遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
全145件中、61~80件目を表示
久々にテーマのはっきりした映画でした
難解とのレビューが多かったので、覚悟をもってみましたが、悦子の回想を通じて見えた、戦前教育からの脱却と女性の地位向上というテーマがしっかりと伝わって来ました。
何故、次郎と悦子が離婚したのかとか、広瀬すずにはちょっと役どころが重すぎたのではないか、とかの細かい不満はが私にはありましたが、見てよかったと思える作品でした。
理解できない派でした
110分までは良かったけど、最後の最後で妄想って⋯なんでもあり過ぎでは。嘘と言うには設定が分厚すぎるし余白が多すぎる。
猫ではなくケイコを殺してしまっていたようにも解釈できるし、ニキも最初からいなかったかもしれない。そもそもイギリスにも行ってない創作かもしれない。いや、創作なのですけどね。。。
ニキが実在すると仮定して、お父さんの手紙がなぜ実在するのかが分かりませんでした。
→全て実在していて、佐知子は米国、悦子は英国に行ったという解釈もできるのですかね。うーん、この設定がない方が私は楽しめた気が⋯
ストーリーはさておき、キャストの演技は素晴らしく、稲佐山での2人の掛け合いの美しさに特に感動した。
ジャンプスケア的なシーンが多かった点は好きになれなかった。
嘘は幸せと平和への願い
今年は終戦80年。…にも関わらず、反戦を訴えた作品に決定打が無かった気がする。『雪風』なんてとんだ時代錯誤作で落胆を通り越して呆れた。
9月になってようやく本命作登場かと期待。
それが本作。カズオ・イシグロのデビュー小説の映画化。
1980年代からイギリスに拠点を移し活躍する氏だが、元々は長崎生まれ。母親が原爆投下で負傷するなど長崎の悲劇やあの戦争を身をもって体現。
戦争を全面に押し出すのではなく、記憶や心の傷や過去の陰として忍ばせ、戦争を問う。私の好きな作風。
しかし…。
1980年代の英ロンドン。大学を中退し、作家を目指す若い女性ニキは、母・悦子が一人暮らす実家に赴く。
母は日本人で父はイギリス人。ニキは二人目の娘。
悦子は昔長崎に住んでおり、日本人男性の最初の夫が。長女・景子もいた。
最初の夫と別れイギリス人の夫と再婚し、景子を連れてイギリスへ。
が、景子は自殺。夫とも死別。以来ニキとも関係がぎくしゃくし、疎遠になり…。
何故異父姉は自殺したのか…? 何故母は日本を離れイギリスに渡ったのか…? 長崎時代の母に何があったのか…?
長崎を題材にした本を書く為、ニキは母に過去を聞く。悦子が語り出したのは、よく見る夢の話…。
戦後すぐの1950年代の長崎。悦子は夫・二郎と団地で暮らし、身籠っていた。
団地から望める河を挟んだバラックに、米兵が出入り。そこには一人の女性が暮らしていた。
悦子はひょんな事からその女性・佐知子と娘・万里子と知り合い…。
現在と過去が交錯。
現在は現悦子の心情やニキとのぎくしゃくを反映して、淡々静かで映像も暗め。
過去は二人の女性の出会いや交流を表すように、美しい射光やノスタルジック。
どちらも映像・照明・美術・衣装が素晴らしく美しく、それぞれの時代の空気を感じさせる。
とりわけ50年代長崎の佐知子が暮らすバラックや店々が並ぶ裏通りなどは戦後の傷痕を醸し出す。
その一方、悦子の暮らしはブルジョワ風。
それを対比させる悦子と佐知子。
意外にもこれが初共演の広瀬すずと二階堂ふみ。現日本映画界を代表する若き実力派二人の共演にまず惹かれた。
今年は『ゆきてかへらぬ』『片思い世界』『宝島』と快進撃。広瀬すずが昭和の日本女性の美しさを魅せる。
ミステリアスで独特な雰囲気で印象残す二階堂ふみ。個性的な役をやらせたら同世代随一。
とにかくこの二人が魅せてくれる。眼福もの。
吉田羊はほとんど英語台詞で、流暢な英語を披露。
カミラ・アイコの聡明さ。子役・鈴木碧桜の野生児のようなインパクト。初めましての二人も印象的。
松下洸平や三浦友和もアンサンブルを奏でるが、女たちの物語。美しさ、儚さ、魅力に浸る。
悦子と佐知子。性格は違う。
貞淑な妻の悦子に対し、佐知子は自由奔放。悦子は夫の後ろに一歩下がるが、佐知子は柄の悪い男にも食って掛かる。
悦子が佐知子の自立した姿に憧れを感じていくのは見ていて分かる。
あの時代に特に女性が、そんな生き方は難しかった。
憧れや対比であると同時に、似通っている部分もある。
悦子は佐知子の自由な生き方に憧れている。佐知子も自由に見えて、自由を欲している。
娘のいる佐知子と身籠っている悦子。若い母親として。
だからそんな二人がシンパシーや交流深めるのは必然だが、それ以上の関係が…。
二人共、被曝者。
悦子は自信の被曝によりお腹の子供にも影響が…と気が気でない。被曝の事を夫にも隠している。
悦子が涙ながらに苦しい胸の内を打ち明けるシーンは広瀬すずの熱演もあって胸に迫る。
佐知子の場合は自身は元より、万里子の身体にはっきりと被曝の痕が。
働く飲食店の客から風評差別を受けるシーンがあったが、まだまだこんなものではないだろう。
カズオ・イシグロが長崎時代に受けたであろう風評被害への憤りを感じた。
戦争が終わり、時代は新しく変わっていく。しかし、それを受け入れられない者も。
悦子の義父は小学校の元校長で、悦子もその下で勤めていた恩師でもある。穏やかな義父だが、当時子供たちに軍国主義の教えを説いていた。あの当時だから…ではあるが、義父は自分は間違っていないと断言。その事で息子と考えの違い、教え子から糾弾される。
原爆や戦争の後遺症を引き摺り…。ここだけでも『雪風』なんかより見るべきものあった。
『愚行録』『ある男』と同系統でヒューマン×ミステリーは石川慶監督のスタイルになりつつある。
カズオ・イシグロが敬愛した小津安二郎や成瀬巳喜男のような静かなタッチの人間ドラマの中に、徐々に明かされていく秘密。悦子の“嘘”。
そこが驚きのどんでん返しになるのだが、ズバリ、佐知子=悦子、万里子=景子。佐知子と万里子は実在しておらず、全て自分たち母娘が体験した事だった…。
何故悦子はそんな回りくどい話を…?
