Broken Rageのレビュー・感想・評価
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北野武の老いを感じる。
⚪︎作品全体
新春特番に、ビートたけしの寸評が定番のお笑い番組がある。去年までは他の司会者と同じく立ちっぱなしの司会席にいたけれど、長丁場の番組だからか、今年は別室にたけし専用のセットを作り、そこに座って芸人の寸評をしていた。理由は特に話さなかったけれど、たけしだけが別室セットなんて体調以外にありえないだろうし、実際ここ最近、テレビで見るたけしの姿や発声には老いを感じる。
で、本作だ。
命のやり取りをする物語にコメディを仕込むのは『ソナチネ』のころから見られる北野映画の個性だし、テレビのコント番組チックなカメラの位置も『みんな〜やってるか!』の頃からこだわりを持って使っている印象がある。ただ、いかんせんギャグが古臭い。効果音や既視感しかない人違いネタは、令和の時代に見ると埃をかぶって見える。
北野武の持ち味であるはずの構成やギャグに、正直「老い」を感じた。
そして北野武の体を張ったギャグは、「老いの心配」がまず頭をよぎる。
殺しの実行役という、北野映画での北野武の役回りは本作でも健在だが、芝居の動きにどこか「無理をしてる」と感じてしまう。作品の前半部分は後半とのギャップ作りに存在しているはずだが、北野武の老いの部分がノイズになってしまっていた。前半のねずみのスマートな仕事っぷりを見せつけることで、それが後半に効いてくる…はずなのだけど、老獪という表現とも違う、どこかもっさりとした動き。それはもう、ただ単に「老い」のように感じた。
後半のコメディパートでは「こける」というギャグが多くある。本来「らしさを感じるギャグ」なのだけど、やはりどうしても「心配」がちらついてしまった。
北野武の役回りとしても、コメディの味付けとしても、新春番組の別セットのように、老いを前提とした北野武が必要な時期にきたのかもしれない。
そんなことを思いながら、老いという時間的な要因によって、今までの北野作品とは違うなにかを求めなければいけないことに少し悲しさを感じた。
○カメラワークとか
・北野作品にある、登場人物との距離感あるカメラ位置によって、人が隠している刃みたいなものを映す演出が好きなんだけど、本作はあんまりそういう場面はなくて、むしろ役者を映すことに意識が向いてるような画面が多かった。終始被写体をど真ん中に映すようなカット、と言ったらいいか。唯一、終盤で逃げたねずみを撃ち殺した(フリをする)刑事の無機質な芝居と距離感は尖っていた。
○その他
・大体のギャグは面白くなかったんだけど、椅子取りゲームのトロフィー壊しちゃって北野武と中村獅童が怒り続けるところは笑ってしまった。途中でちょっとニヤついちゃってる白竜を映すのがズルい。
・北野作品って作風は変わっていっているのに「殺しも厭わない男」を1作目から本作まで続けてることがアンバランスになってきてる気がするんだよな。本作でいえばSNSみたいに感想が流れる演出を使ってるし、今までも創作ダンスとかイラストとかいろんな新しいアイデアを使ってるんだけど、登場する人物の価値観はほとんどそのままっていう。だからこそ、『その男、凶暴につき』みたいな底の知れない北野武の目つきを期待したりしてしまう。でも期待しているものとは少し違う…というような。
映画の構成のアイデアは秀逸と思ったが、ほとんど笑えず残念に感じた。
2024年製作/66分/日本、配信:Amazon Prime Video、配信開始日:2025年2月14日
シリアスなヤクザ映画に、同じ物語に笑いを盛りこんだPart 2を入れ込んで併せて一つの映画とするというアイデアは、とても秀逸とは思った。
ただ、笑いの作りが、敢えてかもしれないが、昔のドリフターズ的であまり面白くなくかなりガッカリとさせられた。この路線でいくのなら、予想以上の体を張った様なアクションがあればと思ったがそれも無かった。椅子取りゲームでも、椅子争って死人が出るくらいな激しいバトルが面白いのだが。
まあ、間違えて別の人間を殺してしまうエピソードはそれなりに面白かった。あれ以上のアイデアが複数盛り込まれたら、良かったのだが、それは残念ながら見られず。杞憂かもしれないが、タケシの笑いの創造力が衰えてしまったかの様に感じて随分と悲しかった。
