名もなき者 A COMPLETE UNKNOWNのレビュー・感想・評価
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孤高の人
知らないもので…
ボブ・ディランって、上の世代の方はファンも多いけど、私にとっては「伝説のシンガー」的な印象で止まってる感じ。
世代のせいにするつもりはもちろんなくて、私の不勉強と不見識のおかげで、彼の楽曲というと「風に吹かれて」と「ライク・ア・ローリングストーン」くらいしか知らないし、どんな人だったかも全く知らない。
そんな私の感想だとご承知おきください。
正直に申し上げて、全然おもしろくなかったな。
彼を好きになる女性たちの気持ちも分からないし、彼が考えてることも分からない。
歌詞の意味もピンと来ないし、観客や彼の周りの人達の感情もよく分からない。
まあ、私の知らないことが多いってのがそもそもの原因なんだろうから、あらためて識者の解説などを見て、再度映画を振り返ることにします。
ティモシー・シャラメの演技は良かった。ボブ・ディランをちゃんと知らない私が「ああ、こういう人だったんだろうな」って納得できるくらいだから。
なにかひとつくらい
シャラメが単なるモノマネでなくディランを演じる。
見た目がソックリって訳じゃないけど、こんな風にチャーミングだったんだろうなと思わせるし、歌声やギター演奏はかなり良い線行ってる。
物語の芯もしっかりしてて凡百の伝記映画とは違う。
自由に生きることと、他人が押しつけるイメージに逆らって生きること、音楽に対するのとは裏腹な女性の扱いの酷さ、それらすべてがシャラメのチャームでこんな風にディランは魅力的だったんだろうなと思わせられる。
ニューポート・フォーク・フェスティバルの演奏シーンは日本的な文脈におけるフォーク(米国の初期フォークは民謡(フォーク)収集の文脈が強く、かなり教条的だったらしい。それで衝突するシーンもかなり…)やロック、パンク的に反体制的なカッコよさがあった。
名匠ジェームズ・マンゴールドの腕も冴えわたる傑作。
なにかひとつくらいオスカーあげても良かったのでは…?
転がる石の始まり
歌がいっぱい♪
ボブ・ディランの世代ではないけれど、ボブ・ディランやジョーン・バエズは歌も人物も超有名なので知っていました。
ボブ・ディランがどういう風な音楽人生を歩んだかが、周りの人たちとの関係も含めて分かったし、音楽史に刻まれるボブ・ディランがエレキギターで歌った日!?の経緯や、当時のフォークソングの成り立ちも知れて、収穫だったかな。
当時のアメリカの政治状況とかも。
何より沢山のディランとバエズの曲を聴けて嬉しかったです。
有名で好きな歌がいっぱいでした。
ティモシー・シャラメは可愛くて、キャスティングは一寸違うかな!?とも思いましたが、頑張って演じていたような気がします。
ジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロは本人が歌っているんだよね?
声が美しくて歌が上手くてビックリしました。
音響の良い映画館で観るのが良いですね~音楽の映画は!
圧倒的な煌めきの隅と裏にいる人々
ボブ・ディランのNY進出から、デビューとブレイクを支えた人々と袂を分かつまでの約5年を描く伝記映画。
ボブ・ディランという名前が大きくなるにつれ、彼と楽曲を型にはめようとする周囲とディランとの摩擦が激しくなる様を物語の縦軸としている。対してディランは、駆け出しの頃からアーティストも楽曲も特定のジャンルに分類することをナンセンスだと語り、見聞きしたものや感じたものをスケッチするかのように常に譜面に向き合う、感性に従順で自由な点において不変のアーティストとして描かれている。
正直、ディランファンでも当時のリアタイ世代でもない自分には、実話エピソードの解釈の新しさや、なぜ今ディランの早期だけを描いたのかはわからなかった。商業主義に己を歪められそうになるアーティストの物語はフィクションにも伝記にもドキュメンタリーにも沢山あり、そこへの新しさは感じられなかった。
ただし、本作で両者の軋轢を深めた背景の一つである、作品に検閲が入ったり、聴き手が楽曲に社会問題を投影したり、ポップカルチャーでさえ派閥を謳って縄張り争いをしなければならない60年代アメリカの世相は興味深かった。冷戦の戦線拡大や公民権運動等の社会問題が、個人に対し愛国心や主義主張を明確にすることを迫る状況は、現代において人々の暮らしや社会活動に対し、特定の主張の有無に関わらず男女平等やポリコレやマイノリティ保護に対するチェックが行われる風潮を思い出した。
また、ディランを取り巻く人々が、不満を抱えてステージに上がるディランのパフォーマンスの行方をハラハラしながら見守る様は、お仕事もの作品として見ると緊張感が増す。
ある一人の煌めく存在へ、共に歩んでくれない相手だとわかっていても近寄らずにはいられない周囲の群像を描いた作品だったように感じる。本作のディランの、全てを惹きつける人物とも言うべき設定に異議を挟ませない圧倒的なパフォーマンスを披露したティモシー・シャラメ氏をはじめ、アーティスト役の俳優陣が見事だった。
あらゆるジャンルを超えた最高の映画
映画鑑賞後、Sony Music Japanの名もなき者公式予習プレイリストでティモシー・シャラメの映画での歌声とボブ・ディランのオリジナル楽曲を聴き比べしながら余韻に浸っております。
あらゆるジャンルを超えた最高の映画でした。私のベストムービー入りです。オスカーは無冠でしたが、私が審査員なら作品賞、監督賞、主演男優賞賞などすべてトップで推します!
