遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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イシグロの若書き作品を見事に映画化。女優陣も好演
カズオ・イシグロの原作を読んだのは10数年前なので、すっかりディティールを忘れていたのですが、映画が進むにつれて記憶がみるみる蘇ってきました。まず驚いたのは原作を読みながら私が勝手に思い描いていた長崎の川沿い風景と映画で実際に見るその風景がかなり一致していたと言うこと。これはイシグロの描写力なのか、監督の再現力なのか……おそらく両方じゃないかと思いました。
原作はそれなりに密度の高い小説だけど後年の大作ような重層的な構造ではなく、分量も短めで、思わせぶりの謎を読者に見せつけながら、イシグロの若書きというか、一種の勢いで物語を進めていきます。しかし今回の映画ではそこは大衆芸術ですから、きちんと“落ち”を付けてくれて、「信頼できない語り手」問題もすっきり見通しよく、原作未読の人でも安心してストーリーテリングを楽しめるでしょう。
物語は1952年頃の長崎と1982年のイギリスを往復しながら展開されていきます。前者は広瀬すずと二階堂ふみ、後者は吉田羊(広瀬すずの老後)とオーディションで選ばれた英国人俳優のカミラ・アイコが中心人物となっています。広瀬、二階堂組も好演していますが、やはり吉田、カミラ組の醸し出す緊張感と悲しみは一日の長。調べてみるとカミラは英国の名門演劇学校出身だそうでシェイクスピア劇なんかも普通に演じられる技量を持った人なんだと思います。そうした相手に英語のセリフでしっかり渡り合っていた吉田羊もすごいと思いました。
で、1952年と1982年をつなぐ役割を果たしているのが劇中曲として使われているNew Order「Ceremony」。Joy Division として最後にレコーディングした曲を、イアン・カーティスの自死後、New Orderとして再レコーディングしてデビューシングルとしてリリースされた因縁の曲です。劇中で吉田羊が長崎で産んだ長女もイアン同様に首つり自殺しているということも選曲の一因かもしれません。
以下の歌詞も映画のテーマに通じていてとにかくこの選曲には感服しました。
This is why events unnerve me
They find it all, a different story
Notice whom for wheels are turning
Turn again and turn towards this time
All she ask's the strength to hold me
Then again the same old story
Word will travel, oh so quickly
Travel first and lean towards this time
色々と後から反芻してしまう映画だった。時間が経つと段々と大きな映画に思えてきた。
映像が、日本映画らしくなく、重厚さを感じさせる映画だった。
カメラマンがポーランドの人だそうで、そのせいか。
石川慶監督作品は、「蜜蜂と遠雷」を見ただけだけど、上手い監督だった印象がある。
今回は、なかなかすごい!
この映画の広瀬すずと二階堂ふみを見るだけでも価値がある。広瀬すずは、今までの中では一番いいし、二階堂ふみは、ちょっと尖っていて彼女も今までの中ではベスト級の演技。
他の吉田羊、カミラ・アイコ、松下洸平、三浦友和も良かった。
話は、色々な読みができる構造の映画で、見終わった後にあとを引く。
最初に見た劇場のスクリーンが暗かったのと、話の内容も含め見直したいところもあり、今回は2回見た。
1回目は、イギリスパートなどの陰影のある映像が、黒潰れがひどくて残念な映像だった。それで、比較的明るいスクリーンの劇場で見直した。
見直すと暗部の階調もしっかりあり、イギリスパートの映像の印象が全然違っていた。(これから見る方は、明るいスクリーンの劇場で見ることをお勧めします)
カットが繊細に吟味され撮影されているのが感じられる素晴らしい演出と映像。この映像を味わうだけでも楽しい映画だった。
「小説」を「映画」としていかに成立させるかにこだわっている演出だったと思った。それはほぼ成功されていると思う。(もう少し、曖昧な映像表現ができれば良かったかも)
そして2回見ると、この映画の主人公は、吉田羊(82年の悦子)であることが素直に納得できた(当たり前の話だが)。それでラストには3人のキャラクター(52年の悦子と佐知子と82年の悦子)がしっかり統合されていくのが感じられた。それが感動的だった。
それに長崎シーンで、途中に何度か出てくる黒服の女性は、実は82年の悦子だったのがわかる=筋としては全く論理的でなくおかしな話だが、映画的には納得できた。それが、82年の悦子(吉田羊)の後悔の中に生きてきた切なさに繋がり、彼女は苦しんでいたことが私には腑に落ちた。そしてラスト、それを包み込む娘ニキ(カミラ・アイコが名演)の優しさ。
