遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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消えない罪の意識、薄れゆく記憶(★4.2)
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの美しさが際立っていました。
戦後の復興がめざましく活気があふれていた日本。人々も希望に満ちているかに見えたが、心の傷は簡単に癒えるものではなかった。生きるためにそうするしかなかった、でもその選択に苦しんだ人生と赦しの話かと思います。
1982年、イギリス。日本人の母(吉田羊)が一人で暮らす郊外の家に、久しぶりに戻った作家志望のニキ。母は最近怖い夢を見ると言う。母は日本から連れてきた長女景子が死んだ事に罪悪感を持っていたが、家族と距離を置いていた姉を、ニキは好きではなかった。彼女は、自分が知らない母の過去を知りたいとせがむ。
1952年、戦後7年経った長崎。団地で暮らす悦子( 広瀬)は、川のそばのバラックに住む佐知子(二階堂)とその娘の万里子と親しくなる。ある日、夫(松下洸平)の父(三浦友和)が訪ねてきて、しばらく滞在する事になる。
これは、記憶にまつわるミステリーです。(以下、ネタバレです)
母の話を文章にまとめるうち、ニキは母悦子と佐知子が同一人物であり、万里子とは姉景子であると気付く。
30年前の悦子は、完璧な女性。美しく、優しく、妻としての務めもそつなくこなし、仕事も出来た。思いやりがあって、可愛げのない万里子を放っておけない悦子。
一方で、佐知子は本当の自分。自立した女性を夢見ていたけれど、戦争で傷つき、米兵と付き合い、娘を叩いたりしたこともあったかもしれない。もしかしたら、その姿は、昔出会った、自分の赤ん坊を川に沈めた女であったかもしれません。
本作は解釈の余地がありすぎて、自分で考えるしかないですが、人によって解釈は違ってくると思います。
ひょっとしたら、夫と義父も存在しなかったのかもしれません。居たとしても、悦子の話の通りとは思えません。夫が身支度を手伝わせたり、突然同僚を連れ帰ったりするのは、当時としては普通の夫ですが、身重の妻にかがんで靴ひもを結ばせるのは流石に酷すぎで、そんな男は妻の代わりに玄関に出たりしません。同僚の手前もあります。もしかしたら暴力をふるう男だったかもしれないと思いました。
義父も、嫁に気を使っていて、オムレツの作り方を覚えようかなと言っていたのに、教え子に対して激高する様子は、この人も本当は横暴な人間だったんだろうと思いました。
夢の話なのか思い出話なのかも曖昧でした。
あの箱があるという事は、猫は捨てただけで、でも長女は殺されたと思い込んだ可能性もありますし、実際に殺したから、もう一人の自分が「捨てるのでは駄目なの?」と止めたのかもしれません。
ロープを持っていたのは、娘を死に追いやった罪の意識のイメージかなと思いました。
本作は、会話だけでなく、視覚的にも敢えて違和感を入れてあったと思います。
護岸工事もしていない川のそばに立派な団地。義父の外出時に突然着物姿。佐知子の家にあった高級な食器類。なんか変だなと思ったものの、結末は想像を超えていました。
私は解釈を観客に委ねる映画は好みではありませんが、本作はそれが魅力になっています。
<追記>
本作には印象的な場面が幾つもありました。また、敢えて説明せず、曖昧にしてあるところもあるので、解釈の余地が大きい作品でした。考察を重ねても明確な答えは出せませんが、他の方のレビューも読んで、自分の考えをまとめました。
まず、1982年は現実なので、悦子は恐らく数年前に自殺した娘の事で、自分がイギリスに連れて来たせいだと責任を感じている。でも悦子は家族を大切に思っていて、その気持ちに嘘は無いと思います。
1952年時点で、娘景子は悦子のお腹の中に居たのか、それとも架空の人物佐知子の娘万里子として登場したのかは分かりません。景子が万里子なのは間違いないです。1952年の悦子の姿には、こうであったら景子は死ななかったかもしれないという願望が混じっている気がします。夫は本当は戦死していたという可能性もあります。
でも、悦子は佐知子でもあるので、アメリカで女優になりたいという夢があった悦子は男の付属物であることを良しとせずに離婚したのかもしれないし、被爆を理由に離婚され、娘の為にも外国に渡ってやり直そうと思ったのかもしれません。
いずれにせよ女性が子供を抱えて一人で生計を立てるのは困難で、バラック暮らしは大変だったはずです。悦子が黒ずくめの女を見かけて駆け付けた時に、佐知子は、「今度こそ必ず行く」と言ったと思うので、願いが叶うまでに数年かかり、行き先はイギリスになったのでしょう。