ただ体験談としては辛く苦しいものがある。あの時代の女たち…。
架空の憧れの存在を置く事で少しでもの救いを。
実在はしてなかった。でも、私たちや彼女のような女性は何処かに存在していた。
娘の事もある。思い出の中の美談“女たちの遠い夏”だけではない。
色々と考察のしがいあるが、府に落ちない点も。
長崎時代の悦子の夫や義父は存在していたのか…?
と言う事は、景子は二郎の娘…?
米兵とアメリカに行く筈だったのに、何故イギリスに…?
イギリス人夫との出会いは描かれなくても致し方ないが、景子が自殺した理由は…?
景子との間に何があった…?
アメリカ行きの事で揉め、子猫も原因…?(はっきりとは見せないが、猫好きには辛いシーン…)
悦子とニキも何がきっかけで確執解消…?
ここら辺も見る者委ねで見た人によって解釈はあるが、どうも宙ぶらりんな感じが…。
考えに馳せて作品に浸れるというより、イマイチすっきりしないモヤモヤ感しか残らなかった。
戦争の傷痕、女たちの姿/女優陣の演技、作品の美的センスなどは良かったが…。
全体的にちょっと分かり難かった気もする。
戦後の過渡期を生きた人々
カズオ・イシグロ作品の特徴であるいわゆる「信頼できない語り手」による手法で描かれた本作。
主人公の悦子自身により語られる彼女の過去の出来事。それは彼女が渡英する前、故郷の長崎での夏のひと時、友人関係にあった佐知子とその娘万里子との出来事であった。
戦後の混乱期から高度成長期へと向かおうとしていた当時の日本。戦争の傷をいやす暇もないくらい好景気に沸き、人々は活気づいていた。
悦子も夫の二郎の仕事は順調で生活は安定しており、初めての子供にも恵まれた。そんな社宅の団地に住む悦子とは対照的な暮らしをしていた佐知子。名家に嫁ぎながら戦争で夫を失い、いまや貧しくみじめな生活を強いられていた。
彼女には裕福な叔父の家での安定した暮らしという選択肢があったが、米国人の恋人との渡米にこだわった。
敗戦後日本にもたらされた民主主義が人々に自由を与えた。それは戦前、軍国主義の下で思想統制がなされ多くの思想家たちが投獄されていた時代とは真逆の自由な時代。
かつて体制側に加担した悦子の義父緒方は職を解かれ糾弾される立場となった。かつての教え子でさえ自分を批判する寄稿文を寄せている。彼もこの時代の過渡期に、価値観の変化に置いてきぼりを食らった人間の一人だった。
一方で女性たちには参政権が認められ、女性の自由意思が認められる時代になったかとも思われた。しかし実際は夫と異なる政党への投票は憚れるなどまだまだ女性たちには不自由な時代であった。
安定した暮らしを得る代わりに女性は家に入りそこでただ漫然と歳をとっていく、そんな人生から抜け出したいと佐知子が渡米を願ったのも無理からぬことであった。確かに渡米すればそれが必ずしも幸せにつながるとは言えない。それでもそれに人生をかけたいという彼女の思いは強かった。たとえそれが自分の娘を犠牲にすることとなったとしても。
劇中で何かと不穏な描写がなされる。幼児連続殺人事件の報道、赤ん坊を水につけて死なせる若い女の話、万里子の飼う子猫を川に浸して死なせる佐知子、足に絡まった縄を手にして近づく悦子におびえ警戒する万里子。これらの描写はこの過去を回想する悦子自身の主観が大きく影響したものと思われる。
悦子は友人佐知子のことを話しているようでその実、自分のことを話していたのだ。彼女は自分の人生の決断に負い目を感じていた。娘景子を犠牲にしてしまったという負い目を。だから自分のことを他人の話に置き換えて娘ニキに話していたのだった。
夫二郎との生活に満足してるようで悦子の心は揺れ動いていた。ここでの安定した生活、ここで暮らす方が娘景子にとってはいいことなのだろう。しかしそれは自分が女としてただ家に閉じ込められて漫然とした人生を送ることを意味した。
悦子は昔ながらの日本の古い価値観の下で女性の自由意思が尊重されない人生よりも知りあった英国人男性との渡英の道を選んだ。それが娘景子を幸せにしないと知りながら。
彼女は自分の人生のために娘を犠牲にしたのだ。もちろん結果的に不幸な結末を迎えただけで必ずしも悦子のせいだとは言いきれないが、少なくとも景子の自殺が彼女にそのように思い込ませたのは事実だった。
過去の回想の中での数々の不穏な出来事は親にとって足手まといの子殺しを思わせるものであり、悦子が娘を自死に至らしめたこと、娘を犠牲にしたことへの罪悪感が彼女の過去の記憶に干渉したからであろう。
景子は新しい環境になじめず引きこもりになり、はては自死にいたった。これは悦子のせいではないのかもしれないが、母として娘を犠牲にしてしまったという重荷を感じずにはいられなかったのだろう。そんな彼女の負い目が本作で彼女を「信頼できない語り手」とならしめたのだ。そして見る者はそのヒューマンミステリーに酔いしれるのである。
思えば新しい環境になじめなかった景子は古き時代の象徴ともいえた。新しい価値観を受け入れることができず保守的な性格が災いして周りの環境に溶け込むことができず破滅を迎えてしまう。
時代の変化と共に価値観も変化する。その変化についていけない人間は生きづらくなる。緒方がそうであったように。
