遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
全145件中、1~20件目を表示
遠ざかる記憶と消えない後悔
原作小説ではラストの種明かしや、映画と同じ表現での伏線はない。
ただ終盤にひとつだけ、それまで語られた悦子の物語の信憑性を疑わせる彼女の短い台詞があり、そこで初めて「万里子のエピソードは景子のものなのでは?」というもやっとした疑念が湧く(読解力がある人はもっと早くそう思うのかも)。だが、それに対する答えはない。
そういった表現は読者の想像力を刺激するが、時にわかりづらくもある。
本作の場合は謎の伏線と答えを明示することが、小説を映画に変換するにあたっては必要な演出だったように思う。
物語における佐知子が実は悦子自身のことであったなら、広瀬すずが演じた52年の悦子はどういう存在なのか。以下は完全に私の個人的な推測だが、彼女も全くの虚像ではなく、悦子の内面の一部である気がする。
81年の悦子(以下「現在の悦子」とする)は記憶の断片を時系列ごとシャッフルし、52年の悦子と佐知子という2人の人物像に組み直して語っているのではないだろうか。
蜘蛛を口に入れようとする万里子、イギリスの家の壁を這う蜘蛛。過去の悦子の足に絡みつくロープ、イギリスで縊死した景子。そういった描写にシャッフルの形跡を感じた。
実際の悦子の人生は、次のようではなかったか。
二郎と結婚し、それに伴い仕事を辞めた(教師と言っていた気がするが、英語の教師だったのかもしれない)。
景子を産んだが、男性に従属する当時の日本では一般的な女性の生き方に嫌気がさし、何らかのきっかけで娘を連れて家を出て、イギリス人男性と知り合った(序盤、ロープウェイの看板の前で案内嬢のような格好をして米兵と向き合う悦子(演・広瀬すず)のモノクロ写真が一瞬映る。英語を使った仕事をすれば海外の男性とも知り合えるだろう)。
彼女は嫌がる景子を連れて渡英したが、景子は現地に馴染めず自死してしまう。
では、悦子は何故過去についてそのような語り方をしたのかといえばひとつにはやはり、罪悪感なのだと思う。
「この暗い回想の底には、自分のアイデンティティを守ろうとした選択が景子を犠牲にしたという悦子の自責の念が一貫して流れている。」原作の訳者あとがきにある小野寺健氏のこの言葉の通りなのだろう。
ニキは最後に「母さんは悪くない」と悦子を慰めたが、個人的には景子がかわいそうだ、彼女への接し方だけはもう少しどうにかならなかったのかと思ってしまった。
猫殺しはさすがにちょっと……あの箱をイギリスに持ってきていたから猫水没も作り話かも(であってほしい)と思ったが、川を箱が流れる悪夢を見ていたから多分事実なのだろう。
もうひとつは、悦子の中で30年前の記憶が曖昧になりつつあることの表れではないだろうか。
「こういう記憶もいずれはあいまいになって、いま思い出せることは事実と違っていたということになる時が来るかもしれない。」小説の悦子の語りには、このような言葉が数回出てくる。
必死で生きていた当時の感情は忘れがたくとも、細部は曖昧になってゆく。現在の悦子にとって、過去の風景はまさに本作の原題「A Pale View of Hills」、遠くに霞んで見える丘陵のような眺めになりつつあったのだろう。
罪悪感と細部の忘却、それらを抱えた悦子がニキに過去を語る時、最終的に景子を追い込むことになった(と悦子自身が認識している)自身の性質や行動については佐知子という「自分ではない第三者」のこととして語った。自分の過去として語るには、いまだに自責の念に耐えられないということか。
そして、当時の出来事のように装いながら、実はその後の人生で感じた悔いを物語の中で晴らしていたのではないだろうか。
過去の中の悦子は、万里子に優しかった。それはその後景子を失った悦子の、あの時こうしてあげればよかった、という後悔が生んだ想像のように思えてならない。
電車の車窓の向こうに佇んで過去の悦子たちを見つめる現在の悦子、その視線を佐知子も感知していたという場面はファンタジックだが、これも彼女の後悔を表すイメージなのかもしれない。
悦子が渡英を決意する一因になったと思われる結婚生活だが、昭和の男の(女性から見て)駄目な部分が笑ってしまうほど見事に二郎に集約されていた。妊婦の横で煙草を吸うわ、予告なく職場の人間を家に連れ込むわ。そりゃ悦子も渡英したくなるわ、と思わされるという意味ではよくできた人物造形だ。
緒方と、息子の二郎や元教え子の重夫との価値観の衝突も興味深かった。緒方はおそらく戦時中には教師として愛国心を大いに煽ったのだろう。万歳三唱で息子を戦地に送り出すが、年齢的に自分は出征しない。
