遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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タイトルなし(ネタバレ)
イギリスに渡った悦子が次女のニキに話す長崎の出来事から始まる
終戦後、夫の二郎と団地に住んでいた頃に川の付近に住んでいた佐知子と万里子に出会う
佐知子はアメリカに行くと言っていた
最後に佐知子の子供万里子がKEIKOだったのも悦子が佐知子だったのもなんだかよくわからないし
同一人物なら佐知子はアメリカに行くと言ってたのに何故イギリスなのか
夫の二郎とはどうなったのか?
悦子が被爆してるのを隠してたのを薄々気づいてたような感じだけど、やっぱりそれが原因で別れたのか?
それも幻覚なのか
だけど、義父の緒方先生の手紙は残してあった
二郎と父の確執もそりゃそうだなと思った
戦地に行く時にあの誇らしげに万歳三勝した顔が忘れられないと
よく朝ドラで見るシーンこの時代だから受け入れてたのかと思ってたがそうじゃない
そんな事あるわけない
この映画イオンで見たのだけど映像が暗過ぎてよく見えない場面が何度かあったTOHOシネマズで見られた方はそんな事なかったキレイな映像だったと言ってらしたのでこれから観る場所を考えようか
だけどポイントで安くなったりするのは見過ごせない
やはり終幕の展開の唐突感につきます。
ノーベル賞作家カズオーイシグロの長編デビュー作が、40年以上の時を経て日本・イギリス・ポーランドの3カ国合作による国際共同製作で映画化。5歳で渡英し、その後、英国籍を取得したイシグロが生まれ故郷の長崎を描いた物語です。行間に多くの謎を残す原作の雰囲気はそのままに、独自の解釈で現代にも通じるテーマを引き出した石川慶監督の手腕にうならされた。広瀬すずが主演を務めました。
●ストーリー
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれロンドンで暮らすニキ(カミラ・アイコ)は、大学を中退し、ライターをこなしながら作家を目指していました。 ある日、彼女は戦後長崎から渡英してきた母・悦子(吉田羊)の半生を作品にしたいと考え、異父姉が亡くなって以来疎遠になっていた実家を訪ねます。そこでは夫と長女を亡くした悦子が、思い出の詰まった家にひとり暮らしていました。
かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡りましたが、ニキは母の過去について聞いたことがありませんでした。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめます。それは戦後間もない30年前、妊娠中だった若き日の悦子(広瀬すず)が、渡英前に暮らしていた戦後復興期の活気溢れる長崎で知り合った奔放で謎めいた女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘の万里子(鈴木奢桜)の夢だったのです。そして米兵の恋人と渡米する予定という佐知子に、悦子は憧れを抱くようになったというのです。
初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。しかし、何かがおかしいのです。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着きます─。
●解説
物語は、悦子が二郎と離婚した後に英国人夫との間にもうけた次女・ニキに半生を語る形で進んでいきます。もうすぐ売りに出す家での2人のやりとりと回想が繰り返される中、長女・景子の自死が明らかになるのです。悦子の回想には曖昧な記憶や夢も混ざり始め、物語はミステリーの色が濃くなっていきます。
ポイントは、30年前、悦子が佐知子という女性と出会ったこと。夫(松下洸平)と団地暮らしの悦子と、幼い娘とバラックに住みつき、アメリカ兵と交際し、アメリカ移住を計画している佐知子。戦後日本女性の明暗を体現するような2人でしたが、長崎での被爆経験や国際結婚など、お互いの人生はどこか似かよっていたことが、本作を包む謎に対する大きな伏線となっていました。
