んでなんかいないということになり、それがジェネリック令子が令子Bとの相違点を生み出している(令子は生き続けて変化しているから)ということになるのかな、と感じた
いずれにせよ、正解があるかわからない内容で、ぶっちゃけると吉岡里帆を大画面で愛でるだけの映画になっている
それはそれで良いと思うのだが、きちんと映画内で設定を解決し、からくりを提示しないとダメなんだと思う
原作は未完とのことでラストは模索中なのだと思うが、それを見越した上で映画オリジナルの解決を結ぶのは難しい
それでも、あのラストを描くことで、製作者サイドの解釈というものが生まれていて、その隙間を埋めるとするならば、前述のような解釈を加えるしかないのかな、と思った
ラストは完全に破綻してますね。
蛇沼は令子を認知してなかったし、あの九龍が想定外の産物なのも明示されてましたし。
ちなみに「余所者がいきなり店を出しても~」の台詞から、楊明も人間ですね。
(映画では割とどっちでもいい存在になっちゃってますが…)
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