そう思えると涙が出た。
これからの再出発を予感させて終わる。
色々と後から反芻してしまう映画だった。時間が経つと段々と大きな映画に思えてきた。
記憶と夢の迷宮物語
ノーベル賞作家カズオ・イシグロの40年前に書かれた長編デビュー作を「愚行録」「ある男」などの石川慶監督が映画化した。2025年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品作。
原作は未読のためどうアレンジされているのかはわからないが、謎の部分が残されるので観るものに解釈が委ねられている。
1980年代英国で暮らす悦子(吉田羊)と娘のニキ(カミラ・アイコ)はもう直ぐ売りに出す家の片付けをしている。ニキは母の故郷である長崎の戦争や原爆についての記録を執筆中で母はニキに長崎の記憶を語り出す。
映画は戦後間もない30年前の妊娠中の若き悦子(広瀬すず)と謎めいた女性、佐知子(二階堂ふみ)とその娘万里子(鈴木碧桜)とのエピソードと英国での悦子と娘のエピソードが行ったり来たりする。
物語が進むにつれ過去のエピソードは悦子の記憶と夢が混ざり始めミステリーの要素が強くなってくる。
長崎の話は悦子と夫、二郎(松下洸平)や二郎の父親(三浦友和)との話はリアリティがあり輪郭がはっきりしているのだが、公団住宅の窓から見える佐知子が住む川沿いのバラックや橋、草むらといった風景は書き割りのようでもありリアリティがない。バラックの内部は外観とは似つかない調度品や食器は欧米調でまるでセット。佐知子を演じる二階堂ふみの演技もどこか演劇風で謎めいている。
その謎は終盤になるにつれ明かされてはいくのだが判然とはしない。
理不尽な戦争に巻き込まれ、心にも体にも傷を負い、ひどい差別のなか生き抜いてきた人間の過去の記憶の曖昧さや輪郭がぼやけた夢はそうした人の心の闇を描いているようでもある。
一方分かりやすく時代の変化や世代交代、引き継ぐものと進化するものといった事もスーツケースや妊娠といった要素で描かれており、ミステリー要素との連動性がよくわからない部分もあった。
戦争を直接的には描いていないが人間の心に残される戦争の傷跡を丁寧に描いた良作だ。
かりそめではない平和を
違和感の扉に鍵をさすニキの視点で悦子の語りを追ううち、正解のない虚像に出会い戸惑う
そこに見えてくるのは、いつの時代にもある隔世という壁、差別や常識の抑圧、束縛という枷、そして戦争が及ぼす心身の痛みのひどさ
皆が傷を抱えたまま、必死に復興に向かわなければならなかった戦後の世の中だ
理想があるほど現実との狭間に生み出されていく自分のなかの異物たち
悦子は心を押し殺し、もがいたのだとおもう
良い妻、良い嫁、良い母…
求められ問われる度に葛藤を重ねどんなに生きづらかったことだろう
そして悦子は絶望を断つ
こうありたいと思う虚像の自分でつなぎとめ
彼女なりの生きるための術でひかりをつないだ
蒸す草が絡みつく夢に起こされる日々は止まず
罪悪感という縄が食い込む感触はいつもここにあり
捨てられない小さな赤い長靴に本音を秘めたまま
代償は年月を越えて襲う
それでも〝私らしさ〟を生きてきた証だと本人が誰よりも知りつくす
その人生に誰が何を言えるだろう
庭を見渡す窓越しに曇りがちなイギリスの空気を纏いながら、30年後の憧れの地の部屋でも艶やかなユリが香っていた
悦子という人間のアイデンティティが凝縮されたかのようなカットが印象的な彩を放ち、その様子に私もほんのり安らいだ
あぁ家族の節目の時間は母娘のこれからに大切なをきっかけを与えたのだなと感じられた
若い悩みを抱えるニキは母の半生から自分の意志を信じる人生の意義を感じてまた一歩踏み出すだろう
悦子は娘のまっすぐで優しい勇気により、孤独すぎた夢のための重荷を少しはおろせのではないだろうか
そしてきっとこれからも自分の中の自分をあちらとこちらを漂ようように紡ぐ
だけどようやくのんびりとゆっくりと
日本は戦後80年を迎えた
しかし、隣り合わせで繰り返される悪夢は人ごとではない
誰もが希望という名の光を見つめることができ
それを見失わせない世界を
原作者や監督のメッセージを受けた私たちは考え行動しなければと思うのだ
平和はかりそめではいけない
その意味がこの物語には溢れていた
訂正済み
回収されないのが人生かな
原作のエピソードは、もちろん多少の改変省略は少なからずありますが、比較的丁寧に映画に反映されています。
ただし最後の部分を除いて。
最後は回収と言えるのかもしれませんが、よく考えてみると佐知子が悦子だとしても佐知子+悦子が悦子だとしても、矛盾点は多々残りそう単純なものでもなさそうです。
壮絶な被爆体験や身近な肉親の死などなど、どんな悲しみや後悔があっても人生はただ続いていく。
そこにはっきりした理由なんてないし、ましてやすっきりした回収なんてありえない。
それにしてもメイン3名の女性の演技は素晴らしいです。
世界最高精度の画面
