遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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人は物語に生きる
人は物語に依存して生きていると思います。有名大学卒の人生、一流企業社員の人生、金持ちの奧さん、立派な教育者、頑張っているお父さん、そういう物語を折に触れ、人に伝え、自分を確認しています。人からもその物語を称賛されることもあるでしょう。しかし、人に語れない物語しかなければ? 別の物語を作り、その物語で生きる他ないかもしれません。悦子は被爆者のことを隠したかったし、イギリスでは自分の娘が自殺したことも隠したかった。ニキは日本での悦子のことを知らないし、姉の景子の本当の物語を知らない。人は物語を知らないということで、不安になる。ニキも別の意味で、別の物語の中を生きるしかなかった。だから、実家に寄りつこうとしなかった。
物語の中では、変わらないと、という台詞が何度か出てくる。これは軍国主義から変わる、男性中心主義から変わる、女が自由に生きる、という意味でもあるが、物語を変える、つまり本当の自分の物語で生きるべきだということではないだろうか。そのことにより、幸せになるのかどうかはわからない。遠い山並みの光のように、それは沈んでいくのかもしれないし、あるいは昇るかもしれない。いや両方なのだろう。
私の父には弟がいた。祖母から何度も聞いていた。祖母は六人生んで、そのうち、三人が病気で死んだということになっていた。特に長女の愛子のことはずっと語っていた。よくできた子どもだったようだ。あとの二人のことで一人だけつとむという人のことは名前を聞いていた。父と琵琶湖へ泳ぎにいった。小2の頃だ。偶然父の友達に出くわした。そのとき、つとむくんはどうしてる? と聞かれた。父は少し困った顔になり、死んだんや、と言った。おばあちゃんもいうてたしなー。と思った。それから50年近くたって、父と飲んだ。父は死を意識していたと思う。その頃、何度もうちにきて、飲みたがった。あるとき、自分にはつとむという弟がいると言った。知ってるよ、おばあちゃんに聞いてたから。病気で死んだんやろ? というと、自殺したんやといった。驚いた。と同時に、本当の物語を祖母も父も言えなかったのだろうなと思った。恥ずかしから? 私に影響を与えないように?
私は驚いたが、物語が開いたような気がした。つとむさんは自殺したけど、それまで懸命に生きようとしていたはずだと感じた。それ自体、また別の物語なのかもしれない。でも、つとむさんの物語を私は大事にできると思った。
悦子の物語は、美しい物語ではなかった。猫も殺したし、景子を殺めようともした。
しかし、そのことを佐知子の物語として語り直すうちに、変わった。
物語には力があるという。語ることで何かが変わる。
そのことをまた、自分ごととしても確認できた。
素敵な映画だけど難しい
原作は未読です。
カズオ・イシグロといえば、「わたしを離さないで」が有名ですよね。
この映画は真実はこうでしたと、はっきりした答えを描いてなくて、観た人それぞれ違う解釈をしてそうな感じです。
私も見終わった瞬間は、頭の中が整理できず、謎がいっぱいで、「え?どう言うこと?」意味がわからない部分がたくさんありました。
言えるのは、人の記憶は当てにならなくて、自分の願望によっても、変わっていってしまうと言うことです。
出演の広瀬すずと二階堂ふみが、とても素敵で良かったです💕
二階堂ふみは、謎めいた役柄は似合ってますね。
悦子と佐知子。
別人と思っていたけど、話が進むにつれて、ふたりが重なって見えてきました。
ロープウェイ観光で、同じ色の服を着て、悦子が万里子を悪く言う男の子を一喝する場面で、一致しました。
佐和子は悦子なのだと。
万里子と恵子。
イギリスに馴染めずに、自殺してしまった恵子。
悦子は、きっと自分を責めてるから、万里子を守ってあげたいと思ったのでしょう。
「死んだ赤ちゃんを水に沈めた」女の子人や、子猫を水に沈める佐知子の事を思い出すのは、きっと恵子を助けられなかった事で心を痛めているのでしょう。
足に絡んだり、手に持ったりしてた縄も、そのことを比喩してるのではないのでしょうか。
紅茶ばかり出す佐知子、橋を渡る喪服の女など、
他にも謎めいた様子が散りばめられてて、不思議な感覚の映画でした。
けれど全体に描かれてるのは、「女はもっと自由に生きて、前に進んでいかないと」
と言うことです。
夫の二郎は男尊女卑そのもので、今観ると酷い夫ですが、あの時代は結構当たり前でした。
しかし、その時代に留まってはいられないのです。もっともっと女性は前出ていくべきなのです。
そんな明るい未来が、ラストに描かれていたように感じました。
ちょっと解釈が難しく・・・
広瀬すず推しなのでそれだけで原作未読のまま鑑賞しました。
戦後の1952年の長崎を1980年代のイギリスから主人公悦子(吉田羊)の回想録?どこまでが真実なの?って感じで観終わってから色々と解釈しなくてはならない難しい作品でした。(最近はこの手の作品が多い気がするのは私だけ)
なんか色々と疑問の残る場面も多々ありましたが、それはそれで鑑賞者にゆだねてるのでしょう?