悦子は時代の変化に順応してこの古き祖国を捨て去り新たな環境へと旅立った。女性が自由に生きられる環境を求めて。
そしてそこで生まれたニキは母悦子との価値観の相違に苦慮していた。ニキはもはや結婚にさえ縛られない、女性として生きる上で制約を一切感じない生き方をする女性であり、渡英のために結婚に頼らざるをえなかった母悦子以上に何物にもしばられない自由人であった。そんな彼女にすれば結婚にこだわる母悦子は彼女にとっては古い価値観の持ち主であった。
ある意味古き時代の象徴ともいえる景子の犠牲のもとに新しい時代の象徴のニキは生まれた。ニキは母の決断は正しかったと励ます。その決断のおかげで今の自分が存在するのだから。ニキに励まされて悦子も納得するが、それでも彼女は娘景子を想う。
祖国を捨て、娘を捨ててまで自分の人生を手に入れようとした悦子。古き日本を捨てて、自由を求めて渡英した。しかし彼女は古き時代の象徴ともいえる緒方を尊敬し慕っていた。
日本の持つ古き伝統や習慣を愛していた。そんな祖国に置いてきたものへいま彼女は思いを馳せる。娘への思い、義父への思い、あの日見た遠い山並みの光に今彼女は思いを馳せる。この遠い異国の地から。
本作は原作者がエグゼクティブプロデューサーをつとめただけにかなり完成度の高い映画化であった。
雰囲気は館ものゴシックホラーに近い
原作未読。美しい女優、穏やかな情景をずっと映しているのに、極端なアップや画面の狭さもあって、ひたすらに不穏。終盤の、封じられた部屋で家族の秘密のアルバムを恐る恐るめくる…というシーンはこの映画全体の縮図でもある。原爆による大量死を背景に、長崎から渡英した女性の苦難の一生を辿る…といったありきたりな要約では到底収まり切れない、暗く恐ろしいなにものかが、この物語の奥底に隠されている。1枚1枚薄皮を剥ぐように、その核心へと進んでいく本作の道行きには、奇妙な酩酊さえ覚えるが、最後に至っても、「真実」は薄暗い闇の中に残されたまま。(例の「紐」は、渡英の邪魔となる娘への殺意を象徴したものだ、とか渡英によって結果的に娘を自殺させたことへの悔恨が回想に投影された、とか)解釈を巡らせることはできるが、推理小説のように謎がきれいに解き明かされはしない。3人の父、3人の女、3人の娘が居て、うちそれぞれ1人は幻、もしくは亡霊のようなもの…といった図式も描けるか。謎を「箱」(本作に繰り返し登場する象徴的アイテム)に押し込めたまま、ただ生き続けるしかない…彼女たちも、我々も。恐らく今年の邦画で一番の大傑作。
原作は「信用できない語り手」の悦子が一人称で語る(騙る?)小説 映画は母の語りを聞いて回顧録を編む悦子の娘ニキの視点が加わるメタ構造 モダンホラーと文芸作品の両面を持つ傑作
原作は1982年発表の日系英国人のノーベル文学賞作家カズオ•イシグロの長篇デビュー作『遠い山なみの光』(原題: “A Pale View of Hills”)です。この小説は1980年代初頭の英国に住む悦子という長崎出身の日本人女性が1950年代前半のある年の夏を回顧して書いたという形式で「わたし」(悦子)の一人称で語られます。
登場人物は悦子(映画では広瀬すずが演じています。’80年代の悦子は吉田羊)とその周囲にいる人々、夫の二郎(松下洸平)、二郎の父親で悦子からみると義父にあたる「緒方さん」(映画では三浦友和が演じています。二郎との結婚前から交流があるようで一時期は悦子の養父みたいな存在であったみたいなことが小説では示唆されますが、背景はよくわかりません。映画では小説より少しだけ具体的になります)、古くからの知り合いでうどん屋さんを経営している藤原さん(柴田理恵)、緒方さんのかつての教え子で今は緒方さんに批判的な松田重夫(渡辺大知)、そして、悦子にとってはその夏に知り合った新たな友人である佐知子(二階堂ふみ)、佐知子の幼い娘 万里子(鈴木碧桜)。一夏の間の(映画では1952年と表示される)、悦子とこれらの人たちとの直接的、間接的な交流が淡々と描かれます。
そして、80年代パートには悦子の娘ニキ(カミラ•アイコ)が登場します。原作小説は悦子の一人称語りなので視点が悦子から動くことはありませんが、映画のほうでは、ライター志望のニキが母親の語りをもとに自分の英国人の父親と結婚して英国にやって来た母親の回顧録を書こうとしているという設定が新たに加わり、80年代パートはニキの視点で描かれていると思われます。また、ニキには日本生まれで悦子といっしょに英国に渡ってきた景子という姉がいたのですが、自死してもういません。50年代パートで語られる夏は悦子が未来の景子を妊娠していた時期です(この景子という名は、50年代には既に亡くなっていた緒方さんの妻、すなわち、悦子の義母の名前からとったと原作小説にはありました)。
さて、50年代パートですが、登場人物それぞれのその夏の様子のみが描かれているだけの感じで、それ以降の彼ら、彼女らの消息がまったく描かれていません。また、それまでの各人の背景についてもあいまいな感じです。特に原作小説のほうは余白がたっぷりととってある感じですが、映画のほうでは原作のままでは映像作品として成り立たないからなのか、多少は具体的になっています(それでも原作小説ほどではないにしろ、余白たっぷりです)。