対して二郎や重夫はその教えを信じ、戦地に行かされた世代だ。敗戦で時代の空気が変われば軋轢が生じるのは当然のこと。重夫は緒方に悪意がないことは理解しつつも、その無責任さが許せなかったのだろう。渡辺大知の演技が、出演時間は短いのに印象的だ。
時の流れでうつろう記憶と残り続ける感情、変わってゆく価値観と変化に取り残される哀しさ、そういったことを考えさせられ、あの表現はこういうことかも、という想像も膨らむ良作だった。
主演スターとしての広瀬すずの得難い貫禄と名演技
スクリーン上での広瀬すずの映り方がほとんど黄金時代のの映画スターと遜色がなく、演技者としても堂々としたみごとなもので、死語になりつつある「映画女優」という存在が復活したかのような凄味があった。ただし、おそらく曖昧さを味わうような原作の持ち味が、映画になったことでテーマなのかモチーフの意味みたいなものがより明確になってしまい、結果どっちつかずになってしまったのではないか、という気はした。最後がミステリー的な種明かしに見えることも、果たして映画に取ってプラスであったかどうかは判断ができない。が、松下洸平の無自覚なクソ夫っぷりや、三浦友和演じる義父の過去の遺物感など、ゾワゾワさせてくれる表現があちこちにあって目を惹かれる。イギリスでのシーンでは、母と娘のやり取りなどで急にセリフがベタでつまらなくなるのは気になりました。
戦争、そして原爆のもたらすもの
彼女は何者だったのだろう。
52年当時の中で2人の女性は誰であったのだろう。82年の世界の家族が現実であり過去を振り返るときの思い出は朧げである。
そして過去の荷物の中にある雑誌やハガキ、ティーカップなどの2人の物が混在してるということは、彼女の中にある2人の女性は1人なのだろうか?
唯一、原爆における被害者の人々が迫害され暮らすことすらままならない状況への憤りと悲しみ、そして戦争によりもたらす愚かな爪痕が言葉の端々から伝わってきた。
あのシーンが無ければ
人の記憶は都合のいいように上書きされ、都合のいいように書き換えられて心の傷を癒していくんだろうな。
戦争で傷を負い、戦後の復興からバブル前のとても昭和な女性が生きづらい時代に行きた女性が描かれている。
バラックの中でも高価なティーセットを使って優雅なティータイムは真実なのか夢なのか?
牛乳箱を巡るある行為が無ければ良かった。あの川でのシーンで一気に悲しくなった。
前半が物足りない
イギリスに住む悦子が娘に昔、長崎に住んでいた頃の話をして欲しいと、過去を回想するお話。
前半の話の長崎パートは面白く見れるが、ロンドンパートが面白くない。娘と母の煮えきれない会話が延々と続いて飽きてしまった。
全体が後半につれ面白くなっていくだけに勿体無いと思った。
悦子の信頼できない語り手として、二面性を上手く演じた広瀬すずさん、とても良かったです。
猫を水死させるシーンの広瀬すずをどんな顔するか見たかったなぁ。
せっかくならもう少しお金をかけてCGとセット感を無くして欲しかったです。
いつまでも変わらない男性と、変わっていく女性をこの映画から感じた。そらが、やりたかった事だとすればとても上手く出来ている作品でした。
人の人生は意外とこういうものかもしれない
いわゆる「これは友達の話なんだけどね」と言いつつ自分の話だったという話。
現在パートを軸に回想交えながら過去パートが展開される。
過去パートの雰囲気はちょっとミステリアスで徐々に伏線がばら撒かれて違和感が増していく。
最後の最後で答え合わせのようになるのだが、よくよく考えると、人の人生は映画のようにずっと記録されてきるものでもないし、関わる人々の目線でしか語られない。ましてや自分しかいないとなると、たとえ過去を偽装したとしても誰も確かめることができない。
本作の場合はあきらかに恣意的な捏造の記憶ではあったが、意外と人間の記憶は曖昧なもので、無意識に都合の良い過去の改変をしてしまっているかもしれない。
ところで、広瀬すずも二階堂ふみ他、過去パートの雰囲気ある演技はとてもよかった。
「夢」か?「騙り」か? 匂わせか?
10月6日と公開から1ヶ月後の鑑賞です。間が合わず見逃していましたが、TAMA映画祭での主演女優賞に推されて劇場に行きました。
予備知識は、Kazuo Ishiguroが原作、長崎とイギリスが舞台といった程度で、原作未読のまま観ました。素直な初見の読後感は「混乱」です。最終盤の種明かしで、プロットのトリックこそ理解できるのですが、だとすると語られた半生の何処から何処まで信じていいのか直ぐには整理できず、混乱したままエンドロールも終わっていました。
🗻
1. 夢か? 騙りか?