イギリスの悦子の言っている事がどこまでが本当なのか?どこが嘘なのか?答えは?
私的回答は長崎時代の悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ)は同一人物なのではないかと思っています。(悦子の服の色が段々と佐知子に近づいて行きます)
当時の夫(松下洸平)とその父(三浦知良)との関係はどうだったのでしょうか?⇒色々な出来機事から実際にあった関係で結局被爆者と言ってしまい離婚したのではないか?その後景子を生みイギリス人と出会い再婚してイギリスへって感じかな?
多々???ですが
吉田羊の英語は素晴らしかった!(セリフのほとんどが英語)
広瀬すずと二階堂ふみの演技も最高でした!
猫好きの方には猫の水死は非常に残酷でしたw
過去と記憶を語り直す
カズオ・イシグロの原作は未読。長崎で被爆した後、イギリスへ移り住んだ母親をモチーフにしたこと、インタビューで親世代の記憶を次世代に「語り直す」ことが大切と語っていること、などを予備知識として観た。
80年代のイギリスでの母と次女との会話シーンと、母が語る戦後復興期を迎えつつある長崎でのある女性とその娘との交流を描くシーンが、謎めいて交差する。被爆体験と被爆者差別、戦後の価値観の転換、女性の自己決定権など、盛り込まれているテーマは広い。
広瀬すずと二階堂ふみのクラシカルな姿態と、石川慶監督ならではの丁寧な描写やコントラストを利かせた画づくりを味わいつつ、ミステリーとしてはモヤモヤしたまま進んでいく。そして、最後の最後になって、母が語っていた女性と娘の話は、実は自分と長女のことだったと明らかになる。その時点で、母が嘘を語っていたのだとしたら、それまで描かれてきた夫や義父とのシーンも作り話なのか、と戸惑ったのが正直なところ。
しかし、観終わって改めて考えて分かったのは、母が語った自分の話は本当にあったことで、つまり自分の過去と記憶を、自分ともう一人の別な女性に仮託して語り直していたということなのだろう。実際に、長女を出産した後に夫と離縁して、バラック暮らしをしたのかもしれない。そのように語らざるを得なかったのは、イギリスに移住した後、長女が不幸な死を迎えたためだろうが、その辺りの描写がもう少しあれば、より理解しやすかっただろう。
人は誰でも、意識的でなくても、自分の過去や記憶を忘れたり、間違えたり、都合良く組み替えたりしてしまうもの。前世代の記憶を一旦引き受け、捉え直して、次世代に引き継ぐという試みとしても、考えさせられるところは大きい。
邦題からはくっきりとした山なみのようなイメージだが、原題からすると「ぼんやりとした眺め」なので、そこにはすごく納得した。
何処かすっきりしない…
…見応えはありました
主人公長崎で被爆した悦子の広瀬すずさん
夢の中に出てくる佐知子二階堂ふみさんの
演技に自然に引き込まれていく
この二人どこか似ている
と…それは後にわかってくるけど
イギリスに移住して三十年
夢となり当時の記憶が蘇ってくる
英語を流暢に話す悦子役の吉田羊さん
リアルな悦子がいる語られる話からは
佐知子から悦子に変わることもあり
…飾られた写真のなかにも
驚きはあった
自殺した景子も
謎 謎だらけで・・
少しモヤモヤ感が残った
シンクロ
あくまで、私の勝手な想像です。
悦子は、二郎に被爆体験を打ち明けてしまったため、妊娠した状態で離婚してしまいます。その後町の外れのバラック住宅で住み始めた悦子は、英語力を生かして米兵たちと仲良くなることでお金を稼いで子育てを始めます。アメリカに連れて行ってあげるという話があっても、おそらく叶うことはなかったと思われます。その後何らかの理由でイギリス人と知り合い、ニキが生まれたのだと思います。