万里子が川の向こうの女の人に声を掛けられる、とか最後に悦子に対して警戒したのは、外国に行きたくないという気持ちだったのかなと思いました。
でも、被爆の事で死を予感したという考えもありますね。
ニキは母の辛い気持ちを理解しつつ、「きっと本当に理解する事は出来ないのね」と言っていました。
<追記2>
ロケ地には長崎とイギリスの他に、千葉県の印旛沼とそこに繋がる手繰川が使われました(結構地元です)レビューで不気味とか、不穏とかいう感想が多いですが、本物の印旛沼は不気味感は無い、ただ静かな所ですよ。私は正確なロケ地点を知りませんが、日当たりも良く、ウォーキングにもってこいな場所のはずです。少し離れた場所ですが、2020年に話題になった、崖の上の子ヤギのポニョの崖も印旛沼のほとりです。コロナ禍で密を避ける為に場所が伏せられましたが、崖の線路を挟んだ反対側にはオランダ風車があって、チューリップ祭りの会場になる広場があります。このチューリップの種類と株数の多さは自慢なんですが、公園に整備するらしく、2027年までお祭りは中止ですので、是非おいで下さいとは言えなくて残念です。コロナ禍が無ければ、ポニョはチューリップを掘り取った後、ひまわりの種を蒔いてるところを見ていたはずです。
最後でなるほどとわかる
1980年代のイギリスで、日本人の母とイギリス人の父の間に生まれたニキは、大学を中退し作家を目指しロンドンで執筆活動をしていた。ある日、彼女は執筆の取材のため、疎遠になっていた実家を訪れた。その家では夫と長女を亡くした母・悦子がひとりで暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去についてこれまで聞いたことがなかった。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、長崎での生活について語りはじめた。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の話だった。長崎でどんなことがあったのか、そんな話。
長崎で何があってイギリスへ移住したのだろうか、とか、異父姉の景子の死に関わる謎、など気になり、広瀬すずと二階堂ふみの演技に引き込まれた。
吉田羊の英語、上手かった。イギリスで英語を特訓したらしいが、ほとんどのセリフが英語で、大変だったろうなぁ、と思ったし、彼女の俳優魂に感動した。
佐知子と悦子、万里子と景子の関係がわかると鳥肌ものだった。
悦子は二郎に原爆を受けた事を告げて離婚に至ったんだろうと想像した。
広島でも被曝体験を語れなかった被爆者がほとんどだから。
1950年代の長崎での悦子を広瀬すず、悦子が長崎で出会った佐知子役の二階堂ふみの2人は名演技、名女優だ。
そして、1980年代のイギリスで暮らす悦子役の吉田羊も素晴らしかった。
悦子の夫二郎の父緒方役の三浦友和もプライドと過去の栄光が捨てれない元校長役が上手かった。
名俳優、名演技、そしてなるほどと納得の脚本、素晴らしい作品だった。
なかなか難解…⭐︎
カズオ・イシグロの作品は自分にはなかなか難解なものが多く、この作品もこのサイトで
他の方のレビューを拝見しないとそこまで読み取れなかったと思う。
二階堂ふみ演じる佐知子が存在しないかもしれないとは思いもよらなかった。
レビューを拝見しても、そうか!と言う気持ちといや違うと言う思いが以前としてある。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊と旬の女優達がそれぞれ素晴らしい演技で松下洸平、
三浦友和も良い。
ただ、自分には関係性が今一つ良く分からず、悦子とは一体何者という思いや夫の
松下洸平は亡くなったのか⁇
どうしてイギリスに渡ったのかなどが全て観客(読者)に委ねられている。
原作を読みば分かるのかなぁ…
それでも何とも言えないメッセージは感じるし、ここが良いというシーンがある訳では
ないにも関わらずすごくインパクトのある映画だった。
年に何本か見る映画の中で意外に印象が残る作品になりそうな気がしている。
教えは多いけれど
原作未読。
混乱した、というレビューをいくつか読んで、肝のネタバレ一文「悦子=佐知子」のみ仕入れて鑑賞。
肝さえ押さえておけば楽勝だろうと思いましたが、いや逆に混乱したような。
えっ、じゃあ娘の父親って誰なの?その父親はいまいずこ?おなかの子供はまた別?
その他いろいろ分からないことだらけで「???」となり、そのことばかりに意識がいきがちになりました。
が、次第に、訴えたいテーマはおそらくそこじゃなさそうだ、と思えてきます。
(ちなみに「???」の謎は今も解けていない。原作を読めば分かるのか?)
