遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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全ての人間は心も身体も戦っている!
この作品のテーマをものすごく考えた。
結論、こーなった。
テーマ ::原爆投下の実在とその回帰
つまり、イシグロカズオのご母堂の鎮魂歌(録)、且つ、自身への讃歌(録)
である。
図式で表すと、悦子>=景子=原爆投下の実在
である。
景子は悦子から見ると存在していた、?
しかし、それは景子が人物像として描かれていた。実は、景子は実際には人物では無く、原爆その物であった。(メタファー)
何故景子の部屋を見る事に、ニキが躊躇い、何故開いた部屋にも踏み込まないのか、
また、その部屋の中はかつて景子が勝ち取ったであろうピアノの賞🏆、たくさんの写真、
これらを総合してもシナスタジア的比喩として(原爆投下の爆撃音)を表しているかのようだからだ。
だからこそ、佐智子、万里子は、投影であって然るべき、景子も人間像では無い。
ただ、ここで映画の色彩においては異様なまでのホラー感が冴え渡る。途中から(悦子が団地から向こうのあばら屋を見つけた時から)の場面も美しい。
また、
[A Pale View of Hills], 直訳すると、(丘丘の青白き眺望)となる。決して未来への光を表しているとは思えない。いや、寧ろそうであるような表現の仕方、これは著者イシグロ氏に尋ねたい。それは、自己の過去への決別とともに未来への(人々への)迎合だったのか?それとも、
亡きご母堂の自らの決別だったのか?
それとも、事実はご母堂の目を借りてご母堂を悼んだのか?
受け継がれ受容される記憶
絶対見るとは決めていなかっただけに、見逃さなくてほんとに良かった。
悦子が佐知子であり、佐知子が悦子だと思った。もっと言えば原爆投下から7年後の長崎で、悦子が日々の中で知り得た人々や垣間見た衝撃が、彼女の記憶と混ざり合い、30年後自らの半生としてニキへと語られている気がした。
事実関係は整合性が取れず矛盾に満ちているのに、個々のエピソードに生々しいリアリティがあるので、戦後間もない社会の側面として捉えることが出来てしまう。
それを踏まえると30年前に市街で起きた連続幼児殺害事件や、幼い我が子を連れて渡英を決行した悦子を見るにつけ母親が被爆地で子どもを育てていく苛烈さを思い知った。
ひたすら働くしか無かった男性の悲哀も。
悦子と佐知子が稲佐山から長崎の街を見下ろし、希望を口にするシーンは涙が出た。
あれは渡英前の悦子の心の声なのかも知れない。
俳優陣の演技に引き込まれた。
美術、音楽、衣装、全てが美しい。
意味不明
さっぱり分からなかった。
何を言いたいのかも全く分からなかった。
まどろっこしくて本当につまんなかった。
一番おかしくない?と思ったのが母娘の身なりの違い。
母親があそこまでオシャレするなら娘にも綺麗な服着せて髪型もなんとかしろよ!でした。
役者の皆さんの演技は素晴らしいし映像も綺麗だけど、とにかく説明が無さすぎて(三浦友和は何故あんなに非難されたのか、松下洸平のあの指の動きは何、ニキは結局記事を書いたのか、妊娠してたのか、けいこ(まりこ)は何故自殺したのか等々)意味不明。
原作読めば謎が解けるのかな。読まないけど。
しかし、こんなんでカンヌ出せちゃうんですね。
団地妻は河川敷を覗く