この映画は、ストーリーラインを律儀に追っているだけでは半分も分からない。色彩と光、画角、俳優の移動・カメラの移動、音楽をひっかけたシークエンス間の移行、それがどれほど緻密に組み上げられているか。そういう細部が「物語」の大半を担っている。この精度の高さは今の映画の世界で文句なく最高水準。
そして俳優の見事さ。広瀬すずは彼女の最大の武器である印象的な瞳をつかって、視線だけでさまざまな物語を語っている。そして吉田羊、そのたたずまいが物語るものの多さ(吉田羊の英語は本当に見事で、あの日本人訛りをも上手に利用している)。二階堂ふみの昭和のアクセントと語尾を駆使した演技もうまくいっていて、彼女の映画的教養の深さがよく分かる。
そしてショット演出と構図の周到さ。たとえば川縁の粗末な小屋へ行って、悦子(広瀬すず)が佐知子(二階堂ふみ)の長いモノローグをきいているとき、カメラは佐知子を撮っていなかったのを覚えているでしょうか。あのときカメラは、ずっと悦子の周りを回っていた。そしてようやく佐知子が映ると、彼女はカメラに背を向けている。二階堂ふみは、その表情の表現力を封じられたまま言葉だけで物語をつくりあげていて、広瀬すずのわずかな視線の動きが、それを補強している。観客はフレーム外から聞こえてくる言葉だけを追わねばならないので、想像力をつよく喚起されてゆく。
そんな風なので、この映画を見るときは台詞を追って物語だけを理解しようとしてはダメなのです。広瀬すずが視線をどこにさまよわせるか、吉田羊がどこでどう立つか、そして画面から画面がどのように切り替わってゆくか、その照明と光の関係は、どんな構図の画面がどこに挟み込まれるか…というところに注目してほしいですね。
残酷な絶望の光 と 自責の念 と 切ない嘘 と 希望のかけら
もし戦争がなかったら、
悦子は才媛として世界で活躍していた人かもしれない。
小さいときにはずっとアメリカへ行くことを夢見ていた。
アメリカに行って映画女優になる。
英語を勉強することが好きで父が買ってくれた
英語版の「クリスマス・キャロル」や「若草物語」が大好きで読んでいた少女時代。
窓際に座って「巴里のアメリカ人」や「風と共に去りぬ」の記事を熱心に読む悦子。
若き頃の写真には洋服に身を包みアメリカ兵と日本人男性の間に立って通訳をしている姿。
最先端のレディースーツを身にまとい、スカーフを巻き、サングラスを引っ掛ける。
アメリカ婦人らと流暢な英語で楽し気に会話をする悦子。
メンデルスゾーンに夢中になりバイオリンやピアノを弾きこなす。
音楽の教員としても緒方に評価される。
娘のニキが悦子に「何でナガサキを離れることにしたの?」と
野暮な質問を悦子にしているが悦子にとっては
海外に出るべくして出たという感じなのではないか。
ただし、幼い景子のことを思うと苦悩と葛藤があった。
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1945年8月9日午前11時2分 トルーマンという悪魔によって、
長崎市 松山町上空約500メートルで炸裂したプルトニウム爆弾は
爆発中心での温度は100万℃にもなった。
(太陽周辺のコロナの温度が100万℃以上といわれる超高温)
大量の熱エネルギーは約3秒の短時間に放出され熱線といわれる。
悦子がいた城山町は松山町の西を流れる浦上川の川向こうにあり
爆心地から西にわずか約500mの丘の上にあった城山小学校は、
一瞬にして1,400余名の児童や教職員などの多くの命が失われた。
爆心地から1.5km以内の建物は全壊、2.5km以内は半壊。
火災は3.5kmの範囲まで広がり、多くの人が即死。
10km以上の地域でも、残留放射線による健康被害が発生した。
・団地の窓上にぶら下げた ガラスのかけらのような風鈴が、
チリンチリンと涼しげな音を立ている。
初夏に近づく季節、団地の窓から気持ちよさそうな風が入ってきている。
・悪夢にうなされる悦子。夢の中で川に流された木箱を必死に走って追いかけている。
・『 首を吊って自殺したなんて言えないもんね。
マンチェスターでひとりで・・・恥ずかしいもんね 』
この映画の中で万里子(景子)はまるでホラー映画『リング』の貞子のような雰囲気をまとっていてイギリスでの古い家族写真には笑顔のイギリス人の父、ニキ、悦子、そして景子だけが長い髪を垂らして下を向いている。この写真はちょっとやりすぎ感がありホラーを越えてお笑いの領域に行っている。
BGMに流れる New Order の『 Ceremony 』という曲は23歳で自宅で首を吊って亡くなったイアン・カーティス(マンチェスターで結成されたバンドのボーカリスト)によって書かれたもので、ある解釈ではこの詞は彼が妻に宛てた謝罪の言葉だと言われていて、
破綻してしまった愛と自身の混乱状態を描いているといわれている。( LyricList )
イアン・カーティスが妻への贖罪の念を込めて書いた曲と言われているが、
怒りや憎しみではなく愛が生まれて消えていくのをただ見つめ続けるような歌詞です。( パンフ)首を吊って自殺した景子の話には、
イアン・カーティスの悲劇的な死が暗にかさねられている。