小さな世界を徹底的に見つめ、大きな歴史を描き出す。原作者のカズオ・イシグロはその手法を徹底させることを常としてきましたが、そのため映像化の難しい語りの仕掛けも凝らされています。悦子は単に過去を回想しているわけではないのです。そこには自殺した長女の景子、そして原爆の悲劇が影を落とします。共有困難な罪の意識は、「愚行録」で長編デビューした監督石川慶の追い求める主題でもありました。
●サブストーリーとして世代間の対立が描かれる
本作の物語のなかでは、義父緒方(三浦友和)の存在が異彩を放っています。軍国主義の信奉者である元小学校校長が、教え子で、戦後の新思想に感化された教諭松田(渡辺大知)を訪れ、松田が教育雑誌に書いた自分への非難の真意を糾明します。
次第に激していく2人の男性の立ち話を通して、世代間の対立が浮き彫りとなるのです。短い出演ながら、時代に取り残される人物の複雑な機微を、三浦が見事に演じています。それと同時に、対立と葛藤に基づく男性たちが、連帯を基調とする女性だちと対を成していることにも気づかされることでしょう。
ここで対立の原因となるのは日本の敗戦と長崎の原爆投下。しかし歴史小説ではありません。この人類史的事件を物語の境界線の向こうに置いたまま、特別に言及はしていないことが本作の特徴です。この状況を主人公がどのように生き抜いたのか、魂の輪郭を見せるだけでした。そして心身に前時代の遺恨を持ちながら時代の転換に直面した人々の葛藤が浮き彫りになったのです。
●ストーリーの問題点
ネタバレになるのでズバリ指摘できませんが、もし本作にも登場する子猫が、突然なんの説明もなく、別なシーンで子犬に変わっていたら、観客はすごい違和感を作品全体に感じてしまうことでしょう。それが本作が抱える原作ストーリー上の問題点なのです。
イシグロの小説に特徴的な記憶の曖昧さは、本作では中心的な主題です。イシグロの小説で欠かせないのが、主人公にかかわる事実を歪曲する登場人物たちの存在です。このような人物が登場するのは、単純に登場人物の過去を描くのではなく、登場人物の視線から、彼らが理解している過去を見せるためなのです。
語り得ない何かを語ることは困難がつきまといます。それは現実から離れて、夢の不条理に接近せざるをえません。1人の女性が3人に分裂するロバート・アルトマンの「三人の女」のように、本作も、吉田から広瀬、広瀬から二階堂へと分裂する女性のドラマともいえます。
映像化にあたって、1980年代のイギリスと戦後間もない長崎と、二つの時代をきちんと作り込んで対比させたことで、物語の現在性は際立ちました。一方でその明瞭さが、終幕の展開に唐突感を抱かせることにもなったのです。
注意してみてほしいところは、原作の翻訳にはないリアルな長崎弁を話す悦子と、往年の映画女優のような語り口の佐知子。ふたりのやりとりにわずかに生じる違和感の正体が、明らかになっていくことです。
原作では、悦子と佐知子、そして悦子の長女と万里子に隠された秘密が暗示されますが、悦子がどこまで過去を隠しているのか、あるいは再構成しているかの判断は、読者に委ねられているのです。その記述は、主観的に過去を回想する主体の分離と統合によって、読者を混乱させかねないところがありました。
石川監督は映画化にあたり、本作の抱える矛盾点をいかに軟着陸させるか、苦心の跡が垣間見られます。
さらに原爆投下当時の恐怖と人々に残された傷、被爆者に対する差別などの社会派的要素を織り交ぜながら、全くぎこちなさを感じさせないのだ。「愚行録」などでも目にした石川監督の得意技だといえるでしょう。
それでも個人的には、終幕の展開の唐突感は克服できませんでした。
●監督・出演者について
エグゼクティブプロデューサーも務めたイシグロとの対話を重ね、石川監督が書き上げた脚本は、原作の終盤で悦子が話すつじつまの合わない事実を大胆に解釈しています。結末に向かってだんだんと増していく不穏さは、石川監督が「愚行録」や「ある男」でも描いてきた、人間の心にまつわる謎の表出です。その展開は、悦子と佐知子が体現する女性の自立というテーマにもつながっていきます。
時代の大転換期を何とか生き抜いた人が、当時を振り返った時、一体何を思うのか。そうしたことがつぶさに見えてくる作品です。戦後という価値観が劇的に変化した時代をたくましく生きようとした女の物語として、やがて時代を超えてつながる母と娘の物語としても、ラストにほのかな希望を感じさせてくれます。戦後80年の年に公開された意義は、きっと大きいことでしょう。