長崎で戦中戦後を暮らしていた一人の女性の決断と、その決断が家族にもたらしたものを回想する物語。
物語は1980年代、若きライター・ニキが、1950年代に日本からイギリスへ移住してきた母・悦子に、渡英前の日本での暮らしを語るよう促す形で始まる。ヨーロッパでは反核運動における女性達の活躍が注目されており、ニキは主体的に英移住を決めた悦子も自立した女性であると語り、母がこれまで言葉を濁してきた渡英のきっかけを打ち明けさせようとする。
登場人物達は、戦地から戻って来た人も、国内にいた人も、若者たちを戦地へ送り出していた大人も、戦中戦後それぞれの傷を抱えている。暮らしの糧も世間の価値観も激変する中、時に身を寄せ合い、時に押しのけ合いながら、誰しも何かしら後ろめたい物を持ちながら生き抜いていることが示唆される。復興という言葉の陰にある、大きくは語られない戦後の個人史を題材にした点が興味深かった。
予告やイントロダクションの時点で『嘘』がある物語だということは明かされている。あえて嘘を選んだ部分もあれば、嘘と真相の境界をぼかしてある部分もあり、記憶が錯綜しているように描かれている部分もある。いずれにせよ、悦子が一人称で語らなかった部分と、嘘の中にあっても言葉にしなかった箇所には、彼女達の不安定な生活の壮絶さがうかがえる。悦子の言葉や表情の端々から、女性でなければ味わわずに済んだかも知れない苦しみや、母の生きづらさが子を生きづらくする無念が伝わってきて胸が痛んだ。
書割や模型のような1950年代の長崎の光景と、広大な河川敷が異様だった。悦子の心象風景や回想の不確かさを表現するため、意図的にそうしているのだろう。あの不気味さからは、悦子の語り手としての不確かさだけではなく、他人の記憶や心の中を覗き見る行為の落ち着かなさを感じた。
イギリスの風景は時に瑞々しく描かれるが、劇中の行動範囲はごく狭く、悦子の安息の場所の少なさを物語っているようだった。
本編は、母と心を通わせたニキを希望として終わる。ニキは果たして生きづらさの再生産から抜け出せるのだろうか。
昭和の女性は強い
文学賞受賞作家カズオ・イシグロの長編小説デビュー作を映画化「ある男」の石川慶監督がメガホンをとり女性目線の葛藤や苦悩を時代背景の1980年代イギリス日本人の母とイギリス人の父のそこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、ひとり暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった戦争で夢も失いかけたはい上がる人生て不思議な者です頑張りで取り戻せる
1シーン、ひと言で見方が一変しました。(大幅に修正しました。)
広瀬すずの悦子と二階堂ふみの佐智子が同一人物だろうというのは、割に早い段階で想像がつく。ふたりには共通点が多いのだ。
悦子のお腹の子が万里子だとして、幼い万里子を連れた佐智子は、悦子の少し未来の姿なんだろう。
被爆したことがバレて、夫に離縁されたのか。
悦子はかつて教師で英語もできる。男尊女卑の夫に隷属しない、自分の人生を歩みたいと願って自分から離婚したのかもしれないが、真相は不明。
「川向う」の不気味な立ち入り禁止区域は、いまだ解除されない原爆の汚染地帯なのだろう。記憶に新しい福島の立ち入り禁止区域を連想する。
張られた綱の先は、悦子の記憶の立ち入り禁止区域でもあるのだろう。
ニキに聞かれなければそのまま封印して立ち入ることもなかった禁断の領域。
万里子は景子なのか?
