「リベラルに捧げるレクイエム」名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
リベラルに捧げるレクイエム
2025年のアカデミー賞にノミネートされた作品の多くが、トランピアンとリベラルの分断から派生した政治問題をテーマに選んでいた。ボブ・ディランのバイオピック(伝記映画)だとつい勘違いして敬遠していた1本なのだが、配信開始となった本作を見てビックリ仰天。時代の変化を敏感にかぎとった曲が次から次へと大衆のハートをつかみ、頂点を極めたシンガーソングライターの目を通じて、監督ジェームス・マンゴールドが本作にこめたメッセージがきわめて政治的だったからである。
病に倒れたフォークシンガーウディ・ガスリーを訪ねてはるばるミネソタからニュージャージーにヒッチハイクしてきたボブ・ディラン(ティモシー・シャラメ)。入院先でプロテストソングのパイオニアとして知られるフォークシンガーピート・シーガー(エドワード・ノートン)と運命的に出会い才能を見い出される。この人、ハーバード大学中退の学歴をもつバリバリのリベラルで、反戦や核軍縮、公民権などの政治運動にも積極的に関わってきたコミュニスト、オバマ大統領就任式にもお呼ばれされたほどの。
1961年から1965年までのアメリカの歴史イベント(公民権運動→ベトナム戦争→キューバ危機→ケネディ暗殺)を織り混ぜながら、その時々に生じた大衆の不安や怒り、悲しみといった心理を歌詞に変えて大衆に受け入れられていく様子を、映画は丁寧に描き出していく。すっかり有名になったディランの歌が、いつしか大衆迎合的なプロパガンダ装置の中に組み込まれていきそうになると、ピート・シーガーが主宰するニューポートのフェスティバルでディランは“クーデター”を起こすのである。
エレキギターを使ったディランのギグに賛否両論の反応を示す観衆は、まさにトランプかハリスかで真っ二つに割れた2024年のアメリカ大統領選挙そのものだ。ギグの直前ザ・リベラル代表のピートがディランに対してこんな要求をする。「傾いたシーソーが水平(リベラル)になるように、みんながスプーンをもって集まる伝統的なフォークフェスだ。正義のスプーン、平和や愛のスプーンやいろいろだ。そこに君がシャベルを持って現れたおかげで目的に一気に近づいた。今夜君がステージに立ってシャベルを正しく使えば(社会を)ひっくり返せる」と。言い換えると、[名もなき者の代弁者]であったはずのディランに[社会全体の代弁者]として正しく振る舞え、ということなのである。それはまた、聖者を気取る“神(シーガー)”とその子供“イエス(ディラン)”の関係と相似形なのだ。
吹き替えなしで歌い上げたシャラメの歌唱シーンばかりが注目されがちな本作ではあるが、それと並行して、シャラメ演じるディランが舞台袖で他の歌手を観察するシーンが非常に多いことに気づかれることだろう。本作は、リベラルの牙城であったデモクラッツ(民主党)が、いかに“立て直さなければならない”ほど民衆の支持を失い凋落せざるをえなかったのかを、観察者ボブ・ディランの唄にのせて語らせた1本だったのではないだろうか。
映画はラスト、アコギ(タンブリンマン)ではなくエレキ(ライク・ア・ローリング・ストーン)を選んで熱唱するディランは、ピート以下フェス主宰側の態度の中に、必ずしも民意を反映していない押しつけがましい偽善を見抜き反乱を起こすのである。浮気相手兼シンガー仲間のジョーン・バエズ(モニカ・バルバロ)がWokeな昔の歌(風に吹かれて)に固執し、恩師ピート・シーガーが教育番組の司会者をつとめ体制に飼い慣らされていくのとは対照的に、“自由”を求めたディランは一人バイクを走らせるのだった。
気をつけろ聖者が通る
もうおしまいなんだベイビー・ブルー(民主党?!)
『イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー』より