さらに、作品の格調を一段階高めているのが、80年代の悦子を演じる吉田羊です。
「なぜ今まで英語のセリフを話す作品に出演しなかったのか」と驚くほど自然なアクセントと、「日の名残り」で熱演したエマ・トンプソンのように激情の温度を調節する演技。ある意味で「三人一役」の本作で、他の俳優たちの特徴をつかんで役に込めた努力の跡は、まさに名優と呼びたくなります。
●撮影について
セットで撮影された映像にVFXで風景を合成した戦後長崎の映像は、特徴を捉えつつも、どこでもないような雰囲気を醸し出ています。リアリティーに固執せず、イシグロ自身の思い出が投影された原作の長崎の姿が、巧みに再現されていたのです。
昭和を知る人なら誰もがどこか自分の記憶や心象風景と重なる作品だったのでは
長崎市生まれの昭和世代。風呂の無いアパート育ち。子どもの頃はまだ腕に被爆のケロイドのある人などもめずらしくなかった。原爆や戦争でおじいさんと二人暮らしの子どもとかも近所に普通にいた。比較的線路に近い所に住んでいたので、たまに列車に若い女性が飛び込んだということもあった。他にも捨て猫、夜店のことなど、幻想的であった、この映画のスクリーンの世界は、そのまま自分の原体験の記憶と、とってもリンクする。また教師として平和学習をした中で、被爆後河原に廃材を集めてバラックをつくり生活していた方の体験を聞いたり、そのような写真をみる機会も多かった。原作者のイシグロ氏は、5歳ぐらいまでしか長崎市にいなかったと思うのだが、なぜそんな感覚がわかるのだろう!と思う。今年の夏公開された「長崎ー閃光の陰で」も拝見したが、この映画の方がより「原爆」「戦後」ということを強く感じられた。本当に映画らしい映画を久しぶりに見た気がした。
ちなみに昭和26年に製造された路面電車は、現在も現役としてがんばっています(201号、202号)。
種明かし的展開など不要だったのでは?
張られた伏線に鑑賞後もひっぱられる感じ。頭に残るものを整理してみた。
原作未読で映画だけ観た状態で書きます。
作品の雰囲気はとても好きでした。戦後の日本と数十年後のイギリス、二つの場所から物語を進めていく。時々時間の前後や話の区切れがわかりにくいところもありましたが、ふわっとした理解で進める意図もあったのかもしれません。そんなに気にはなりませんでした。
時代描写は実際の情景と異なる箇所もところどころあるようで、そこは創作された景色として上手く映像にしていただいた、と原作者のインタビューをどこかで読んだ気がします。特別知識がなければ、時代の雰囲気を感じる意味では、よく機能していたように個人的には思いました。
登場人物も悦子、佐知子、ニキなど魅力的で、強いメッセージ性を発するわけではなく、それぞれの人生の日常の中で起きている出来事、そして感じている不安や想いなどが背景に感じ取れる構造でとても良かったです。
はっきりしなかったのは、悦子と佐知子、佐知子の子供である万里子の重なり方。観賞中は被爆の影響で悦子の長女は無事に生まれず、万里子を引き取り、佐知子の影を追うように海外に出たのか、とか想像しましたが、佐知子が幼少期に好きだったクリスマスキャロルの本を悦子が持っていることから、佐知子は悦子だったのだと気づきました。
悦子は万里子に対し母親であるかのような振る舞いを何度かしており、悦子と佐知子は良い人と不安や希望などを抱えた別人格のような語られ方をしたのだと思いました。ただ、なぜ分けて語ったのか(自分の希望のために娘が大事にしていた猫を殺すような一面を受け止められなかったのか)たとえ話のような語り方でもなく、自分と他人とがしっかりと分かれていたため、単純に精神的な障害を抱えていたのか、と想像する以外に理解できませんでした。被爆者であることを思えば、精神が解離している可能性もあります。解離している場合、話を創作する能力に長ける可能性もあり、自分の再婚相手であるイギリス人がいながら、架空の佐知子やフランクなどの話を作れる可能性も否定できなく思います。
