どういう風に町を映像化するのか、
村全体の描写はどうするのか・・・
会話は、、、
出会う人、、、人は、、、
どこかマコンド村と似ている、
コマラの村。
まずは山から見た小さな街の家並みを、
うっすらをVFXで描く・・・
「百年の孤独」ガルシア・マルケスと、
共同で映画のシナリオも書いているフアン・ルルフォ、
マルケスとはちがい、
裕福な家庭に生まれるが、
メキシコ革命によって親の資産は奪われる、
そんな視点からも書かれている本作、
そして育ちの違うフアンの、
「百年の孤独」とはアプローチが違う、
マジックリアリズムの古典、
「ペドロ・パラモ」の映画化だ。
マジックリアリズムの映像化のひとつの形でもある。
コクトーの「オルフェ」風でもなく、
タルコフスキー風でもなく、
「フロム・ダスク・ティル・ドーン」的というか、
「砂の女」風か。
あくまでもリアリズムベース、
空の表現、
土や大地の描写は大きいスクリーンで観ることを意識して、
製作した気配もある。
メキシコ革命という歴史的な背景を持つ本作「ペドロ・パラモ」において、
政府側の論理、
革命軍の感情、
教会の理性、
それぞれの正義を描き出すことは、
作品のテーマを深く理解するために不可欠だ。
これらの勢力が、
どのようにペドロや、
村の人々の生活に影響を与え、
それがどのような悲劇を生み出したのかを、
映像で明確に描くことが重要だ。
そのあたりの描写が甘いと言わざるを得ない。
それが原作のように描けていれば、
ロバ飼いや物乞いといった人々が持つ、
現実的な視点と、同時に、
不思議な力に対する信仰心との共存は、
【マジックプラグマティズム】とも言える造語で説明する事も可能だ。
この概念を、映像の中でどのように表現するかが、
作品を地に足の付いた深みを決定づけていたといえるだろう。
シュールを超えた、マジックリアリズム、
「リメンバー・ミー」と、
通底する事もある。
もう少しで、
またしても南米リアリズムを叩きつけられそうだったが、
ひと手、自分には物足りなかった。