小中学校レベルの図形の問題を解くときに「補助線」というのを使うことがよくあります。的確な補助線を一本引くと難しいと思われた問題がたちどころに解けてしまう…… この映画は、ちょっと掴みどころのない印象のあるカズオ•イシグロの “A Pale View of Hills” いう小説に対して「文学的補助線」を引こうとしているようなところがあります。ただ、幾何の問題なら解答はひとつで補助線一本でめでたく正解に到達してカタルシスを感じるということになるのですが、こっちのほうは、その補助線によって新たなものが見えてきたと感じるかもしれませんが、余計なお世話だと思う原作読者もいるだろうし、補助線のおかげで逆に謎が深まったということもあるかもしれません。原作既読者からしてみると評価が別れる映画かもしれないと感じました。
私が原作小説を読んだときに感じたこの小説のいちばんの魅力はカズオ•イシグロの書く会話の面白さでした。例えば、悦子と佐知子の会話。現状を肯定し、緒方さんの示すような古めの価値観も支持して今いる現状の中に幸せを見い出そうとする悦子に対して、プライドが高く現状に満足せず、海外に出てゆくことで新たな一歩を踏み出し、幸せを掴もうとする佐知子…… 映画のほうで少し残念だったのは悦子のほうが方言を使っていて、それがノイズに感じられたことです。小説のほうでは悦子も佐知子もたぶん当時の育ちのいい日本人女性が話していたであろう標準的でニュートラルな日本語で話しています。考えてみれば、原作は英語で書かれているわけで、訳者の小野寺健氏(故人。1931年生まれで悦子とほぼ同世代と思われます)の訳が十分な成果をあげていると感じます。他に緒方さんと二郎の父子の会話、緒方さんと悦子の会話あたりも含めて会話は全般的に小説のほうに魅力を感じました。
原作と映画の決定的な違いは、30年後の悦子が語る50年代パートの悦子と佐知子に関して、小説では微妙な違和感を示すだけにとどめているのに対して、映画では悦子と佐知子が実はひとりの人間であることを映像で示すところまで踏み込んでいることです。それを終盤に「伏線回収」するために悦子と佐知子の演出があざとくなっている印象を持ちました。特に佐知子は終盤に悦子に「回収」されてしまうため、映画ではだんだんと精彩を欠いてゆくように演出されている感じで、小説の佐知子のほうが魅力的だと思いました。ということで、先述した「補助線」でもっとも重要な線は悦子がニキに語る30年前の長崎での出来事に潜んだ大きな嘘を暴いてしまうというこの線だと思いますが、この補助線は引いてもよかったのでしょうか。
あと、終戦後80年の節目の年に上映されたからかもしれませんが、「戦争」とか「原爆」とかいうキーワードにこだわり過ぎている感があるのも気になりました。原作小説にはない、二郎の傷痍軍人設定や悦子が夫にする被曝の有無に関する質問などは屋上屋を架すような感じです。カズオ•イシグロの伝えたかったテーマはもっと普遍的で幅広いものだ思います。私が特に印象に残った登場人物にうどん屋を経営している藤原さんがいます(映画では柴田理恵が演じてました)。彼女は軍人の奥様かなんかで裕福な暮らしをしていたのが、戦争に自分と長男以外の家族全員を奪われ、うどん屋を始めたのです。もうこれだけで戦争と戦後のリアリティを感じることができます。プライドの高い緒方さんや佐知子からの「上から目線」を感じながらもプライドをかなぐり捨てて前向きにうどん屋を続ける藤原さんの姿は、新しい女性の生き方を示しているようで実は男頼りの佐知子に対するアンチテーゼのようになっていますし、終戦で価値観が大転換した後、うだうだと観念的な言い合いをしている緒方さんと松田重夫のような男たちとも対照的です。このあたりの登場人物の配置の仕方はさすがカズオ•イシグロだと思いました。
といったところで、ここで原作のほうではなく映画のほうの美点を挙げたいと思います。私はニキをライターにして、そのニキが母親の回顧録を書く目的で母親の長崎時代の話を聞くというメタ構造にしてニキの視点を入れたところだと思います。原作小説にももちろんニキは登場しますが、悦子の一人称で書かれた小説なので悦子の目から見たニキになります。この映画の80年代パートは、ニキ、それも50年代の悦子がそうだったように新しい命を胎内に宿している状態のニキが母の話を聞いて回顧録を書くのです。ニキは母の話が不自然だったり、錯綜していたり、矛盾点を含んでいたりするのに気づきます。
そして、「ママ、ケイコの死はママにとっていくら悔やんでも悔やみきれないことで墓場まで持ってゆくような後悔の念なのでしょう。ママは自分の選択のせいでこうなったとして、過去が直視できないのね。私はママは悪くないと思う。そんな嘘はやめてもっと楽になって前を向きましょう。ママはこれまでもこれからも私のロールモデルよ」そう、あの悦子の嘘を暴く補助線はニキが引いたのです…… とすれば腑に落ちると私は感じました。まあでも、ニキがどんな回顧録を書くかは定かではありません。悦子が信用できない語り手であったようにニキも信用できない語り手になる可能性もあります。この作品はミステリ味はありますがミステリではないので、一連の出来事の背景が分かり、真実にたどり着いてカタルシスを味わう、なんてこともありません。結局、謎は謎のままでこの不条理劇は幕を閉じます。