監督北野武、脚本北野武、エグゼクティブプロデューサー北野恵美子、プロデューサー福島聡司、プロダクションスーパーバイザー早川敬之、ライン プロデューサー宿崎恵造、撮影監督浜田毅、照明高屋齋録音高野泰雄、美術平井淳郎、衣装デザイナー黒澤秀之 、黒澤爽、装飾山本直輝、音響効果柴崎憲治、VFXスーパーバイザー小坂一順、編集北野武 、太田義則、音楽清塚信也、助監督足立公良、擬斗二家本辰己、スクリプター吉田久美子、キャスティング椛澤節子、制作担当田島啓次。
出演
ねずみビートたけし、井上刑事浅野忠信、福田刑事大森南朋、吉田店長仁科貴、田村宇野祥平、ヤクの売人國本鍾建、ホステス馬場園梓、茂木やすお長谷川雅紀、大黒たかあき矢野聖人、ジムトレーナー佳久創、カバンの中の男&警察の隊長前田志良、バーの覆面捜査官秋山準、検眼の男鈴木もぐら、椅子取りゲーム司会者劇団ひとり、富田白竜、金城中村獅童。
面白いとかつまらないではない。多分。
監督ご本人のインタビュー記事や考察記事などを読み、制作の意図は大雑把ですが理解しました。その意図をくみ取れば、なるほど本作は単に面白いとかつまらないで片づけられる代物ではないのでしょう。監督が長年のフィルモグラフィーで積み上げてきたものをセルフパロディーとして茶化したり、散々使い古された種々のギャグをアドリブ性を強めて再生産したりと、その身も蓋もないさまが、見方を変えれば面白く見えなくもないような気がする。そうした半ば強引な物語設定や展開に臆面もなくチャレンジする潔さは、最近のコメディ映画ではあまり見受けられないと思います。ですので逆に新鮮でありました。
ただ私のような凡人にはこの映画の魅力は少々分かりかねるので、もっと映画のことを勉強し、またいつかこの作品に臨みたいと思います。
こりゃーあれだわ。 視聴者も含めて同窓会であり、バラエティとして観...
マルセル・デュシャン『噴水(泉)』(1917年)になりたかったのか
"ねずみ"と呼ばれる、一見冴えないが実は殺し屋の男が警察に捕まってしまう。釈放の代償として覆面捜査官となり、麻薬組織に潜入し、親玉との"偽の"直接取引を仕向けるが、予期せぬ展開が…。北野武監督が贈る、前半はシリアスなヤクザアクションとして、後半は同じ物語をセルフパロディのコメディとして描く二部構成。ねずみの運命やいかに(Prime Videoより)。
マルセル・デュシャンというフランス生まれの芸術家が1917年、『噴水(泉)』と題した作品をニューヨークの展示会に出品しましたが、その内容は男性用の便器を横に倒しただけのものでした。それまで芸術が「美しさ」を追求してきたのに対して、「芸術とは何か」そのものを問う作品として、現代アートの出発点とも呼ばれています。
「映画」は2時間という尺の中で創られる総合芸術であり、その中でも北野映画には「科白を極力排した脚本」「バイオレンスと対比的な美しい色彩」「得も言われぬ人間の機微を描く」等、とても強い「固定観念」が定着しています。北野監督は本作を通じて、「芸術は美しさを追求するもの」という強い固定観念を覆したデュシャンと同じような挑戦をしたかったのかもしれません。『噴水(泉)』が結局展覧会では展示されなかった当時を振り返ると、本作の評価も、賛否両論を巻き起こしながら、数十年後に確定するものなのかもしれません。
という前提を踏まえつつ、映画としては駄作です。映画そのもの、北野映画そのもの、あるいはビートたけしそのもののメタ化という観点でも機能しているとは言い難く、後半のセルフパロディも大して面白くない。おじいちゃんの暇つぶしと酷評されるのもよく分かるが、さすがにこの酷評は制作陣もカメラを回す前から分かっていただろうから、それでもやりたかったのだろうとは思います。
志村けんも亡くなってしまったから
よく分からなかったし、微妙でした。
『Broken Rage』鑑賞。
*主演*
ビートたけし
*感想*
短評です。
凄腕の殺し屋のねずみ(ビートたけし)が、警察に捕まってしまい、暴力団に潜入する覆面捜査官になる話。
前半はまぁまぁ良かったけど、後半がコメディ。
ん〜全体的によく分からなくて、微妙でした。
ごめんなさい、、、
北野武が監督・脚本およびビートたけし名義で主演を務め、「暴力映画に...