ティモシー・シャラメは5年半をかけボブ・ディランの歌と演奏のパフォーマンスを自分のものにしたとの事だし、モニカ・バルバロもジョーン・バエズになっていた。2人のデュオがいくつも出てきたがその度に痺れたし、初めて「風に吹かれて」を自室でディランが歌った時バエズが追っかけて歌いハモるシーンに鳥肌がたった。スタジオで演奏してた「追憶のハイウェイ61」のディランが吹くあの笛の音や「ライク・ア・ローリング・ストーン」でアル・クーパーが弾くオルガンの高いキーの音など一音で強烈に響くシーンも感涙ものでした。ニューポート・フォーク・フェスティバルでフェンダーのストラトキャスターをかき鳴らし叫ぶように歌うシーンを筆頭にすべての場面で最高のパフォーマンスを観て、聴かせてもらいました。
スージー・ロトロ(映画ではシルヴィの名)との出会いと別れの物語は切ない青春物語だったけど、彼女の気持ち(ディランが遠い存在になっていく)もわかるし、音楽の世界の虜になり彼女だけを見ていれないディランの気持ちわかる。でもディランを社会に目を向けさせたのは彼女であることは紛れもない事実。エル・ファニングには助演女優賞を与えたいと思う。
公民権運動、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺など60年代前半のアメリカの背景を差し込みながらも世の中は確実に豊かに向かい、人々が希望に満ちていた頃。日本も同じだったのではと思います。だから、映画を観ていてとってもいい気分になれたのかなぁ、。
タバコを吸う姿がかっこ良
「天才」の孤独を、周囲の「凡人」の視線の集積によって逆照射する、すぐれた音楽映画。
エンドロールのおしまいに流れてきた、
「これみよがし」な楽曲紹介に思わず笑う。
大量に流れてくる楽曲名の最終行に、ぜんぶ
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
「パフォームド・バイ・ティモシー・シャラメ」
って……(笑)。
あと、たまに
「パフォームド・バイ・モニカ・バルバロ」とか。
要するに、この映画って、歌も演奏も全部「俳優が自身でやってる」んだよな。
しかも概ね、生録りらしい。
それって、すごくない????
パンフによると、コロナとストがあったせいで5年近く撮影が延期されている間に、出演者が猛特訓して、やったこともなかった楽器や歌をマスターしてきたらしい。
ライブシーンを音は後入れでやろうとしたら、ティモシーが「なんのために俺が5年間練習してきたと思ってるんだ、このときのためなんだよ」って、生録音を希望したんだってさ。
やっぱり、ハリウッドの最前線でやってる連中ってのは、モニカ・バルバロやエドワード・ノートンも含めて、モノが違うなあ、と。
ポテンシャルとか、モチベーションとか、目標設定とか。
ただただ、頭がさがります。
― ― ― ―
正直、観る前は、自分にこの映画が愉しめるのか、あまり自信がなかった。
その1。ボブ・ディランに興味がない。
もともとクラシック9割、あとはシャンソンとシナトラ周辺を嗜む程度で、カントリー/フォークにはまったく関心がなく、ロックはツェッペリンとクイーンとプログレくらいしか聴かない人間なので、ボブ・ディランの楽曲全般にピンとくるものがあまりない。
あと、プロテスト・ソング自体、痛々しくて肌に合わないのでめったに聴かない。
なので、出てきた楽曲で聴いたことがあるのは、ボブの代表曲数曲と、あとは「朝日のあたる家」くらい(これ、おんなじことを『PERFECT DAYS』の感想でも書いたなw)。
知ってる人名も、ジョーン・バエズ、アル・クーパー、ジョニー・キャッシュくらい。ジョニー・キャッシュはカントリー歌手としてではなく、「刑事コロンボ」の「白鳥の歌」で犯人役をやっていたから知っているだけである。
その2。ティモシー・シャラメが、あまりかっこいいと思えない。
いい俳優だとは思う。凄い才能だとも思う。でも、顔が苦手(笑)。
なんか、DeNAのバウアーみたいな顔してるし。ちょっと目つきが橋本真也みたいだし。