・悦子は原爆で教え子も家族も何もかも失い
中川(爆心地から約4km)の校長先生宅(緒方家)に避難する。
・稲佐山のロープウェイで一緒になったアメリカ婦人らの一行と流暢な英語で会話する悦子
『 マサチューセッツのボストンの近くの小さな町よ 』『 そうなのね。「若草物語」の舞台もボストンの近くよね 』『 羨ましいわ。「若草物語」は大好きなの。... 』
『若草物語』は、南北戦争時代のアメリカを舞台にマーチ家の四姉妹の成長を描いた物語。
姉妹はそれぞれが抱える「 心の敵 」に立ち向かいながら、様々な困難を乗り越えていく。
愛と成長、そして家族の絆を描き、次女が作家として自立する過程や夢と現実、愛の形が紡がれていく物語。
・山頂の展望台に到着
『 まるで何もなかったみたい。...あの辺はみんな原爆でめちゃめちゃになったとよ。それが今はどう? 』『 ...藤原さんはいつも、将来に希望ば持たんばいけんって言いよるけど、ほんとそのとおり 』『 お子さんが五人あったの。ご主人は長崎の偉い方だったのよ。原爆が落ちるとご長男以外はみんな亡くなったの。...でも藤原さんはがんばったのよ 』『 わたしあの人に会うたびに自分もこういう風にならなくちゃいけない、将来に希望を持たなくちゃいけないって思うの。... 』
・『 小さいときにはずっとアメリカへ行くことを夢見てたのよ。
...父が買ってきてくれた英語版の『 クリスマス・キャロル 』を読んだりして。... 』
『 クリスマス・キャロル 』は、
クリスマス・イブの晩、がんこ爺のスクルージのもとに、死んだ唯ひとりの友人マーレイの亡霊が現れる。「これからおまえさんは、3人の幽霊に取り憑かれる」と告げて、消えてしまう。3人の幽霊はスクルージに、過去、現在、未来のスクルージの姿を見せる...。クリスマスの朝、目を覚ましたスクルージは、マーリーと3人の幽霊に感謝し、『 改心 』を誓う。
・『 ...あれは教育じゃない、洗脳です。... 』『 緒方さん、ご自分に正直になってください 』
『 緒方さん、”新しい夜明け”なんです 』
『 だから...緒方さんも変わらんば。わたしたちも変わるとです 』
『 そうだな 』『 オムレツくらい、一人で作れるようにならんといけんな 』
時代に取り残されていた緒方とスクルージの『 改心 』がかさなる。
・ヒューマンミステリーのクライマックスシーン。ホラー感たっぷりのBGM。
薄暗い廊下の先にある景子の部屋のドアを見つめるニキ。
ふと窓の外を見ると橋の上を佐知子の家に向かって歩く黒い服の女、家を飛び出す悦子。
ニキが吸い寄せられるように景子の部屋の扉の前に立つ。
悦子が真っ赤な夕焼け空を背景にバラックの扉の前に立つ。
・『 子猫が入った木箱を川に沈める。...佐知子は木箱をもって立ち上がり、振り返って微笑む。』ここのくだりは悦子が戦後の混乱期に見た若い痩せた女が自分の赤ん坊を水の中に浸けて殺し振り返って万里子に微笑み、その後、喉を切って自殺したという記憶が景子を自殺に追い込んだのは自分のせいという強い自責の念とかさなり、佐知子が子猫を水の中に浸けて殺したという話をつくっている。
・景子の部屋に入ったニキは悦子が稲佐山で買ってやった双眼鏡や佐知子の家にあったティーカップセットや英語版の「クリスマス・キャロル」など佐知子の物語に出てきたものが次々とみつかりニキは悦子のせつない嘘、すべてを娘にさらけ出せない精一杯の作り話に気づく。
・『 わたし、行きたくない。イギリスなんか行きたくない 』
『 大丈夫。わたしたち、きっとうまくいくけん 』
『 でも、なんでそんなもの持ってるの? 』
『 言うたでしょ 足に絡まっただけ。 景子、どうしたと? 』
悦子の記憶のなかで縄は幼い子供を絞め殺すという幼児連続絞殺事件に使われたもの。
景子の気持ち(こころ)を縄で縛ってしまい、
自分の思いを優先してしまったという自責の念が悦子の左手に縄を持たせた。
・ソファで眠っていた悦子が目を覚ますと、いるはずのない一匹の猫。その猫に導かれて景子の部屋へ入っていく。涙を拭うニキ。ニキが悟ったことを悦子は知る。ニキの隣に座る悦子。悦子は微笑んでピアノを弾き始める。メンデルスゾーンの無言歌集[瞑想]? 瞑想とは目の前の世界を離れてひたすら思いにふけること。
・[フラッシュバック]
悦子が顔を上げて睨みつける。花柄の服を着た悦子はコップの水を男に勢いよくかける。
男をにらみ続ける悦子。展望台に向かう林道でアメリカ婦人らと流暢な英語で楽しそうに話す悦子。市電のシートに悦子と景子が並んで座り楽しそうに話す二人の笑顔。ふと景子が窓外をみると景子を見つめている黒服姿の女。見つめあう景子と30年後の喪服姿の悦子。
『 あの日、これ(バイオリン)しか助けられんやった。ばってん子供たちは... 』
耐えられず、泣き出す悦子。
『 子供たちのことは、あんたのせいじゃなか。あんたのせいじゃなか!』
『 お姉ちゃんの死はママのせいじゃない 』
『 いいえ! いいえ!....わたしのせいなんです。....わたしのせいなんです!