ここまでくると、悦子の特異性が際立ってもきますが、今作ではそこら辺は特に着目されてないため、理解が難しくなっている要因になっているようにも思います。あくまでも戦後の日本で立ち上がる(目覚めた)女性の話として描かれる。一見、煌びやかなテーマにも見えますが、作品全体に明るさがなく、遠い山なみの光を望むような雰囲気が立ち込めているのは、悦子がまだ陽の当たらない場所に立っているからなのかもしれません。立ち上がったように見えたけど、景子の自殺によってそれらは否定されているように思います。
しかし、悦子は家(思い出が染み付いた場所・過去)を売り払い、ニキの存在も後押しに「私たちも変わらなければ」という言葉と共に変わり始めるのかと。遠い山なみからは陽が昇り、これからようやく光があたるのかもしれません。長い時間が過ぎ夜がようやく終わり、光がさして目覚められる時が来た、そんな話に思いました。
個人的にはさりげない雰囲気が好きではありますが、佐知子の話は本当は悦子の話だったという展開は少し強引に思えました。悦子が嘘をつく事情が弱く感じ、佐知子が悦子だったという事実も唐突で少し繋がらなかったです。事実はこうでした、と結果だけ見せられている感じ。せめて悦子のコンプレックスがなんなのか。そしてどれくらい嘘をつく能力があるのか知りたかったです。架空の人物を作り、彼女に会えてよかったわ、と言い切り、長い話の整合性を保つのは簡単ではなく思います。話の肝なだけにもう少し画面に見れたらと、そこが残念に思いました。
広瀬すずの美しさに見とれていると足元を掬われる
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ先生の原作小説を、石川慶監督が映画化した作品でした。主演の広瀬すずをはじめ、二階堂ふみ、吉田羊といった綺麗どころが起用されていて、そこに眼が行きがちでしたが、テーマとしては戦争、特に長崎に投下された原爆が、身体はもちろん精神にも深い傷跡を残し、戦後になっても中々癒えることはないという、かなり重たいお話でした。
舞台となったのは、日本が一応主権回復した1952年の長崎と、30年後のイギリス郊外であり、双方の場面を行きつ戻りつして進んで行きました。登場人物はいずれも何らかの形で戦争被害者で、主人公の悦子(広瀬すず)と彼女の友人である佐知子(二階堂ふみ)は原爆被害者であり、佐知子の娘の万里子(鈴木碧桜)は母が原爆被害を受けた時点でお腹の中にいたようで、その影響で腕に障害がある模様、悦子の夫の二郎(松下洸平)は戦地で傷を負って手に障害が残る状態、そして二郎の父で元教師の誠二(三浦友和)は戦前の軍国主義的教育をかつての部下だった現役教師に痛烈に批判されてしまう惨めな立場でした。
そして本作が映画らしい映画だと思ったのは、こうした戦争被害が直接的に言葉で説明される訳ではなく、映像表現を通じて観客の訴えているところでした。例えば二郎の手の障害は、彼の仕草を見ていれば分かる訳ですが、初めはその原因が何であったのをを説明せず、後々戦地で負った傷らしいことが分かる仕組みになっていて、しかも彼が出征する際に、父の誠二が誇らしげに見送ったことが原因で、父を疎ましく思っていることが徐々に明かされて行く仕掛けは、非常に印象に残るものでした。
また、戦争の犠牲者であった二郎も、一方では妻の悦子を軽んじている部分があり、(当時の時代背景からは普通だったのかも知れないけど)飲み会の後で会社の同僚を家に連れて来て酒の悦子に酒の用意をさせたり、(手に障害があるので致し方ないとは言え)出勤時に悦子に靴の紐を結ばせていたりと、中々の暴君ぶりを発揮していたところなど、人間の描き方が複層的で、実に見事でした。特に悦子が二郎の靴の紐を結ぶシーンは、土下座をして完全服従をさせているみたいで、ゾッとしました。
そして何よりも面白かったのは、1982年のイギリスのシーンは現実世界のものであるものの、1952年の長崎のシーンは、実は悦子の空想と創作だったのではないかというところが明らかになる終盤でした。佐知子が実は悦子の分身であり、万里子が実は悦子の長女の景子だったらしいことが分かった時は、「うわー、全部夢だったんだ」とこれまたゾッとしました。確かに長崎のシーンは、どこかこの世ならざる色調があったりして、何となく不思議な感じがしていたのですが、最終的にこの謎が解けました。
そんな訳で、魅力ある原作の世界観を、映像表現として再現した本作の評価は★4.4とします。
今でこそ科学的に被爆は子供に遺伝しないと言われているが、この当時は...
