遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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無言歌集
ファンタジーではあるが、リアリティも色濃い
1982年イギリスに住む日本人女性と駆け出しジャーナリストでハーフの娘の会話劇と、20年前、長崎時代の回顧録を行ったり来たりしながらファンタジー要素色濃く描く物語
ゆったりとしたシーンの連続の中に、戦争被害者の負った深い傷がジワジワと迫ってくる
見応えのある映画だと思いました
回想シーンは現実とはちょっと異なり、観る側を混乱に誘導しますが、次第に脚色部分がなんとなく透けて来て、最後にはちゃんとネタばらしもある
前日に「宝島」を観ましたが、ほぼ同じ時代の日本を描きながら、描かれる舞台も、視点も、問題提起も大きく違う。しかし、太平洋戦争を起こした国の、戦争被害者を描く、という意味では完全にてい通底するものがあります
比較しながら観るとより味わい深いです
どちらも観るべき映画と思いました
違和感を抱えたまま幻想夢に耽る
原作未読で鑑賞。
長崎編をサラリとやったあと、すぐにイギリス篇に飛ぶ。あらかじめキャスト一覧で、長崎篇の悦子を広瀬すずさんが演じ、30年後のイギリス篇では同じ悦子役を吉田羊さんが演じると知っていたので、つながりは何とか見えたが、予備知識の無い人は大いに混乱したと思う。
その後も、長﨑篇とイギリス篇を自由に往来するので、戸惑った向きも多いだろう。
若い時と年をとったときの役を演じる俳優が異なることはよくあるが、それは年齢差がかなりある時が普通だ。
広瀬すずさんは実年齢は27才で、長崎篇はもちろん、イギリス篇の50代を演じることは不可能ではない。
しかし敢えて観客を混乱させるようなキャスティングにしたのは、原作者でありエグゼクティブ・プロデューサーでもあるカズオ・イシグロ氏の強い意向ではないかと想像している。
本作はミステリアスな幻想話と言ってよく、観客の混乱は制作サイドの意図だと思う。
どこまで現実でどこから幻想なのか、敢えてぼかしている。
悦子と佐知子も長崎の原爆での生き残りという設定だが、二人とも長崎の城山で被爆したというので調べると、城山は原爆地から500mに位置するという。生き残ったのはわずかで(Youtubeに生き残った方の証言があった)、その生き残った2人が出会うというのも出来過ぎだろう。
普通にかんがえれば、被爆した過去がある悦子が妊娠して不安になり、被爆しても無事に子供を産んだ佐知子という幻想を創り出したというのが通常の解釈だろうが、本作には描かれないものが多く(悦子と二郎の離婚から渡英への経緯などが省略されている、原作にあるのかも不明)、観客をすんなりと納得させてくれない。
夫の二郎は父親と他人行儀な口ぶりで、出征時の父親の態度を今も恨んでいるようだが、教師という仕事故に、戦時中では仕方の無いことと思えるが・・。
二郎というから次男のはずだが、長男の影は無い。長男は戦死したという設定なのだろう。
父親は教え子に雑誌に批判的な記事を書かれ、その教え子に会いに行くも、和解には程遠い。
ざっくり言うと、テーマ的には「断絶」ということになるだろうか。
戦争と原爆は、人々に癒やし難い深い傷を与えた。人々はその渦中にあって、喘いでいる。
その喘ぎを今に生きる我々は聞いているのだろうか。
原題は「pale view of hills」。イーストウッドの「Pale Rider」から想起出来るように、paleには不穏な死のイメージがある。
50年代の長﨑は、原爆投下の事実が信じられぬほど復興していただろうが、その復興のしたには無数の死が横たわっていたはずだ。
最後に、「徹底解説 遠い山なみの光をもっと面白くなる超分かりやすい解説・考察動画」というYoutube動画があるので、参考までに。
戦争と被爆
曖昧ながら所々で原爆と戦争の記憶が描かれている。
ペラダイムシフトに直面した女性の悦子。
佐知子という女性を通して悦子の内面が描かれ
出産後、自分の娘、憧れ、離婚後の生活、娘に行った
行動と心情が浮き彫りになっていく。
多面性を奏せざるしかなかったのだろう。
原爆と被爆の生々しい傷跡と苦しい思いが蜘蛛や縄で
示されていた。あの川向こうの黒い髪の女性も
本人。娘にした事が最大の嘘であり、現実に手をかけてしまった。その嘘が降りかかってくる。