ニキにした話は、別の時代をシンクロさせて一つの話にしたのだと思います。いくら戦後とはいえ、団地とバラック家が隣り合わせにある事に多少違和感を感じていました。
消えない罪の意識、薄れゆく記憶(★4.2)
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの美しさが際立っていました。
戦後の復興がめざましく活気があふれていた日本。人々も希望に満ちているかに見えたが、心の傷は簡単に癒えるものではなかった。生きるためにそうするしかなかった、でもその選択に苦しんだ人生と赦しの話かと思います。
1982年、イギリス。日本人の母(吉田羊)が一人で暮らす郊外の家に、久しぶりに戻った作家志望のニキ。母は最近怖い夢を見ると言う。母は日本から連れてきた長女景子が死んだ事に罪悪感を持っていたが、家族と距離を置いていた姉を、ニキは好きではなかった。彼女は、自分が知らない母の過去を知りたいとせがむ。
1952年、戦後7年経った長崎。団地で暮らす悦子( 広瀬)は、川のそばのバラックに住む佐知子(二階堂)とその娘の万里子と親しくなる。ある日、夫(松下洸平)の父(三浦友和)が訪ねてきて、しばらく滞在する事になる。
これは、記憶にまつわるミステリーです。(以下、ネタバレです)
母の話を文章にまとめるうち、ニキは母悦子と佐知子が同一人物であり、万里子とは姉景子であると気付く。
30年前の悦子は、完璧な女性。美しく、優しく、妻としての務めもそつなくこなし、仕事も出来た。思いやりがあって、可愛げのない万里子を放っておけない悦子。
一方で、佐知子は本当の自分。自立した女性を夢見ていたけれど、戦争で傷つき、米兵と付き合い、娘を叩いたりしたこともあったかもしれない。もしかしたら、その姿は、昔出会った、自分の赤ん坊を川に沈めた女であったかもしれません。
本作は解釈の余地がありすぎて、自分で考えるしかないですが、人によって解釈は違ってくると思います。
ひょっとしたら、夫と義父も存在しなかったのかもしれません。居たとしても、悦子の話の通りとは思えません。夫が身支度を手伝わせたり、突然同僚を連れ帰ったりするのは、当時としては普通の夫ですが、身重の妻にかがんで靴ひもを結ばせるのは流石に酷すぎで、そんな男は妻の代わりに玄関に出たりしません。同僚の手前もあります。もしかしたら暴力をふるう男だったかもしれないと思いました。
義父も、嫁に気を使っていて、オムレツの作り方を覚えようかなと言っていたのに、教え子に対して激高する様子は、この人も本当は横暴な人間だったんだろうと思いました。
夢の話なのか思い出話なのかも曖昧でした。
あの箱があるという事は、猫は捨てただけで、でも長女は殺されたと思い込んだ可能性もありますし、実際に殺したから、もう一人の自分が「捨てるのでは駄目なの?」と止めたのかもしれません。
ロープを持っていたのは、娘を死に追いやった罪の意識のイメージかなと思いました。
本作は、会話だけでなく、視覚的にも敢えて違和感を入れてあったと思います。
護岸工事もしていない川のそばに立派な団地。義父の外出時に突然着物姿。佐知子の家にあった高級な食器類。なんか変だなと思ったものの、結末は想像を超えていました。
私は解釈を観客に委ねる映画は好みではありませんが、本作はそれが魅力になっています。
<追記>
本作には印象的な場面が幾つもありました。また、敢えて説明せず、曖昧にしてあるところもあるので、解釈の余地が大きい作品でした。考察を重ねても明確な答えは出せませんが、他の方のレビューも読んで、自分の考えをまとめました。
まず、1982年は現実なので、悦子は恐らく数年前に自殺した娘の事で、自分がイギリスに連れて来たせいだと責任を感じている。でも悦子は家族を大切に思っていて、その気持ちに嘘は無いと思います。