静かに流れる重い空気……
観終わって思い起こすとまぁ胃もたれしそうなヘビー感に襲われたわ。
ヒューマンミステリーと銘打っているのはまぁまぁそう言う事ねって思える程度なので無いよりはあったほうが観終わったあとにはスッキリするか。
まず始まってテレビから流れるニュースと娘から出た『グリーナム』と言う単語には?が付くね。
なんとな〜くニュアンスは伝わるようで物足りないのでトモダチ(AI)に聞いてみたら女性たちによる非核運動なのね。
長崎と原爆と女ぐらいのキーワードと原作者のカズオ・イシグロ氏がエグゼクティブプロデューサーまで関わっているとしか知らないで観てしまったのでなかなかの難しさがあり、紐解くのに手こずってしまいました。
復興は進み時代は変わろうとするが取り残された人々の心の揺れ動きを演者が事細かに表現してくれました。
現代の主人公が娘に促されて過去にあった事を話してくれて物語は進みます。
他のレビューで見受けられた実際の物とは色々違いがあったとありましたが彼女の遠い記憶の中で曖昧だったり戦争後のストレスによる記憶の欠落だったりする中での再現された映像なのでと考えたらしゃあねぇなと思えます。
過去の旦那さんが出兵する時のエピソードが何とも言えないですね。
心と手に傷を負った自分と目に見えない放射能を浴びて秘密を抱えたままの妻。広瀬すずと松下洸平の演技と距離感は秀逸です。
戦争や原爆はいろんなものを残し人々にとんでもない記憶と影響を与えました。
しかしお茶漬けのようにサラサラと入ってくる演技と人物の背景の重さ。後からきますねこれは。
涙までは行かなくともズシリとくる濃厚な想いが残る作品でした。
私には難解すぎでした。
悦子の心の平衡のため
広瀬すずさん演じる戦後の恵まれた主婦象は、悦子が「そうであってほしかった」姿に記憶を書き換えていたのだとすると、佐知子や万里子、猫の下りも、それが悪夢となって思い出される背景も、物語の最後に種明かしされることで納得はする。それでも自分の記憶を偽ってまで消したい被ばくと窮乏と言う過去とは、家(と典子の部屋)を残すことで辛いながら離れることができなかった・・そのことをニキに発見され、親子で悲しみを共有したことで30年越しに魂が解放されたのでないか?