本作は渡英後のヒロイン悦子(吉田羊)が、次女⋅ニキ(カミラ⋅アイコ)の取材に重い口を開き、しぶしぶ長崎での半生を語るという構成ですが、最終盤に、都合の悪い? もしくは自身で自身を許せない部分は、他人⋅佐知子(二階堂ふみ)の出来事のように騙っていた事が明かされます。正直に語れなかった動機は、渡英を拒んでいた長女⋅景子が、渡英後に自死してしまった事や、長崎で長女を充分愛してやれなかったという贖罪に起因する事も明示される。
ただ、本作のズルいというか、敢えて説明不足なのは、描かれた長崎での半生の内、どの部分が「夢」でどの部分が覚醒時に騙ったものなのかが判然としない処。長崎での過去のパートの後に、渡英後の悦子が目覚めた描写があれば夢で、次女に語っている場面があれば覚醒時の騙りと判断できる。配信されたり、DVDを手にしたら、その部分をチェックしながら観てみたい。
同じ嘘でも「夢」の中なら、自己防衛の為の無意識な自分自身に対する無意識な嘘だろう。一方、覚醒時の騙りは、長女に対する贖罪を次女に隠す為の自覚的な嘘であり、意味が大分変わってくる。母⋅悦子は若き自分が、夫(松下洸平)にも従順で、義父(三浦友和)にも優しく、友達の娘(鈴木碧桜)さえ気遣う大和撫子だったと思わせたかったのか? 離婚後解放された女として、長女を蔑ろにしていたかもしれない過去を、次女には隠しておきたかったのか? 長女の部屋にあれだけ物証が残っていたら、バレない方がおかしい気もするが、それでもありのままを証言する勇気がもてない程、悦子にはトラウマだったという事か?
🚵
2. 貞淑な団地妻であり、解放された女であり、喪服の女でもあった?
種が明かされると、冒頭から悦子は、離婚前に団地にすむ裕福な妊婦(広瀬すず)としても、離婚して川岸の小屋に住まざる得ないシングル⋅マザーの「パンパン」(二階堂ふみ)としても同時に登場していたと分かる。
ここまでの解釈に異論はなさそうだが、問題は乳児を溺死させた「喪服の女」でもあり、川岸の子供の前でロープを手にする絞殺魔(誘拐犯)でもあったのか?という解釈。仮に本当に悦子が絞殺魔だったとしても、川岸の子供に近づく場面で、何故かロープが自分の周りにある事を、次女に意識的に騙る必要性がない。なので、ロープを手にする場面は夢と考えるのが自然。それでも、解釈は2つできてしまう。1つは、大方の解説記事通り、猫を溺死させてまで長女を渡英させて、自死に追い込んでしまった事への自己批判が、夢に現れた形。つまり、悦子が絞殺魔でもあったなんてbad endじゃない。ただ逆に、実際に絞殺魔であった過去を必死で忘れ去ろうとしていても、夢の中で繰り返し自身が自死を告発し続けているという解釈も完全には否定できない。未読なので原作のニュアンスは不明だが、本映画はそう匂わすように脚色されていた。
🗻
3.神秘性を評価するか?
英語版のwikiによると、原作出版直後、The New York Times は "infinitely ... mysterious"と神秘性を評価している。映画版も長崎の風景や広瀬すずと二階堂ふみの表情は神秘性を秘めていた。ただ、個人的にはヒロインが絞殺魔だった可能性までありえてしまう終わり方にはあまり賛同できない。「私が原爆症だったら結婚しなかったか?」との問いに向き合わない昭和男からの解放という観方もできなくないが、解放後の自分を他人だと騙ってしまう程恥じていて、貞淑な団地妻が結局理想だったと思っている節もあり、もうちと明確なメッセージが欲しかった。
どこまでが
主人公の回想ということで、妊娠中の主人公と、出産後に娘を育てる主人公が混在しているような感じかと解釈していますが、どこまでが事実でどこまでが夢なのかは分かりにくかったです。
死んだ娘に対する罪悪感が現れていると思いますが、殺人事件の新聞記事とか猫のくだりとかは事実だったのか、罪悪感を示唆しているのか。
明るさの中にも暗い影がつきまとう主人公の様子や、被爆した母子の生きづらさ、娘への罪悪感などは、やはり戦争の影響が色濃く理不尽でやるせないです。
回想シーンについては、主人公が下の娘に語っているものを映像で観ているということだとは思いますが。
映像を見ているこちらとしては、あの箱を見たタイミングで明確に二人が同一人物だと分かるのですが、話として聞いている下の娘も同じように分かったらしいというのは、やや違和感がありました。
箱の外観について細かく話していたとか、中身も見て察することが出来たという感じかも知れませんが。
また、主人公が意図的に嘘をついているのか、それとも辛い記憶が改ざんされているのか、下の娘に対して思い出話として話しているのか、あくまで夢の話として話しているのか、それも分かりにくかったです。