1952年時点で、娘景子は悦子のお腹の中に居たのか、それとも架空の人物佐知子の娘万里子として登場したのかは分かりません。景子が万里子なのは間違いないです。1952年の悦子の姿には、こうであったら景子は死ななかったかもしれないという願望が混じっている気がします。夫は本当は戦死していたという可能性もあります。
でも、悦子は佐知子でもあるので、アメリカで女優になりたいという夢があった悦子は男の付属物であることを良しとせずに離婚したのかもしれないし、被爆を理由に離婚され、娘の為にも外国に渡ってやり直そうと思ったのかもしれません。
いずれにせよ女性が子供を抱えて一人で生計を立てるのは困難で、バラック暮らしは大変だったはずです。悦子が黒ずくめの女を見かけて駆け付けた時に、佐知子は、「今度こそ必ず行く」と言ったと思うので、願いが叶うまでに数年かかり、行き先はイギリスになったのでしょう。
万里子が川の向こうの女の人に声を掛けられる、とか最後に悦子に対して警戒したのは、外国に行きたくないという気持ちだったのかなと思いました。
でも、被爆の事で死を予感したという考えもありますね。
ニキは母の辛い気持ちを理解しつつ、「きっと本当に理解する事は出来ないのね」と言っていました。
<追記2>
ロケ地には長崎とイギリスの他に、千葉県の印旛沼とそこに繋がる手繰川が使われました(結構地元です)レビューで不気味とか、不穏とかいう感想が多いですが、本物の印旛沼は不気味感は無い、ただ静かな所ですよ。私は正確なロケ地点を知りませんが、日当たりも良く、ウォーキングにもってこいな場所のはずです。少し離れた場所ですが、2020年に話題になった、崖の上の子ヤギのポニョの崖も印旛沼のほとりです。コロナ禍で密を避ける為に場所が伏せられましたが、崖の線路を挟んだ反対側にはオランダ風車があって、チューリップ祭りの会場になる広場があります。このチューリップの種類と株数の多さは自慢なんですが、公園に整備するらしく、2027年までお祭りは中止ですので、是非おいで下さいとは言えなくて残念です。コロナ禍が無ければ、ポニョはチューリップを掘り取った後、ひまわりの種を蒔いてるところを見ていたはずです。
最後でなるほどとわかる
1980年代のイギリスで、日本人の母とイギリス人の父の間に生まれたニキは、大学を中退し作家を目指しロンドンで執筆活動をしていた。ある日、彼女は執筆の取材のため、疎遠になっていた実家を訪れた。その家では夫と長女を亡くした母・悦子がひとりで暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去についてこれまで聞いたことがなかった。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、長崎での生活について語りはじめた。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の話だった。長崎でどんなことがあったのか、そんな話。
長崎で何があってイギリスへ移住したのだろうか、とか、異父姉の景子の死に関わる謎、など気になり、広瀬すずと二階堂ふみの演技に引き込まれた。
吉田羊の英語、上手かった。イギリスで英語を特訓したらしいが、ほとんどのセリフが英語で、大変だったろうなぁ、と思ったし、彼女の俳優魂に感動した。
佐知子と悦子、万里子と景子の関係がわかると鳥肌ものだった。
悦子は二郎に原爆を受けた事を告げて離婚に至ったんだろうと想像した。
広島でも被曝体験を語れなかった被爆者がほとんどだから。
