遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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団地とオムレツとそしてバイオリンと憧れと
不条理、そしてデビッド・リンチ作品が大好きな人なら
あのラストは充分に理解できる良作だったと思います
原作は読んでないけど監督さんには一本取られたなと…
ネタバレになるといけないんであまり書けないけど
戦時下、特に原爆で夢見る女性が惨状下でも生き延びなければならない
過去を打消したくても打ち消さすことができない
実際の日本人の夫は恐らく戦死していて、戦時中に生まれたのが
あの長女なのでしょう
演者さんたちもお見事でした
致命傷から身を守る術としての「嘘」には、「捏造」ではなく「脚色」ということばを充てたい
日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ。彼女は、戦後長崎から渡英してきた母悦子の半生を作品にしたいと考える。娘に乞われ、口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。それは、戦後復興期の活気溢れる長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。だが、何かがおかしい。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着く──(公式サイトより)。
痛みを伴った記憶が自分だけの中にある時、それはとらえどころのないぼんやりとした断片的ななにかだが、だれかにそれを伝えるためにことばを与えた瞬間、「断片的ななにか」は形象化され、輪郭を伴った塊になる。
前者によってもたらされる痛みが黴や腐食のようにじわじわと長きにわたって蝕んでくるのに対して、後者のそれは刃物や鈍器のように瞬発的な攻撃性で向かってくる。致命傷から身を守る術としての「嘘」には、「捏造」ではなく「脚色」ということばを充てたいが、本作は戦後の被爆地・長崎で男尊女卑の社会の中で懸命に生きるひとりの女性の「脚色」の物語といえる。
直接的な映像表現や説明的な科白を排し、余白とメタファーに満ちた映画らしい映画で、生活力のある母性にあふれつつもうっすらと影を纏う吉田羊と、九州男児に連れ添い、自責と悲観を抱えながらもまっすぐな眼で母であり女性であることに光を見出そうとする広瀬すずがシームレスに連なっていた見事だった。「わたしとあなたは似ている」と呟く得体のしれない垢抜けた女性を演じた二階堂ふみも良かった。
本原作は、長崎で生まれ、5歳で両親とともにイギリスに移り住んだ原作者のカズオ・イシグロの長編デビュー作で、本作と『忘れられた巨人』というふたつの作品以外の長編小説はすべて著名な文学賞の最終候補になっているという逸話までついている。しかし、デビュー作からかれの特徴である「信頼できない語り手」の原型がすでにここにあることに驚く。
理解がなかなか追いつかない
事実と嘘と夢と時の流れ
私は「嘘」をつくことがあるかもしれない。
正確には「嘘」を重ねて生きてきたと思う。
過去を振り返り他者に自分を語る時、美化したり、かなり湾曲して事実を違った解釈で話す事があるかもしれない。
それは自分本位の現れでもあり、違った解釈にすることにより「事実」に蓋をしてしまう。
いつしか「嘘」が「事実」になっている。
この作品は人間が持つ過去の心の傷や虚栄心の裏側を奥深く描いている。
悦子の過去の心の傷と嘘
佐知子の虚栄心からくる謎
緒方の過去を脱却できないプライド
人は傷や挫折なしには生きていけない。
生き抜く為は「嘘」も必要かもしれない。
しかし必死に時代を生きていた。
生き方に「嘘」はなかった。
この作品は捉え方は観客主体の作品。
好みは分かれるが、見応えのあるエンターテイメントであった。
広瀬すずと二階堂ふみの邂逅は夢か幻か。
見事にスクリーン映えする瞬間であった。
時間があれば再度鑑賞してみたい。
辻褄が合わない