下の娘が主人公に対して、娘の死について主人公は悪くないということを言いますが、主人公の辛い過去や罪悪感は理解できるものの、娘の死の原因がよく分からなかったので、この場面もモヤっとするものがありました。
個人的には、序盤から友人役の二階堂ふみの演技が妙にわざとらしいため(そういう演出だと思いますが)、この友人は妄想なのではないか、途中からは二人が同一人物なのではないか、という点に注目し過ぎてしまったような気がするので、全体の印象がぼやけてしまったかもしれません。
被爆女性の生き方の一例と思われるが、目的と焦点がはっきりしない
1.はじめに:石川慶監督との相性:
❶石川慶は、幼少の頃から両親の影響で映画が好きで、東北大学で興味のあった物理学を学んだ後、映画監督を志し、ポーランドの国立ウッチ映画大学に留学し演出を学んだというユニークな経験を持つ。長編映画デビューは2017年(40歳)の『愚行録』。(出典:Wikipedia)
❷それ以降、本作まで計5本が劇場公開されている。9年間に5本なので、「量産」ではなく、気に入った企画を「一個作り」で丁寧に撮るタイプと思われる。
❸その全作をリアルタイム観ているが、全体の相性は「上~中」。
①2017年 愚行録 ★2017.02鑑賞85点。
②2019年 蜜蜂と遠雷 ★2019.10鑑賞80点。
③2021年 Arc アーク ★2021.07鑑賞70点。
④2022年 ある男 ★2022.11鑑賞85点。
⑤2025年 遠い山なみの光 ★2025.09鑑賞60点。
2.マイレビュー
❶相性:中。
★被爆女性の生き方の一例と思われるが、目的と焦点がはっきりしない。
➋時代と舞台:1982年のイギリス(サッチャー政権時代) & 1952年(原爆から7年)以降数年間の長崎。
❸主な登場人物
①緒方悦子〔1952年〕(広瀬すず、26歳):主人公。長崎市内で、夫の二郎と団地住まいの妊婦。戦前は小学教員で、授業中被爆するが、子供たちを救えなかったことが心の重荷になっている。悦子は一時期身を寄せていた元校長・緒方の勧めで、出征から帰還した息子の二郎と、被爆を隠して結婚して、今は専業主婦。娘・景子を出産後、二郎と離婚(多分被爆が理由)し、シングルマザーとして、通訳やうどん屋で働いて生計を立てる。
②緒方二郎(松下洸平、37歳):悦子の夫。傷痍軍人で右手の自由が効かない。会社員として忙しく働き、妊娠中の悦子を気遣う。父の誠二とは気まずく、自宅に誠二が訪ねてきても打ち解けない。
③佐知子(二階堂ふみ、30歳):悦子の親しい友人。団地の近くの川沿いの粗末な小屋で、娘の万理子と暮らしているシングルマザー。母子共、被爆している。英語が堪能で、アメリカに移住することを夢見て、駐留アメリカ兵・フランクと交際している。愛読書は「若草物語」。
④万里子(鈴木碧桜、9歳):佐知子の娘。いつも一人で遊んでいる。学校に通うシーンはない。悦子には心を開かない。野良猫を飼って世話している。
⑤緒方誠二(三浦友和、72歳):緒方二郎の父。悦子が以前勤めていた国民学校の元校長。旧時代の価値観を持ち、二郎との間には、葛藤がある。
⑥悦子〔1982年〕(吉田羊、50歳):長崎で再婚したイギリス人の夫に従って、二郎との長女・景子を伴ってイギリスに移住する。景子は、新しい環境に馴染めず引きこもりになり、幼くして自殺してしまう。イギリス人との次女・ニキは、都会暮らし。今の悦子は、夫も亡くなり、一人暮らしで、自宅の売却を決め、荷物を整理中。過去のことは口を閉ざしてきた。
⑦ニキ〔1982年〕(カミラ・アイコ/ Camilla Aiko、20歳代):悦子とイギリス人の夫の間に生まれた娘。大学を中退して作家を目指している。不倫相手の子を身籠っている。母の半生を綴りたいと考え、長崎時代のことを尋ねるが、母が語る物語に違和感を感じる。
⑧その他
ⓐ松田重夫(渡辺大知、34歳):緒方二郎の同級生で友人。恩師、誠二の紹介で高校教員になっている。
ⓑ藤原(柴田理恵、65歳):悦子が通ううどん屋の店主。妊婦の悦子を気遣う。
❹概要
①1982年のイギリスで、悦子(吉田羊)が目覚めるシーンから幕が開く。
②舞台はいきなり1952年の長崎に飛び、タイトルが出る。
③その後、長崎とイギリスが交互に描かれる構成になっている。
④1982年イギリス。郊外に建つ一軒家で一人で暮らす悦子のもとに、娘のニキ(カミラ・アイコ)が訪ねてくる。作家志望のニキは、長らく口を閉ざしてきた悦子の半生を本にしたいと、取材する。
⑤悦子は、ニキと数日間を一緒に過ごす中で、最近よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が30年前の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘・万理子の夢だった。