二人だけで他に誰もいない立ち入り禁止区域の夜の川べりで、「それ、何?」と聞く万里子に「ただの草の蔓よ」とほほ笑む悦子。表情と声色がものすごく不気味でぞっとした。
悦子は邪魔な万里子を〇したのではないか。
「黒い女」は悦子自身だろう。「黒い女」が赤ん坊を水につけているというのは、悦子が過去に、子殺しをしたメタファーのように思える。万里子が川向うの黒い女に怯えるのも道理だ。
悦子も佐智子もファッショナブルな装いなのに、万里子はいつも粗末な同じものを着ていて、ネグレクトされているように見えるし。
渡米するとは話だけで実際に行ったかどうかは分からない。
ニキの父親とどういういきさつで結婚したのかも分からない。悦子が持っていた写真の景子は万里子の姿だったが、実際の万里子がどんな子だったのかは分からないので、渡米話から渡英までの間に悦子はもう一人「夫」を持つことがあって、景子はその時に授かった子どもかもとも思ったが、うどん屋で悦子は万里子を景子と呼んでいたと、あるレビューアーさんのご指摘あり、万里子=景子で確定のようだ。
それで、見方が一変しました。
それならあの「やっちまった」ような描写は、嫌がる景子を自分の勝手な事情でイギリスに連れていき、ついには自死に追い込んだ、無理に連れて行った時点で、悦子は万里子を〇していたのだ、という悦子の脳内でのイメージだったのだろう。
52歳の悦子は、娘の死に関する罪悪感で苦しんでいるよう。
提供されるピースが少なすぎてジグゾーパズルが埋まらないので、多くの考察が生まれる。
悦子の夫の二郎は、指がないから仕方ないにせよ、妊娠中の妻に跪かせて靴ひもを結ばせていた。妊娠中はあれは厳しいです、妊婦にはとてもツライ姿勢だけど一切考慮なし。予告なく職場の人を連れてきてもてなしを要求する、妊婦の前でタバコを吸う、女は男に跪くものだからそれでよし。被爆したなら子供と共に離縁も当然。いやもう、ふざけんな。日本の男性と社会に絶望して海外に活路を見出す悦子の心情は共感しかない。そしてあの時代にそれを実行したところがスゴイ。
但し、結果的に景子を犠牲にしてしまった。
同じ女性として良かれと思ったのに。
二郎の父・緒方のような戦後失職した教師は多かったと思う。
戦前戦中の教育は良いもの美しいもの、自分の正義を疑わず、何が悪かったかといえば「戦争に負けたこと」だと本気で考えている。軍国教育を叩きこんで若者を戦地に送り込み、社会統制の片棒を担いだことへの罪悪感や悔恨はない模様。息子の友達で元教え子、現職の教師である松田が書いた記事に憤慨してわざわざ九州から抗議に来たのに、逆に松田に返り討ちにあったが、多分考えを変えることはないのだろう。かつての教え子を、教育でもって死地に追い込んだ責任を感じて自分を責めている悦子とは対照的だ。
そもそもあの「緒方」は実在したんだろうか。
悦子の回想なのに、緒方と松田が対決したところに悦子はいなかった。どんなやりとりがあったか、悦子には知る由もない。
このエピソードは、軍国教師一般を「緒方」に集約した、悦子の脳内糾弾だったかも
広瀬すずの若奥さんぶりが大変美しく、凛としていて見惚れてしまった。ファッションも素敵。
こんな奥さんいたら、ダンナは同僚を家に呼んで見せびらかしたくなるよね。
そして広瀬すずと二階堂ふみの、「昭和の若い奥さん」ぶりが艶やかな競演で、雰囲気があって良かった。
団地の室内や窓から見える風景、川向うの、人が立ち入らない不気味な植物天国、打ち捨てられた小舟など、美しさと不気味さを浮き立たせる撮影が見事でした。
原作は未読ですが、読んだらまた違う解釈になりそう。
カズオ・イシグロは、「私を離さないで」が大変ショッキングで辛かったですが魅かれるものがあります。
追記)
被爆した女性、これがあの時代の日本で最も過酷な条件で生きざるを得なかった人たちだったのだと思いました。生き延びるために、想像を絶することもあって、嘘をついたり記憶を改ざんしたりして自分を守らざるを得なかったのだろう。
悦子は保守的なイギリスではなく、アメリカに行きたかったのでは。
そして、娘の死に罪悪感を抱いてはいるが、日本を捨てたことに後悔はしていないと思う。後悔していない自分に、さらなる罪悪感があるかもしれないが。