「あの人はあそこにいたらしい」
タイトルなし(ネタバレ)
原作を読んだのは二年ほど前。早川が出してるんだ、と、ちょっと珍しく思って手に取ったのかもしれない。カズオ・イシグロの作品で読んだことがあるのはいまのところこれだけ。
カズオ・イシグロが英語で書いたものを翻訳したものなので、ちょっと日本の文学と比較するのも違うかもしれないが、どことなく庄野順三とか辻邦生とかを思い起こすような雰囲気を感じた。
原作でも若干ホラーテイストだったが、映画の方もそれは同じで最後の方は悦子が語った佐知子という女性とその娘の万里子という過去に会った人々というのは悦子の体験をもとにした空想か妄想という表現をしていた。小説の方ではそういうことは想像をたくましくしないと特に感じ取れないくらいには具体的な記載は無かったとおもう。それ以外にも映画化に当たっては少々変更された点もある。
悦子役の広瀬すずは私のイメージに近いだろうか。佐知子にはもう少し影があるような雰囲気だったので、二階堂ふみだとちょっと明るい感じに見えてしまう。
役者も演技など悪くは無かった。三浦友和はこういう役が多くなった。吉田羊とカミラ・アイコはあまり親子には見えなかったがそこは特に気にならなかった。
1950年代の再現は結構頑張っていたように思う。当時を知っているわけではないけど。おなじく1982年もだいぶ過去になったので、そこも当時の雰囲気が再現されていた。
正直、原作自体面白いとかそういう印象もなく、全体にじめっとしたウェットな雰囲気の小説だな、という感じを受けたくらいだったので、映像化されてそこはさほど変わらなかった。ただ、映画の方が、色々とメッセージ性が強くなっているというか、原作にこんな意図はあっただろうかという印象を映画の方には感じた。
思い出とは消えていくことである
人の記憶というものは、曖昧なものだ。そして、思い出として残っていたものもいつかは消えていく。
年月が過ぎるにつれ、記憶というのは姿かたちを変え、正確に覚えておくことはできない。
もちろん良い記憶だけではなく、嫌な記憶はある。
誰しも何かにあこがれて、嫌な記憶からは目をそらす。事実を歪曲してしまう。
この映画はかなり「曖昧」な部分を意図的に盛り込み、どこまでが真実なのか、をとらえることが難しく描かれているが、時代の変化というものを例えたかったんじゃないかと感じた。
誰かと語りたい映画
久々にテーマのはっきりした映画でした
難解とのレビューが多かったので、覚悟をもってみましたが、悦子の回想を通じて見えた、戦前教育からの脱却と女性の地位向上というテーマがしっかりと伝わって来ました。
何故、次郎と悦子が離婚したのかとか、広瀬すずにはちょっと役どころが重すぎたのではないか、とかの細かい不満はが私にはありましたが、見てよかったと思える作品でした。
そういうことだったのか!という感じでした
美しい映像と文学性、それでいてエンタメとしても楽しめる傑作
広瀬すずさんも二階堂ふみさんが揃い踏みで、監督は「ある男」の石川慶さんとあれば、見ないわけいきません。
戦後の長崎を生き抜いた女性が、遠く離れたイギリスの地から当時を振り返る作品。淡々と描かれる現在と過去は微妙に齟齬があり、観ていて何かがおかしいと思いながら、それらを回収する形で物語は結末を迎えます。
映画としては鮮やかに終わりますが、一部に飲み込みにくさもあり、映画を見終わった後のあれこれ解釈を考える要素もあり、余韻も長く楽しめます。ある種のミステリやサスペンスとして楽しめつつも、混乱の最中で過ごした一人の女性の生き様を描いた文学的な香りも感じさせる複合的な傑作の一つかと思います。
2025/9/7 私の頭にはちょっと難しかった(笑) 最後までしっ...
2025/9/7
私の頭にはちょっと難しかった(笑)
最後までしっかり観たけどなんかもやっとな感じ。なんとなくそーかなと思いながら観ていたが、時系列と登場人物のいりくみで混乱してしまったというのが正直な感想。でもカズオ・イシグロの話は割とそんな感じだからいいかなって感じ。ふみちゃんとすずちゃんよかったなぁ
冒頭の連続絞殺事件からすでに悪夢=嘘なのか?