どれ程辛い過去でも人は生きて、変わり、未来に
繋がる。希望の光が差す場所に進み受け繋がれていく。
やっぱり戦争
戦後80年での映画化なのでしょうか。
ミステリー的な部分、ヒューマンドラマ的な部分、いろいろな解釈はあると思いますが、わたしはやはり戦争を意識せずにはいられませんでした。
「あの頃とは変わったのよ、新しい時代なんだから、変わらなきゃ!」
戦後におけるあの頃との違いとは、今の世の中のあの頃(何年か前)と今と比較して、それは余りにも大きすぎませんか。しかも長崎は被爆地です。
悦子さん、被爆して、七年後の街を高いところから見て、新しい時代=変わらなきゃ、そして女性の自立 凄い強さだと思います。
松下さんが発する三浦友和さんの万歳が憎い、その三浦さんも洗脳教育を渡辺さんから責められる、皆さん戦争を通過しているんですよね。
この映画、どこを期待して見るかで感想は変わると思いますが、わたしはとても良かったと思います。全く長くないです。
石川監督は今まで余り好きではなかったんですが(「ある男」なんて褒められ過ぎ)、今回はよくまとめたなと思います。
二階堂ふみさんも迫力満点ですが、大ファンの広瀬すずさんも嵌ってましたね。目力アップしてます。怖いシーンもありました。もっとも、広瀬すずさんの主演じゃなければ、今作見てないかもしれません(でも「宝島」は見る気しません)。石川監督嫌いでしたし、イシグロさんもそれ程のファンでもありませんし。
タイトルの意味は最後までわかりませんでした。
「嘘」をどう描くか?
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの好演が印象に残る作品。
「嘘」の部分は早い段階で読めてしまった。大体、ポスター等のキャッチコピーに「嘘」って使うとダメでしょ、ネタバレでしょ。何故日本映画の宣伝はこんなに無能なの?
それに、この「嘘」をラストのどんでん返しに使ってるから、本来回収しなければならない伏線が置き去りにされている。
なら、「嘘」をどんでん返しにせず、しっかりそれも含めてのドラマとして描いて欲しかった。
非常に勿体ない作品。
#遠い山なみの光
魂を作る素材としての記憶
人間の記憶は時間の経過とともに単に薄れるだけでなく、形や内容が変容していき、元のかたちから大きくかけ離れることがあります。これは実験的に確認された心理学の基本知見だそうですが、「記憶」は、その人がある事象とともに感じた、喜びや恐怖や耐えがたい罪の意識などそのときの「感情」と深く結びつき、自身の精神の崩壊を回避するような合理的なカタチで保存され、その人の魂を構成する素材になるのだと思います。
この作品は、映画的表現を存分に駆使しながら、この「人間の記憶の曖昧さ」という性質を、実に巧みに利用していて、そのときどきの感情と結びついた記憶の断片を、サスペンス仕立てで観客に見せてゆきます。そしてその保存のカタチの変容の全体像が判明する瞬間に、主人公達の中に潜んでいた感情の傷の、時代背景とその強さが観客に理解されるような構成になっているように思いました。
「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」2017年のノーベル賞受賞理由ですが、最近鑑賞した「私を離さないで」にも同じ物を感じ、なるほどと思いました。
主人公3人の演技も素晴らしく、大変見応えのある作品でした。
「ある男」も良かったですが、今後も目が離させない監督さんになると思います。
二度観ると印象が変わった
一度目は、戦争(原爆)への憎悪とヒューマンミステリーの余白を考察して愉しませて貰った。悦子が教え子を原爆から守れなかった悔恨と自身の被爆により我が子に遺伝させてしまった罪悪感を抱えバイオリンの前で涙する姿に感情移入が収まらなかった。そして、佐和子と悦子・万里子と景子の関係に思考が支配されつつ広瀬すずと二階堂ふみの凛とした美しさに目を奪われていた。しかし、結末を知り自分なりに埋めた空白を確認する為に二度目を観るとその印象は変わった。この映画は、ミステリーの空白を埋める作業と反戦的な高揚感に没頭しがちではあるが、その芯は、悦子がイギリスに渡って来た生き様と胸にしまってあった景子に対する母としての悔恨をニキが知るに至り、コレまで疎ましく感じていた母への感情が愛情とリスペクトに変わり、自分自身も母になることへの覚悟を決めた家族愛の再生をニキの目線で描いたドラマではないか。それは、もしかしたら原作者(イシグロ氏)が自分の母に対する感謝と尊敬する想いをニキを通して語っている様にさえ思えた。余談ではあるが、悦子が二郎と別れた理由は自身と景子の被爆が起因と云うより、むしろ義父の緒方に対してぼんやりと恋心を抱いていて、その葛藤の結果、別れる決心をしたのではないか? 二人への接し方の違い(特にオムレツを焼くくだりでのセリフ「今日は私の機嫌が良くて運が良かとね…」に滲む距離感)を見ているとそう思えてならない。
