「神様の伝記映画としては最高最適なレベルなのに、見えないのです本質が」名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
神様の伝記映画としては最高最適なレベルなのに、見えないのです本質が
ミュージシャンの伝記映画が続々と登場、フレディ、エルビスと秀作が続き演じた新人(中堅)役者も大ブレイク。で、ついにはフォークの神様かつノーベル文学賞の授賞者であるボブ・ディランの登場と相成った。しかしレミ・マレックやオースティン・バトラーと異なりディランに扮するのが現時点でハリウッドにおいて人気・実力・興行力ともにトップのティモシー・シャラメが演ずる点が大きく異なる。そして案の定の完璧なディランの造形に唸るしかない程。アカデミー・主演男優賞も相当に濃厚と思われる会心の演技でした。
もちろん、レミ・マレックやオースティン・バトラーも相当の力量を見せつけてましたが、当然にご本人とはかなり違うのは当たり前。でも、それだからこそ描くべきご本人のエッセンスを際立だせたのは確かです。逆にシャラメ版はあまりに似すぎて、ルックスはかなり異なるもののトータルの造形が凄過ぎて、描くべき対象とならないのです。まるで再現ドラマか過去の映像の如く、そこには第三者の視点が入り込めないのです。
聞けば、コロナにより撮影延期のために、あの人気大スターがたっぷりと時間をとって猛訓練をしたとか。その成果は歌唱からギター演奏、そして動作のクセまでの完成度に結実して、演技賞はとって当然の見事さ。でも作品に求められるのは WHO IS Bob Dylan なわけで、その肝心が見えないのです。贅沢な悩みと言えばその通りですが。
なにより正統派的監督に徹したジェームズ・マンゴールドに瑕疵はない。60年代の激しすぎる世相を織り交ぜ、巷有名なエピソードをもれなく取り上げ、そつなく仕上げた。しかしジョーン・バエズと恋人シルヴィの曖昧な関係性から、人気者になってからの世間が求める姿と自らの想いとの乖離と、肝心な要素がどうにも伝わらないのです。クライマックスとなった1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの「エレキ転向」はまさに事件で、すぐさま日本にも伝わり大騒ぎだったのを少年だった私は覚えてます。
もとよりディランは天才によくみられる通り、周囲に関心はなく、彼の心の想いのままの歌詞も全く文学なんて次元では考えてなく、勝手に周囲がそうゆう風に見てしまっただけでしょう。だからフォークのプリンスなんて称号は有難迷惑でしかないはず。ライブでレコードで聞けるヒット曲なんか演奏したくないって言うんだから、彼の天才思考と観客の凡人思考の祖語は明白。本作でも描かれる通り、担当プロデューサーがコロコロ変わるのも理解できます。
時代が変わる節目を唄い、それによってムーブメントが起こり、本当に時代が変わってゆく。そこには批判的視点が必ず在り、プロテストソングとも言われた。先日のホワイトハウス内でのゼレンスキーに対するクソ・トランプと低能・バンスによる醜態を見れば60年代以上の危機的状況が明白。ディランのような吟遊詩人が登場すべき時のはず。
ヒット曲ほぼ網羅の音楽映画としてはこれ以上望めない程の作品なのは確か。エドワード・ノートンが嘘でしょのレベルで見事な歌唱をすれば、モニカ・バルバラが雰囲気たっぷりにご本人以上に上手に歌われ見せ所たっぷり。それにしてもエル・ファニングの佇まいは、流石のスターの貫禄でますます好きになってしまいます。60年代の再現に相当の金を使っているでしょう、ニューヨークの街並みはさてロケなのかオープンセットなのかわかりませんが、通りを横切るだけのシーンで数多の60年代要素が画面に入り込む映画的興奮を得られます。
さて翻って、タイトルが「名もなき者」 A COMPLETE UNKNOWN ってのが曲者ですね。原作は2015年のノンフィクション本「Dylan Goes Electric!」邦訳題「ボブ・ディラン 裏切りの夏」となっているのに何故なんでしょう。彼の全楽曲の著作権を取得したのがユニバーサル、今後の新曲を含むディランの全楽曲の原盤権を取得したのがソニー、なのに本作はディズニー傘下の20世紀スタジオのアート系のサーチライト作品ってのも判りませんね。23年にも日本公演をされたご本人も本作の出来に満足のご様子とか。いや、ご本人が怒り出すくらいの脚色がされた方が映画としては面白いのですがね。
マンゴールド監督も、名も無き者として撮った様な気がしました。だからディランの苦悩を、何か外から観ていると言うか、ドキュメントぽいと言うか。周囲の苛立ちも割合あっさりの描き方で観易かったですが。