ノーベル賞作家カズオ・イシグロが物語の現代パートと同じ1982年に書いた処女作で自らの「移民」としてのアイデンティティを長崎から渡英してきた主人公・悦子(広瀬すず/吉田羊)の娘に作家(インタビューアー)として重ね、悦子が見る悪夢と30年前のあいまいな記憶を混在させて描くミステリーでチラシ等の惹句に「ある女が語り始めた・・・心揺さぶる<嘘>」と明示されているように悦子の話には嘘が含まれていることを承知しながら観客は物語を辿り、長女を失った事情を知るにつけ、そりゃそうだよなと<嘘>を交えなければ語れない彼女の心中を察するのである。被爆者に向けられた差別がテーマの根底にありながら直接的には描いておらず、その非人道的な言葉を発したうどん屋の客にコップの水をぶっかける佐知子(二階堂ふみ)の毅然とした言動にもう一つテーマである女性差別問題とタッグを組んだツープラトンで一気にかましており歴代映画・ドラマの「水ぶっかけ大賞」ものであろう。冒頭、庭に降る雨の音から始まり1950年代の長崎を活写したスチル写真を80年代の英ロックバンド・ニューオーダーの楽曲に乗せて一気に物語の中心に誘ってくれるやり口が見事でアバンタイトルフェチの私としてはたまらなく、広瀬すずが松下洸平の首にネクタイを結ぶアクションカットつなぎを見た段階で石川慶監督への信頼とこの映画の成功を確信した。オーソドックスにして斬新・緻密なのである。松下洸平もそこまで亭主関白でなさそうに見せながら、すずちゃんを土下座させたような靴の紐結び俯瞰アングルに込めて描く巧みさ、「オムレツを作れるようになりたい」と言わせながら戦時中の教育を反省しようとしない三浦友和のアンビバレンツ。そもそも「お茶でも飲んでいかない?」と招く英国夫人的描写にすでに悦子(吉田羊)が匂っており脚本にはカズオ・イシグロも様々なアドバイスをしたというだけにその構成の上手さが見事。そしてなんといっても広瀬すずがあまりにすごくてバイオリンシーンの逆光での落涙は今年の主演女優賞を確定させた。
この不穏さ・危うさが魅力的なのだ
映画の中の女性たちをもっと見ていたいと思った。
不思議な手ざわりを持った映画。
日本映画ではあまり感じることのない質感・空気感。
カズオ・イシグロ原作の繊細で謎めいた物語で、私はとても面白かった。
悦子と佐知子を演じる女優二人(広瀬すず、二階堂ふみ)が素晴らしかったのも快い驚き。
鑑賞後数日経ったが、また観たいと思うし、映画好きな人間と本作をあれこれ話したくなる。これは賞味期限がかなり長い映画だと思う。
「長崎で暮らしていたときのことを話して」
1982年のイギリス。売りに出されようとしている実家に久々に帰ってきた次女のニキ(作家志望)が、母の悦子(吉田羊、好演)に頼む。
この頃夢を見るの… こんな人がいたわ… 悦子は過去を語り始めるが、本作はいわば〝信頼できない語り手が回想する物語〟で、1952年の長崎の場面はすべて「悦子の記憶」の中の長崎である。
映画は序盤からどこか不穏な空気が流れている。
この不穏さ・危うさが魅力的なのだ。
誰もが喪失感や心の傷・痛手を抱えている戦後7年の長崎。
原爆で教え子たちを亡くした悦子、右手指を欠損している悦子の夫・二郎、二郎の父で戦前の軍国主義教育を担ってきた緒方さん(三浦友和好演!)、語り手悦子の長女・景子は、数年前に首を吊って自殺している。
回想には、現実と虚構、記憶と忘却、事実の改変・曖昧化が入り混じり、映画後半はミステリー風味が増してくる。悦子と佐知子は対照的な人物に描かれるが、途中「私たちは似ているところがあるわ」という台詞や、彼女らが怒りを見せる二つの場面で「おや?」となり、(あ、そういうことか!?)という気づきもある、かもしれない …が、謎めいた部分は自分で劇場で観て好きに解釈してほしい。
復興した長崎を見下ろしながら、「希望なら、たくさんある」「私たちも変わらねば」と言って、よりよく生きようとした人々。しかし戦後を思うようにうまくは生きられなかった人たちも多いはずだ。原作は未読だが、イシグロ氏はそうした人たちを描こうとしたのかもしれない。