平和を生きる私から見て、佐知子はなかなかの毒親に見える。
実際、長女の自死のいくばくかは責任あると思うし現代ならそう捉えられると思う。
けれどニキは、違うと言う。お母さんのせいじゃない、時代のせいだと。
そこで私は、認識の甘さを知りました。
生きることに必死じゃなくてもいい現代の幸せな価値観を。
また、この映画には、時代に合わせた変化を相手に促すセリフが何度も出てきます。
三浦友和は生徒に罵倒されていたし→「あれは教育じゃない、洗脳だった。時代は変わった」
ニキも母悦子に言う。→「結婚や子育てが全ての時代じゃない。変わらなきゃ」
このへん、時代に応じたアップデートを求められがちな世代の私は耳が痛い。
正直、昨今のネットニュースでセクハラ(orパワハラorモラハラ)問題を見ていて内心感じることがあるのだ。
「私が若い頃はこの程度はたいした問題にはならなかった」と。
映画のテーマに比べて些末な置き換えですけれど・・・。
などなど、教えも多かったです。
ただ、いかんせんストーリーをちゃんと把握できていないので☆3.5で。
あとは見る側に委ねます系もそれがごく一部ならアリだと思うけれど、あっちもこっちも委ねられちゃうと消化不良が先に来てしまいます。
それと、私は戦争モノは苦手ですがコレは戦後復興からだから大丈夫だろう、と見る前は予想していました。
が、根底に流れるものはとても重く、ヒタヒタと暗い何かが迫ってくる感じ。
そか、カズオイシグロですものね。
ちょっとクスッとしたところもあって、二階堂ふみさんから「跳んで埼玉」を彷彿をさせるセリフが聞けたこと。→「あんたたちに食べさせるうどんはないよ!」(これって狙ってないよね?偶然よね?)
そして広瀬すずさんはどんな髪型でもかわいらしかったです。
イシグロらしく観る人に解釈を委ねた構成が良かった。
広瀬すずの透明感と二階堂ふみのミステリアスな存在感は、この物語に完璧にピッタリ!
二人が立つだけで物語は儚くも妖しい輝きを帯び、観る者を引き込む。息をのむ美しさだった。
【ネタバレ】
私は佐知子を緒方悦子の幻想=もう一人の自分と捉え、団地での夫の緒方二郎との整った生活は戦後何も無かったかのように繁栄し、被爆の爪痕を残した自分だけが取り残されて行く不安と絶望の象徴としての幻想で、その部屋から俯瞰する河原のボロ屋で娘・万里子との生活こそが現実だったのではないかと感じた。
万里子=恵子(長女)悦子の記憶や幻想の中で重なり合う存在。
そうなると、夫 緒方二郎の父 緒方誠二の存在は?
という事になるがこの二人の親子関係がどこか取ってつけたような空々しさ… 父、誠二は二郎の存在にリアリティをもたせるためのイシグロの戦争を誇張した小道具で、悦子の教員時代の校長に過ぎないのではと言う気がしました。
幻想と現実、過去と未来が交錯する構造が、イシグロ作品らしい不確かさと余白を映し出している。
軒並みレビューに【⚠️ネタバレ注意】があるようにw
最後に観た人と語り合うことでさらに深まる作品。
それぞれ観る人が自分の「答え」を探し出す
まさにイシグロの真骨頂を味わえる映画だった。
“遠い山”並の話
はじめから「嘘」が強調されていたとはいえ、サスガにこれは…
結論から言えば佐知子=悦子なのだが、数カット描き直されただけで明確な種明かしは無い。
万里子は景子だし、アメリカはイギリスだし、すべての人•物•事の実在から疑わなくてはならなくなる。
やたら紅茶を出してたのが伏線なのか?
被爆が原因で離縁された悦子の先の姿が佐知子で、ミックスして語ってた??