ミステリではないと書きましたが、ホラー風味はあります。川の向こう側というのは「死」のメタファーなんでしょうか。そうすると川は「三途の川」ということになります(ちょっと古典的)。可哀そうな子猫たちは三途の川を渡ってしまいました。ロープは「束縛」のメタファーなのかな。親の子に対する束縛、夫の妻に対する束縛、師の弟子に対する束縛……
まあ結局、身も蓋もない言い方をすると、謎は謎のまま、観客をケムに巻いたまま物語は終わるのですが、そこはそれ、ノーベル文学賞作家カズオ•イシグロ原作の作品ですから、文芸作品ぽいテーマを見つけておきたいです。人は時としていくら悔やんでも悔やみきれない後悔の念を持つことになって真っ暗闇の中にいるような気分になることがある。でもその真っ暗闇の中でも丘の向こうに淡い光が差しかけているので、それを頼りに前に進もう、といったあたりのことでしょうか。”A Pale View of Hills” というタイトルにも、そんなメッセージが込められているように感じました。
原作既読者としては、映画化がけっこう難しい小説ではないかと思っていましたが、映画を観て不満点もあるけど、よくできてるなと感心しました。鑑賞後に原作小説を再読してみましたが、前にも増して味わい深かったです。ということで、レビューが小説と映画の合わせ技みたいになって長くなりましたが、実まだまだ書きたいことがたくさんあって自分でもびっくりしています。長文、失礼しました。
タイトルなし(ネタバレ)
イギリスに渡った悦子が次女のニキに話す長崎の出来事から始まる
終戦後、夫の二郎と団地に住んでいた頃に川の付近に住んでいた佐知子と万里子に出会う
佐知子はアメリカに行くと言っていた
最後に佐知子の子供万里子がKEIKOだったのも悦子が佐知子だったのもなんだかよくわからないし
同一人物なら佐知子はアメリカに行くと言ってたのに何故イギリスなのか
夫の二郎とはどうなったのか?
悦子が被爆してるのを隠してたのを薄々気づいてたような感じだけど、やっぱりそれが原因で別れたのか?
それも幻覚なのか
だけど、義父の緒方先生の手紙は残してあった
二郎と父の確執もそりゃそうだなと思った
戦地に行く時にあの誇らしげに万歳三勝した顔が忘れられないと
よく朝ドラで見るシーンこの時代だから受け入れてたのかと思ってたがそうじゃない
そんな事あるわけない
この映画イオンで見たのだけど映像が暗過ぎてよく見えない場面が何度かあったTOHOシネマズで見られた方はそんな事なかったキレイな映像だったと言ってらしたのでこれから観る場所を考えようか
だけどポイントで安くなったりするのは見過ごせない
張られた伏線に鑑賞後もひっぱられる感じ。頭に残るものを整理してみた。
原作未読で映画だけ観た状態で書きます。
作品の雰囲気はとても好きでした。戦後の日本と数十年後のイギリス、二つの場所から物語を進めていく。時々時間の前後や話の区切れがわかりにくいところもありましたが、ふわっとした理解で進める意図もあったのかもしれません。そんなに気にはなりませんでした。
時代描写は実際の情景と異なる箇所もところどころあるようで、そこは創作された景色として上手く映像にしていただいた、と原作者のインタビューをどこかで読んだ気がします。特別知識がなければ、時代の雰囲気を感じる意味では、よく機能していたように個人的には思いました。
登場人物も悦子、佐知子、ニキなど魅力的で、強いメッセージ性を発するわけではなく、それぞれの人生の日常の中で起きている出来事、そして感じている不安や想いなどが背景に感じ取れる構造でとても良かったです。
はっきりしなかったのは、悦子と佐知子、佐知子の子供である万里子の重なり方。観賞中は被爆の影響で悦子の長女は無事に生まれず、万里子を引き取り、佐知子の影を追うように海外に出たのか、とか想像しましたが、佐知子が幼少期に好きだったクリスマスキャロルの本を悦子が持っていることから、佐知子は悦子だったのだと気づきました。
悦子は万里子に対し母親であるかのような振る舞いを何度かしており、悦子と佐知子は良い人と不安や希望などを抱えた別人格のような語られ方をしたのだと思いました。ただ、なぜ分けて語ったのか(自分の希望のために娘が大事にしていた猫を殺すような一面を受け止められなかったのか)たとえ話のような語り方でもなく、自分と他人とがしっかりと分かれていたため、単純に精神的な障害を抱えていたのか、と想像する以外に理解できませんでした。被爆者であることを思えば、精神が解離している可能性もあります。解離している場合、話を創作する能力に長ける可能性もあり、自分の再婚相手であるイギリス人がいながら、架空の佐知子やフランクなどの話を作れる可能性も否定できなく思います。
ここまでくると、悦子の特異性が際立ってもきますが、今作ではそこら辺は特に着目されてないため、理解が難しくなっている要因になっているようにも思います。あくまでも戦後の日本で立ち上がる(目覚めた)女性の話として描かれる。一見、煌びやかなテーマにも見えますが、作品全体に明るさがなく、遠い山なみの光を望むような雰囲気が立ち込めているのは、悦子がまだ陽の当たらない場所に立っているからなのかもしれません。立ち上がったように見えたけど、景子の自殺によってそれらは否定されているように思います。