1950年代の長崎での悦子を広瀬すず、悦子が長崎で出会った佐知子役の二階堂ふみの2人は名演技、名女優だ。
そして、1980年代のイギリスで暮らす悦子役の吉田羊も素晴らしかった。
悦子の夫二郎の父緒方役の三浦友和もプライドと過去の栄光が捨てれない元校長役が上手かった。
名俳優、名演技、そしてなるほどと納得の脚本、素晴らしい作品だった。
なかなか難解…⭐︎
カズオ・イシグロの作品は自分にはなかなか難解なものが多く、この作品もこのサイトで
他の方のレビューを拝見しないとそこまで読み取れなかったと思う。
二階堂ふみ演じる佐知子が存在しないかもしれないとは思いもよらなかった。
レビューを拝見しても、そうか!と言う気持ちといや違うと言う思いが以前としてある。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊と旬の女優達がそれぞれ素晴らしい演技で松下洸平、
三浦友和も良い。
ただ、自分には関係性が今一つ良く分からず、悦子とは一体何者という思いや夫の
松下洸平は亡くなったのか⁇
どうしてイギリスに渡ったのかなどが全て観客(読者)に委ねられている。
原作を読みば分かるのかなぁ…
それでも何とも言えないメッセージは感じるし、ここが良いというシーンがある訳では
ないにも関わらずすごくインパクトのある映画だった。
年に何本か見る映画の中で意外に印象が残る作品になりそうな気がしている。
教えは多いけれど
原作未読。
混乱した、というレビューをいくつか読んで、肝のネタバレ一文「悦子=佐知子」のみ仕入れて鑑賞。
肝さえ押さえておけば楽勝だろうと思いましたが、いや逆に混乱したような。
えっ、じゃあ娘の父親って誰なの?その父親はいまいずこ?おなかの子供はまた別?
その他いろいろ分からないことだらけで「???」となり、そのことばかりに意識がいきがちになりました。
が、次第に、訴えたいテーマはおそらくそこじゃなさそうだ、と思えてきます。
(ちなみに「???」の謎は今も解けていない。原作を読めば分かるのか?)
平和を生きる私から見て、佐知子はなかなかの毒親に見える。
実際、長女の自死のいくばくかは責任あると思うし現代ならそう捉えられると思う。
けれどニキは、違うと言う。お母さんのせいじゃない、時代のせいだと。
そこで私は、認識の甘さを知りました。
生きることに必死じゃなくてもいい現代の幸せな価値観を。
また、この映画には、時代に合わせた変化を相手に促すセリフが何度も出てきます。
三浦友和は生徒に罵倒されていたし→「あれは教育じゃない、洗脳だった。時代は変わった」
ニキも母悦子に言う。→「結婚や子育てが全ての時代じゃない。変わらなきゃ」
このへん、時代に応じたアップデートを求められがちな世代の私は耳が痛い。
正直、昨今のネットニュースでセクハラ(orパワハラorモラハラ)問題を見ていて内心感じることがあるのだ。
「私が若い頃はこの程度はたいした問題にはならなかった」と。
映画のテーマに比べて些末な置き換えですけれど・・・。
などなど、教えも多かったです。
ただ、いかんせんストーリーをちゃんと把握できていないので☆3.5で。
あとは見る側に委ねます系もそれがごく一部ならアリだと思うけれど、あっちもこっちも委ねられちゃうと消化不良が先に来てしまいます。
それと、私は戦争モノは苦手ですがコレは戦後復興からだから大丈夫だろう、と見る前は予想していました。
が、根底に流れるものはとても重く、ヒタヒタと暗い何かが迫ってくる感じ。
そか、カズオイシグロですものね。
ちょっとクスッとしたところもあって、二階堂ふみさんから「跳んで埼玉」を彷彿をさせるセリフが聞けたこと。→「あんたたちに食べさせるうどんはないよ!」(これって狙ってないよね?偶然よね?)