それぞれ同一の人物を演じた、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊の鬼気迫る演技も女優賞もの。
ひとつだけ、三浦友和の演ずる「戦前の教師」が少しステレオタイプ過ぎではないか・と思った。日本(と家族)を守るために、本土進攻を1日でも遅らせるために命を掛けた先人には、悲しい中にも感謝があったはず・と思いたい。
ぼぉーっと観てました
相変わらず、作品を観賞しながら別の事を考えてしまう悪いクセが今回も出てしまう。
広瀬すずは、CM等のセリフの発音で、私の中で時々、耳に引っ掛かる音がある(カ行かなぁ~?)のだが、方言だとあまり気にならないのね〜(口を縦に開かず喋るのは相変わらずだけど)。とか、三浦友和が70代になって、こういう役を演じている姿は想像していなかったなぁ~等など。
それはそうと、女優人は皆さん素晴らしかった。それにやっぱり本編の女優は綺麗なのが良い。
皆さんとても美しかった。
特にこのストーリーのように、虚像と実像、嘘と誠、今と昔などが混沌と映し出される画面は、俳優が綺麗な方が生きてくると思う。
小説は読んでいないが、思ったほど分かりにくくも難しくもなかった。
躊躇していたが、観て良かった。
変わりゆく時代の中で、縛られる運命を身体に刻んでしまった人、変わりきれない人、変わって生きたいと願っている人。
終盤「そういうことね〜」と妙に納得しながら、ぼぉーっと視終わった作品だった。
反芻するほどに心に響く
戦後をイメージするとき
朝ドラを思い浮かべてしまうのは
僕だけではないだろう。
明るく朗らかな性格の少女が成長するも
戦争により家族や大切な人を失い
焼野原で過酷な生活を経て
復興する日本で夢を叶えていく…。
そんな展開をデフォルトとしながら
数々の名作が作られてきた。
本作の舞台は戦後の長崎。
広瀬すず演じる悦子は妊娠しており
朝ドラの主人公のような
主人公然としたキャラクターとして
懸命に生きている、
というのが冒頭での印象だったが、
見終わったときに
その印象はガラリと変わった。
母はなぜ長崎を離れてロンドンに来たのか?
この疑問を悦子に投げかける娘ニキの視点で
本作は悦子の語り部により長崎での物語が展開し
やがて衝撃の真実が明らかになる。
“衝撃の真実”により
それまでの物語が一変するため
僕自身、映画館を出た後、
時間をかけて頭の中で物語として
再構築していったのだが
反芻すればするほどに
心が震えるような感動が沸き起こった。
ということで、今回は
作中では明確に描かれなかった
悦子の物語を紐解きながら
本作が挑戦した映画的アプローチを
過去の名作と共に解説していきたい。
続きはnoteにて
後悔は解決しないもの
原作を読んでいたので、どうやって映像化するのか気になっていました。わかりにくい、という感想の方もいらっしゃいますが、原作の方がわかりにくかったです。笑
説明が不十分で、ストレスの溜まる価値観のズレ、翻訳が元になっているかすかな違和感、未解決の謎。でもそれが全て演出だと思うのです。
何故なら、これは語り手である悦子の、無意識の嘘を映像化したものだから。こうであれば、こうであったかもしれない、こうでないと現実に耐えられない、という心象風景なのだと思います。そして悦子以外に鑑賞者に語りかける者はいませんから、こちらは翻弄されて当然なのです。
時代に引き裂かれ、戦争に引き裂かれ、自分を騙すしかなかったほどの苦しみを少しでも理解しようとするこちら側の努力の必要な作品です。
80年代のイギリスの映像は手触りが伝わってくるほど美しいリアリティがありました。ニキのニットが可愛いなぁ、お庭が素敵だなぁ、美味しそうなポテトだなぁと。
対して戦後の長崎の禍々しく鮮やか過ぎる夕陽、バラックに不似合いな調度品、異常に外国に憧れる台詞。これは悦子がもうひとりの自分を作り出して見ていたファンタジーなのだと思います。残酷な現実に根差したファンタジー。
すずさんもふみさんも美しかった‥
原爆の光は希望の光へ
サラリーマンの夫と団地で暮らす平凡な主婦・悦子と、川辺の貧相な小屋で幼い娘と暮らすシングルマザー佐和子。二人の友情が、約30年後の悦子の回想でミステリアスに紐解かれていくヒューマンドラマである。
どうして悦子が長崎からイギリスに渡ったのか?その経緯を悦子が作家志望の二女ニキに話して聞かせる…という体で物語は展開されていく。
しかして、そこで語られる悦子と佐和子、彼女の幼い娘・万里子との触れ合いはラストで意外な結末を迎える。