⑥1952年の長崎。妊婦の悦子(広瀬すず)は新夫の二郎(松下洸平)と団地住まい。食事の際、二郎の右手が不自由なことや、幼女殺人事件が起きていることが語られる。
⑦悦子は、川向こうの粗末な小屋で、娘の万理子と暮らしている佐知子(二階堂ふみ)と親しくなる。るシングルマザーの佐知子は、アメリカに移住することを夢見て、駐留アメリカ兵・フランクと交際している。
⑧佐知子は、フランクから、アメリカ行きの船を見つけ次第チケットを送るが、万理子が飼っている野良猫は連れていけないと言われ、猫を箱に入れ溺死させる。その夜、万理子がアメリカに行きたくないと家出するが、見つけた悦子がまず行ってみてから考えるよう説得する。
★このエピソードは、悦子と共に渡英した娘・景子が、新しい環境に馴染めず自殺したことと関連する設定になっている。
⑨その後の数年間のことは、詳しく描かれないが、悦子は景子を出産後、二郎と離婚(多分被爆が理由)し、シングルマザーとして、通訳やうどん屋で働いて生計を立てていることが示される。
⑩そして、舞台は1982年のイギリスに戻る。
★これまでの経緯から、悦子と佐知子、及び、景子と万里子とがリンクしているらしいことが理解出来る。
⑪悦子の取材を終えたニキは、家を売ることには大反対だと念をおして、都会に帰っていく。それを悦子が門の前で見送っている。
★映画一巻の終わりでございます。いささか疑問点や消化不良の面はありましたが、まずはお楽しみ様でした(笑)。
❺考察とまとめ
①原作が、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロが自身の出生地・長崎を舞台に27歳で執筆した長編小説デビュー作で、そのタイトルも:『遠い山なみの光』という、文学的なものだったので、大いに期待した。
②太平洋戦争の惨禍と、被爆をも乗り越えた、一人の女性の生き方が、1952年の長崎と、1982年のイギリスでのエピソードにより交互に描かれる。
③語るは1982年の悦子、インタビュアーは次女のニキ。
④すべてが悦子の視点になっていて、信じるか否かの判断や解釈は、観客に委ねられている。
⑤原作未読だが、映画を観た限りでは、「悦子と佐知子が同一人物で、1952年の佐知子は悦子の創作だった」ということが大方の解釈になると思う。この設定は良く出来ている。正解が明示されていないので、別の解釈でも否定出来ない。
⑥2人の娘、景子と万里子をリンクさせる脚本も良い。
⑦主人公・悦子が歩んできた、過去が明らかにされていく過程は、見応えがある。
⑧しかし、目的と焦点がはっきりしないのが残念。
子供の心が殺されないために
世の中の支配的な価値観、頭で考えた「正しさ」に翻弄されて結局あまり幸せになれなかった人たちの話、と見た。
戦後という激変期、開明的なアメリカに(イギリスに)行けば、正しい価値観のもとでより良い生活ができるはず。その正しさのためには子供の無邪気な欲求を犠牲にする。
最初の娘は「正しい」道に進ませたはずが自ら死を選んだ。詳細は語られていないが、おそらくは子供らしいあり方を押し殺されたのだろう。
この話は世代を超えて繰り返す構造が示されている。
親世代に対して「変わらなければ」と言うも、のちに自分自身も娘に同じことを言われる。
その親世代は子弟たちを正しさのために死地に送り出したのだろうし、娘はそもそも子を持つこと自体に否定的。
子供の欲求は一貫して足元にまとわりつく邪魔者と扱われている。その時代の支配的な価値観、頭で考える正しさの犠牲となっている。
そのような正しさを、目指すべき遠くの山の頂のように憧れるのは人の性であって、この先も繰り返される物語なのかもしれない。であるならば、せめて子供の心を殺さない方法を見出したい。
原作者がプロデュースに入っているから
なかなか見る機会がなくようやく見ることができた。
思っていた感じとは違っていたけれど、原作者も製作に入っているので、間違いはないと思う。
広瀬・二階堂の2人の女優にやられたなという印象だったし、羊さんは日本語を「いただきます」以外にしゃべったか?
今年、「長崎」を扱った作品が続いて、「広島」ほど知らない自分に色々と突き刺さった。
安易な反戦や戦時青春謳歌なものではなく、そこから続く今を感じたようなきがした。
なかなかスッキリしなかった
戦争という地獄のような日々を生き、生と死を目の当たりにしたその後。生き残った者としての生き方。今までではいけない。初めは寄り添い合い生きていくことから、力強く明るい未来へ変わろうとする生き方を選ぶ。
その中で現実と願望の記憶が混同しているのか?