ニキは母の苦しみを知り、女性として理解を寄せたよう。新たな母娘関係が築かれていくであろう未来が見えました。
ニキの不倫、母に相談しては。
世情
黒ずくめの女の悪夢
カズオイシグロの長編デビュー作である『遠い山なみの光』の初映像化作品。原作が断片的な回想を中心とし、良い意味で曖昧さをうまく利用しながら、過去の長崎で出会った母娘と当時から現代にいたる主人公の姿をうまくオーバーラップさせる流れを、映像としてうまく表現している。イシグロ自身はかなりのシネフィルで、80年代の英国から始めずに、長崎の情景をまず見せることを石川監督にアドバイスしたらしい。その意味で、小説自体は個人の回想を夢の映像のように見せることを最初から意識していたかもしれない。
原作小説のキャラクターの対比は、したがって最初から意図されており、悦子と娘たち(景子、ニキ)、佐知子と万里子は、それぞれ重なるようになっているからこそ、石川監督の映像的なプロットもそれを強調するように描かれていて、これが原作にないようなミステリーの筋書きを可能にしている。
長崎の悦子の回想シーンの明るさは、現代の悦子の英国の映像の暗さと比べると、悦子が「悪夢」にうなされるのが皮肉なくらいだ。過去の方がある意味希望に満ちて輝いているからである。その明るさを侵食するような黒いしみとして姿を現すのが、万里子がいう「川の向こうの女性」であり、佐知子が語る万里子が見た自殺した女性、市電から見かけた黒ずくめの女である。
この黒ずくめの女とは、実際に佐知子が見たエピソード通り、子供を殺す女性である。そしてこの子殺しこそ、悦子を悪夢へとかりたてる黒いしみだ。佐知子の家に黒ずくめの女が歩いていくのを見かけた悦子は必死で万里子のところにかけつける。だがその姿は、結局のところ幻で、そこに続く流れで佐知子が自分の未来のために万里子を「殺す」であろうことを、佐知子が万里子の飼っている子猫を殺す形で暗示されている。
この佐知子と万里子の姿は、そのまま悦子と長女の景子と重なるように描かれる。悦子自身は長崎の原爆で生徒の子供たちを見殺しにしたことを悔いているが、自分の子供に違う人生を与えようと足掻いたうえで娘を失うことになる。それは佐知子が万里子にやっていたこととどれだけ違うというのか。年代の違う価値観、親と子がそれぞれ向き合わずにすれ違う姿は、原作同様に映画でも繰り返し現れる。義父の緒方さんと息子の二郎。緒方さんの教え子松田。彼らは自分が変わっていないことを痛感させられるが、すぐに自分を変えられるわけではない。だがオムレツの作り方を覚えるようには自分をすぐに変えられそうにない。
黒ずくめの女は、その意味で、すでに変わってしまった自分が、過去の記憶に入り込んで現在の悔恨の原因を探ろうとする姿そのものだ。あのときの自分は正しかったのかどうか。あのとき変わって本当に良かったのか。その答えは夢の中にはない。
原作と明確に違う描写として、ニキが景子のことで悦子と口喧嘩になり、悦子がニキを叩く場面がある。このような真っすぐな関係は、原作には見られない。過去の長崎の日本人の人間関係のように、言っていることと感じていることがいつもずれた感じになっている。悦子は映画の中では、景子のことには向き合いきれてないが、ニキとは向き合っていることがわかる。最後のシーンに描かれるように、「変わること」を実際に実行できるのは娘たちの選択にかかっている。
上質な映画でストーリーも俳優陣もミステリー性もすべて良かった。
長崎の原爆がこの物語の始まりであり、1950年代長崎と1980年代イギリスを行き来する。
ちょうどこの日に、広島・序破急の蔵本純子さんの「シネマでトーク」でも紹介され、「広瀬すずの演技がとても良かった。後半???というところもあったが、今年の日本映画ベスト10に入る。ただ、結末はこの映画は見る人に委ねられている」とあり、まさにその通り。
吉田羊は前編英語での出演、二階堂ふみも一部英語。この二人の英語はとても素晴らしいのに驚いた。広瀬すずの演技だけでなく、二階堂ふみの立ち振舞や素敵な洋服、凛とした言動。こちらはとてもインパクトがあった。