個人的にはアラン・ドロンや岡田将生のような美形か、リー・ヴァン・クリーフみたいな渋めのおじさん俳優が大好物で、この手の二枚目の「変化球」に即応できないタイプ(だから韓流男性歌手の大半も全く受け付けない)。
その3。『ボヘミアン・ラプソディ』が全く肌に合わなかった。
すべての演出がトゥーマッチで、説明過多で、個人的にはただただ気持ちの悪い凡庸な映画にしか思えなかったので、世間的に大評判になっていて、大きな疎外感を感じた(笑)。
とくにラストライブでカメラをぐるぐる回したり、いちいち泣いてる家族のアップをインサートしたりするのにはさぶいぼが出た。あれがいいってやつは、月9でも観ていればいいとマジで思う。
なので、僕には『名もなき者』はかなり「ハードルが高い」かなと警戒していた。
でも……、いざ観たら、とても面白かった!
ふつうに楽しいし、演出は王道だし、とても映画として「ちゃんと」していた。
なにより音楽映画として、きわめて高い水準の音楽性をクリアしていた。
別にこれを観て、ボブ・ディランのことが好きになったとか、曲を聴いて胸がふるえたとかは残念ながらあんまりないけど、ちゃんとボブ・ディランとティモシー・シャラメの「本気」はビンビン伝わってきた。
おっかなびっくりだったけど、観に行って本当によかった。
ジェームズ・マンゴールド監督の名前は記憶になかったが、後で確認したら、あの本格ミステリー系どんでん映画の名作『アイデンティティー』の監督ではないか。『インディー・ジョーンズと黄金のダイヤル』も、クソミソに叩く声も多かったが個人的には★4.5をつけるくらい楽しめた快作だった。
なるほど、この監督なら「ちゃんと」撮れる人だよな、と腑に落ちた。
― ― ― ―
なにが「ちゃんと」しているかというと、
無理に感動させようとか、盛り上げようとか、
そういう姑息なことを考えていないのが良いのだと思う。
この物語では、60年代前半のボブ・ディランのデビューからロック転向までの5年程度を描いているが、そこに「成り上がり」ストーリーとしてのギラツキや、世間の狂奔はあまり感じ取れない。
つねに、ボブ・ディラン個人と、その周辺にいた人々の目に映る「私」の部分にのみ、焦点が当たっているからだ。すなわち「公」のボブを語ろうとしていない。
「外から」観れば、ヒットチャートを駆け上がり、政治的時代の寵児として君臨したライジングスター、ボブ・ディランを描くなら、もっと描くべきことがたくさんあるのかもしれない。ラジオ出演とか、大観衆を前にしたライブとか、全国ツアーとか、世界ツアーとか。あるいは、彼の政治的な発言とか、公民権運動とのかかわりとか。
でも、この映画では、そういったシーンは極力抑えられる。
かわりに、
●部屋で恋人と過ごすボブ・ディラン
●部屋やスタジオで作曲するボブ・ディラン
●中規模のホールやフェスで演奏するボブ・ディラン
●スタジオで録音するボブ・ディラン
といった、ボブ自身の視点、もしくはボブが連れてきた恋人や友人の視点から見える範囲でのナラティヴに終始していることがわかる。
一瞬、ドキュメンタリー映像のような形で、公民権デモの大観衆のただ中で歌う「ヒーローとしてのボブ・ディラン」が映り込むが、引きで撮った遠望の短いショットに過ぎない。映画が「こういうボブ」からは、あきらかに「距離を取っている」ことが伝わってくる。
(そしてそれは、おそらくジョーン・バエズほどには「骨の髄からの社会運動家」だったわけではなく、あくまで「素材」として政治を歌っていただけだった、ボブ・ディラン自身の政治との距離感でもあるような気がする。)
本作でのボブ・ディランは、
おおむね歌っているか、曲を作っている。
それを身近な誰かが見ている、聴いている。
羨望や、憧れや、妬みや、諦めを胸に秘めながら。
基本的に、この映画はその積み重ねで構成されている。
だから、誇張がなく、内省的で、インティメットな映画になっている。
― ― ― ―
『名もなき者』は、どこまでも「視線」の映画だ。
そして、同時に常に「聞き耳を立てている」映画だ。
誰かが、誰かを見つめるとき。
誰かが、誰かの演奏を耳を澄まして聴くとき。
そこには常に、相手への愛情や友愛の感情とともに、批評的観察や、お互いの優劣を見極めるライバル心が絡んでくる。