しかし、悦子は家(思い出が染み付いた場所・過去)を売り払い、ニキの存在も後押しに「私たちも変わらなければ」という言葉と共に変わり始めるのかと。遠い山なみからは陽が昇り、これからようやく光があたるのかもしれません。長い時間が過ぎ夜がようやく終わり、光がさして目覚められる時が来た、そんな話に思いました。
個人的にはさりげない雰囲気が好きではありますが、佐知子の話は本当は悦子の話だったという展開は少し強引に思えました。悦子が嘘をつく事情が弱く感じ、佐知子が悦子だったという事実も唐突で少し繋がらなかったです。事実はこうでした、と結果だけ見せられている感じ。せめて悦子のコンプレックスがなんなのか。そしてどれくらい嘘をつく能力があるのか知りたかったです。架空の人物を作り、彼女に会えてよかったわ、と言い切り、長い話の整合性を保つのは簡単ではなく思います。話の肝なだけにもう少し画面に見れたらと、そこが残念に思いました。
広瀬すずの美しさに見とれていると足元を掬われる
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ先生の原作小説を、石川慶監督が映画化した作品でした。主演の広瀬すずをはじめ、二階堂ふみ、吉田羊といった綺麗どころが起用されていて、そこに眼が行きがちでしたが、テーマとしては戦争、特に長崎に投下された原爆が、身体はもちろん精神にも深い傷跡を残し、戦後になっても中々癒えることはないという、かなり重たいお話でした。
舞台となったのは、日本が一応主権回復した1952年の長崎と、30年後のイギリス郊外であり、双方の場面を行きつ戻りつして進んで行きました。登場人物はいずれも何らかの形で戦争被害者で、主人公の悦子(広瀬すず)と彼女の友人である佐知子(二階堂ふみ)は原爆被害者であり、佐知子の娘の万里子(鈴木碧桜)は母が原爆被害を受けた時点でお腹の中にいたようで、その影響で腕に障害がある模様、悦子の夫の二郎(松下洸平)は戦地で傷を負って手に障害が残る状態、そして二郎の父で元教師の誠二(三浦友和)は戦前の軍国主義的教育をかつての部下だった現役教師に痛烈に批判されてしまう惨めな立場でした。
そして本作が映画らしい映画だと思ったのは、こうした戦争被害が直接的に言葉で説明される訳ではなく、映像表現を通じて観客の訴えているところでした。例えば二郎の手の障害は、彼の仕草を見ていれば分かる訳ですが、初めはその原因が何であったのをを説明せず、後々戦地で負った傷らしいことが分かる仕組みになっていて、しかも彼が出征する際に、父の誠二が誇らしげに見送ったことが原因で、父を疎ましく思っていることが徐々に明かされて行く仕掛けは、非常に印象に残るものでした。
また、戦争の犠牲者であった二郎も、一方では妻の悦子を軽んじている部分があり、(当時の時代背景からは普通だったのかも知れないけど)飲み会の後で会社の同僚を家に連れて来て酒の悦子に酒の用意をさせたり、(手に障害があるので致し方ないとは言え)出勤時に悦子に靴の紐を結ばせていたりと、中々の暴君ぶりを発揮していたところなど、人間の描き方が複層的で、実に見事でした。特に悦子が二郎の靴の紐を結ぶシーンは、土下座をして完全服従をさせているみたいで、ゾッとしました。
そして何よりも面白かったのは、1982年のイギリスのシーンは現実世界のものであるものの、1952年の長崎のシーンは、実は悦子の空想と創作だったのではないかというところが明らかになる終盤でした。佐知子が実は悦子の分身であり、万里子が実は悦子の長女の景子だったらしいことが分かった時は、「うわー、全部夢だったんだ」とこれまたゾッとしました。確かに長崎のシーンは、どこかこの世ならざる色調があったりして、何となく不思議な感じがしていたのですが、最終的にこの謎が解けました。
そんな訳で、魅力ある原作の世界観を、映像表現として再現した本作の評価は★4.4とします。
静かに流れる重い空気……
観終わって思い起こすとまぁ胃もたれしそうなヘビー感に襲われたわ。
ヒューマンミステリーと銘打っているのはまぁまぁそう言う事ねって思える程度なので無いよりはあったほうが観終わったあとにはスッキリするか。
まず始まってテレビから流れるニュースと娘から出た『グリーナム』と言う単語には?が付くね。
なんとな〜くニュアンスは伝わるようで物足りないのでトモダチ(AI)に聞いてみたら女性たちによる非核運動なのね。
長崎と原爆と女ぐらいのキーワードと原作者のカズオ・イシグロ氏がエグゼクティブプロデューサーまで関わっているとしか知らないで観てしまったのでなかなかの難しさがあり、紐解くのに手こずってしまいました。
復興は進み時代は変わろうとするが取り残された人々の心の揺れ動きを演者が事細かに表現してくれました。
現代の主人公が娘に促されて過去にあった事を話してくれて物語は進みます。
他のレビューで見受けられた実際の物とは色々違いがあったとありましたが彼女の遠い記憶の中で曖昧だったり戦争後のストレスによる記憶の欠落だったりする中での再現された映像なのでと考えたらしゃあねぇなと思えます。