....わたしのせいなんです 』泣き続ける悦子。
『 子どもを言い訳にしてちゃダメ。女はもっと目覚めなきゃ 』
『 母親らしく振舞うって何?』
『 ママ、女はもっと目を覚まさなきゃダメよ 』
『 今までやってきたいろんなことば、諦めるってこと?』
『 わたしは、子どもを言い訳にしたりはせんけん 』
『 ママ、やれることならいくらでもあるわよ 』
『 だから... 緒方さんも変わらんば。わたしたちも変わるとです 』
『 そうよ。ママも変わらなきゃ。わたしたちも変わるのよ 』
団地の窓上にぶら下げた「 希望のかけら 」が、チリンチリンと涼しげな音を立ている。
ネタばれありですが。。。
この映画、公開されたすぐ後の9/6に見ました。最後のほうの場面でショッキングな写真ががあらわれたあと、なるほど主人公ともう一人の女性(悦子と佐知子)とは実は同一人物で、佐知子の存在は幻想だったのだと確信したんですが、それにしても2人の娘たち万里子と景子が同一人物であるとは解せない!万里子が6-7歳のころ悦子は妊娠していて悦子の長女景子はまだ悦子のお腹の中にいたはずではないか、と。原作ではどうなっているんだろうと、カズオ・イシグロの原作(早川文庫、小野寺健訳)を読んでみました。たしかに佐知子は謎めいた人物ですが悦子の幻想上の「分身」とは読めない、2人は別人です。もちろん、万里子と景子もまったくの別人。映画と原作とは別ものと理解してこの映画を鑑賞したほうがよい。それにしてもカズオ・イシグロの原作もそうですが、この映画は何を描こうとしているのか、わたしにはさっぱりわかりません。
もう一度観て確認したくなる余韻の残る映画
昨日映画館で観てきました。原作はこれから読むかもしれません。サンプルをKindle にダウンロードしました。しかし、映画化するに当たり脚色により原作とは異なる内容になっているかもしれません。以下は私個人の解釈です。確認のため、もう一回くらいは見るかもしれません。
母は「嘘」の話をすることがあることを次女であるNikiは、眼の前で知ります。そしてその「嘘」は長崎で被爆したことを表に出したくないことからつながっているのでしょう。
被爆者は差別を受けていたのですね。
差別者に対する怒りが「うどん屋」のシーンです。お店の女主人は、差別者である客に謝罪はしますが、怒りをぶちまけた店員側に対して、行為を責めたり、謝罪を要求したりはありません。ここに母が長崎を離れた理由が暗示されています。戦争に対する怒りは、緒方さんと教え子とのシーンで示されます。
その緒方さんは義父として訪ねてきています。普通であれば「お義父さん」です。しかしそのように呼ばず職場の上長であった「緒方さん」と呼びます。ここ、不自然ですよね? 緒方さんの息子と結婚したので、自分だって緒方さんです。夫も自分の父としての対応はせず、他人行儀です。父とは思えない理由が語られますが、作り話なので真実味がないのです。緒方さんは実在しましたが、義父?夫?妊娠している本人という家庭は「虚」の作り話です。夫とどのように別れたのか?死別なのか離婚なのかも説明がありません。生まれてきたはずの子供はどこにいったのでしょう?
緒方さんの前で、子どもたちを思い嗚咽するシーンがあります。子どもたちと一緒に被爆したのに、自分はそれを隠して生活していることの悔恨かな?と想像しました。
団地から見下ろす河原の一軒家で娘と暮らす女性が「本人」です。本人は「知り合い」の女性として、自身を投影しています。二人が一人なのではないか?というのは、二人が同じ色の洋装で最後に並ぶシーンで暗示されます。
イギリスに移住しますが、大きなお腹のシーンはなく、出産した子なのか他人の子なのかも説明がありません。日本人2人という事実のみがあります。ここは視聴者の解釈に任せられているのだろうと思います。家の中に捨てられなかった長崎時代の品物が残されています。どちらが「本人」であったのかの種明かしでしょう。子供が写っている写真はありましたが、女性二人が写った写真があったか思い出せません。
(追記) 映画を観た翌々日のメモです。
新たな思いつきがあったので、残します。河原の一軒家で暮らしていた娘さんは子猫を拾って育てようとします。これは「本人」と英国に渡った子供のメタファーではないかとふと思いました。それが分かるように広瀬すずさんと全く似ていない子役を探し、服装も全く異なります。なにしろカズオイシグロ原作なので、意味のないシーンは無く、いろいろな仕掛けがそこかしこに配置されているだろうということです。子供がクモを食べようとするシーンもそうです。あれは何の暗示か?と考えていました。戦争に巻き込まれ、被爆し、差別にあう。そして生き延びるために不本意なものを喰らう。まさに8本足のクモを食べるようなものでないかと想像しました。
全ての人間は心も身体も戦っている!
この作品のテーマをものすごく考えた。
結論、こーなった。
テーマ ::原爆投下の実在とその回帰
つまり、イシグロカズオのご母堂の鎮魂歌(録)、且つ、自身への讃歌(録)
である。
図式で表すと、悦子>=景子=原爆投下の実在
である。
景子は悦子から見ると存在していた、?
しかし、それは景子が人物像として描かれていた。実は、景子は実際には人物では無く、原爆その物であった。(メタファー)
何故景子の部屋を見る事に、ニキが躊躇い、何故開いた部屋にも踏み込まないのか、
また、その部屋の中はかつて景子が勝ち取ったであろうピアノの賞🏆、たくさんの写真、
これらを総合してもシナスタジア的比喩として(原爆投下の爆撃音)を表しているかのようだからだ。
だからこそ、佐智子、万里子は、投影であって然るべき、景子も人間像では無い。
ただ、ここで映画の色彩においては異様なまでのホラー感が冴え渡る。途中から(悦子が団地から向こうのあばら屋を見つけた時から)の場面も美しい。
また、
[A Pale View of Hills], 直訳すると、(丘丘の青白き眺望)となる。決して未来への光を表しているとは思えない。いや、寧ろそうであるような表現の仕方、これは著者イシグロ氏に尋ねたい。それは、自己の過去への決別とともに未来への(人々への)迎合だったのか?それとも、
亡きご母堂の自らの決別だったのか?
