遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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ファンタジーではあるが、リアリティも色濃い
1982年イギリスに住む日本人女性と駆け出しジャーナリストでハーフの娘の会話劇と、20年前、長崎時代の回顧録を行ったり来たりしながらファンタジー要素色濃く描く物語
ゆったりとしたシーンの連続の中に、戦争被害者の負った深い傷がジワジワと迫ってくる
見応えのある映画だと思いました
回想シーンは現実とはちょっと異なり、観る側を混乱に誘導しますが、次第に脚色部分がなんとなく透けて来て、最後にはちゃんとネタばらしもある
前日に「宝島」を観ましたが、ほぼ同じ時代の日本を描きながらながら、描かれる舞台も、視点も、問題提起も大きく違う。しかし、太平洋戦争を起こした国の、戦争被害者を描く、という意味では完全に低通するものがあります
比較しながら観るとより味わい深いです
どちらも観るべき映画と思いました
やっぱり戦争
戦後80年での映画化なのでしょうか。
ミステリー的な部分、ヒューマンドラマ的な部分、いろいろな解釈はあると思いますが、わたしはやはり戦争を意識せずにはいられませんでした。
「あの頃とは変わったのよ、新しい時代なんだから、変わらなきゃ!」
戦後におけるあの頃との違いとは、今の世の中のあの頃(何年か前)と今と比較して、それは余りにも大きすぎませんか。しかも長崎は被爆地です。
悦子さん、被爆して、七年後の街を高いところから見て、新しい時代=変わらなきゃ、そして女性の自立 凄い強さだと思います。
松下さんが発する三浦友和さんの万歳が憎い、その三浦さんも洗脳教育を渡辺さんから責められる、皆さん戦争を通過しているんですよね。
この映画、どこを期待して見るかで感想は変わると思いますが、わたしはとても良かったと思います。全く長くないです。
石川監督は今まで余り好きではなかったんですが(「ある男」なんて褒められ過ぎ)、今回はよくまとめたなと思います。
二階堂ふみさんも迫力満点ですが、大ファンの広瀬すずさんも嵌ってましたね。目力アップしてます。怖いシーンもありました。もっとも、広瀬すずさんの主演じゃなければ、今作見てないかもしれません(でも「宝島」は見る気しません)。石川監督嫌いでしたし、イシグロさんもそれ程のファンでもありませんし。
タイトルの意味は最後までわかりませんでした。
魂を作る素材としての記憶
人間の記憶は時間の経過とともに単に薄れるだけでなく、形や内容が変容していき、元のかたちから大きくかけ離れることがあります。これは実験的に確認された心理学の基本知見だそうですが、「記憶」は、その人がある事象とともに感じた、喜びや恐怖や耐えがたい罪の意識などそのときの「感情」と深く結びつき、自身の精神の崩壊を回避するような合理的なカタチで保存され、その人の魂を構成する素材になるのだと思います。
この作品は、映画的表現を存分に駆使しながら、この「人間の記憶の曖昧さ」という性質を、実に巧みに利用していて、そのときどきの感情と結びついた記憶の断片を、サスペンス仕立てで観客に見せてゆきます。そしてその保存のカタチの変容の全体像が判明する瞬間に、主人公達の中に潜んでいた感情の傷の、時代背景とその強さが観客に理解されるような構成になっているように思いました。
「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」2017年のノーベル賞受賞理由ですが、最近鑑賞した「私を離さないで」にも同じ物を感じ、なるほどと思いました。
主人公3人の演技も素晴らしく、大変見応えのある作品でした。
「ある男」も良かったですが、今後も目が離させない監督さんになると思います。
広瀬すず、二階堂ふみの演技力が冴える!