テーマが流石に深く名作
ストーリーは一度で分からず、ネットで再確認。
商業的な脚本作品ばかりに接しているようで、だからこういう純文学的テーマがある作品にアジャストできない自分にテーマの浅さを痛感。
文学賞作家の原作だけあり流石にテーマが深く、とてもいい視点だと感じました。
映像もとても文学的で美しく、
広瀬すず、二階堂ふみもとてもよく、三浦友和の飄々とした演じが映画に風を与えており、実力者かなと思う。
脚本家の力量と監督の力量を感じざるをえない作品でした。
映像の美しさ、脚本の無駄のなさ、テーマの深さ、俳優さんの充実ぶり、ストーリー構成の斬新さで、過去一と言ってもいいかな。
広瀬すず、二階堂ふみの演技力が冴える!
辛い思いをすると 記憶にまで障壁が残るのかと…
イシグロの若書き作品を見事に映画化。女優陣も好演
カズオ・イシグロの原作を読んだのは10数年前なので、すっかりディティールを忘れていたのですが、映画が進むにつれて記憶がみるみる蘇ってきました。まず驚いたのは原作を読みながら私が勝手に思い描いていた長崎の川沿い風景と映画で実際に見るその風景がかなり一致していたと言うこと。これはイシグロの描写力なのか、監督の再現力なのか……おそらく両方じゃないかと思いました。
原作はそれなりに密度の高い小説だけど後年の大作ような重層的な構造ではなく、分量も短めで、思わせぶりの謎を読者に見せつけながら、イシグロの若書きというか、一種の勢いで物語を進めていきます。しかし今回の映画ではそこは大衆芸術ですから、きちんと“落ち”を付けてくれて、「信頼できない語り手」問題もすっきり見通しよく、原作未読の人でも安心してストーリーテリングを楽しめるでしょう。
物語は1952年頃の長崎と1982年のイギリスを往復しながら展開されていきます。前者は広瀬すずと二階堂ふみ、後者は吉田羊(広瀬すずの老後)とオーディションで選ばれた英国人俳優のカミラ・アイコが中心人物となっています。広瀬、二階堂組も好演していますが、やはり吉田、カミラ組の醸し出す緊張感と悲しみは一日の長。調べてみるとカミラは英国の名門演劇学校出身だそうでシェイクスピア劇なんかも普通に演じられる技量を持った人なんだと思います。そうした相手に英語のセリフでしっかり渡り合っていた吉田羊もすごいと思いました。
で、1952年と1982年をつなぐ役割を果たしているのが劇中曲として使われているNew Order「Ceremony」。Joy Division として最後にレコーディングした曲を、イアン・カーティスの自死後、New Orderとして再レコーディングしてデビューシングルとしてリリースされた因縁の曲です。劇中で吉田羊が長崎で産んだ長女もイアン同様に首つり自殺しているということも選曲の一因かもしれません。
以下の歌詞も映画のテーマに通じていてとにかくこの選曲には感服しました。
This is why events unnerve me
They find it all, a different story
Notice whom for wheels are turning
Turn again and turn towards this time
All she ask's the strength to hold me
Then again the same old story
Word will travel, oh so quickly
Travel first and lean towards this time
色々と後から反芻してしまう映画だった。時間が経つと段々と大きな映画に思えてきた。
映像が、日本映画らしくなく、重厚さを感じさせる映画だった。
カメラマンがポーランドの人だそうで、そのせいか。
石川慶監督作品は、「蜜蜂と遠雷」を見ただけだけど、上手い監督だった印象がある。
今回は、なかなかすごい!