観る側として謎めいた部分が多様に想像出来てしまう。
何が真実で、何が空想なのか難しすぎてよく分からなかった。
ただ、俳優の方々は素晴らしい演技でした。
信頼のおけない語り手が、語り得なかったもの
原作小説を読んでいたので、期待して劇場公開日に観てきました。
映像の光の演出(赤い空や万里子の首に差す西日、稲佐山の逆光等)は素晴らしく、佐知子の家の奥行き感や色彩の使い方も工夫されていてとても美しかったと思います。また俳優陣の演技もみな巧みで安心して最後まで観続けることが出来ました。
ただ残念なことに物語りの表現展開が私の期待していたものと違っていて、 どうしてもそこに物足りなさを感じる事になりました。
特に万里子のキャラクター表現が月並みでした。佐知子と悦子という重要な登場人物と同等、いやそれ以上に大切なキャラクターとしてもう一歩踏み込んだ演出をして欲しかった。
私がこの小説を読んで心をゆさぶられた箇所は子供殺しに関連した場面です。
1,狂った若い女が自分の赤ん坊を水に浸けて殺すところ。それを万里子は正面から見てしまう。
2,悦子の足首にからんだ縄(景子自殺の縄を連想)を「どうしてそんなもの持ってるの?」とおびえた万里子に訊かれるところ。
3,佐知子が万里子の飼っていた子猫(ちなみに万里子が子猫につけた名前はミ(Me)ーちゃん)を川に沈めて殺す場面。
原作では万里子は死者に近い存在として描かれています。おそらく川の向こうとは彼岸、死者たちの世界でそこから万里子を訪ねて来るのは、原爆で亡くなった死者もしくはその幽霊(川べりの土手には柳の木が生えている)なのではないでしょうか。
私はこの物語にはニ種類の人間が描かれていると思いました。一つは人を死に追いやる側の人間。もう一つは人から死に追いやられる側の人間です。
先の側の人間としてはまず原爆を長崎に落としたアメリカ軍の軍人であるフランクです。(万里子に、ふとんにうんこする豚のおしっこだ!とののしられる。ふとんのうんこは原爆の放射能汚染を強烈に連想させる。)それと悦子の義父の緒方さん。彼は教育者として教育を通じ教え子たちを死地に送り出した人です。しかも原爆を体験した戦後にも拘わらず自分は正しかったと言い張る人間なのです。(教師という”役割”を演じている姿は完璧だが、人間としての魂が欠けている。ナチスのアイヒマン。「日の名残り」の老執事スティーヴンズを思い起こさせる。)そして自己自立のため不都合な記憶に蓋をし米英の価値観にすがりついて我が子である景子(万里子)を犠牲にする母親の悦子(佐知子)です。緒方さんと悦子が仲良く見えるのは、お互い魂が欠落したカラッポな人間同士だからでしょう。
もう一方の側の人間としては、あえて直接には「語られていない」長崎の原爆で亡くなった多くの人々でしょう。(そこには悦子の家族や親しかった友人、知人、緒方さんの教え子たちが含まれていたはずです。)喪服を着て佐知子の家を訪ねる川田靖子とその父親も極めて死に近い存在で、まるで幽霊のようです。そしてイギリスで首を吊り自殺した景子と、母親の佐知子が川に沈めて殺した猫たちです。(子猫は万里子を暗示し、沈められる木箱は棺桶を想起させます。)それと人ではありませんが万里子(景子)が長崎で唯一楽しく想った稲佐山での「記憶」も猫を木箱ごと水に沈めるこの行為で全て消されて(殺されて)しまったとも言えます。
悦子が他人(佐知子)の姿を借りて自分を語るのは”罪”の意識から身を守るためでしょう。ではその”罪”の意識とは何なのか?信頼のおけない語り手である悦子は一体何を隠しているのか?それと子供殺しとはどう関連しているのか?これがこの物語の中心テーマなのではないでしょうか?このテーマが映画を通じどう回答され表現されるか期待しましたが、それに応えるものは残念ながら私には届きませんでした。
長崎に暮らす悦子は復興著しい長崎の街の様子や、将来に希望を託して何事も無かったかのようにふるまう周りの人々の様子は語りますが、肝心の悦子自身が体験したであろう”原爆”という悲劇の「記憶」について全くと言ってよいほど触れません。なぜでしょうか?