そもそも今さら、娘に、あんな凝った嘘を語る理由がどこにあるのか。
そのままだと(明るみに出るかは別として)ノンフィクションとして嘘を発表することになるのに。
佐知子がうどん屋で働いたことは、被爆差別者との悶着を描くことにしか活きていない。
ニキの不倫も、最後の「結婚や出産がすべてじゃない」にほんの少し厚みが出た程度。
明確な、しかも単発の目的のためだけに設定やエピソードが置かれていた。
義父と元教え子の確執などのサイドエピソードも、時代の雰囲気を映すだけで本筋とは無関係。
全体的に見ても、“悦子がニキに語っている”という体にしては違和感を憶えた。
夢に出た赤いブラウスを着た瞬間の緊張感はよかったが、それまでの会話劇が退屈過ぎた。
アングルも演出も工夫なく平坦だし。
徐々に悦子の服の色が佐知子に寄っていくのは上手かったが…
広瀬すずと二階堂ふみの雰囲気の方向性が近いと感じてたので、鑑賞前から予測できちゃってたのよね。
薄っい人間ドラマを誤魔化すために無理矢理ミステリ要素を足したようにしか見えなかった。
猫の可愛さと演技力だけは必見。
文章を映像化するという事
ニキと散歩中の悦子は、昔の知り合いに偶然合い、景子は生きていると躊躇なく話します。そんなでかい嘘つく?と思いましたが、物語終盤になりこの悦子の行動は悦子の行動としてメイクセンスします。
長崎時代の、もしかしたらパンパンをしていたかもしれない悦子は(悦子が物語る)悦子の団地からの視線とは逆の、川沿いのバラックから団地を見上げる生活をしていたのではないでしょうか。戦後新しい生活を開始したピカピカの団地に住む(幸せな)人達よりもっと幸せになってやると夢見ていたのかもしれません。しかし現実は長女の自死という不幸中の不幸な出来事を経験する事になります。そんな局面で人は何を思うのか私にはわかりませんが、精神が破壊されないための防御策として、記憶を捏造、修正、リマスター、等するのかもしれません。これほどの不幸を経験していない私でも思い当たる節はあります。
ニキがインタビューする形で悦子は、自分の中にあった自分の為の物語を外にカミングアウトさせます。それが結果ニキとのわだかまりを取り去る事になり、ひいてはニキの止まっていた時間が動き出す事になります。そして悦子自身も過去を過去のものとして、フィクションをフィクションとして捉え現実を歩み始めます。そこで映画は終わります。
終盤の怒涛の(乱暴な表現すると)ネタバラシを観ながら、それから観終わった後色々なシーンが頭に浮かんできました。悦子のバラックで度々登場したバラックとは不釣り合いの美しいティーセット(というのかあれは)
斜め上から差し込む光のモチーフ。
また近いうちに観に行きたいと思いました。
文章を読んで絵を頭に浮かべる場合一人一人その絵は違いますし、想像はどこまで行っても想像です。しかし映像化された絵は皆同じ観ますし、事実のように感じがちです。その事がこの映画を観て混乱している人が多い事の一つの原因かもしれません。でも私は(原作を読んでないのに言うのもなんですが)うまく映画化できてるような気がします。面白かったです。
ネタバレしてもいいですか ことばに出せず ことばにならず
2025年映画館鑑賞85作品目
9月6日(土)イオンシネマ新利府
ACチケット1000円
原作は『日の名残り』のカズオ・イシグロ
監督と脚本は『点(2017)』『蜜蜂と遠雷』『Arc アーク』の石川慶
二階堂ふみ広瀬すず初共演
二階堂に引っ張られ広瀬妹まで上手に感じる相乗効果
いや広瀬すずだってそこそこのレベルには達しているんだけどね過小評価されがちだけど
1952年(昭和27年)の長崎
1982年(昭和57年)のイギリス
イギリス在住の日本人女性悦子が娘のニキに話すの回顧録
ロケ地
英国ハートフォードシャー
埼玉県深谷市深谷シネマ
群馬県渋川市子持神社
長崎県長崎市稲佐山
など
娘にも話したくない過去がある
悦子と佐知子は同一人物?
矛盾も多い
万里子=景子?
わけわからん落とし所
これが純文学か
最後の最後でなんじゃこれ!?