見つめること(聴くこと)は、常に二者間の闘争の行為でもあるのだ。
最初のころ、舞台袖で羨望を秘めた眼差しをピートやジョーンに向けているのは、ボブのほうだった。歌に関しても、序盤は人の曲を聴いたり歌わされているシーンが多い。
そこから、オリジナル曲が次第に増えていく。作曲と、録音という、地道な「曲を増やす」作業が何度も何度も丁寧に描写され、やがてボブは完全に自身のオリジナル曲「だけ」を歌う歌手になり(これは当時のフォーク界ではむしろ稀なことだったらしい)、ついには「自分の過去の曲」すら歌わなくなる。
ジョーン・バエズとのデュエットでも、歌うのはボブ作曲の曲になり、いつしかボブの歌を「舞台袖」から羨望の眼差しで見つめるのは、ジョーンのほうになる。
恋人であるシルヴィの、歌うボブを見つめる眼差しも、ボブの出世と交友関係の広がりを受けて変化せざるを得ないし、師匠としてボブを世界に引き出したピート・シーガーが彼に向ける眼差しも、優劣の逆転とともに変化していく。
この「視線」に関して、監督が面白いことを言っている。
「周囲の人々を描くことによって天才とはどういった存在かを理解しようとしている。また、天才を描く方法として私はそういうやり方しか知らないとも言える。(中略)周囲から向けられる視点や感情を描いて、天才の内面を想像させるやり方が、映画として有効なんだ」
さらに続けて、彼は師匠であるミロス・フォアマンの『アマデウス』を引き合いに出す。
要するに、「天才」は「天才」であるがゆえに、凡人にその内面を描くことはできない。
かわりに、その「周辺の人物」の想いを多面的に描くことで、いろいろな方向から天才に光を当て、「外から」立体的に把握しようと試みている、というわけだ。
「立ち位置」と「視線」によって演出を微細に組み立てていく手法は、カール・テオドア・ドライヤー以来の「映画の骨法」でもある。そこが「ちゃんと」しているからこそ、『名もなき者』は140分、ボブ・ディランの5年間を見せて、ぶれない。ゆるがない。
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音楽映画としての完成度も、十分に高い。
代表曲と画期となる曲の大半をしっかりかけて、詰め込んだ印象になっていないのは、構成の妙といえる。
きちんと全身を映したあと、右手と左手のアップをしっかり見せて、本人が細かい手技まで駆使して演奏していることを強調している点や、必ずしも「歌マネ」をさせていない点にも、制作陣の見識が感じ取れる。監督いわく、「細部を忠実に丁寧に演じる、描くことによって真実が宿るというのがジョニー(・キャッシュ)からの教えで、今も忘れずに守っているよ」とのこと。とくに、当時の録音ブースの再現には力を入れたという。
細かいといえば、「客の反応」の描き方も細かい。
たとえば、終盤のあの有名なライブのシーンで、フォーク寄りの観客がモノを投げたりして反発を見せるのは確かなのだが、結構な観客が手を叩いて喜んでいるのが生々しい。ロック・パートの最後の曲近くになってくると、意外なくらいの数の観客がタテノリしながら曲に興じている様子を、ちゃんと描写しているのだ。
ピートが斧を見て妻のトシに制止されるあたりだけは、僕には演出過剰でちょっと気持ち悪かったが、総じて「無理やり感動させようとしない」抑制された演出が功を奏していたと思う。
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以下、雑感。
●ボブ・ディランの女捌きがひどい(笑)。
ジョーン・バエズにしても、スーズ・ロトロ(映画では、ボブ・ディラン本人の要請によって名前をシルヴィに変えられている)にしても、もう少しくらいちゃんと扱ってやればいいのに。なんか、ちょっとカミーユ・ビダンみたい……。
●エドワード・ノートンの、ピート・シーガーへのなりきりぶりが素晴らしい。体じゅうから慈父のような良い人オーラが出ているし、出だしの包み込むような愛情と、終盤の焦りを含めた劣等感のギャップが、視線と表情だけで巧みに表現されている。
この人、スケジュールの都合で降りたカンバーバッチの代役だったんだってね!