過去の旦那さんが出兵する時のエピソードが何とも言えないですね。
心と手に傷を負った自分と目に見えない放射能を浴びて秘密を抱えたままの妻。広瀬すずと松下洸平の演技と距離感は秀逸です。
戦争や原爆はいろんなものを残し人々にとんでもない記憶と影響を与えました。
しかしお茶漬けのようにサラサラと入ってくる演技と人物の背景の重さ。後からきますねこれは。
涙までは行かなくともズシリとくる濃厚な想いが残る作品でした。
悦子の心の平衡のため
広瀬すずさん演じる戦後の恵まれた主婦象は、悦子が「そうであってほしかった」姿に記憶を書き換えていたのだとすると、佐知子や万里子、猫の下りも、それが悪夢となって思い出される背景も、物語の最後に種明かしされることで納得はする。それでも自分の記憶を偽ってまで消したい被ばくと窮乏と言う過去とは、家(と典子の部屋)を残すことで辛いながら離れることができなかった・・そのことをニキに発見され、親子で悲しみを共有したことで30年越しに魂が解放されたのでないか?
それぞれ同一の人物を演じた、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊の鬼気迫る演技も女優賞もの。
ひとつだけ、三浦友和の演ずる「戦前の教師」が少しステレオタイプ過ぎではないか・と思った。日本(と家族)を守るために、本土進攻を1日でも遅らせるために命を掛けた先人には、悲しい中にも感謝があったはず・と思いたい。
後悔は解決しないもの
原作を読んでいたので、どうやって映像化するのか気になっていました。わかりにくい、という感想の方もいらっしゃいますが、原作の方がわかりにくかったです。笑
説明が不十分で、ストレスの溜まる価値観のズレ、翻訳が元になっているかすかな違和感、未解決の謎。でもそれが全て演出だと思うのです。
何故なら、これは語り手である悦子の、無意識の嘘を映像化したものだから。こうであれば、こうであったかもしれない、こうでないと現実に耐えられない、という心象風景なのだと思います。そして悦子以外に鑑賞者に語りかける者はいませんから、こちらは翻弄されて当然なのです。
時代に引き裂かれ、戦争に引き裂かれ、自分を騙すしかなかったほどの苦しみを少しでも理解しようとするこちら側の努力の必要な作品です。
80年代のイギリスの映像は手触りが伝わってくるほど美しいリアリティがありました。ニキのニットが可愛いなぁ、お庭が素敵だなぁ、美味しそうなポテトだなぁと。
対して戦後の長崎の禍々しく鮮やか過ぎる夕陽、バラックに不似合いな調度品、異常に外国に憧れる台詞。これは悦子がもうひとりの自分を作り出して見ていたファンタジーなのだと思います。残酷な現実に根差したファンタジー。
すずさんもふみさんも美しかった‥
Ceremony
ここ最近のカンヌ受賞orノミネートの作品はなーんだか首を傾げる要素が多かったのですが、今作はまだ大丈夫だろうと挑みました。
原作は未読なんですが読んどくべきだったなーと思ってしまったり。
1952年と1982年の描写を映すミステリー的な要素が強い作品で、役者陣の演技も素晴らしかったんですが、いかんせん入り組んだ内容に結構振り回されてしまったなーという印象です。
自分の読解力不足もあるのですが、想像以上に難しくしてるのでは?と石川監督の前作「ある男」でも思った事が頭をよぎりました。
戦後に生きる人々を映している作品ではあるんですが、戦後から7年が経過しており、団地での生活の様子が映されたりするので、原爆で負った体の傷というよりかは心の傷にフォーカスを当てたのかなと思いました。
若い頃に出会った女性と過ごした日常の些細な変化や、その女性の娘との関わりが30年後に繋がるといった感じで、不穏な雰囲気が徐々に繋がって未来へのピースになっていくという構造でした。
展開の点と点が線で繋がった時はハッとさせられましたし、過去と未来がここまでしっかり繋がるのは見事だなーと思いました。
ただそこまでにいく過程が複雑かつ、登場人物の配置が謎だったり、その描写いる?といった感じでややこしくなっているので、ヒューマンミステリーが難しさに拍車をかけちゃったなと個人的には思いました。
そういう直接的な描写では無いというのは重々承知なんですが、猫を溺死させるのはかなーり嫌悪感がありました。
実家で猫を飼っていてめちゃくちゃ可愛いのを知っているので、いくらフィクションといえど殺さんといてくれ…と目を覆ってしまいました。
ここはガッツリマイナスポイントです。
広瀬すずさんと二階堂ふみさんのぶつかり合いはエグかったですね。
ギラッギラ光る視線や、浴びせる言葉の重みなんかが凄まじく、2人の演技合戦に魅せられっぱなしでした。
今作に流れる音楽がめちゃくちゃ良くて、雰囲気とは少し違うロックサウンドが絶妙にマッチしており、現在進行形で楽曲を聴いています。
原作を読んだり、今作の紹介PVなんかも見てから行ったらより理解できたのかなーとは思いました。
単純明快が素晴らしいとまでは言いませんが、空白を埋める作業に徹しないといけないのも中々ハードだなと感じた1本でした。
鑑賞日 9/9
鑑賞時間 11:45〜13:55
解説ほしー!