女狐につままれたくなければ観る前にオチを知っておくことを薦めたい
軍国主義が洗脳なら戦後平和主義も洗脳
ネトウヨとパヨクも根本は同じだが永遠に話は噛み合わない
悲しいけど笑っちゃう
配役
妊娠中の専業主婦の緒方悦子→悦子・シュリンガムに広瀬すず
壮年期の悦子に吉田羊
アメリカ移住を夢見るシングルマザーの佐知子に二階堂ふみ
佐知子の娘の万里子に鈴木碧桜
悦子の娘で大学中退し作家を目指すニキ・シュリンガムにカミラ・アイコ
うどん屋の店主の藤原に柴田理恵
二郎の同級生で高校教師の松田重夫に渡辺大知
悦子の夫の緒方二郎に松下洸平
元高校の校長で二郎の父の緒方誠二に三浦友和
佐知子の恋人のフランクにロマン・ダンナ
薬剤師にアダム・リース・ディー
コリンズ不動産の従業員にドミニク・アップルホワイト
恵子とニキの元教師のウォーターズにリネット・エドワーズ
展望台の旅行客にジャスミン・ローズ
展望台の旅行客にミシェル・タケ
展望台の旅行客にルビー・ヤング
うどん屋の客に林田直樹
うどん屋の客に小坂竜士
展望台の少年の晃に小松ヨキ
晃の母親に椿弓里奈
二郎の同僚に門下秀太郎
二郎の同僚に中村舜太郎
松田の同僚に平川貴彬
松田の同僚に古里友美
テキ屋に松角洋平
雑で主観的なネタバレメモなので悪しからず
悦子=さちこで、
まりこ=けいこ
であると
ということは
悦子は相当入り組んだ嘘をついていたことになる
その心はまりこ=けいこへの罪悪感
けいこがニキの父をどう思ったかは不明だけど、(まりこはフランクが嫌いと言っていた)けいこが決して望んでいない渡英を、悦子の一存で決めて決行し、結果的にけいこは自死をした。
自死の時期がわからないけど、そう遠くない時期なので、80年代の悦子は来し方の後悔を悪夢としてみる
とはいえ、悦子にとって離婚して渡英してという来し方は後悔のみではないから、人に見せる言動はフツーの毎日と言う感じなのかな
もうちょい明確な読み解きができたらよかったなーて感じ
そして、オチは割と予想通り
ただ、長崎県内?市内?にあって、被爆者とそうでないものに横たわる差別の手触りのようなもの、
ふつーの男尊女卑夫の醜悪さ
戦前教育者の罪と、それを罪と思えない本人(人格者故に余計に辛い)など、
きれいに整理がつかない混沌が、私のいる今と繋がるようで切なくなった。
私の理解力が不足しております。
終始居心地の悪い映画でした。
当時の被爆者に対する差別とか偏見はよくわかるけど
2家族のからみが良くわからなかった。
どっちのお父さんなのかも曖昧でなかなか話が落ち着かなく
私の理解力不足です。わかりやすいものしか高評価付けられません。
女優さんが年代で違う方になると途端に混乱しちゃいます。
嫁さんは「この子役あのドラマに出ていたよね」「このひと誰々の
配偶者だったよね」とすごくよく覚えているのですが、覚えられません。
結局どっちの家族なの?殺人犯は?混乱したままです。
多分佐知子さんがアメリカではなくイギリスに行ったんだと思っていますが
あまりにも物語が出来過ぎてて、あとはご想像にといわれても・・・・
よくわからなかった笑笑
原爆は恐ろしい😭
二階堂ふみさんと広瀬すずさんが同一人物なのかな❓
お腹にいる子どもがニキ❓それとも二階堂ふみさんの子ども❓
けいこがまりこか。
よくわからなかった笑笑
でも色々考えさせられる映画ではあったかな。
変わらなきゃいけない 変わって今がある
そういうことなんだろうな
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。 追記
私に友達がいてね。
で始まる昔物語、それは、実は自分のことであった。
そういえばよくある話だ。
(絶対にネタバレなしで見なくてはならない)
最後の最後まで、そのことを理解するのに時間がかかった。
途中で、え、吉田羊って悦子だよね。でも、英語を話すのは佐和子だし、え、長女の写真て麻里子、
恵子じゃなかったけ? なんであんなに他人の子である、万里子にむきになるの?
ざわざわする。佐和子はアメリカに行くって言ってるし?
では、佐和子が実はイギリスの悦子なの?
話はそんなに単純ではない。
義理の父から届いた絵ハガキはイギリスの恵子の部屋から見つかる。
ニキは姉の才能に嫉妬している。
恵子がなぜ自殺したかは語られない。
長崎の悦子の描写は、いくばくか、イギリスの悦子にもつながっているのだろう。
ならば、悦子は二郎との関係を清算したのだろうか?
本当に、おなかの子は誰の子?
イギリスにはおなかの子がいた形跡はない。
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。
原爆に対する、差別も、戦争への忌避感も、大きな声を伴っては語られない。
これはなんと美しい文学であろうか。
カズオ・イシグロは原作をそのままにトレースすると映画は失敗すると言っているそうだ。
その意味で、この映画はイシグロの世界観を見事に写し取ったと思う。
なんという成功であろうか。
広瀬が長崎時代の悦子、二階堂が佐知子、吉田がイギリス時代の悦子を演じた
松下洸平が緒方二郎 三浦友和が二郎の父の校長先生
追記
実はお腹の子はニキ?
二郎の子ではない?
