どうすればよかったか?のレビュー・感想・評価
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令和の今なら即答です。
「どうすればよかったか?」
→はい、すぐに医者に行って治療を始めましょう。
令和の今なら迷うことなく即答な状況なのは、誰が観ても明白です。
昨今では多くの有名人が、心の不調を明言し休養を主張できる世の中になりつつあります。風邪を引いたら熱が出るように、ココロも風邪を引くことがあるんだということ、それは恥ずべきことではなく、誰にでもなりうるもので、正しい治療さえすれば良くなるのだということが、幸いにも令和の今では常識となりつつあります。ネットの普及で様々な情報を誰もが簡単に入手できるようになったことも、精神疾患への偏見払拭や理解に繋がった要因かもしれません。
ところが、舞台は昭和から平成。統合失調症にもまだ名前がなく、世間の理解が不足していた時代です。しかもご両親はお医者様というご職業柄、世間体を人一倍気にしていたことは否めません。
「病気なら医者にかかって治療する」
医者であるご両親なら、当たり前のようにわかっていることなのに、その至極シンプルなことを複雑にしているのは、家族という柵(しがらみ)なのかもしれません。
いつの時代も
一番愛すべき存在が
一番憎むべき存在でもあり
愛憎は隣り合わせにあるものだということを、この映画を観て感じずにはいられません。
どうすればよかったか?
私が本人、もしくは本人の家族なら
即、病院に行って薬もらって治療します。
以上!
失敗を認めることは人生にとって重要
人は、こんなにも失敗を自ら認めることができないものなんだなと、ものすごく深いレベルで実感させられる作品だ。このドキュメンタリー映画の題材となっているのは、監督自身の家族だ。両親はともに医療関係で優秀、姉もその後を継いで行くものと思われたが、医学部に進学した後、統合失調症となり家庭内で意味不明なことを叫んだりするようになった。
しかし、両親は精神科へ見せることを拒み続け、彼女は病気ではないと言い張り続ける。そして、数十年が経過、家庭の中はどんどんすさみ、姉の症状も悪化し続ける。結局、精神科に連れて行ったら、合う薬もすぐに見つかり、姉は快方に向かうが、人生の膨大な時間を失うことになる。
統合失調症を世間に知られたくないという恥の気持ちもあったのだろう。しかし、映画を見ていて、優秀な医者として、家族から統合失調症を出したと思われたくない、それは親の教育、育て方の失敗と認めたくないという気持ちもかなり働いてそうな気がした。
結局、父親は最後まで自分の非を認めようとはしない。
人間の成熟とは何かと考えると、ひとつには自分の過ちを認められることがあると思っている。しかし、実際にはすごく難しい。自分はいつも自分の言動を顧みて反省できているだろうかと考え込んでしまった。
これ以上、どうすることも出来なかった
私なら見捨てる。
鑑賞中、何度も思った事はこれだ。
悲痛な姉の叫び声、話の通じない両親。
唯一向き合おうとした兄の苦しみは、どれほどだったろうか。
しかしそうした独白は無い。
つまり、鑑賞者自身に考えさせる構成として作り上げられている。
結局家族には「憎しみだけじゃない」思いがあるから、解決が難しい。
私も過去に家族関係の苦しみがあった。
けど、誰にも言えなかった。
大人になってようやく、妹とはお互い辛かったねと言い合えた。
それを切り出すのにも勇気がいった。
兄が年老いた父を前に問いかけるのには相当な勇気がいったと思う。
私は、兄は姉を救ったと思う。
ここからはどうか、兄…知明さんの心のケアをしてほしい。
知明さんが心穏やかに過ごせることを願う。
やるせない渾身のドキュメンタリー、その冷たい怒りよ
タイトルの通りです、やるせなさの滲み出た、これ以上ないタイトルとノンフィクションの凄みですね
これは見た人の数だけ、見え方の変わる映画で、
まぁどの映画、この世の何を見ても、それはそのとおりなのですが
この映画は其れを最短距離で見せつけ、思い知らせてくれますね
これを記録し、公開しようというその覚悟が凄まじい
その根底にあるのは、冷たい、あまりに冷たい、絶対零度のような怒りなのでしょうね
20年間の苦しみがわずか3週間で解けてしまったことも、
父親も母親も結局は互いの所為にし、無責任であったことも、
とてもとても遣る瀬無いですよね
ラストの父親へのインタビューは、映画としては完全に蛇足なのですが
そこを淡々と問い詰める、レンズ越しだった監督の
剥き出しの怒りと、無念の結晶なのでしょう、
あれをあそこまで冷静に、声も荒げずに、問い詰め、表面化させたその執念、その愛、その怒り、その絶望に、ただただ絶句するのみです
姉上への愛は、確かにあって
其れは治療後の、そしてラストシーンとしてのエンドロールのあとの姉上のあの姿
あれこそが、監督の、本来あるべきだった、失われた家族愛に満ちた映像なのだと感じました
因みに、パンフレットを読むと、この遣る瀬無い気持ちは更に更に加速します
映画に乗せられなかった更なる事実が、我々を打ちのめしてくれます
こうなればよかった⋯
ドキュメンタリー映画は苦手です。
でも何故か導かれるように観てしまった。
ミニシアターは祝日で満席で追加の席もできていた。しかし見終わった後の沈黙は耐えられない気がして少しロビーの椅子に座り映画館を出た。
お姉さんが医学部へ進学せず、女性として仕事や結婚をしていたらどうなっていたのかなと勝手に妄想してしまった。料理の段取りなどを見ていると普通に暮らしていたのかなと⋯
普通に暮らしていても癌や病気にはなるしね。
家族の気持ちに感情移入はできなかったけれど、ラストシーンは妙に爽やかな気持ちになった。