かなり説明省いてるのか、原作からだいぶ削ってるのか?「解決した」「オチた」感のないラストでした。
これってつまり、あの手に持ってたヒモで佐知子を殺したってことですよね?で、悦子が佐知子になり変わってマリコ(→景子)と共にフランクと落ち合いイギリスに渡ったってことですよね。物腰は柔らかいけどなんだか本性の見えない旦那や、日本や、被爆者である事実から逃げたくなったのかな。旦那と義父の確執、義父の人生、悦子の記憶がないこと、ニキと景子の関係とか、もうちょっとスッキリするところまで見せてほしいところだけど。
でもフランクは相手が誰でも良かったのかね?
あと、悦子と佐知子は劇中にも映ってた小津映画みたいな昔の女性像を意識したのかなって感じだったけど、2人とも童顔だから難しいですね。喋り方も意識してる感じでしたね。しょうがないけど、吉田羊の英語も終始気になった。
難しい
原作未読で何となく面白そうと思って観た。
最初から伏線が色々ありそうだったけど、回収されたんだかされてないんだか。
最後に答え合わせのように2人が同一人物なのだという描写が出てきたと思ったら終わった。
二郎さんの手?
ニキの妊娠検査のシーンいる?
パラレルワールド…?
考えるほど疑問が残る笑
内容は私には合わなかったけど、2時間退屈することはなく、俳優さんたちの演技はすばらしかった。
えっ!?
えっ!?って終わちゃった…
あなたは誰…?
だって、最後、悦子が川辺にすわっているボサボサ髪の女の子(万里子だったよね~?)に「景子」って言ってたよね…
終盤、長崎の街に佇んでいた全身黒い服を着た吉田羊さんは何を表していたのか…?
って訳でパンフレットも買って全部読んだけど答えは出ない。出なくても良い!という事にしよう。
小説を読もう。
読んでもわからないかもしれない。
映画としての感想は、美しい映像だった。
悦子と佐知子の対比が素晴らしい。広瀬すずさんと二階堂ふみさんの演技あってですね。
特に二階堂ふみさんのなんとも言えない独特の雰囲気。凛とした強さ。あの話し方…不思議な感じ…
50年代の団地も佐知子のバラック家もイギリスの家も、細々した所まで作り込んでいて、観ているだけでも飽きなかった。
よく分からなかった
広瀬すずさんファンです。出演作は毎回見てるのですが、何が言いたいのか、よく分からなかった。全体的に暗い画面で正直怖かった。マリコが景子だったということは、実は全部自分の話だったのか、というのは理解できたけど、(だから?)と思ってしまった。私にはこのような高尚な映画は向いてないのかもしれない。
生きたいようにできるか…できないか…
時代的に男女平等なんて言葉は存在してないん気がしたなぁ……
男の言うことが全てな世界、まだ戦争の匂いが少し残ってる世界で立ち上がる女性のこうやって生きたいという欲を感じたなぁ
思うように生きてほしいという事を直接語りかけてくる作品だと感じた
原作読んでないと意味不明
現在のイギリスと回想の戦後の長崎がパラレルに続く。
回想には佐智子という女性とその子の万里子が出て来て、娼婦をしていてGHQのアメリカ兵とアメリカに行く前の話になっているが、最後に実は万里子は自分の娘の恵子だった事が判る。
と言う事は佐智子は自分が作った妄想?
良く解らない。
原作を読んでないと訳が分からない。
封印して来た過去の記憶と向き合う事こそが、新しい未来に向けて『私達も変わること』に繋がっていく
人は、誰しも触れられたくない過去の記憶があり、それが理不尽な被爆者への差別や偏見であり、
主人公の『あの頃は一人で立ってられなかったんです』という台詞に込められていると思います。
ニキとの確執や親子関係が、とても丁寧に描かれていて非常に気になる所でした。
幼少の頃から姉に対するコンプレックスがあり、
ピアノが得意な姉を母親は溺愛し、自分に無関心だ
と責めよる場面や姉が自殺した事を隣人に隠す場面では、ニキがこれまでの母親に対する不満をぶつけ
る事により、本物の母娘になれたんだろうなと確信
出来ました。
けいこに対する後悔や懺悔の思いが、複雑に交差しながら恐らく自分でも咀嚼できない複雑な感情に苛
まれてきたのであろうことは容易に推察できます。
辛い過去と向き合う事で、自分自身を締め付けてい
た紐からやっと解放出来たんだと思います。
ラストの何か吹っ切れた様なニキのスッキリとした笑顔が希望が見えて標題の
『遠い山なみの光』とオーバーラップした秀逸な作品でした。
全145件中、61~80件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。