なら、日本を離れるわなぁ、これも想像です。
見終わった瞬間から一日中考察が続いてしまって大変…
難しい作品だった。
エンドロール中にはすでに「???」と、物語の復習が始まり、帰り道もずっと考え込んでしまった。
考える時間のあるときに見た方がいい作品なのかもしれない。
何はともあれ、主人公となる3人の女性たちは美しく、ミステリアスで素敵だった。
流れるような会話もテンポ良く、耳ざわりがよかった。
それを取り巻く他の俳優さんたちの演技も素晴らしく、それぞれの人が映るときには、その人たちは主人公になる。
あえて声だけ、手先だけ、背中だけ、といった画像表現も、作り手の意向が様々感じられ、凝られた作品だと感じた。
原作を読んでないせいなのかもしれないが、一度観ただけでは消化しきれない映画で、何度か観なければ、と思った。
暗闇を走るシーンがあったり、映画館でなければきちんと見ることができない映像もありそうなので、ぜひ映画館でみることをお勧めする。
どうしても、感想に考察を載せたくなってしまう…
これはこの物語に囚われた人の宿命だろうからご容赦いただきたい。
制作側は解釈を受け手側に任せており、自由に考えて良い。
決して「正解」があるわけではなく、私が想像で補いつつ考えた考察であるので、「違うよ」と思われる方もいるだろう。
あくまでも一個人の受け取り方を述べてみる。
以下は作品の考察となるので、観ていない方は鑑賞後にしていただきたい。
**************
個人的な考察であるが、この物語には時間軸が実は3つあるのではないかと思う。
一つは悦子が若い頃の団地住まいの時間軸。
二つめは佐知子の時間軸。
そして三つめはイギリスで過ごしている時間軸。
一つめと三つめは初めから明らかにされており、区別するのに問題はない。
二つめが別人の時間軸だとして物語が進むが、佐知子は後に悦子と同一人物であることが明らかにされる。
ここで我々は混乱に陥り、帰り道にぐるぐる考えながら帰るハメになる。
個人的な考えを述べると、
①被爆を隠し、団地住まいだった時代
②被爆に向き合い、明らかにした結果、バラック住まいに落ちた時代
③その後の現在
という、1人の女性の半生を描いた物語なのだと思う。
団地住まいの頃、被爆したことを隠し、表向きには幸せな生活をしていた。
おそらくその頃に、川の向こうにバラックを見ていたのだろう。
ただ、その時は、自分の生活を守るため、きっと遠くから眺めるだけだっただろう。
夫は被爆に対して拒否的であり、もし夫にバレたなら、「きっと私もあの場所に行くことになるだろう」と思いながら…
そこに、義父が現れ、戦時中の行いで昔の教え子と口論しているのを見る。
「過去と向き合わなければ、変わらなければ」と義父に言う言葉は、自分にも向ける刃となる。
そして、「私が被爆していたら?」という問いにつながる。
夫は「今さら何の話を」という様子だが、被爆という過去に向き合った彼女は離縁され、お腹にいた景子とともにあのバラックでの生活に行きつく。
母子家庭であの頃生きていくのは、佐知子が言うように何でもしなければ生きていけなかっただろう。
その頃に新しく「夫」と出会い、景子(作中では途中まで万里子)を伴って渡英する。
作中、万里子が被爆で差別を受けているとあるが、景子は戦後生まれなので、被爆2世でしかない。
そう考えると、景子が受けたという差別は、それすらも「自分への差別」を転換したものなのかもしれない。
ちなみに、佐知子は渡米する話になっているが、それも「嘘」というか、他人の話になるための要素だったのだと思う。
佐知子の家にはイギリス式のお茶を楽しむ食器があり、度々紅茶を楽しんでいる。
あのバラックに出入りしていた男性は、イギリス出身と考えるのがしっくりくる。
そして、全てを経験した後のイギリス在住の現在。
ニキと言い争うシーンの真意まではまだ理解できていないが、悦子は子供たちが自分で選んだ人生を認めているのだろうと思う。
むしろ、被爆の過去を隠していた自分の過去の方が、恥ずかしい記憶なのかもしれない。
過去に出てくる縄は、まとわりつくしがらみや苦しみの表現なのだろう。
色づいたもみじが移動して日が当たるのも、人生の終盤だが、これからの彼女の人生が明るく照らされる比喩なのかもしれない。
と、自分を納得させるためにじっくり考察した内容は以上。
この考察を胸に、もう一度観てみたい。
どのみち答えはないので、自由に受け取り、作品と対話しよう。