再度言えば、悦子と佐知子(広瀬すずと二階堂ふみ)のやり取りの場面がとてもいい。すずちゃん相変わらずおメメが大きいが、こんなにいい女優になったのか。二人を見ながら、俳優に「反射してますか」「反射してください」とだけ言っていた巨匠溝口健二のことばを思い出したくらいだ。
素晴らしい〝反射〟が見られるし、石川監督のポーランド時代からの盟友というピオトル・ニエミイスキによる撮影・映像設計もとてもよかったと思う。
とても悲しく、そして美しい物語
理解できない派でした
110分までは良かったけど、最後の最後で妄想って⋯なんでもあり過ぎでは。嘘と言うには設定が分厚すぎるし余白が多すぎる。
猫ではなくケイコを殺してしまっていたようにも解釈できるし、ニキも最初からいなかったかもしれない。そもそもイギリスにも行ってない創作かもしれない。いや、創作なのですけどね。。。
ニキが実在すると仮定して、お父さんの手紙がなぜ実在するのかが分かりませんでした。
→全て実在していて、佐知子は米国、悦子は英国に行ったという解釈もできるのですかね。うーん、この設定がない方が私は楽しめた気が⋯
ストーリーはさておき、キャストの演技は素晴らしく、稲佐山での2人の掛け合いの美しさに特に感動した。
ジャンプスケア的なシーンが多かった点は好きになれなかった。
嘘は幸せと平和への願い
今年は終戦80年。…にも関わらず、反戦を訴えた作品に決定打が無かった気がする。『雪風』なんてとんだ時代錯誤作で落胆を通り越して呆れた。
9月になってようやく本命作登場かと期待。
それが本作。カズオ・イシグロのデビュー小説の映画化。
1980年代からイギリスに拠点を移し活躍する氏だが、元々は長崎生まれ。母親が原爆投下で負傷するなど長崎の悲劇やあの戦争を身をもって体現。
戦争を全面に押し出すのではなく、記憶や心の傷や過去の陰として忍ばせ、戦争を問う。私の好きな作風。
しかし…。
1980年代の英ロンドン。大学を中退し、作家を目指す若い女性ニキは、母・悦子が一人暮らす実家に赴く。
母は日本人で父はイギリス人。ニキは二人目の娘。
悦子は昔長崎に住んでおり、日本人男性の最初の夫が。長女・景子もいた。
最初の夫と別れイギリス人の夫と再婚し、景子を連れてイギリスへ。
が、景子は自殺。夫とも死別。以来ニキとも関係がぎくしゃくし、疎遠になり…。
何故異父姉は自殺したのか…? 何故母は日本を離れイギリスに渡ったのか…? 長崎時代の母に何があったのか…?
長崎を題材にした本を書く為、ニキは母に過去を聞く。悦子が語り出したのは、よく見る夢の話…。
戦後すぐの1950年代の長崎。悦子は夫・二郎と団地で暮らし、身籠っていた。
団地から望める河を挟んだバラックに、米兵が出入り。そこには一人の女性が暮らしていた。
悦子はひょんな事からその女性・佐知子と娘・万里子と知り合い…。
現在と過去が交錯。
現在は現悦子の心情やニキとのぎくしゃくを反映して、淡々静かで映像も暗め。
過去は二人の女性の出会いや交流を表すように、美しい射光やノスタルジック。
どちらも映像・照明・美術・衣装が素晴らしく美しく、それぞれの時代の空気を感じさせる。
とりわけ50年代長崎の佐知子が暮らすバラックや店々が並ぶ裏通りなどは戦後の傷痕を醸し出す。
その一方、悦子の暮らしはブルジョワ風。
それを対比させる悦子と佐知子。
意外にもこれが初共演の広瀬すずと二階堂ふみ。現日本映画界を代表する若き実力派二人の共演にまず惹かれた。
今年は『ゆきてかへらぬ』『片思い世界』『宝島』と快進撃。広瀬すずが昭和の日本女性の美しさを魅せる。
ミステリアスで独特な雰囲気で印象残す二階堂ふみ。個性的な役をやらせたら同世代随一。
とにかくこの二人が魅せてくれる。眼福もの。
吉田羊はほとんど英語台詞で、流暢な英語を披露。
カミラ・アイコの聡明さ。子役・鈴木碧桜の野生児のようなインパクト。初めましての二人も印象的。
松下洸平や三浦友和もアンサンブルを奏でるが、女たちの物語。美しさ、儚さ、魅力に浸る。
悦子と佐知子。性格は違う。
貞淑な妻の悦子に対し、佐知子は自由奔放。悦子は夫の後ろに一歩下がるが、佐知子は柄の悪い男にも食って掛かる。
悦子が佐知子の自立した姿に憧れを感じていくのは見ていて分かる。
あの時代に特に女性が、そんな生き方は難しかった。
