「突然に淀んでいく日々の中で」どうすればよかったか? 木下芙蓉さんの映画レビュー(感想・評価)
突然に淀んでいく日々の中で
統合失調症で別人のようになったまま亡くなったお姉ちゃんのお葬式で、まだ健康な医大生だった時分に彼女が執筆し、未完のままだった論文を、「天国で続きを書けたらいいね」とつぶやきながらお父さんが棺桶に入れる。それに対し、弟(監督)が「本人が書きたかったらね」、傍で親戚のおばさんが「『もう勉強は嫌!』って言うかもねえ」と話す。このシーンに親のエゴと歪んだ期待、そして確実な愛情、さらに第三者の目線が詰まっていたように思う。
優秀な研究者だった両親からしたら、優秀な研究者になることは、イコール生き甲斐のある幸せな人生(自分が体験したから間違いない!)で、そこに何の疑いもないからこそ、姉を閉じ込めた行動は「私たち親が、娘の一時の不調をなきものにしてあげられれば、いつかまこちゃんは元通りになって優秀な研究者になって幸せな人生を送れるはず」という善意から始まった行動だと感じた。
そこに体裁を気にする思いもあったかもしれないが、まず第一に娘のことを考えた末の行動だったのではないか。親が子にかける気持ちというのは「体裁を保つ」という一言で片付くような、そんな単調なものではないと思うから。しかし、いつからかその行動の取り返しがつかなくなった末の「どうすればよかったか」。
これまでずっと優等生だったお姉ちゃんが、大学生活の中でつまづいた後に発病。「自分はいかに優秀な人間か」をしたためた手紙を、大学に何通も送りつけた話と、お母さんが亡くなった際に親戚のおばさんがインタビューで話していた「まこちゃんは賢くて天使みたいな子。お勉強をすごく頑張ってた」という言葉が、すごく重かった。親だけの望みではなく、お姉ちゃんにとっても、研究者になる将来はきっとかけがえのないものだったはず。親戚のおばさんが「自分は外野で何もできなかった」と語る言葉で、他人が考える「幸せ」と、お姉ちゃん、そして両親の考えていた「幸せ」の温度差をありありと感じた。
晩年、投薬により少しだけ症状が落ち着いた?お姉ちゃんが、カメラを向けられておどけてピースしたりポーズ取ったりする。優しくて、面倒見が良くて賢くて、優等生をつらぬいたお姉ちゃん。統合失調症を発病しなかったら、どんな人生を生きたんだろう。
映画の中に、まだ子供だった頃のお姉ちゃんの写真や動画もたくさん出てくる。失礼ながら、もう「中年」と呼ばれる年齢の監督が、家族を「パパ」「ママ」「お姉ちゃん」と呼ぶのが、この4人は温かな家族だったことを示しているようで、まるで自分も家族の一員のような追体験をさせられた、苦しくて悲しい101分だった。