母の実家は寺で祖父の弟(母にとっては叔父)が学年を飛び級するほど優秀だったがいつしか精神を病み、曾祖父はその存在をやはり隠していたのを聞いたことがあり、嫁いできた祖母がその存在を知りびっくりしたと聞いた。その時代なら尚更なのかと複雑な気持ちになった。その方の名前がとても良い名だったので忘れられない。
家族でこれからを考えるきっかけになった
間違った大人の判断によって、本来は戯ける一面もあった個性を閉ざされ、多くの時間を悶々と過ごすことになってしまったお姉さんのことを想像すると涙が止まりませんでした。どうしようもない状況に陥っていることに腹立たしく、社会は家族任せなのかと疑問に思いました。
お母さんは途中でポロッと“私たち親の責任だ”と言ってた時もありましたが、基本的には最後まで自分たちの間違いを認めず責任転嫁する姿勢であったことに衝撃を受けました。
しかし同時に他人事じゃないなとも思いました。社会の理解が広がってきている今の時代とは違い、分裂病の人が家族にいると周りから変な目で見られてしまい、それを避けようと娘を隠そうとしてしまうことは同じ人間なのでなんとなくわかります。ただ、大切な人の心身の健康が1番だし、それよりも大事なものが変なプライドとか見栄とかになってることに異常な状況であると危機感を抱きました。
また、お姉さんが神経質だったと聞きました。それもあり、医師を目指せという両親の無言の圧力を聞き入れてしまったのでは、医学部に進んだ後もストレスを抱え続けたまま親の期待に応えようとしてたのでは、と推測します。私も似たような性質を持っているので、他人事じゃないですし、これから私が発症する可能性も少なくありません。私には関係ないと考えを止めるのではなく、私もなるかもしれない、周りの人もなるかもしれない、その時にまずは恥じないで認めて適切な対応ができるように準備したいと思いました。
家族で考えるきっかけを与えてくださった、映画に携わった方々に感謝致します。
考えさせられた
身内だから撮れるし裁ける
親である人、親になりたい人は一度は見るべきドキュメンタリー
どうすればよかったか、その答えははっきり出ている。ただそれを出来なかった毒親とその犠牲となった姉と弟のドキュメンタリーだ。
医学部卒のエリート研究者夫婦と、優秀で面倒見の良い姉。
その姉が明らかに病気としか思えない症状を見せているのに、病気と認めず頑なに医師に診せることを拒んで南京錠で監禁する親。
しばらく実家と距離を置いていた弟が実家に帰るたびに説得するも、父親は母親の言うとおりにした、と逃げ、母親は「医者に連れて行ったら父親が死ぬ」と言って聞かない。世間体を気にするだけで姉のことも弟のことも思いやらず他責過ぎる両親。
弟が話しかけても姉は目の焦点も合わず明らかに健康ではない。髪もボサボサで身の回りのことすら出来ないのが見て取れる。
結局、母親に認知症の症状が現れ、夜中ずっと「暴力団が」「警察が」と支離滅裂なことを時間も怒鳴り続ける娘に老いた両親が自分たちで対応出来なくなってからやっと医者に連れて行く決心をする。
姉は良い薬が見つかり3ヶ月で退院。家事なども出来るまでに回復するが、最初に救急車を呼んでから25年が経っていた。
姉の失われた25年は戻ってこない。
どうすればよかったか、その答えははっきり出ている。最初からきちんと医療に繋げるべきだったのだ。そうすればもっと早い段階で回復し、自立し、就職し、家を出て、新たな家族を作ったり趣味を楽しんだり再度学問に励んだり自由に生きられたかもしれない。姉にはもっと豊かな選択肢があったはずなのだ。
それなのに90歳を過ぎて「もっとこうすれば良かったと思うことはないか」と弟が聞いても「失敗したとは思ってない」と平然と答える父親。姉の葬儀で「(娘は)充実した人生だったと思う」とも話している姿にはらわたが煮えくり返りそうになった。他人の親にここまで腹が立ったのは初めてだ。
もし統合失調症になったのが息子だったら、両親は殴る蹴るの暴行を受けたり、最悪刺されて殺されていたかもしれない。その方が良かったのかもしれない。少なくとも警察沙汰になればもっと早く医療に繋げられただろう。ステージ4のがんになるまえに見つかって処置がされたかもしれない。娘だからここまで長い間家に閉じ込められ、回復したと思ったらまだ若いのにがんで亡くなってしまった。
インディーズのドキュメンタリーにしては珍しく、昨年12月に公開されてから3月現在でも上映され多くの客が入っている。「失敗したとは思ってない」と答えた父親や母親の過ちが全国公開されているわけで、ある意味ではこれ以上にない両親への復讐になったのだと思いたい。そうでなければあまりに姉が報われない。
どんなに裕福で優秀で医学部を出た親でも自分の娘が精神の病であることを認められないクソな親がいるということを明らかにした点でこのドキュメンタリーは非常に優れているだろう
親である人、親になりたい人は一度は見るべきドキュメンタリーだ。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
姉の精神疾患の兆候が出たときに医師の両親が懇意の精神科医に診て貰ったが問題ないと、本作の監督である弟に説明したが、両親が姉の病気を隠そうとしていることに違和感を持ったことが、映像を撮るきっかけになった監督。
明らかに聡明で真面目だった姉は健全な状態になっていると言い難いのに両親が姉の疾患を頑なに認めようとせずに月日は流れて20数年、母親の認知症の進行と姉の状態悪化でようやく精神科へ入院する事になる。
本作はある種淡々と監督の葛藤を見せられて行くが姉と24時間接している両親はどのような思いで家族の時間を過ごしていたのだろうか?