なぜならそれは悦子にとって目を逸らしたい真実だからです。長崎を抜け出し、女性として自立した自分の立場を得るため戦勝国(米英←原爆を落とした事は正当だと主張する自己欺瞞の国々)の男と結婚する事を望む悦子(佐知子)にとって”原爆”という「記憶」はできれば隠したい不都合な「記憶」なのです。また、その不都合な「記憶」を呼び覚ます景子(万里子)の存在は邪魔で消し去りたい存在といえます。これが子供殺しのイメージにつながるのです。
私がこの物語(小説)から受け取った普遍的なメッセージはこうです。(あくまで私個人の感想ですが)原爆や戦争という大きな悲劇の「記憶」(過去)に目をつぶり真摯に次の世代に語り継ごうとせず、何事も無かったかのように振る舞う態度は、自分達の「子供」(未来)を殺すことになる。(同じ過ち、悲劇を何度も繰り返してしまうという事)
戦後80年にあたる節目の年にこの映画が日本で公開される意味があるとすれば、ここにこそあるのだと思います。
英国で自責の念に囚われている悦子に残された唯一の救済(赦し)の方法は、おそらくもう一人の娘であるニキに自己を欺くことなく正直に長崎時代の「記憶」を、景子を含めた死者達に想いを馳せながら語り伝えることだけだでしょう。しかし物語はそれも為されることなく薄暗い雰囲気のなか幕を閉じます。映画のような母娘がピアノを連弾なんかして、お互い理解しあえてそれぞれ前向きに生きていきましょう、みたいな希望を暗示するラストは決してあり得ません。私には、悦子の足首にはまだ縄が絡みついている。(今度は自分に向けられたものとして)というイメージの方がこの物語のラストにはふさわしいように思います。
私はこの原作小説を読んだとき一つの違和感を感じました。それは長崎出身のカズオ・イシグロは、きっと両親から長崎原爆の体験談を聞いているだろうになぜその「記憶」を、テーマやモチーフとして長崎が舞台のこの小説に直接織り込む事をしなかったのか?むしろ避けて描いて見えるのは何故か?という点です。これはあくまでも私の想像ですが、それは「語らない事で、語る」「語りえない事を、伝える」必要性がこの物語にはあったからなのでしょう。”信頼のおけない語り手”とはカズオ・イシグロその人そのものなのではないでしょうか。ーおわりー
ー追記ー
カズオ・イシグロの両親の事が気になり調べてみました。やはり母親の石黒静子さんは妹さんと一緒に長崎で被爆されていたようです。しかもカズオ・イシグロが小説を書き始めた時期に、必要と感じた彼女は折に触れ長崎で受けた原爆の体験を彼に語り伝えたそうです。
長崎の被爆体験を綴ったものと言えば、林京子の「祭りの場」が有名ですが、なんと林京子さんと石黒静子さんは同じ長崎高等女学校出身で(林さんは本科、石黒さんは専攻科)原爆が落とされた日、場所は別々でしたが、長崎市内の軍需工場にそれぞれ学徒動員で働きに出ておりその際に被爆されたそうです。(二人に直接の面識は無かったようです)お二人とも奇跡的に助かりましたが、(石黒静子さんの妹も含めれば三人とも)地獄のような惨状を目にした事は想像に難くありません。
林京子の「祭りの場」には長崎に落とされた原爆の「記憶」。それも抽象としての「記憶」ではなく、生の、具体の、真実の「記憶」が記されています。決して長くない文章なので、未読の方はぜひ手に取って読んでみて下さい。そしてこの物語(小説)の悦子(佐知子)景子(万里子)の事をぜひ振り返ってみてください。ー以上ー
鑑賞後の考察で忙しい
原作未読です。読んでない者として…
長崎 原爆投下後・敗戦によって心身に受けた傷と幼い娘を抱えながら前に進み出している佐知子と、彼女と出会うことで、自身も被爆の事実を隠し、心の傷を抱えた悦子に起こる心境の変化。
戦時中の価値観・思想を唱えてきた元教師と、戦争で傷ついた息子との冷えた関係性。戦後の新しい思想を得た教え子との断絶。
次第に思惑と違う方へ向かう事態と現状に折り合えない娘の聞き分けの無さに苛立ちを隠せなくなる佐知子の行動。
そして、30数年後に漸くそれらを語ってきた悦子の正体。
ほとんど最後に仄めかされる悦子の真実(?)で、頭の中がいっぱいになり、自死した長女の謎(?)や成長してなお屈折している次女の状況など吹っ飛んでしまいました。嫌いじゃないです。
1980年代の作者のデビュー作らしいのですが、40年経った今なら観覧者の理解はスムーズに受け容れられるのではと思います。が、原作発表後すぐに映画化されれば相当の衝撃作になり得たのではないかと想像しました。現代だと…。(おそらく1980年代では映画化は不可能でしょうが)
空気感はお馴染みの不穏な感じ
公開2週目に鑑賞。原作未読。
ミニシアターで観たが観客のほとんどが女性
こちらの監督作品は気がつけばいずれも観ていたことに気がついたが、どの作品もお馴染みの空気感が映像と音楽で表現されている。曇り空のような色彩、抑えた演出、静かな音楽で全体的にえも言われぬ不安感や不穏な感じである。
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの演技対決は二階堂さんに軍配。実年齢の差以上に醸し出す雰囲気に違いを感じたが、広瀬さんがそれを計算して演じているならそれは凄いかも。
演者はいずれも実力派で安心して物語に没入できた。
お話の方はミステリー仕立てだと捉えつつ、ラストシーンを経ていくつか辻褄が合わないというか、何故国が変わった?長女は何故行動を共にした?おやおやそもそも日本パートの話は主人公の頭の中の世界だったのか?など答え合わせが必要と感じたので、パンフレットと原作本を急遽購入。
まだ読みはじめて半分ほどなのだが、結構筋立てや人物の掘り下げ方が変わっているというか浅いことがわかった。
結果、原作を知っていれば映像はダイジェスト的により楽しめたかもしれないが、話を知らない人向けにはやや不親切なのかもと思い直し星マイナス1
ぜひ事前勉強の上で臨んでいただきたい。作品としては素晴らしい!