北野武が監督・脚本およびビートたけし名義で主演を務め、「暴力映画におけるお笑い」をテーマに型破りな演出で撮りあげた実験作。約60分の映画を前後半に分け、前半は警察とヤクザの間で板挟みになった殺し屋の奮闘を活写する骨太のクライムアクション、後半は前半と同じ物語をコメディタッチのセルフパロディで描く。
男たちの欲望渦巻く裏社会で、殺し屋としての並外れた能力を武器に暗躍する男・ねずみ。ある日、殺人容疑で警察に捕まった彼は罪を見逃してもらう代わりに、覆面捜査官として麻薬組織に潜入するよう命じられる。
ねずみに捜査協力を依頼する刑事役で浅野忠信と大森南朋、麻薬売買を取り仕切るヤクザの親分役で中村獅童、若頭役で白竜、謎の司会者役で劇団ひとりが共演。人気ピアニストの清塚信也がオリジナル楽曲を手がけた。Amazon Prime Videoで2025年2月14日から配信。
Broken Rage
2024/日本
配給:Amazon Prime Video
フツウに面白い映画
二部構成の映画、前編はシリアスだけどネタ振り用。だけど、いきなり撃ちまくるところは北野武エッセンスとして残っていて観ていて気持ちがいい。
ストーリーラインも粗いなんていわれているけど、後編につなぐためにはこの程度にしておかないと内容が頭に入らない。印象的なシーンを作るという役割だし。
ちなみに短編映画で前編だけ出しても、面白いと思える映画だ。
後編は映画を観ているとみんなあるあるだと思うけど、「これってここで銃を忘れてたら笑うな」みたいなドジシーンをふっとオーバーラップさせたりする。没入すればするほど、そういう横やりが脳内で生成されがち。
僕的にはシリアスな映画ほど、笑いやおとぼけ、で感情の帳尻を合わせようとしているのだと思う。そうでないと、観ていて心臓がちぎれてしまいそうになるから。それくら、没入するというのは怖いことなのだ。脳のセーフティーガード機能というべきか。
という点で、この後編の面白さって、北野武監督がこれまでもシリアスな映画を撮影しているなかで、ふとアイデアにあったのかなーと妄想してしまう。ドンパチ、ドギャッと誰かを殺しちゃっても、ここでコケたら笑えるなとか。
そうでなければ、この後編の展開って映画化できないと思うんだよなぁ。普段からシリアスと笑いのバランスを脳内で取ってるんじゃないかなと、そんな勝手な妄想です。
常に、喫茶店のドアから大量の客が出てくるシーンは面白過ぎた。たとえば、殺し屋がカッコつけて店のドアを開けて入ってターゲットを仕留めに行く、なんてシーンなんかでもサラリーマンの客が五人ぐらい酔っぱらって出てきたらどうなるんだろうって、昔からよく思ってた。それも、演出のひとつとして撃ち殺すみたいなシーンがあったり、はたまたプロ意識の高い殺し屋は、酔っ払いにペコペコして謝って通してもらったり、みたいになると思う。
通常のシリアスな展開の映画の場合このシーンを盛り込んだとしても、笑いと連動させると映画的に成立しなくなるよねぇ。笑い一本で作ってるのが「オースティン・パワーズ」かなぁと思う。オースティン・パワーズの場合は、フリのシーンは観客の頭の中にあって、それをぶっ壊す方式。
くどいが、今回のブロークンレイジは前提のフリは北野映画に漂っているものだ。そこをまず映像化してフリとして正しく置いて、後編で笑うと言う仕掛けは、最近手の込んだよくできている漫才のようにも思える。ツービート時代の漫才ブームの頃ではなくて、今のM1の漫才師たちのような用意周到な手の込んだ漫才の方だ。
つまり、オースティン・パワーズのようにわざわざ前編のフリのための映画をナシで観客の脳内を下敷きにして、後編のみで笑いに結び付けることだってできたと思うのだ。だって、この映画を観る人たちは、北野映画を一度は観てると思うから。(この映画が北野映画初な人は、まずはソナチネとかその男凶暴につきなんかから始めて欲しい)