辛い思いをすると 記憶にまで障壁が残るのかと…
イシグロの若書き作品を見事に映画化。女優陣も好演
カズオ・イシグロの原作を読んだのは10数年前なので、すっかりディティールを忘れていたのですが、映画が進むにつれて記憶がみるみる蘇ってきました。まず驚いたのは原作を読みながら私が勝手に思い描いていた長崎の川沿い風景と映画で実際に見るその風景がかなり一致していたと言うこと。これはイシグロの描写力なのか、監督の再現力なのか……おそらく両方じゃないかと思いました。
原作はそれなりに密度の高い小説だけど後年の大作ような重層的な構造ではなく、分量も短めで、思わせぶりの謎を読者に見せつけながら、イシグロの若書きというか、一種の勢いで物語を進めていきます。しかし今回の映画ではそこは大衆芸術ですから、きちんと“落ち”を付けてくれて、「信頼できない語り手」問題もすっきり見通しよく、原作未読の人でも安心してストーリーテリングを楽しめるでしょう。
物語は1952年頃の長崎と1982年のイギリスを往復しながら展開されていきます。前者は広瀬すずと二階堂ふみ、後者は吉田羊(広瀬すずの老後)とオーディションで選ばれた英国人俳優のカミラ・アイコが中心人物となっています。広瀬、二階堂組も好演していますが、やはり吉田、カミラ組の醸し出す緊張感と悲しみは一日の長。調べてみるとカミラは英国の名門演劇学校出身だそうでシェイクスピア劇なんかも普通に演じられる技量を持った人なんだと思います。そうした相手に英語のセリフでしっかり渡り合っていた吉田羊もすごいと思いました。
で、1952年と1982年をつなぐ役割を果たしているのが劇中曲として使われているNew Order「Ceremony」。Joy Division として最後にレコーディングした曲を、イアン・カーティスの自死後、New Orderとして再レコーディングしてデビューシングルとしてリリースされた因縁の曲です。劇中で吉田羊が長崎で産んだ長女もイアン同様に首つり自殺しているということも選曲の一因かもしれません。
以下の歌詞も映画のテーマに通じていてとにかくこの選曲には感服しました。
This is why events unnerve me
They find it all, a different story
Notice whom for wheels are turning
Turn again and turn towards this time
All she ask's the strength to hold me
Then again the same old story
Word will travel, oh so quickly
Travel first and lean towards this time
記憶と夢の迷宮物語
ノーベル賞作家カズオ・イシグロの40年前に書かれた長編デビュー作を「愚行録」「ある男」などの石川慶監督が映画化した。2025年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品作。
原作は未読のためどうアレンジされているのかはわからないが、謎の部分が残されるので観るものに解釈が委ねられている。
1980年代英国で暮らす悦子(吉田羊)と娘のニキ(カミラ・アイコ)はもう直ぐ売りに出す家の片付けをしている。ニキは母の故郷である長崎の戦争や原爆についての記録を執筆中で母はニキに長崎の記憶を語り出す。
映画は戦後間もない30年前の妊娠中の若き悦子(広瀬すず)と謎めいた女性、佐知子(二階堂ふみ)とその娘万里子(鈴木碧桜)とのエピソードと英国での悦子と娘のエピソードが行ったり来たりする。
物語が進むにつれ過去のエピソードは悦子の記憶と夢が混ざり始めミステリーの要素が強くなってくる。
長崎の話は悦子と夫、二郎(松下洸平)や二郎の父親(三浦友和)との話はリアリティがあり輪郭がはっきりしているのだが、公団住宅の窓から見える佐知子が住む川沿いのバラックや橋、草むらといった風景は書き割りのようでもありリアリティがない。バラックの内部は外観とは似つかない調度品や食器は欧米調でまるでセット。佐知子を演じる二階堂ふみの演技もどこか演劇風で謎めいている。
その謎は終盤になるにつれ明かされてはいくのだが判然とはしない。
理不尽な戦争に巻き込まれ、心にも体にも傷を負い、ひどい差別のなか生き抜いてきた人間の過去の記憶の曖昧さや輪郭がぼやけた夢はそうした人の心の闇を描いているようでもある。
一方分かりやすく時代の変化や世代交代、引き継ぐものと進化するものといった事もスーツケースや妊娠といった要素で描かれており、ミステリー要素との連動性がよくわからない部分もあった。
戦争を直接的には描いていないが人間の心に残される戦争の傷跡を丁寧に描いた良作だ。
世界最高精度の画面
この映画は、ストーリーラインを律儀に追っているだけでは半分も分からない。色彩と光、画角、俳優の移動・カメラの移動、音楽をひっかけたシークエンス間の移行、それがどれほど緻密に組み上げられているか。そういう細部が「物語」の大半を担っている。この精度の高さは今の映画の世界で文句なく最高水準。