質の高い作品で、とても素晴らしかった。
久しぶりにいいミステリーを観た。
戦後の長崎を経て、イギリスへと移り住んだ女性の過去と、現在を交互に行き来する今作。
一風変わった変わった女性の佐知子と出会い、関係を続ける主人公。
そして夫と娘を亡くしながらもイギリスで暮らす主人公の誰にも見せない心の奥深くに迫りたいとする2人目の娘。
2人のやり取りと過去の回顧録から察するストーリーは、ミステリーとして凄く濃厚で、簡単に正解を示さない。
また原爆の被害者の心の傷に迫った物語なのかと思いきや、この作品がフォーカスを当てているのは果たしてそれではない気がする。
それよりかは、チェンジをしながら前に進む人としての強さを感じた。
そこが凄く良かったと思う。
嘘、願望、夢、記憶、現実。そして希望。
原作は未読だが、非常に文学的な印象を受ける映像作品だった。
現在(80年代)のイギリスと過去(50年代)の長崎を行きつ戻りつ進む物語。
薄暗く、湿気を帯び、不穏な雰囲気の漂うイギリスのカントリーサイドの平屋の家。
窓から光がさす、どこか希望を感じさせる団地の一室。
豊かな現在と悲惨な過去の対比がなされるのかと思っていたが、どうやらそう単純な話ではなさそう。陰鬱さの漂う現在の悦子。過去の若い悦子も朗らかのように見えて何かを抱えている。単なるヒューマンドラマではない。ミステリアスな雰囲気。
過去の悦子が抱えていたものは、そこが長崎であることから、生き残った人々が抱えているであろう忌まわしい原爆の傷であることは容易に想像できる。しかし、彼女が抱えているもの(内に秘めているもの)がそれだけではないということが、佐知子と万里子の母娘、元上司であり義父の緒方、夫の二郎との関わりの中で徐々に浮かび上がってくる。
佐知子と万里子に惹かれていく様子。緒方との弁当の会話、バイオリンをやめた話。順調なようでどこか冷めた二郎との関係性。
しかし、一体何を秘めているのか、はっきりしない。
佐知子と万里子の暮らすバラックは、橋を渡った先の湿地帯のようなところに建っている。その向こうには一切の人工物が見えない。バラックの中に入ると場違いなテーブルと洋食器、ライトがある。この2人はこの世の者か?実在するのかという疑問符が浮かぶ。
色々な場面に、違和感を抱きつつも物語は静かに進んでいく。
突然、ゾワッとして鳥肌がたった。
ロープウェイで登った展望台で悦子と佐知子が並んで会話を始めたときのことだ。
佐知子はもう一人の悦子!急に合点がいった。では、万里子は一体誰?
万里子の正体は、それから徐々に明らかになり、最終盤で完全に明かされる。しかし、この物語は、悦子の妊娠や二郎の存在など、つじつまの合わない細部の真相を明らかにしない。それは、映画のポスタービジュアルに描かれたように「嘘」だったのだろうか?
ここから先は、映画を見た人それぞれの考察になるだろうが、私は全てが「嘘」ではなく、そこには真実や願望、夢も含まれていただろうと思う。あるいは、悦子が自死で失った娘に対する贖罪と自己防御のために「歪めた記憶」も含まれていたかもしれない。
この作品は、文章から場面映像や登場人物の心情を想像をするような小説を読むような感覚を覚える。
戦争・原爆で見た地獄と生き残り背負った罪の意識。
家庭や世間体に縛られず自己実現を果たしたい女性。
失った娘への贖罪と後悔。
(真相を知らない故に)姉への嫉妬、母への複雑な感情を抱える妹。
そして、変わろうとする人、変わることのできない人・・・。
非常に文学的で、重層的な作りになっているように感じた。
長崎編の広瀬すず、二階堂ふみは、役柄に非常に合う配役だったと思う。イギリス編の吉田羊とカミラ・アイコの演技もよかった。
相当難易度の高そうな原作の映画化を成し遂げた石川監督の手腕は凄い。「ある男」で人間とは何か、ということを考えさせられたが、本作も人間について考えさせられる作品だった。
後半もう少し短くまとまっていたら・・・という思いもあるが、余韻と前向きな希望を残すまとめ方も、選曲にもセンスを感じる作品だった。
母の本心を想像する
母の悦子より、長崎時代の話を聞く次女のニキ。母が語る被ばく体験、佐知子母娘、長女の自死などの話が絡み合い、徐々に不穏な空気が漂う。他にも、母はなぜイギリスに来たのか、なぜ家を売り出すのか、悦子と夫との関係、義父の戦時教育、ニキ自身の問題など、さらに不穏な空気が漂う。