そして広瀬すずさんはどんな髪型でもかわいらしかったです。
イシグロらしく観る人に解釈を委ねた構成が良かった。
広瀬すずの透明感と二階堂ふみのミステリアスな存在感は、この物語に完璧にピッタリ!
二人が立つだけで物語は儚くも妖しい輝きを帯び、観る者を引き込む。息をのむ美しさだった。
【ネタバレ】
私は佐知子を緒方悦子の幻想=もう一人の自分と捉え、団地での夫の緒方二郎との整った生活は戦後何も無かったかのように繁栄し、被爆の爪痕を残した自分だけが取り残されて行く不安と絶望の象徴としての幻想で、その部屋から俯瞰する河原のボロ屋で娘・万里子との生活こそが現実だったのではないかと感じた。
万里子=恵子(長女)悦子の記憶や幻想の中で重なり合う存在。
そうなると、夫 緒方二郎の父 緒方誠二の存在は?
という事になるがこの二人の親子関係がどこか取ってつけたような空々しさ… 父、誠二は二郎の存在にリアリティをもたせるためのイシグロの戦争を誇張した小道具で、悦子の教員時代の校長に過ぎないのではと言う気がしました。
幻想と現実、過去と未来が交錯する構造が、イシグロ作品らしい不確かさと余白を映し出している。
軒並みレビューに【⚠️ネタバレ注意】があるようにw
最後に観た人と語り合うことでさらに深まる作品。
それぞれ観る人が自分の「答え」を探し出す
まさにイシグロの真骨頂を味わえる映画だった。
“遠い山”並の話
はじめから「嘘」が強調されていたとはいえ、サスガにこれは…
結論から言えば佐知子=悦子なのだが、数カット描き直されただけで明確な種明かしは無い。
万里子は景子だし、アメリカはイギリスだし、すべての人•物•事の実在から疑わなくてはならなくなる。
やたら紅茶を出してたのが伏線なのか?
被爆が原因で離縁された悦子の先の姿が佐知子で、ミックスして語ってた??
そもそも今さら、娘に、あんな凝った嘘を語る理由がどこにあるのか。
そのままだと(明るみに出るかは別として)ノンフィクションとして嘘を発表することになるのに。
佐知子がうどん屋で働いたことは、被爆差別者との悶着を描くことにしか活きていない。
ニキの不倫も、最後の「結婚や出産がすべてじゃない」にほんの少し厚みが出た程度。
明確な、しかも単発の目的のためだけに設定やエピソードが置かれていた。
義父と元教え子の確執などのサイドエピソードも、時代の雰囲気を映すだけで本筋とは無関係。
全体的に見ても、“悦子がニキに語っている”という体にしては違和感を憶えた。
夢に出た赤いブラウスを着た瞬間の緊張感はよかったが、それまでの会話劇が退屈過ぎた。
アングルも演出も工夫なく平坦だし。
徐々に悦子の服の色が佐知子に寄っていくのは上手かったが…
広瀬すずと二階堂ふみの雰囲気の方向性が近いと感じてたので、鑑賞前から予測できちゃってたのよね。
薄っい人間ドラマを誤魔化すために無理矢理ミステリ要素を足したようにしか見えなかった。
猫の可愛さと演技力だけは必見。
文章を映像化するという事
ニキと散歩中の悦子は、昔の知り合いに偶然合い、景子は生きていると躊躇なく話します。そんなでかい嘘つく?と思いましたが、物語終盤になりこの悦子の行動は悦子の行動としてメイクセンスします。
長崎時代の、もしかしたらパンパンをしていたかもしれない悦子は(悦子が物語る)悦子の団地からの視線とは逆の、川沿いのバラックから団地を見上げる生活をしていたのではないでしょうか。戦後新しい生活を開始したピカピカの団地に住む(幸せな)人達よりもっと幸せになってやると夢見ていたのかもしれません。しかし現実は長女の自死という不幸中の不幸な出来事を経験する事になります。そんな局面で人は何を思うのか私にはわかりませんが、精神が破壊されないための防御策として、記憶を捏造、修正、リマスター、等するのかもしれません。これほどの不幸を経験していない私でも思い当たる節はあります。