観客に北野映画の下敷きがあるはずなのに、あえて前編を作るってことは強烈にこのフリに対してこのボケという相関関係で理解して欲しいという作り手の熱い想いが溢れていると思うのだ。なんなら、前編→後編→前編 と観て欲しいのではと思わせるほど。(ごめんなさいそこまで観てません)。
と、ずっと観続けてきたファンとしては、北野武監督の老いてますます、と思う次第なのだ。落ちたとか、粗いとか、ってのはちょっと違うのかなーと思う。笑えないとか古いってのは、超笑いのセンスだから一周回っても、回ってなくても、「シリアスな場面でこける」と面白いというだけの話だ。笑いのセンスが進化しているしていないに関わらず、笑いをギャップと捉えていると、自然と笑えてくるんだけどなぁと。(オシャレな笑いではないというのはわかるけども)僕が腹抱えたのは「このハゲ」と言って、詰めるところです。
「たけしの挑戦状」みたい
アウトレイジシリーズ好きにはガッカリな、ビートたけし流「カメ止め」
前半は北野版「style to kill」と言ったようなハードな殺人シーンの羅列なんだけど、罪を重ねる間に、芸人から重鎮俳優から今や世界的な役者まで、違和感の装置として登場します。
後編、違和感の装置及び老体のたけしが、フィルムノワールな前振りを「そんなわけねえだろ!」と冷や水をぶっかけてくるのを楽しめるかどうかが今作品の基準になるのではないかと感じます。(冷や水が生ぬるい、装置が機能してないという人も多いはずです)
私は酔っ払いながら見たのでケタケタ笑いながら楽しめました。菊次郎のらっきょう氏の場面にも酔っ払って見て笑ったなあと、ぼんやり思い出しました。
このレビューも酔っ払いながら書いているのでまとまりがないんですが、前半のノワールも別に嘘ではないよなと思います。北野武が各所で言及している「振り子理論」で言えば、前半がハードでなければ成立させられない作品です。今の北野武が考えるハードなシーンについて、例えば自転車配達の人を見て色々アイデアがあったのかなどと考えると面白いです。
後半の冷や水パートについても、日本で世界的に影響を与えているクリエイターの中で、おそらく最も高齢な二人、宮崎駿は作品の中で少年となり、北野武は嬉々として老いぼれている姿を見せつけている、この対比が非常に興味深いです。
今作は「みんなー、やってるか」から続くビートの方のたけしの色味が強い作品の一つですが、色々相まって、楽しい作品でした。少なくても監督バンザイ、アキレスと亀よりはよっぽど好きです。
自虐的とも言えるくらいの愛に溢れたエール?
Spin Off=おれたちひょうきん族
ビート節
後半パートの最後の掛け合いなんかは「刑事ヨロシク」でポール牧さんなんかを弄り倒す感があって、「そういうの忘れないよ」みたいな愛すら感じました、個人的には見ていてワクワクしてしまいました、同じ「バカヤロウ」でもくだらない方のバカヤロウでも声を張るのは同じだろっていう部分とか、前半とは一変して後半決めに決まらない感は寧ろ現実的っていうか、物事そうそう都合良くなんか行かない、だから笑うしか無いだろっていうメッセージの様な気さえしました。シリアスに演技されている俳優の方々が平静を保とうとしていて、それはそれで緊張感が漂っていて笑ってしまいました、北野ファンクラブだったら高田文夫さんに「だってアレだよ?」調子で話しているのが目に浮かびました。そういうビートたけしが好きなのだから私はとても楽しめました。
ブラックデビルも出て欲しかった
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