それとも、事実はご母堂の目を借りてご母堂を悼んだのか?
受け継がれ受容される記憶
絶対見るとは決めていなかっただけに、見逃さなくてほんとに良かった。
悦子が佐知子であり、佐知子が悦子だと思った。もっと言えば原爆投下から7年後の長崎で、悦子が日々の中で知り得た人々や垣間見た衝撃が、彼女の記憶と混ざり合い、30年後自らの半生としてニキへと語られている気がした。
事実関係は整合性が取れず矛盾に満ちているのに、個々のエピソードに生々しいリアリティがあるので、戦後間もない社会の側面として捉えることが出来てしまう。
それを踏まえると30年前に市街で起きた連続幼児殺害事件や、幼い我が子を連れて渡英を決行した悦子を見るにつけ母親が被爆地で子どもを育てていく苛烈さを思い知った。
ひたすら働くしか無かった男性の悲哀も。
悦子と佐知子が稲佐山から長崎の街を見下ろし、希望を口にするシーンは涙が出た。
あれは渡英前の悦子の心の声なのかも知れない。
俳優陣の演技に引き込まれた。
美術、音楽、衣装、全てが美しい。
意味不明
さっぱり分からなかった。
何を言いたいのかも全く分からなかった。
まどろっこしくて本当につまんなかった。
一番おかしくない?と思ったのが母娘の身なりの違い。
母親があそこまでオシャレするなら娘にも綺麗な服着せて髪型もなんとかしろよ!でした。
役者の皆さんの演技は素晴らしいし映像も綺麗だけど、とにかく説明が無さすぎて(三浦友和は何故あんなに非難されたのか、松下洸平のあの指の動きは何、ニキは結局記事を書いたのか、妊娠してたのか、けいこ(まりこ)は何故自殺したのか等々)意味不明。
原作読めば謎が解けるのかな。読まないけど。
しかし、こんなんでカンヌ出せちゃうんですね。
団地妻は河川敷を覗く
長崎で戦中戦後を暮らしていた一人の女性の決断と、その決断が家族にもたらしたものを回想する物語。
物語は1980年代、若きライター・ニキが、1950年代に日本からイギリスへ移住してきた母・悦子に、渡英前の日本での暮らしを語るよう促す形で始まる。ヨーロッパでは反核運動における女性達の活躍が注目されており、ニキは主体的に英移住を決めた悦子も自立した女性であると語り、母がこれまで言葉を濁してきた渡英のきっかけを打ち明けさせようとする。
登場人物達は、戦地から戻って来た人も、国内にいた人も、若者たちを戦地へ送り出していた大人も、戦中戦後それぞれの傷を抱えている。暮らしの糧も世間の価値観も激変する中、時に身を寄せ合い、時に押しのけ合いながら、誰しも何かしら後ろめたい物を持ちながら生き抜いていることが示唆される。復興という言葉の陰にある、大きくは語られない戦後の個人史を題材にした点が興味深かった。
予告やイントロダクションの時点で『嘘』がある物語だということは明かされている。あえて嘘を選んだ部分もあれば、嘘と真相の境界をぼかしてある部分もあり、記憶が錯綜しているように描かれている部分もある。いずれにせよ、悦子が一人称で語らなかった部分と、嘘の中にあっても言葉にしなかった箇所には、彼女達の不安定な生活の壮絶さがうかがえる。悦子の言葉や表情の端々から、女性でなければ味わわずに済んだかも知れない苦しみや、母の生きづらさが子を生きづらくする無念が伝わってきて胸が痛んだ。
書割や模型のような1950年代の長崎の光景と、広大な河川敷が異様だった。悦子の心象風景や回想の不確かさを表現するため、意図的にそうしているのだろう。あの不気味さからは、悦子の語り手としての不確かさだけではなく、他人の記憶や心の中を覗き見る行為の落ち着かなさを感じた。
イギリスの風景は時に瑞々しく描かれるが、劇中の行動範囲はごく狭く、悦子の安息の場所の少なさを物語っているようだった。
本編は、母と心を通わせたニキを希望として終わる。ニキは果たして生きづらさの再生産から抜け出せるのだろうか。
昭和の女性は強い
文学賞受賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作を映画化「ある男」の石川慶監督がメガホンをとり女性目線の葛藤や苦悩を時代背景の1980年代イギリス日本人の母とイギリス人の父のそこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、ひとり暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった戦争で夢も失いかけたはい上がる人生て不思議な者です頑張りで取り戻せる
1シーン、ひと言で見方が一変しました。(大幅に修正しました。)
広瀬すずの悦子と二階堂ふみの佐智子が同一人物だろうというのは、割に早い段階で想像がつく。ふたりには共通点が多いのだ。
悦子のお腹の子が万里子だとして、幼い万里子を連れた佐智子は、悦子の少し未来の姿なんだろう。
被爆したことがバレて、夫に離縁されたのか。
悦子はかつて教師で英語もできる。男尊女卑の夫に隷属しない、自分の人生を歩みたいと願って自分から離婚したのかもしれないが、真相は不明。
「川向う」の不気味な立ち入り禁止区域は、いまだ解除されない原爆の汚染地帯なのだろう。記憶に新しい福島の立ち入り禁止区域を連想する。
張られた綱の先は、悦子の記憶の立ち入り禁止区域でもあるのだろう。
ニキに聞かれなければそのまま封印して立ち入ることもなかった禁断の領域。
万里子は景子なのか?