ニキがインタビューする形で悦子は、自分の中にあった自分の為の物語を外にカミングアウトさせます。それが結果ニキとのわだかまりを取り去る事になり、ひいてはニキの止まっていた時間が動き出す事になります。そして悦子自身も過去を過去のものとして、フィクションをフィクションとして捉え現実を歩み始めます。そこで映画は終わります。
終盤の怒涛の(乱暴な表現すると)ネタバラシを観ながら、それから観終わった後色々なシーンが頭に浮かんできました。悦子のバラックで度々登場したバラックとは不釣り合いの美しいティーセット(というのかあれは)
斜め上から差し込む光のモチーフ。
また近いうちに観に行きたいと思いました。
文章を読んで絵を頭に浮かべる場合一人一人その絵は違いますし、想像はどこまで行っても想像です。しかし映像化された絵は皆同じ観ますし、事実のように感じがちです。その事がこの映画を観て混乱している人が多い事の一つの原因かもしれません。でも私は(原作を読んでないのに言うのもなんですが)うまく映画化できてるような気がします。面白かったです。
ネタバレしてもいいですか ことばに出せず ことばにならず
2025年映画館鑑賞85作品目
9月6日(土)イオンシネマ新利府
ACチケット1000円
原作は『日の名残り』のカズオ・イシグロ
監督と脚本は『点(2017)』『蜜蜂と遠雷』『Arc アーク』の石川慶
二階堂ふみ広瀬すず初共演
二階堂に引っ張られ広瀬妹まで上手に感じる相乗効果
いや広瀬すずだってそこそこのレベルには達しているんだけどね過小評価されがちだけど
1952年(昭和27年)の長崎
1982年(昭和57年)のイギリス
イギリス在住の日本人女性悦子が娘のニキに話すの回顧録
ロケ地
英国ハートフォードシャー
埼玉県深谷市深谷シネマ
群馬県渋川市子持神社
長崎県長崎市稲佐山
など
娘にも話したくない過去がある
悦子と佐知子は同一人物?
矛盾も多い
万里子=景子?
わけわからん落とし所
これが純文学か
最後の最後でなんじゃこれ!?
女狐につままれたくなければ観る前にオチを知っておくことを薦めたい
軍国主義が洗脳なら戦後平和主義も洗脳
ネトウヨとパヨクも根本は同じだが永遠に話は噛み合わない
悲しいけど笑っちゃう
配役
妊娠中の専業主婦の緒方悦子→悦子・シュリンガムに広瀬すず
壮年期の悦子に吉田羊
アメリカ移住を夢見るシングルマザーの佐知子に二階堂ふみ
佐知子の娘の万里子に鈴木碧桜
悦子の娘で大学中退し作家を目指すニキ・シュリンガムにカミラ・アイコ
うどん屋の店主の藤原に柴田理恵
二郎の同級生で高校教師の松田重夫に渡辺大知
悦子の夫の緒方二郎に松下洸平
元高校の校長で二郎の父の緒方誠二に三浦友和
佐知子の恋人のフランクにロマン・ダンナ
薬剤師にアダム・リース・ディー
コリンズ不動産の従業員にドミニク・アップルホワイト
恵子とニキの元教師のウォーターズにリネット・エドワーズ
展望台の旅行客にジャスミン・ローズ
展望台の旅行客にミシェル・タケ
展望台の旅行客にルビー・ヤング
うどん屋の客に林田直樹
うどん屋の客に小坂竜士
展望台の少年の晃に小松ヨキ
晃の母親に椿弓里奈
二郎の同僚に門下秀太郎
二郎の同僚に中村舜太郎
松田の同僚に平川貴彬
松田の同僚に古里友美
テキ屋に松角洋平
雑で主観的なネタバレメモなので悪しからず
悦子=さちこで、
まりこ=けいこ
であると
ということは
悦子は相当入り組んだ嘘をついていたことになる
その心はまりこ=けいこへの罪悪感
けいこがニキの父をどう思ったかは不明だけど、(まりこはフランクが嫌いと言っていた)けいこが決して望んでいない渡英を、悦子の一存で決めて決行し、結果的にけいこは自死をした。