憧れや対比であると同時に、似通っている部分もある。
悦子は佐知子の自由な生き方に憧れている。佐知子も自由に見えて、自由を欲している。
娘のいる佐知子と身籠っている悦子。若い母親として。
だからそんな二人がシンパシーや交流深めるのは必然だが、それ以上の関係が…。
二人共、被曝者。
悦子は自信の被曝によりお腹の子供にも影響が…と気が気でない。被曝の事を夫にも隠している。
悦子が涙ながらに苦しい胸の内を打ち明けるシーンは広瀬すずの熱演もあって胸に迫る。
佐知子の場合は自身は元より、万里子の身体にはっきりと被曝の痕が。
働く飲食店の客から風評差別を受けるシーンがあったが、まだまだこんなものではないだろう。
カズオ・イシグロが長崎時代に受けたであろう風評被害への憤りを感じた。
戦争が終わり、時代は新しく変わっていく。しかし、それを受け入れられない者も。
悦子の義父は小学校の元校長で、悦子もその下で勤めていた恩師でもある。穏やかな義父だが、当時子供たちに軍国主義の教えを説いていた。あの当時だから…ではあるが、義父は自分は間違っていないと断言。その事で息子と考えの違い、教え子から糾弾される。
原爆や戦争の後遺症を引き摺り…。ここだけでも『雪風』なんかより見るべきものあった。
『愚行録』『ある男』と同系統でヒューマン×ミステリーは石川慶監督のスタイルになりつつある。
カズオ・イシグロが敬愛した小津安二郎や成瀬巳喜男のような静かなタッチの人間ドラマの中に、徐々に明かされていく秘密。悦子の“嘘”。
そこが驚きのどんでん返しになるのだが、ズバリ、佐知子=悦子、万里子=景子。佐知子と万里子は実在しておらず、全て自分たち母娘が体験した事だった…。
何故悦子はそんな回りくどい話を…?
ただ体験談としては辛く苦しいものがある。あの時代の女たち…。
架空の憧れの存在を置く事で少しでもの救いを。
実在はしてなかった。でも、私たちや彼女のような女性は何処かに存在していた。
娘の事もある。思い出の中の美談“女たちの遠い夏”だけではない。
色々と考察のしがいあるが、府に落ちない点も。
長崎時代の悦子の夫や義父は存在していたのか…?
と言う事は、景子は二郎の娘…?
米兵とアメリカに行く筈だったのに、何故イギリスに…?
イギリス人夫との出会いは描かれなくても致し方ないが、景子が自殺した理由は…?
景子との間に何があった…?
アメリカ行きの事で揉め、子猫も原因…?(はっきりとは見せないが、猫好きには辛いシーン…)
悦子とニキも何がきっかけで確執解消…?
ここら辺も見る者委ねで見た人によって解釈はあるが、どうも宙ぶらりんな感じが…。
考えに馳せて作品に浸れるというより、イマイチすっきりしないモヤモヤ感しか残らなかった。
戦争の傷痕、女たちの姿/女優陣の演技、作品の美的センスなどは良かったが…。
全体的にちょっと分かり難かった気もする。
戦後の過渡期を生きた人々
カズオ・イシグロ作品の特徴であるいわゆる「信頼できない語り手」による手法で描かれた本作。
主人公の悦子自身により語られる彼女の過去の出来事。それは彼女が渡英する前、故郷の長崎での夏のひと時、友人関係にあった佐知子とその娘万里子との出来事であった。
戦後の混乱期から高度成長期へと向かおうとしていた当時の日本。戦争の傷をいやす暇もないくらい好景気に沸き、人々は活気づいていた。
悦子も夫の二郎の仕事は順調で生活は安定しており、初めての子供にも恵まれた。そんな社宅の団地に住む悦子とは対照的な暮らしをしていた佐知子。名家に嫁ぎながら戦争で夫を失い、いまや貧しくみじめな生活を強いられていた。
彼女には裕福な叔父の家での安定した暮らしという選択肢があったが、米国人の恋人との渡米にこだわった。
敗戦後日本にもたらされた民主主義が人々に自由を与えた。それは戦前、軍国主義の下で思想統制がなされ多くの思想家たちが投獄されていた時代とは真逆の自由な時代。
かつて体制側に加担した悦子の義父緒方は職を解かれ糾弾される立場となった。かつての教え子でさえ自分を批判する寄稿文を寄せている。彼もこの時代の過渡期に、価値観の変化に置いてきぼりを食らった人間の一人だった。