原作を読んでみたいと思った。
フライヤーでは、「ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの傑作と、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田洋、豪華共演で映画化」と紹介されている。監督・脚本は石川慶。そして「その嘘に、願いを込めた」と意味深な言葉も添えられている。秘められた記憶に涙あふれる感動のヒューマンミステリー、とあるが、回答を求める内容でもない。
ある視点とはよくいったもの
正直、積極的に見た作品ではなく、むしろ嫌々見に行ったような感じでしたが、素晴らしい作品でまさにひれ伏しました。演者が良かったのか作り手が巧みだったのか原作が優れていたためなのか─全部だと思います。そしてそれぞれの良さが一体となって見事な作品に─。
敗戦国、被爆国、長崎をナガサキと表記してしまうニッポン人には決して表現できなかった真実やリアルな世界がそこにはあった。確かに神秘的でエスニックな雰囲気はあるとはいえ、確かに存在していたであろう過去を想起させてくれました。それでいてやはり神秘的で滅茶苦茶引き込まれてしまいました。しかもその非現実的な雰囲気は、何気に作品の核心部分につながっていた印象で、しっかりと理解はできなかったものの、途轍もない凄さを感じてしまいました。
美しく儚さを秘めつつ気高くてそれでいて優しくしなやかでなおかつ強い心をうちに秘めているようなまさに理想的な女性・・・過ぎないか!?広瀬すず!という見方は決して間違ったものではないと思ったらもう全部が全部素晴らしいと思っちゃったわけです。
音楽とか音の質とか使い方なんかも効果的だった気がします。
欲を言えばもうちょっとしっかりと丁寧な謎解きみたいなものがほしかったかなーという・・・まぁそれによる危険性も感じる訳なので、この作品に対して何も言うことはございません。
見て良かったし非常に面白い作品でした。
説明不足ではありますが良作
タイトルの通り、とにかく説明が少なく、観客の想像に委ねられる部分が多い作品です。
広瀬すずさんと二階堂ふみさんが同一人物であることは、容易に察しがつきます。吉田洋さんが娘に日本での出来事を語る際、穏やかな面を広瀬すずさんに、気性の荒い面を二階堂ふみさんに投影して描いているのだと感じました。
また、松下洸平さんとの関係については、二通りの解釈ができるように思います。
ひとつは、子どもが生まれたことで広瀬すずさんが被爆者であると判明し、それが原因で離婚したという可能性。
もうひとつは、広瀬すずさんが自分のやりたいことを追求するため、「変わらなければ」と考え、自ら離婚を決意したというものです。
ただ、それ以降のイギリス人との結婚や、万里子(景子)の自殺については説明がほとんどなく、観客の想像に委ねられていると感じました。特に、当初は「アメリカに行く」と言っていたのに、直前で「イギリスに行く」へと変わった理由がよく分かりませんでした。
また喪服のような黒尽くめの女性が登場しますが、何を暗示しているのかは分かりませんでした。
さらに、万里子の死についても、本当に自殺だったのか釈然としません。川辺で万里子が一人でいるところに悦子が紐を持って近づき、万里子が「なんで紐を持ってるの?」と尋ねると、悦子は「なんでもない」と曖昧に答えるシーンがあります。その場面を見たとき、私は「もしかすると万里子は自殺ではなく悦子が殺したのではないか」と疑いました。
しかし、イギリスでのアルバムには、悦子・万里子・そして夫と思われる人物が一緒に写っている写真があり、この推測は否定されました。結果として、真相は最後まで明かされません。
このように謎が多く、全体としては難解な作品ですが、キャストの皆さんの演技は素晴らしく、作品としての完成度も非常に高かったと思います。
特に広瀬すずさん、三浦友和さん、二階堂ふみさんの演技は圧巻で、なかでも広瀬すずさんは表情や話し方、細かい所作まで含めて圧倒的な表現力を発揮しており、まさにハマり役だと感じました。
謎だらけ、結局は後悔をかき消すための嘘・・・?
