「会いたくて震える伊東蒼 勝手にふるえてろと電灯を見上げる萩原利久 泣いて震えた河合優実」今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は YYYさんの映画レビュー(感想・評価)
会いたくて震える伊東蒼 勝手にふるえてろと電灯を見上げる萩原利久 泣いて震えた河合優実
とても自由な映画である。そしてとても狭い映画でもある。爽やかなタイトルとキャスト原作者の印象によって裏切られる、ハードな映画である。
耳をつんざくような雨の音と共に作品が始まる。音の映画なのだろうか…と、背中をとらえた二つのショットのうち女性はヘッドホンをしている。おや、彼女には聞こえていないのか…。雨音が若干ぼやける。ん…これはこのどちらかの聞こえ方なのだろうか…そしたらそれはヘッドホンをしている女性なのか…
こんな感じで雨と背中と男女が提示されると、すぐに晴れのなかキャンパスで傘を差して登校している男性の顔が映される。背中の男性が顔と結びつくことで安堵を覚える一方で、傘を差していることでつながられるシーン同士を紐づけられないことと、周りの学生が彼の奇妙な行動に注意を注いでいないことに首を傾げる。
そんな観客を気にも留めずに、ジワジワとしたズーム、オノマトペ的独白、テンポ重視にカッティングすることで作品固有のリズムを早々に獲得しながら、背中の男女が互いを認識するシーンへと瞬く間に進んでいく。
その軽やかさやある種の無責任さがこの作品のリズムに他ならない。
主人公は関大生だが方言に馴染もうとしない。友人のバンダナくんは自分自身の言葉として方言の方言の中間にとどまり続ける。
縦軸の恋愛に対しては純粋であるが、それを取り巻く自己や周囲は決して従属的に陥らず、反発すらする態度である。
友達付き合いに疲れて一人で学校生活を送っているにも拘らず、大学の近くの飲食店でアルバイトを続けているヒロインや、何度も「初恋クレイジー」を聞くよう懇願する銭湯のアルバイト仲間の女の子だってそうだろう。
自分が持った大事にしたいものと、まっすぐに向かってしまう恋愛との狭間で躊躇い、足踏みを繰り返す。
ウダウダしているだけかと思うきや、なんの前触れなしに水族館に出掛けて過去を泣きながら話して慰めあうような「?」もシーンもあったりと、まさに運命が突き動かしたように前段階を省略してホイホイと進んでいってしまう。それに取り残されることなく、喰らい付けるかが本作を楽しむための振るいとなっているのだろうか。
爽快な空気で持続していく時間のなかで関係を持つ者同士がもう一歩踏み込めないのは、「断絶」によってつながれたショットの連鎖に起因する。これは本作の一番といっても良い見どころの長い告白シーンにおける、小西とさっちゃんの単独フレームによる切り替えし(肩越しショットなど、二人が同じ空間を共有していると確信できるショットの不在)や、
学内で疾走している犬のサクラを追う桜田が(①)、挿入される小西の顔クロースアップの次に切り返されると(②)、もう既に遠くにいるロングショットに(③)。3ショットで流れるべき時間感覚から解脱した身体として、映像内重力は現実の重力とは少し異なっていることつなぎが頻出するのだ。
極めつけは序盤のシーンではあるのだが、フランス語を受講しているバンダナ君の元に一目散に駆けつけるシーンにおいて、着席の瞬間が二回繰り返される。この繰り返しは編集によるものだ。いわゆるバラエティー番組の衝撃映像を幾度も見せつけるあの感じ。わざとカット尻と頭をダブらせて滑らかなつなぎから距離を取っている。
そうすることで、人物から身体の持続が薄れていく。本作の登場人物たちには身体がない。傘を差す小西に奇怪な視線を送るものは誰もいないし、ザーザー降りの雨のなか傘も差さずに歩く桜田にも無視されているようだ。さっちゃんが行方不明になった1か月半だって心配してる風を装っているが、実際に行動はせず死んだあとに泣きむせぶ。
より詳細に述べるならば、対象化される身体の喪失なのだろうか。だから、セレンディピティでつながるものたちだけがものたちだけの世界で深める関係が純粋化されるのだ。
見られない自己の身体を確立するために、人物たちの前にはただ音だけが残る。他人には聞こえない音量で自らがとらえた音、たまに二人だけにしか聞こえないテレパシー的な発音が距離を近づけていく。待ち合わせに来ない桜田から実は嫌われているのではないか?と思案する際に小西に訪れるのは、悪口をまくしたてる桜田の声と、それえを発している口元。限りなく彼女が放った言葉として小西に突撃する。そう、小西にはそう聞こえていたのだ。誰にも聞こえなくても小西には聞こえていたのだ。
話としては冴えない一大学生の誇大化したあらゆる恋愛のうちの一つなのだが、
原作がお笑い芸人ということもあり、収束に向けるオチの付け方とそれを視覚的伏線として貼る大九監督は見事であった一方で、やはりどこかで落とさないといけないという説話的呪縛からは本作も逃れることはなかった。それができるだけの助走は十分に取れていた分、実に惜しい。
今年度の公開された邦画のなかでは群を抜いて独創的であっただろう。
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