一方で女性たちには参政権が認められ、女性の自由意思が認められる時代になったかとも思われた。しかし実際は夫と異なる政党への投票は憚れるなどまだまだ女性たちには不自由な時代であった。
安定した暮らしを得る代わりに女性は家に入りそこでただ漫然と歳をとっていく、そんな人生から抜け出したいと佐知子が渡米を願ったのも無理からぬことであった。確かに渡米すればそれが必ずしも幸せにつながるとは言えない。それでもそれに人生をかけたいという彼女の思いは強かった。たとえそれが自分の娘を犠牲にすることとなったとしても。
劇中で何かと不穏な描写がなされる。幼児連続殺人事件の報道、赤ん坊を水につけて死なせる若い女の話、万里子の飼う子猫を川に浸して死なせる佐知子、足に絡まった縄を手にして近づく悦子におびえ警戒する万里子。これらの描写はこの過去を回想する悦子自身の主観が大きく影響したものと思われる。
悦子は友人佐知子のことを話しているようでその実、自分のことを話していたのだ。彼女は自分の人生の決断に負い目を感じていた。娘景子を犠牲にしてしまったという負い目を。だから自分のことを他人の話に置き換えて娘ニキに話していたのだった。
夫二郎との生活に満足してるようで悦子の心は揺れ動いていた。ここでの安定した生活、ここで暮らす方が娘景子にとってはいいことなのだろう。しかしそれは自分が女としてただ家に閉じ込められて漫然とした人生を送ることを意味した。
悦子は昔ながらの日本の古い価値観の下で女性の自由意思が尊重されない人生よりも知りあった英国人男性との渡英の道を選んだ。それが娘景子を幸せにしないと知りながら。
彼女は自分の人生のために娘を犠牲にしたのだ。もちろん結果的に不幸な結末を迎えただけで必ずしも悦子のせいだとは言いきれないが、少なくとも景子の自殺が彼女にそのように思い込ませたのは事実だった。
過去の回想の中での数々の不穏な出来事は親にとって足手まといの子殺しを思わせるものであり、悦子が娘を自死に至らしめたこと、娘を犠牲にしたことへの罪悪感が彼女の過去の記憶に干渉したからであろう。
景子は新しい環境になじめず引きこもりになり、はては自死にいたった。これは悦子のせいではないのかもしれないが、母として娘を犠牲にしてしまったという重荷を感じずにはいられなかったのだろう。そんな彼女の負い目が本作で彼女を「信頼できない語り手」とならしめたのだ。そして見る者はそのヒューマンミステリーに酔いしれるのである。
思えば新しい環境になじめなかった景子は古き時代の象徴ともいえた。新しい価値観を受け入れることができず保守的な性格が災いして周りの環境に溶け込むことができず破滅を迎えてしまう。
時代の変化と共に価値観も変化する。その変化についていけない人間は生きづらくなる。緒方がそうであったように。
悦子は時代の変化に順応してこの古き祖国を捨て去り新たな環境へと旅立った。女性が自由に生きられる環境を求めて。
そしてそこで生まれたニキは母悦子との価値観の相違に苦慮していた。ニキはもはや結婚にさえ縛られない、女性として生きる上で制約を一切感じない生き方をする女性であり、渡英のために結婚に頼らざるをえなかった母悦子以上に何物にもしばられない自由人であった。そんな彼女にすれば結婚にこだわる母悦子は彼女にとっては古い価値観の持ち主であった。
ある意味古き時代の象徴ともいえる景子の犠牲のもとに新しい時代の象徴のニキは生まれた。ニキは母の決断は正しかったと励ます。その決断のおかげで今の自分が存在するのだから。ニキに励まされて悦子も納得するが、それでも彼女は娘景子を想う。
祖国を捨て、娘を捨ててまで自分の人生を手に入れようとした悦子。古き日本を捨てて、自由を求めて渡英した。しかし彼女は古き時代の象徴ともいえる緒方を尊敬し慕っていた。
日本の持つ古き伝統や習慣を愛していた。そんな祖国に置いてきたものへいま彼女は思いを馳せる。娘への思い、義父への思い、あの日見た遠い山並みの光に今彼女は思いを馳せる。この遠い異国の地から。
本作は原作者がエグゼクティブプロデューサーをつとめただけにかなり完成度の高い映画化であった。
全422件中、161~180件目を表示
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