後半になって、ニキは母の語る話に疑問を持つが、見ている私たちも混乱させられる。何が真実なのか、母の本心は何か、はっきりと描かれていないので、想像するしかない。ただ、誰もがいつも正直に、真実を語ることはないのは当たり前なのだ。人間だもの。分かりやすい映画が好きな人は納得しないだろうけど、見ている人が自由に感じて、考えるのも、映画の見方ではないだろうか。
本当に辛い過去をどう伝えるか
ネタバレがあるので見る前には読まないでください
「友達の話なんだけどね」というのが実は自分の話だったりするのは良くある話。それは友達の話という部分は嘘かもしれないが、伝えたいことは満たしているかもしれない。そういう意味では嘘が混じっていても伝える価値はあるのかもしれない。
結論としては、悦子が佐知子とその子供(万里子)と語っているのはフィクションであり、良き妻でいようとする自分がいる一方で未来へ向けて葛藤しているもう一人の自分がおり、それが佐知子という架空の人物として語られていて、万里子は実際は景子のことに他ならない。そのことは明示こそされないものの間接的に表現されている。つまり、会話ではなく、写真や映像で表現されており、なかなか難しい映画でもある。
話を元に戻すと、どう考えてもいくら考えても、自分を主語にして話せないことが世の中にはあるのかもしれない。世の中とは残酷なもので、自分がどうしてもこうしたいとという時にだれかの夢や希望を奪ってしまうことだって現実にはある。
悦子は、いい妻でありたい一方で、被曝しているとわかられた瞬間に平和な時間は終わって、酷い扱いを受けるかもしれない、海外で女優になりたいという希望も捨てられない、男性社会の中で女性は弱い立場でもある。ここから逃げたい、それは子供である景子の希望を奪い取ってでも成さなくてはならない。自分の夢のためには犠牲があっても前へ進むのだ。それは悲壮な決意でもある。
悦子は大筋は後悔はしていないだろう。でも疼くのだ、景子が大切にしたかったものを自分の夢のために自分の手で葬ってしまったこと、嫌がる景子をイギリスまで連れてきたこと。そして結果的に馴染むことなく自分で終止符を打つことにさせてしまったことに。
景子の部屋を見ると悦子が景子のことを自分目線で大事に思っていたことは確かであるが結果としては景子本人の目線で大切にしたい意思や希望を潰す形で夢を推し進めたということになって、景子を深く傷つけ、それは治癒されることなく景子はこの世を去った。
子供は親の運命に翻弄されることがある。大きく翻弄されることがある。今回はその結果何処へも行けなくなった子供の話でもある。しかし思うのは、翻弄される中でも自分で運命や宿命に逆らって生きる強さを持たなければならない。親を恨むことは簡単だ、でも運命や宿命に逆らって自分で人生を切り開くことの大事さを世の中でもっと認識して欲しいと、親に大きく翻弄される人生を歩んできた自分は個人的には思うのである。
なにしろ色が良くて 追記
原作未読、とても素直にスジを追って、美しい映像にジャストな演技に酔っ払っていい気持ち。あり?え?はぁ…。なるほどぉ。今年の上位は確定した。
撮影がヨーロッパ人だからなのか、今作もまた細部までコントロールされた映像が素晴らしい。特に1950年代の長崎。街並みや家の中や小物類。土手の草ぼうぼうな段も。
広瀬すず始め役者はみんな良いけど、二階堂ふみが特に良かったね。あの子も良かった。
(追記 スジが合理的に整合できないところや矛盾は、本人自身が整理しきれていないことを示している、と好意的に解釈しました。)
しかしね。イオンシネマ武蔵村山で鑑賞後にパンフレットを購入したのだが、元々ビニール袋に包装された状態で売られていたので、男性店員の「袋入りますか?」の問いに「要りません」と回答したら、元々入っていたビニール袋をわざわざ外して裸で渡された。いやあ驚いたわ、一手間かけちゃうんだねー、いやいや。
評価が分かれるようだが
事前にいくつかのレビューを読んで、あまり期待せずに鑑賞したが、想像以上に良かった。
被爆で地獄をみた一人の女性の強く生きる心と、その裏に閉じ込めている弱く壊れた心の様子を、二人の女性の人生を通して表現したかったのてはないかと思った。
現実なのか想像なのか、全てを分かりやすく描写されてない分、観る人によってストーリーは別の解釈になると思う。
個人的には戦争の生々しい苦しみを感じることができる名作だと思う。
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