そして俳優の見事さ。広瀬すずは彼女の最大の武器である印象的な瞳をつかって、視線だけでさまざまな物語を語っている。そして吉田羊、そのたたずまいが物語るものの多さ(吉田羊の英語は本当に見事で、あの日本人訛りをも上手に利用している)。二階堂ふみの昭和のアクセントと語尾を駆使した演技もうまくいっていて、彼女の映画的教養の深さがよく分かる。
そしてショット演出と構図の周到さ。たとえば川縁の粗末な小屋へ行って、悦子(広瀬すず)が佐知子(二階堂ふみ)の長いモノローグをきいているとき、カメラは佐知子を撮っていなかったのを覚えているでしょうか。あのときカメラは、ずっと悦子の周りを回っていた。そしてようやく佐知子が映ると、彼女はカメラに背を向けている。二階堂ふみは、その表情の表現力を封じられたまま言葉だけで物語をつくりあげていて、広瀬すずのわずかな視線の動きが、それを補強している。観客はフレーム外から聞こえてくる言葉だけを追わねばならないので、想像力をつよく喚起されてゆく。
そんな風なので、この映画を見るときは台詞を追って物語だけを理解しようとしてはダメなのです。広瀬すずが視線をどこにさまよわせるか、吉田羊がどこでどう立つか、そして画面から画面がどのように切り替わってゆくか、その照明と光の関係は、どんな構図の画面がどこに挟み込まれるか…というところに注目してほしいですね。
ネタばれありですが。。。
この映画、公開されたすぐ後の9/6に見ました。最後のほうの場面でショッキングな写真ががあらわれたあと、なるほど主人公ともう一人の女性(悦子と佐知子)とは実は同一人物で、佐知子の存在は幻想だったのだと確信したんですが、それにしても2人の娘たち万里子と景子が同一人物であるとは解せない!万里子が6-7歳のころ悦子は妊娠していて悦子の長女景子はまだ悦子のお腹の中にいたはずではないか、と。原作ではどうなっているんだろうと、カズオ・イシグロの原作(早川文庫、小野寺健訳)を読んでみました。たしかに佐知子は謎めいた人物ですが悦子の幻想上の「分身」とは読めない、2人は別人です。もちろん、万里子と景子もまったくの別人。映画と原作とは別ものと理解してこの映画を鑑賞したほうがよい。それにしてもカズオ・イシグロの原作もそうですが、この映画は何を描こうとしているのか、わたしにはさっぱりわかりません。
全ての人間は心も身体も戦っている!
この作品のテーマをものすごく考えた。
結論、こーなった。
テーマ ::原爆投下の実在とその回帰
つまり、イシグロカズオのご母堂の鎮魂歌(録)、且つ、自身への讃歌(録)
である。
図式で表すと、悦子>=景子=原爆投下の実在
である。
景子は悦子から見ると存在していた、?
しかし、それは景子が人物像として描かれていた。実は、景子は実際には人物では無く、原爆その物であった。(メタファー)
何故景子の部屋を見る事に、ニキが躊躇い、何故開いた部屋にも踏み込まないのか、
また、その部屋の中はかつて景子が勝ち取ったであろうピアノの賞🏆、たくさんの写真、
これらを総合してもシナスタジア的比喩として(原爆投下の爆撃音)を表しているかのようだからだ。
だからこそ、佐智子、万里子は、投影であって然るべき、景子も人間像では無い。
ただ、ここで映画の色彩においては異様なまでのホラー感が冴え渡る。途中から(悦子が団地から向こうのあばら屋を見つけた時から)の場面も美しい。
また、
[A Pale View of Hills], 直訳すると、(丘丘の青白き眺望)となる。決して未来への光を表しているとは思えない。いや、寧ろそうであるような表現の仕方、これは著者イシグロ氏に尋ねたい。それは、自己の過去への決別とともに未来への(人々への)迎合だったのか?それとも、
亡きご母堂の自らの決別だったのか?
それとも、事実はご母堂の目を借りてご母堂を悼んだのか?
団地妻は河川敷を覗く
長崎で戦中戦後を暮らしていた一人の女性の決断と、その決断が家族にもたらしたものを回想する物語。
物語は1980年代、若きライター・ニキが、1950年代に日本からイギリスへ移住してきた母・悦子に、渡英前の日本での暮らしを語るよう促す形で始まる。ヨーロッパでは反核運動における女性達の活躍が注目されており、ニキは主体的に英移住を決めた悦子も自立した女性であると語り、母がこれまで言葉を濁してきた渡英のきっかけを打ち明けさせようとする。
登場人物達は、戦地から戻って来た人も、国内にいた人も、若者たちを戦地へ送り出していた大人も、戦中戦後それぞれの傷を抱えている。暮らしの糧も世間の価値観も激変する中、時に身を寄せ合い、時に押しのけ合いながら、誰しも何かしら後ろめたい物を持ちながら生き抜いていることが示唆される。復興という言葉の陰にある、大きくは語られない戦後の個人史を題材にした点が興味深かった。
予告やイントロダクションの時点で『嘘』がある物語だということは明かされている。あえて嘘を選んだ部分もあれば、嘘と真相の境界をぼかしてある部分もあり、記憶が錯綜しているように描かれている部分もある。いずれにせよ、悦子が一人称で語らなかった部分と、嘘の中にあっても言葉にしなかった箇所には、彼女達の不安定な生活の壮絶さがうかがえる。悦子の言葉や表情の端々から、女性でなければ味わわずに済んだかも知れない苦しみや、母の生きづらさが子を生きづらくする無念が伝わってきて胸が痛んだ。