本来決して体験する事のない他人の家族の問題をこうして映画として観た私はとてつもない重さで内臓が捕まれた思いだった。
ニーチェは言った『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
この映画を観た者もまたこの家族から問われている。(あなたなら)どうすればよかったか?と。
頼れる場を多く持つこと
私もどうしたらいいか分からない
4人の"統合失調症"という家族の物語
還暦祝いの赤い服を着たチラシ写真が気になって、本作を観ました。
監督自身は自分の事をあまり語らず、逆に いろいろと権威付けや肩書をも重要視する姿勢は、
研究医である父と、薬剤研究者である母と、入試・国家試験で挫折をした姉とみな同じで
4人は、紙一重でまったく同じ性格であると感じました。
すなわち この映画は 統合失調症である姉ひとりの長期間の記録映画ではなく、家族4人の記録映画でもありました。
また、同じ北海道ススキノホテル殺人事件であった「田村親子被告」とも、共通点があるとも思いました。
統合失調症(旧 精神分裂症)は、100人にひとり発症する"よくある病"だそうですが、
統合失調症というオブラートに包んだ名称にしてしまっている故
当事者家族でさえ、病に向き合う事に対して、思考停止になり
解決に向けての姿勢が出来なくなってしまっているのではないかと危惧しました。
僕もこの種の病症では、西洋医学的対処療法では、治癒は不可能だと個人的には考えており、
姉は、薬漬けになり 閉鎖病棟に閉じ込められてしまう方向に落ちていく事を想像しましたが、
3か月間入院して、薬剤療法の結果は予想外であり、澄み切った変貌ぶりは、たいへん驚きました。
この映画を観て、痛いリアルな現実を感じたのならば、ドキュメント作としては、リアル感が半端ない衝撃作「監督失格(2011年)」を観る事を勧めます。
論理的思考とは
いくら医者や学者であっても、人は全ての物事を客観的に見ることができないのですね。1980年代はまだ精神病が社会的に偏見を受けていたので、身内(娘)の恥を隠す行動はとても理解できました。
統合失調症の発症のメカニズムは分かりませんが、先天的であれ後天的であれ現実を認めることは容易ではありませんよね。その人間の心理を身内が主観的に撮影した作品だから、観客の関心をひくのだと思います。監督の苦悩を自分に置き換えることができる、、、今や国民的な疾患である鬱病や認知症でも似た様なことが起こり得るかもしれません。
他人のことは『ああだこうだ』好き勝手に言えますが、いざ自分がなってみたら客観的に物事を捉えることができるだろうか?事実を認めたくないのではないだろうか?
人間は論理的思考を完璧に習得するのは難しいかもしれません。
これは統合失調症の話ではない
観客を当事者にしてしまうタイトルの秀逸さ
タイトルを「どうすればよかったか?」とすることで、ほとんどの受け手は、映画を通じて見せつけられる、不運で不条理な出来事を自らの課題として考えさせられる。
正解の無いこの課題に、観客それぞれが自分の答えを出すということが監督が求めていることだと理解しました。
実態としては、自慢の娘が統合失調症になったことを恥じる気持ちがある両親が、娘の異変に気が付かないふりをして、異変が起きる前と同じような生活を娘や自分たち自身に強いていたというものだったと感じました。
家族全員が高学歴なので、交わされる会話は、ボキャブラリーに富んだものではあるが、何ら発展性のないもので、たくさんの音をやり取りしているに過ぎないのは、シュールなコントのようでした。
一言で言えばハイソサエティーなネグレクトです。
発症から20年以上を経て標準治療を受けるようになり、会話の体をなすようになった娘の様子を見ると、両親のせいで発症後の可能性を根こそぎ奪われてきたんだなと悲しくなりました。
家庭で起きた問題を家庭内に閉じ、社会化できないと、このような悲劇を生むことがいくつもあります。
自分だけでは解決できないことがあることを悟ること、適度に他人に頼ること、自分はそう考えて対処しようと、改めて思いました。
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