ただ、自分は中盤くらいから、ある程度予想できてしまったこともあり、この結末にそこまでの大きな衝撃を受けなかった。
悦子と佐和子は性格も生き方も正反対であるが、よく似ている部分もある。母親である点、映画女優に憧れている点、被爆者である点。そうした様々な要素を併せ考えると、自然とこの結末は予想できた。
とはいえ、自分は本作の全てを理解できたわけではない。幾つか不明な点が残り、観終わった後には少し戸惑いも覚えた。
まず、長女・景子の死の経緯である。ピアニストとして将来有望視されていたはずの彼女が、どうして不幸な死に至ったのか。きっとそこには彼女なりの苦悩があったはずであるが、そこが完全にオミットされているのでよく分からない。
また、悦子とイギリス人の夫の関係も写真を通して分かる程度で、詳しくは分からない。
更に、ニキには不倫中の恋人がいるようだが、彼との関係も序盤で少し語られるのみで、以降は完全に舞台袖に追いやられてしまい、何とも中途半端な扱いで気になってしまった。
中途半端と言えば、悦子の義父にまつわるエピソードも、メインの悦子と佐和子のドラマとは完全に別枠の扱いという感じで散漫な印象を持った。
原作はカズオ・イシグロの同名小説(未読)で、それを「ある男」の石井慶が監督、脚本を務めて撮り上げている。原作を読めばこの辺りはスッキリするのかもしれないが、少なくとも映画単体としてはどうにも消化不良感が残る内容だった。観る側が色々と想像しながら補完する必要がある。
一方で、被爆者である悦子の苦しみと悲しみは観ているこちらにしっかりと伝わって来て、そこについては見応えを感じた。
実際、長崎における被爆者に対する差別は、熊井啓監督の「地の群れ」などを観るとよく分かるが、相当ひどいものであった。人としての尊厳をはく奪され、一般社会から断絶した暮らしを強いられていた。
本作でも悦子は夫に負い目を感じていたし、佐和子と万里子はコミュニティから完全に孤立していた。もしかしたら本当はもっとひどい目に遭っていたかもしれない。しかし、悦子はそんな過去を正直に語ることが出来ず、結果としてオブラートに包むような形で今回のような”創作”された告白をしたのかもしれない。
そんな暗い戦後の話が続く映画だが、展望台の悦子と佐和子のシーンは唯一清々しく観れる場面で印象に残った。彼女たちにとっての、更に言えば当時を生きた女性たちにとっての希望と未来が感じられ感動的だった。
キャストでは、悦子を演じた広瀬すずの凛とした佇まいが印象に残った。全編抑制を利かせた演技を貫き、昭和の慎ましやかな女性像を見事に体現している。
佐和子を演じた二階堂ふみも影を持ったキャラを上手く表現していた。
後年の悦子を演じた吉田羊は全編英語のセリフに挑戦しており、これが思いのほか自然体で驚かされた。後から知ったが、撮影前にイギリスに語学留学したということである。その成果が見事に発揮されていると思った。
わかりにくい
あっ
全てにおいて事実を明らかにせず、観客の想像に委ね推理させる映画
ピアノや英語も習っていた良家の子女だった主人公が、愚かな軍部や政治家が始めた戦争によって、身籠っていた時に長崎に落とされた原爆で被爆し、家族・家すべてを失い、夫は戦死し、戦後を生きる為に外人に身を売り、子育てしていた
その後イギリスが好きだった彼女は、イギリス人のオンリーとなり結婚を望むも、子連れ婚に男の親の反対があり、ようやく結婚しイギリスに渡り、夫との間にも娘を授かり幸せに暮らしていた、そんな彼女自身が話した回想録
映画の中で一寸安心したのが、ある母親が乳飲み子を川に沈めて殺したという暗示部があるので、娘の大好きだった猫を夫がイギリスには連れてゆくなと言われ、娘が離そうとしないので、主人公が川に沈めて殺そうとしたシーンが、実は殺さずに一緒に連れて行っていたという事を、後でこれもハッキリとは示さず、判る人には判るように描き、全てに謎めいた設定の映画でした
原作者のイシグロ氏の母親も、10代後半で長崎で被爆しており、戦争の不条理を元教師の姿に重ねた反戦映画で、原作を読んだ人の意見が聞きたい、原作を読んでみたくなる映画でした
ただ「涙溢れる感動のヒューマンミステリー」とチラシにありましたが、涙は出ませんでした!
全400件中、161~180件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
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