二人だけで他に誰もいない立ち入り禁止区域の夜の川べりで、「それ、何?」と聞く万里子に「ただの草の蔓よ」とほほ笑む悦子。表情と声色がものすごく不気味でぞっとした。
悦子は邪魔な万里子を〇したのではないか。
「黒い女」は悦子自身だろう。「黒い女」が赤ん坊を水につけているというのは、悦子が過去に、子殺しをしたメタファーのように思える。万里子が川向うの黒い女に怯えるのも道理だ。
悦子も佐智子もファッショナブルな装いなのに、万里子はいつも粗末な同じものを着ていて、ネグレクトされているように見えるし。
渡米するとは話だけで実際に行ったかどうかは分からない。
ニキの父親とどういういきさつで結婚したのかも分からない。悦子が持っていた写真の景子は万里子の姿だったが、実際の万里子がどんな子だったのかは分からないので、渡米話から渡英までの間に悦子はもう一人「夫」を持つことがあって、景子はその時に授かった子どもかもとも思ったが、うどん屋で悦子は万里子を景子と呼んでいたと、あるレビューアーさんのご指摘あり、万里子=景子で確定のようだ。
それで、見方が一変しました。
それならあの「やっちまった」ような描写は、嫌がる景子を自分の勝手な事情でイギリスに連れていき、ついには自死に追い込んだ、無理に連れて行った時点で、悦子は万里子を〇していたのだ、という悦子の脳内でのイメージだったのだろう。
52歳の悦子は、娘の死に関する罪悪感で苦しんでいるよう。
提供されるピースが少なすぎてジグゾーパズルが埋まらないので、多くの考察が生まれる。
悦子の夫の二郎は、指がないから仕方ないにせよ、妊娠中の妻に跪かせて靴ひもを結ばせていた。妊娠中はあれは厳しいです、妊婦にはとてもツライ姿勢だけど一切考慮なし。予告なく職場の人を連れてきてもてなしを要求する、妊婦の前でタバコを吸う、女は男に跪くものだからそれでよし。被爆したなら子供と共に離縁も当然。いやもう、ふざけんな。日本の男性と社会に絶望して海外に活路を見出す悦子の心情は共感しかない。そしてあの時代にそれを実行したところがスゴイ。
但し、結果的に景子を犠牲にしてしまった。
同じ女性として良かれと思ったのに。
二郎の父・緒方のような戦後失職した教師は多かったと思う。
戦前戦中の教育は良いもの美しいもの、自分の正義を疑わず、何が悪かったかといえば「戦争に負けたこと」だと本気で考えている。軍国教育を叩きこんで若者を戦地に送り込み、社会統制の片棒を担いだことへの罪悪感や悔恨はない模様。息子の友達で元教え子、現職の教師である松田が書いた記事に憤慨してわざわざ九州から抗議に来たのに、逆に松田に返り討ちにあったが、多分考えを変えることはないのだろう。かつての教え子を、教育でもって死地に追い込んだ責任を感じて自分を責めている悦子とは対照的だ。
そもそもあの「緒方」は実在したんだろうか。
悦子の回想なのに、緒方と松田が対決したところに悦子はいなかった。どんなやりとりがあったか、悦子には知る由もない。
このエピソードは、軍国教師一般を「緒方」に集約した、悦子の脳内糾弾だったかも
広瀬すずの若奥さんぶりが大変美しく、凛としていて見惚れてしまった。ファッションも素敵。
こんな奥さんいたら、ダンナは同僚を家に呼んで見せびらかしたくなるよね。
そして広瀬すずと二階堂ふみの、「昭和の若い奥さん」ぶりが艶やかな競演で、雰囲気があって良かった。
団地の室内や窓から見える風景、川向うの、人が立ち入らない不気味な植物天国、打ち捨てられた小舟など、美しさと不気味さを浮き立たせる撮影が見事でした。
原作は未読ですが、読んだらまた違う解釈になりそう。
カズオ・イシグロは、「私を離さないで」が大変ショッキングで辛かったですが魅かれるものがあります。
追記)
被爆した女性、これがあの時代の日本で最も過酷な条件で生きざるを得なかった人たちだったのだと思いました。生き延びるために、想像を絶することもあって、嘘をついたり記憶を改ざんしたりして自分を守らざるを得なかったのだろう。
悦子は保守的なイギリスではなく、アメリカに行きたかったのでは。
そして、娘の死に罪悪感を抱いてはいるが、日本を捨てたことに後悔はしていないと思う。後悔していない自分に、さらなる罪悪感があるかもしれないが。
ニキは母の苦しみを知り、女性として理解を寄せたよう。新たな母娘関係が築かれていくであろう未来が見えました。
ニキの不倫、母に相談しては。
世情
黒ずくめの女の悪夢
カズオイシグロの長編デビュー作である『遠い山なみの光』の初映像化作品。原作が断片的な回想を中心とし、良い意味で曖昧さをうまく利用しながら、過去の長崎で出会った母娘と当時から現代にいたる主人公の姿をうまくオーバーラップさせる流れを、映像としてうまく表現している。イシグロ自身はかなりのシネフィルで、80年代の英国から始めずに、長崎の情景をまず見せることを石川監督にアドバイスしたらしい。その意味で、小説自体は個人の回想を夢の映像のように見せることを最初から意識していたかもしれない。
原作小説のキャラクターの対比は、したがって最初から意図されており、悦子と娘たち(景子、ニキ)、佐知子と万里子は、それぞれ重なるようになっているからこそ、石川監督の映像的なプロットもそれを強調するように描かれていて、これが原作にないようなミステリーの筋書きを可能にしている。