書割や模型のような1950年代の長崎の光景と、広大な河川敷が異様だった。悦子の心象風景や回想の不確かさを表現するため、意図的にそうしているのだろう。あの不気味さからは、悦子の語り手としての不確かさだけではなく、他人の記憶や心の中を覗き見る行為の落ち着かなさを感じた。
イギリスの風景は時に瑞々しく描かれるが、劇中の行動範囲はごく狭く、悦子の安息の場所の少なさを物語っているようだった。
本編は、母と心を通わせたニキを希望として終わる。ニキは果たして生きづらさの再生産から抜け出せるのだろうか。
世情
上質な映画でストーリーも俳優陣もミステリー性もすべて良かった。
長崎の原爆がこの物語の始まりであり、1950年代長崎と1980年代イギリスを行き来する。
ちょうどこの日に、広島・序破急の蔵本純子さんの「シネマでトーク」でも紹介され、「広瀬すずの演技がとても良かった。後半???というところもあったが、今年の日本映画ベスト10に入る。ただ、結末はこの映画は見る人に委ねられている」とあり、まさにその通り。
吉田羊は前編英語での出演、二階堂ふみも一部英語。この二人の英語はとても素晴らしいのに驚いた。広瀬すずの演技だけでなく、二階堂ふみの立ち振舞や素敵な洋服、凛とした言動。こちらはとてもインパクトがあった。
原作を読んでみたいと思った。
フライヤーでは、「ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの傑作と、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田洋、豪華共演で映画化」と紹介されている。監督・脚本は石川慶。そして「その嘘に、願いを込めた」と意味深な言葉も添えられている。秘められた記憶に涙あふれる感動のヒューマンミステリー、とあるが、回答を求める内容でもない。
ある視点とはよくいったもの
正直、積極的に見た作品ではなく、むしろ嫌々見に行ったような感じでしたが、素晴らしい作品でまさにひれ伏しました。演者が良かったのか作り手が巧みだったのか原作が優れていたためなのか─全部だと思います。そしてそれぞれの良さが一体となって見事な作品に─。
敗戦国、被爆国、長崎をナガサキと表記してしまうニッポン人には決して表現できなかった真実やリアルな世界がそこにはあった。確かに神秘的でエスニックな雰囲気はあるとはいえ、確かに存在していたであろう過去を想起させてくれました。それでいてやはり神秘的で滅茶苦茶引き込まれてしまいました。しかもその非現実的な雰囲気は、何気に作品の核心部分につながっていた印象で、しっかりと理解はできなかったものの、途轍もない凄さを感じてしまいました。
美しく儚さを秘めつつ気高くてそれでいて優しくしなやかでなおかつ強い心をうちに秘めているようなまさに理想的な女性・・・過ぎないか!?広瀬すず!という見方は決して間違ったものではないと思ったらもう全部が全部素晴らしいと思っちゃったわけです。
音楽とか音の質とか使い方なんかも効果的だった気がします。
欲を言えばもうちょっとしっかりと丁寧な謎解きみたいなものがほしかったかなーという・・・まぁそれによる危険性も感じる訳なので、この作品に対して何も言うことはございません。
見て良かったし非常に面白い作品でした。
謎だらけ、結局は後悔をかき消すための嘘・・・?
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれ
ロンドンで暮らすニキは、大学を中退し作家を目指している。
ある日、彼女は執筆のため、異父姉が亡くなって以来
疎遠になっていた実家を訪れる。
そこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、
思い出の詰まった家にひとり暮らしていた。
かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、
ニキは母の過去について聞いたことがない。
悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという
夢の内容を語りはじめる。
それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、
その幼い娘の夢だった。
といったあらすじ。
予備知識なしでの鑑賞。
うーん、いろいろと謎だらけで、終盤までモヤモヤしながらの鑑賞。
主人公悦子の性格がまずつかめない。
夫に対する対応、木から落ちた子供に対する対応、など、
時折違う一面が見え隠れする。
そして、長崎で知り合った佐知子との出会いから親しくなる経緯。
いきなりすぎて・・・
この佐知子という女性も性格がつかめない。
そもそも、存在したの?悦子から生み出された人格?
それとも悦子そのもの?
また、佐知子の子供である万里子は結局景子?
え?では悦子のお腹の子は??
異国の地で活路を見出すためイギリスに渡るも、そのエゴのため、
景子を自殺に追い込んでしまった、という事実を別の人物を立てた、
ということだろうか。
いろいろと複雑に重ねられた、難しいストーリーでした。
全262件中、41~60件目を表示
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