もう1人の自分
テクノ、ニューウェーブミュージックのアーティストのニューオーダーの「ceremony」で始まる、この話の主人公は進歩的な人なのかと時代背景からして少し違和感を感じた。
不気味なほどオレンジ色の夕焼けは、どれだけ遠く離れていても悲しい事を思い出させてしまったのではないだろうか。
話の終盤で考えが180度変わったと言うより、目を覚まされた。
戦争や原爆で運命が変わってしまった人、其々の苦悩が伝わって来た。そんな中でひたすら前を向き運命を切り開いて生きて来た主人公の生き方は、次の世代に伝わったのだと思う。例え嘘だと判っていても、それくらい大変な時代の中で自分を育ててくれた感謝を感じずにはいられなかったから。「ceremony」はこの人生の節目に改めて納得のできる音楽だと思った。
重厚な映画
2時間ドラマとは別格の、質の高い映画を観たという満足感の高い作品でした。
評判が良かったので、ポスターさえまともに見ずに鑑賞しました。そのため予想外に騙され、しばらく思考が停止しました。
騙し絵を見たときのように、自分の脳が信じてしまったものを新しく塗り替えるのが難しかったです。
お腹の中の景子と小学校低学年くらいの万里子が同時に存在していたのが特に混乱した理由だと思っています。
強い余韻が残り、久しぶりにもう一度観たいと思いました。ただ、星の数は迷いました。単純なストーリーだけの面白みはどうなんでしょう。原作も読んでみたいけれど、翻訳本よりも原書がおすすめのようで、躊躇います。
悦子の嘘は、多重人格者が自己防衛のために新たな人格を形成するのと似たようなもので、景子を死に追いやった罪悪感から己を守る術ではないかと感じました。
広瀬さんは文句なく美しかったけれど、それより二階堂ふみさんの演技に釘付けになりました。気取った、でもたくましい昭和の女性そのものでした。あの頃の女優さんってああいう喋り方しますよね。
被爆者は、当時は無知ゆえの差別をたくさん受けたんでしょうね。また、あの時代の女性の離婚や海外移住の重みにも思いを馳せました。
最後になりましたが、ニキは山田麻衣子さんが演じているのかと思っていました。もう芸能活動はされてないんですね。
普通に見て、登場人物と主人公のホントの関係を理解できる人はいるのかな?
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロの原作
だからというわけでは無いんだけど、見ていて文学作品って感じの映画だなと思った。
どこがと言われると難しいけど、展開と話し方でだったのかな。
あいかわらずに感じてしまったのが、広瀬すずが可愛すぎって事。
童顔で可愛いので、良いところの若奥様感が凄かった。。
そして、吉田羊って英語が出来るんですね。
あとは、ニキ役の女優さんが良かった。
実は途中から悦子はこっちなんじゃないかと思いながらの鑑賞。
この手のパターンだと単純に二人が入れ替わった視点だったというオチのはずなんだけど、今回は?がいくつかあった。
夫(松下洸平)、義父(三浦友和)は実在したの?っていうのと、悦子のお腹にいた子供がニキ?って事。
見たあとに口コミサイトを見てみると、戦前が広瀬すず、戦後が二階堂ふみらしい。。
そして、夫の松下洸平と義父の三浦友和は死んでいる?っていう事らしい。
戦争によって、生活が荒んだでしまった自分を受け入れられなかったという事なのだろうか。。
なぜ景子が自殺したのか(被爆の後遺症でも出たのだろうか)、義父の教育の内容(お国のため、反戦?)、なんとなく想像できなくもないけど。。
ただ、見ている時は、この辺はまったく分からなかった。
二階堂ふみが悦子っていうのは分かったけど、戦前や戦後の違い、夫と義父の謎まで普通に見ていて分かる人っているんですかね。
分かりづらい映画でした。
原作を読んではいないので分かりませんが、映画と同じようにわかりづらい描写なのだろうか。。
映画については、見る人に委ねるという事を狙ったんでしょうかね。
戦後問題、原爆と被ばく、働く女性の問題、社会問題をたくさん取り入れていた。
私は、あまりハマらなかったかな。。
全145件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。