●車の窓に自作の絵を押し付けてくる女とか、バーで「ファッキン本物がいる!」って叫ぶ女とか、ポイント毎に挿入される「追っかけ」の描写がこわい(笑)。スターと大衆の心理的距離が今より遠かった代わりに、SNSなどで頻繁に交流できないぶん、「生で会う」ことの衝撃性が段違いに強烈な時代だったんだろうなあ。
●僕は未見なのだが、『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』でのホアキン・フェニックスの演じたジョニー・キャッシュと、この映画のボイド・ホルブルックのジョニー・キャッシュって、演出的に共通点とか整合性とかあるんだろうか?
●パンフを読んでいたら、宇野惟正がマンゴールド監督の、こんな発言を引用していた。「自分の映画の主人公は大体、天賦の才の持ち主で、それが仇となって周囲と軋轢を生み、孤立していく人間なんだ」
こういう、「どういう人物像を撮りたい」という核となるものが明確にある監督だからこそ、逆に音楽映画、サスペンス、西部劇から、マーベル、インディー・ジョーンズまで、あらゆるジャンルで仕事ができるんだろうな、と思った。
魂が震える
60年以上前の擬似リアルを少しは追体験できたような気分になれました
学生時代によく聴いた曲ばかりで、思わず声を合わせていました(半径10mに他客がいなかったことは確認済) ‘78年の武道館=初来日で梯子を外されて以来45年!も封印してきたのに意外に覚えているものだ まるで劇中のNewportFesの客席にいるかのような140分で、十分に鑑賞料金のモトは取れましたね
でもこの作品では当時のDylanの心情をなぞることまではできない それどころかDylanの心理・心根をしみじみ映し出すシーンも皆無(滑り出しのデビュー前ではfolkという音楽形態には拘らないとは言っているけど、ホンマでっか?) 果たして当時のDylanがここまでノンポリだったのだろうか プロテストムーブメントには百%ビジネス的関わりであったかのような描かれ方(今ではユダヤ教に帰依、イスラエル支援者だと聞くけど)
デビュー当時の恋人Suze RotoloがSylvie Russoの別名で出てます 他には実名ばかりなので何かありそう 演じたは『I am Sam』のDakotaの妹だったんですね、似てる 劇中一緒に観た映画のBette D.の台詞で決別するのだが、本来なら“Ballad in Plain D”が劇伴挿入されるべきなのにな←歌中でParasite sister(寄生する姉)とされたSylvie/Suzeの姉も数度顔を出したが、それっきり この別名キャラ導入事由と共通事情なのかも 恐らくJoan Baezに関しても完全な事実との齟齬がありそう
Fes前からPete Seegerら運営陣はDylanがアコギとエレキGどっちを使うか気を揉んでいたが、エレキの持ち込みを許し、ステージでもアンプからプラグは伸びており、客席からも”Mr.Tambourine Man”をねだる声も多かったわけだし.....結果、Peteはうちのめされ、袖のPete奥さんToshiが微妙な表情を見せるカットもあって.....演出ありきなのか、正しく全貌を描き出してはいないようだ そもそもDragの存在を黙殺していては真実に辿り着けまい
でも古きを懐かしむ音楽イベントとしては大いに楽しめたので、個人的には無問題とします
興行的には大丈夫かな?
フォークからの自由
Bob Dylanといえば、ガロの「学生街の喫茶店」
あまり響いていこない…
フォークにはまらず
バエズの歌声が素晴らしい
I-MAXで見るべき作品です。1960年前半のディランを当時の音楽、社会、世界情勢などを含めて描かれています。キューバ危機、ケネディ暗殺、ベトナム戦争の時代の中でディランの人間性が作られて行き、フォーク、ゴスペル、ブルース、カントリーなども含まれているディランの音楽が生まれます。映画の中のディラン、ピート・シガー、ジョーン・バエズ、ジョニー・キッャシュ達の演奏は本人よりも出来が良いのでは?と思う程です。ビートルズ、キンクス、PPM、マリア・マルダー等の名前も絡めて当時の雰囲気が完璧に描かれていました。また、ディランとキッャシュが麻薬中毒を思わせるシーンも有ります。コロナ禍とストのため撮影がストップして完成までに5年かかり、この間ギターを猛練習して映画の完成度は上がりました。アカデミー賞は受賞できませんでしたが、バエズ役のモニカ・バルバロの演技と歌声は最優秀助演女優賞の価値があると思います。続編で、ザ.バンドとのベースメントテープ、プラネットウェイブ、全米ツアーまでが同じキャストで作られたら嬉しいです。
シャラメディランが素晴らしい
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