自死の時期がわからないけど、そう遠くない時期なので、80年代の悦子は来し方の後悔を悪夢としてみる
とはいえ、悦子にとって離婚して渡英してという来し方は後悔のみではないから、人に見せる言動はフツーの毎日と言う感じなのかな
もうちょい明確な読み解きができたらよかったなーて感じ
そして、オチは割と予想通り
ただ、長崎県内?市内?にあって、被爆者とそうでないものに横たわる差別の手触りのようなもの、
ふつーの男尊女卑夫の醜悪さ
戦前教育者の罪と、それを罪と思えない本人(人格者故に余計に辛い)など、
きれいに整理がつかない混沌が、私のいる今と繋がるようで切なくなった。
私の理解力が不足しております。
終始居心地の悪い映画でした。
当時の被爆者に対する差別とか偏見はよくわかるけど
2家族のからみが良くわからなかった。
どっちのお父さんなのかも曖昧でなかなか話が落ち着かなく
私の理解力不足です。わかりやすいものしか高評価付けられません。
女優さんが年代で違う方になると途端に混乱しちゃいます。
嫁さんは「この子役あのドラマに出ていたよね」「このひと誰々の
配偶者だったよね」とすごくよく覚えているのですが、覚えられません。
結局どっちの家族なの?殺人犯は?混乱したままです。
多分佐知子さんがアメリカではなくイギリスに行ったんだと思っていますが
あまりにも物語が出来過ぎてて、あとはご想像にといわれても・・・・
よくわからなかった笑笑
原爆は恐ろしい😭
二階堂ふみさんと広瀬すずさんが同一人物なのかな❓
お腹にいる子どもがニキ❓それとも二階堂ふみさんの子ども❓
けいこがまりこか。
よくわからなかった笑笑
でも色々考えさせられる映画ではあったかな。
変わらなきゃいけない 変わって今がある
そういうことなんだろうな
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。 追記
私に友達がいてね。
で始まる昔物語、それは、実は自分のことであった。
そういえばよくある話だ。
(絶対にネタバレなしで見なくてはならない)
最後の最後まで、そのことを理解するのに時間がかかった。
途中で、え、吉田羊って悦子だよね。でも、英語を話すのは佐和子だし、え、長女の写真て麻里子、
恵子じゃなかったけ? なんであんなに他人の子である、万里子にむきになるの?
ざわざわする。佐和子はアメリカに行くって言ってるし?
では、佐和子が実はイギリスの悦子なの?
話はそんなに単純ではない。
義理の父から届いた絵ハガキはイギリスの恵子の部屋から見つかる。
ニキは姉の才能に嫉妬している。
恵子がなぜ自殺したかは語られない。
長崎の悦子の描写は、いくばくか、イギリスの悦子にもつながっているのだろう。
ならば、悦子は二郎との関係を清算したのだろうか?
本当に、おなかの子は誰の子?
イギリスにはおなかの子がいた形跡はない。
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。
原爆に対する、差別も、戦争への忌避感も、大きな声を伴っては語られない。
これはなんと美しい文学であろうか。
カズオ・イシグロは原作をそのままにトレースすると映画は失敗すると言っているそうだ。
その意味で、この映画はイシグロの世界観を見事に写し取ったと思う。
なんという成功であろうか。
広瀬が長崎時代の悦子、二階堂が佐知子、吉田がイギリス時代の悦子を演じた
松下洸平が緒方二郎 三浦友和が二郎の父の校長先生
追記
実はお腹の子はニキ?
二郎の子ではない?
なら、日本を離れるわなぁ、これも想像です。
全145件中、81~100件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。