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれ
ロンドンで暮らすニキは、大学を中退し作家を目指している。
ある日、彼女は執筆のため、異父姉が亡くなって以来
疎遠になっていた実家を訪れる。
そこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、
思い出の詰まった家にひとり暮らしていた。
かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、
ニキは母の過去について聞いたことがない。
悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという
夢の内容を語りはじめる。
それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、
その幼い娘の夢だった。
といったあらすじ。
予備知識なしでの鑑賞。
うーん、いろいろと謎だらけで、終盤までモヤモヤしながらの鑑賞。
主人公悦子の性格がまずつかめない。
夫に対する対応、木から落ちた子供に対する対応、など、
時折違う一面が見え隠れする。
そして、長崎で知り合った佐知子との出会いから親しくなる経緯。
いきなりすぎて・・・
この佐知子という女性も性格がつかめない。
そもそも、存在したの?悦子から生み出された人格?
それとも悦子そのもの?
また、佐知子の子供である万里子は結局景子?
え?では悦子のお腹の子は??
異国の地で活路を見出すためイギリスに渡るも、そのエゴのため、
景子を自殺に追い込んでしまった、という事実を別の人物を立てた、
ということだろうか。
いろいろと複雑に重ねられた、難しいストーリーでした。
あれはどういう意味だったんだろう?がいっぱい
分からなかったこと。どなたかご教示ください。
思い出したくない自分の過去を娘に語る時に、別の親子になぞらえて話していったんだ〜ということはわかりました。
しかし鑑賞後にいくつか疑問が沸きました。死んだ赤ん坊を水で洗っていた女性の話が出てきたのですが、すると箱に入れて川に沈めたのは猫ではなくてあとから生まれた子どもだったということなのか?、では冒頭にニュースに出てくる子どもの連続殺人犯も自分?と考えたんですが、考えすぎでしょうか。
路面電車を悲しそうに見つめる女性が吉田羊さんだったことも理解ができませんでした。
自分が理解できなかっただけで、セットや役者さんの所作などをよく見直せば、ほかにもたくさん考えさせられるポイントが増えていきそうな映画でした。
まず原作を読んで、もう一度見ないとなりませんね。
1952年の素晴らしい世界観と女優3人(子役含め)
1952年長崎の広瀬すずの悦子の世界。
1982年イギリスの吉田羊の悦子の世界。
2つの時代の悦子の秘密は徐々に明かされるにしても、人物関係が分かりにくい。その分かりにくいが秘密に隠されているのなら理解できるが、そうとも思えない所が多いので評価が厳しくなる。
先生或いは父親の(三浦友和)は夫の親だと思うがなんかヨソヨソしい。(広瀬すず)と夫の関係がどう渡英に決意したのか。(三浦友和)の教え子に対して声を荒げるが、それが(三浦友和)の当時の教育観や戦争感に関係するのか。戦後の悦子(広瀬すず)や佐知子(二階堂ふみ)は裕福ではないと思うが、その割に身なりがすごく良い。
(吉田羊)と娘ニキが在英だとしても自宅で英語で会話。実際にはどちらかの言葉になるのかもしれないが、イギリスの夫が出てこないし、しかも吉田羊だから。
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川に沈めた箱が、1982年の(吉田羊)の部屋に(二階堂ふみ)の子 万里子の私物と共にある。3人で乗っていたはずの路面電車に、(二階堂ふみ)が乗っていない。
万里子は悦子だったのか。
それでも佐和子がそれほど自立した女性に思えない。隠したい過去があったのかも不明。
私は小説が読めないので原作と比較できないし、分からない事が多すぎる。
え?解釈が。ちょっと待って助けて!
え???ちょっと待って!?誰か助けて〜。これ分からないまま終わりで正解なの?分からないの私だけ?各自の想像におまかせ?私の理解力の無さはしょうがないけど、この映画がミステリーなのかどうかも不明だよ。すごいの見ちゃったな。困った〜。本とか普段読まないから文学作品的な要素はちと難解だなあ。解釈は色々調べて勉強したいと思います。点数つけづらいよ。
★演技、映画自体はとても素晴らしく、テレビドラマみたいな映画とは明らかに違う独特な空気感、本物の映画を見ている感じがありました。
★追記もしこれが文学小説にありそうな読者にこうだったのか?と面白がらせるための作者がワザと仕組んだトリックだとしたら私には難解すぎて少し過剰だなあ。
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