長崎の悦子の回想シーンの明るさは、現代の悦子の英国の映像の暗さと比べると、悦子が「悪夢」にうなされるのが皮肉なくらいだ。過去の方がある意味希望に満ちて輝いているからである。その明るさを侵食するような黒いしみとして姿を現すのが、万里子がいう「川の向こうの女性」であり、佐知子が語る万里子が見た自殺した女性、市電から見かけた黒ずくめの女である。
この黒ずくめの女とは、実際に佐知子が見たエピソード通り、子供を殺す女性である。そしてこの子殺しこそ、悦子を悪夢へとかりたてる黒いしみだ。佐知子の家に黒ずくめの女が歩いていくのを見かけた悦子は必死で万里子のところにかけつける。だがその姿は、結局のところ幻で、そこに続く流れで佐知子が自分の未来のために万里子を「殺す」であろうことを、佐知子が万里子の飼っている子猫を殺す形で暗示されている。
この佐知子と万里子の姿は、そのまま悦子と長女の景子と重なるように描かれる。悦子自身は長崎の原爆で生徒の子供たちを見殺しにしたことを悔いているが、自分の子供に違う人生を与えようと足掻いたうえで娘を失うことになる。それは佐知子が万里子にやっていたこととどれだけ違うというのか。年代の違う価値観、親と子がそれぞれ向き合わずにすれ違う姿は、原作同様に映画でも繰り返し現れる。義父の緒方さんと息子の二郎。緒方さんの教え子松田。彼らは自分が変わっていないことを痛感させられるが、すぐに自分を変えられるわけではない。だがオムレツの作り方を覚えるようには自分をすぐに変えられそうにない。
黒ずくめの女は、その意味で、すでに変わってしまった自分が、過去の記憶に入り込んで現在の悔恨の原因を探ろうとする姿そのものだ。あのときの自分は正しかったのかどうか。あのとき変わって本当に良かったのか。その答えは夢の中にはない。
原作と明確に違う描写として、ニキが景子のことで悦子と口喧嘩になり、悦子がニキを叩く場面がある。このような真っすぐな関係は、原作には見られない。過去の長崎の日本人の人間関係のように、言っていることと感じていることがいつもずれた感じになっている。悦子は映画の中では、景子のことには向き合いきれてないが、ニキとは向き合っていることがわかる。最後のシーンに描かれるように、「変わること」を実際に実行できるのは娘たちの選択にかかっている。
上質な映画でストーリーも俳優陣もミステリー性もすべて良かった。
長崎の原爆がこの物語の始まりであり、1950年代長崎と1980年代イギリスを行き来する。
ちょうどこの日に、広島・序破急の蔵本純子さんの「シネマでトーク」でも紹介され、「広瀬すずの演技がとても良かった。後半???というところもあったが、今年の日本映画ベスト10に入る。ただ、結末はこの映画は見る人に委ねられている」とあり、まさにその通り。
吉田羊は前編英語での出演、二階堂ふみも一部英語。この二人の英語はとても素晴らしいのに驚いた。広瀬すずの演技だけでなく、二階堂ふみの立ち振舞や素敵な洋服、凛とした言動。こちらはとてもインパクトがあった。
原作を読んでみたいと思った。
フライヤーでは、「ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの傑作と、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田洋、豪華共演で映画化」と紹介されている。監督・脚本は石川慶。そして「その嘘に、願いを込めた」と意味深な言葉も添えられている。秘められた記憶に涙あふれる感動のヒューマンミステリー、とあるが、回答を求める内容でもない。
ある視点とはよくいったもの
正直、積極的に見た作品ではなく、むしろ嫌々見に行ったような感じでしたが、素晴らしい作品でまさにひれ伏しました。演者が良かったのか作り手が巧みだったのか原作が優れていたためなのか─全部だと思います。そしてそれぞれの良さが一体となって見事な作品に─。
敗戦国、被爆国、長崎をナガサキと表記してしまうニッポン人には決して表現できなかった真実やリアルな世界がそこにはあった。確かに神秘的でエスニックな雰囲気はあるとはいえ、確かに存在していたであろう過去を想起させてくれました。それでいてやはり神秘的で滅茶苦茶引き込まれてしまいました。しかもその非現実的な雰囲気は、何気に作品の核心部分につながっていた印象で、しっかりと理解はできなかったものの、途轍もない凄さを感じてしまいました。
美しく儚さを秘めつつ気高くてそれでいて優しくしなやかでなおかつ強い心をうちに秘めているようなまさに理想的な女性・・・過ぎないか!?広瀬すず!という見方は決して間違ったものではないと思ったらもう全部が全部素晴らしいと思っちゃったわけです。
音楽とか音の質とか使い方なんかも効果的だった気がします。
欲を言えばもうちょっとしっかりと丁寧な謎解きみたいなものがほしかったかなーという・・・まぁそれによる危険性も感じる訳なので、この作品に対して何も言うことはございません。
見て良かったし非常に面白い作品でした。
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