「「敵」とは」敵 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
「敵」とは
元大学教授の渡辺儀助は連れ合いを亡くしてすでに二十年。一人暮らしがすっかり板についていて家事全般をそつなくこなしている。特に料理へのこだわりが強く毎度食卓に並べられる食事は充実していた。
悠々自適な暮らし、年金と少しばかりの原稿料で食いつないでいるが食と酒にはこだわりがあり摂生をする気もなく今の生活スタイルを変えるつもりもない。このままの生活が維持できなくなればその時がXデーだとばかりに限りある残りの人生を満喫したいという。
そんな彼の気ままな余生が徐々に侵食され始める。それはパソコンにいつも一方的送られてくるメールからだった。いつもの迷惑メールだとして無視してきた彼だがある時ふと目に付く文言が。
「敵」と書かれたそのメール、いつもの怪しげな迷惑メールとは違う文言ながらもやはり彼は無視し続けた。
儀助の周囲には彼を魅了する二人の女性の存在が。元教え子の鷹司靖子、行きつけの文壇バーには女子大生の菅井歩美。なにかと彼女らは彼の自尊心をくすぐり誘惑してくる。いやそれは彼の妄想に過ぎないのかもしれない。
そんな彼の下心を見透かしたかのようにあるいは彼の抱く罪悪感が妻信子の亡霊を見せるのか。あるいはこの家にはかつての住人たちの霊が住みついているのだろうか。彼は何かと妻の亡霊に翻弄される。
そして迫りつつある「敵」の存在。それは北からやって来るという。北の国の独裁体制から解放されたその住民たちが難民となって押し寄せてくるというまことしやかなネット上のデマにより作り上げられた妄想なのであろうか。
たちまちあたりは戦場のような騒乱に包まれる。それは儀助が母の胎に宿っていたころの戦時中の空襲を思わせた。
そこに漂うのは死の恐怖。「敵」はゆっくり近づいてくるのではない、それは突然現れる。「敵」とはなんなのか、それは「死」そのものではないのか。
敵とは、その正体とは。それはけして人間が逃れられないもの、自分自身の死を言うのではないだろうか。儀助は自分の死を常に意識していた。自分の今の生活を維持できなくなる日が来れば潔く死のうと。あえて自分の生を引き延ばすための節約もせず食べたいものを食べ、飲みたい酒も飲む。そうして時が来れば命を絶とうと。
愛する妻を亡くしもはやこの世に未練はない。死が向こうから来るのを待つのではなく自分から死を受け入れてやろうと。そう考えて余生を過ごしてきた。しかしいざ過ごしてみると誘惑も多い。周りには思わせぶりな美女たち、思わず下心も芽生えてしまう、そんな自分の罪悪感が妻を呼び覚ます。
この年齢になり人生をすべて見極めたつもりだった。いまさら死を恐れることなどないと。しかしやはり死への不安や恐怖は拭えない。Xデーが来たら潔く自死すると決めていた儀助、しかしそれが来ることがいつかはおぼろげにわかっていても、それはいつか来るものでありそれがすぐにでも訪れるとは思っていなかった。健康診断を避けてきたのも自分の死を直視させられるのを避けたかったからにほかならない。
しかし下心から女子大生歩美への援助で貯えの金を渡してしまい、ことのほかXデーが目の前に来てしまった。まさかこんなにも早く。常に死を意識していながらもしかしそれはまだまだ遠い先のことだと高をくくっていた。死はゆっくりと近づいてくるものだと、しかしそれは突然やってきてしまった。
いくら長い人生を生きてきて経験を積んでも死だけは経験できない。死は未知の領域だ。儀助は覚悟していたようでその実、覚悟なんてできてはいなかった。
いったんは首を吊ろうとする儀助だが、それも尻をついてのもの。彼の死ぬことへのためらいがそこからも見て取れる。
友人にも死の期限付きで生活すれば人生が充実するなどと語りながら、やはりその不安は払拭できてはいなかった。そんな彼の潜在的な死への不安や恐怖が「敵」となり、メールを通してじわじわと彼にその予兆を知らしめ、ある時突然襲いかかったのかもしれない。
死という名の敵。生きる上では常に対峙すべきもの。生を望めば望むほど死という敵の存在が大きくなる。生に執着すればするほど死の不安と恐怖は大きくなって彼に強大な敵となって襲い掛かってくる。
受け入れようが受け入れまいがやがて死は必ず訪れる。そして儀助にも死が訪れる。「敵」は受け入れたとたんそれは「敵」ではなくなる。死を受け入れることはそれは死の不安や恐怖からの解放を意味する。
そうして死から解放された彼の魂は安住のこの地、この住み慣れた家に宿ったのかもしれない。それを知った彼の甥はおいそれとはこの家を売り渡すことはできないであろう。
相続手続きがなされる主を失った邸宅で儀助の甥が彼の双眼鏡を何気に覗くと二階の窓際に佇む儀助の姿があった。
独り身で悠々自適な生活を送り続けていた主人公、しかしそこには常に老いと死がつきまとう。そんな老いと死への不安や恐怖が「敵」という形となって彼をじわじわと追い詰めていった。
高齢となれば連れ合いは必ず先に逝く。孤独な老後の暮らしで誰もが味わう死への不安や恐怖を筒井文学特有の語り口で見事に映像化した。
十代の頃夢中になって読み漁った筒井文学の世界がそのまま再現されたような作品だった。一見平凡な日常が徐々に非日常に侵食されてゆく様、スラップスティックな笑い、悪夢のようなシュールリアリスティックな現象。
筒井氏はむかし村上龍氏との対談で非現実なことを描くには現実的な描写がしっかりと描かれてないといけないと述べていた通り、本作は前半はごく普通の日常がリアルに描かれ後半から超現実的な現象が描かれて見る者を悪夢へといざなう。まさに筒井氏の十八番と言える作風を見事に映画という映像表現に落とし込んだ監督の筒井康隆愛がにじみ出た作品だった。
筒井文学ファンなら本作を存分に楽しめたことと思う。と言っても私自身筒井文学から離れてかなりの時間がたつ。父親と同い年の筒井氏がいまだ健在なのがうれしい、早速原作本を注文した。なんせ80年代までしか氏の作品は読んでいない。ベストセラーになった文学部唯野教授でさえ読んでいない。これから読ましていただこう。
ちなみに私が好きなのは七瀬三部作、俗物図鑑、大いなる助走、乗越駅の刑罰、などなど数え上げたらきりがない。誰か有名な作家が言ってた、青春期の読書は恋愛と同じだと。まさに青春時代夢中になって読み漁った筒井文学は私にとって恋愛だった。
青春期の読書は恋愛と同じ 唸りますね。
私も「七瀬ふたたび」は印象的でした。
読書することが目に厳しくなり、たのしみは映画にかわりました。
それも恋愛のようにいそいそと、そして胸を高鳴らせてくれます。
敵があらわれるまで沢山の巡り合いが続くといいなと思います。
若い頃、「七瀬ふたたび」がとにかく好きでした。他の2作はそこまでなかったのですが、少し歳をとって「エディプスの恋人」を読み直して、やたら感動したのを覚えています。
その後、筒井康隆は読まなくなったのですが、3部作は、また読み直してみたいと思いました。