この映画の広瀬すずと二階堂ふみを見るだけでも価値がある。広瀬すずは、今までの中では一番いいし、二階堂ふみは、ちょっと尖っていて彼女も今までの中ではベスト級の演技。
他の吉田羊、カミラ・アイコ、松下洸平、三浦友和も良かった。
話は、色々な読みができる構造の映画で、見終わった後にあとを引く。
最初に見た劇場のスクリーンが暗かったのと、話の内容も含め見直したいところもあり、今回は2回見た。
1回目は、イギリスパートなどの陰影のある映像が、黒潰れがひどくて残念な映像だった。それで、比較的明るいスクリーンの劇場で見直した。
見直すと暗部の階調もしっかりあり、イギリスパートの映像の印象が全然違っていた。(これから見る方は、明るいスクリーンの劇場で見ることをお勧めします)
カットが繊細に吟味され撮影されているのが感じられる素晴らしい演出と映像。この映像を味わうだけでも楽しい映画だった。
「小説」を「映画」としていかに成立させるかにこだわっている演出だったと思った。それはほぼ成功されていると思う。(もう少し、曖昧な映像表現ができれば良かったかも)
そして2回見ると、この映画の主人公は、吉田羊(82年の悦子)であることが素直に納得できた(当たり前の話だが)。それでラストには3人のキャラクター(52年の悦子と佐知子と82年の悦子)がしっかり統合されていくのが感じられた。それが感動的だった。
それに長崎シーンで、途中に何度か出てくる黒服の女性は、実は82年の悦子だったのがわかる=筋としては全く論理的でなくおかしな話だが、映画的には納得できた。それが、82年の悦子(吉田羊)の後悔の中に生きてきた切なさに繋がり、彼女は苦しんでいたことが私には腑に落ちた。そしてラスト、それを包み込む娘ニキ(カミラ・アイコが名演)の優しさ。
そう思えると涙が出た。
これからの再出発を予感させて終わる。
色々と後から反芻してしまう映画だった。時間が経つと段々と大きな映画に思えてきた。
記憶と夢の迷宮物語
ノーベル賞作家カズオ・イシグロの40年前に書かれた長編デビュー作を「愚行録」「ある男」などの石川慶監督が映画化した。2025年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品作。
原作は未読のためどうアレンジされているのかはわからないが、謎の部分が残されるので観るものに解釈が委ねられている。
1980年代英国で暮らす悦子(吉田羊)と娘のニキ(カミラ・アイコ)はもう直ぐ売りに出す家の片付けをしている。ニキは母の故郷である長崎の戦争や原爆についての記録を執筆中で母はニキに長崎の記憶を語り出す。
映画は戦後間もない30年前の妊娠中の若き悦子(広瀬すず)と謎めいた女性、佐知子(二階堂ふみ)とその娘万里子(鈴木碧桜)とのエピソードと英国での悦子と娘のエピソードが行ったり来たりする。
物語が進むにつれ過去のエピソードは悦子の記憶と夢が混ざり始めミステリーの要素が強くなってくる。
長崎の話は悦子と夫、二郎(松下洸平)や二郎の父親(三浦友和)との話はリアリティがあり輪郭がはっきりしているのだが、公団住宅の窓から見える佐知子が住む川沿いのバラックや橋、草むらといった風景は書き割りのようでもありリアリティがない。バラックの内部は外観とは似つかない調度品や食器は欧米調でまるでセット。佐知子を演じる二階堂ふみの演技もどこか演劇風で謎めいている。
その謎は終盤になるにつれ明かされてはいくのだが判然とはしない。
理不尽な戦争に巻き込まれ、心にも体にも傷を負い、ひどい差別のなか生き抜いてきた人間の過去の記憶の曖昧さや輪郭がぼやけた夢はそうした人の心の闇を描いているようでもある。
一方分かりやすく時代の変化や世代交代、引き継ぐものと進化するものといった事もスーツケースや妊娠といった要素で描かれており、ミステリー要素との連動性がよくわからない部分もあった。
戦争を直接的には描いていないが人間の心に残される戦争の傷跡を丁寧に描いた良作だ。
かりそめではない平和を
違和感の扉に鍵をさすニキの視点で悦子の語りを追ううち、正解のない虚像に出会い戸惑う
そこに見えてくるのは、いつの時代にもある隔世という壁、差別や常識の抑圧、束縛という枷、そして戦争が及ぼす心身の痛みのひどさ
皆が傷を抱えたまま、必死に復興に向かわなければならなかった戦後の世の中だ
理想があるほど現実との狭間に生み出されていく自分のなかの異物たち
悦子は心を押し殺し、もがいたのだとおもう
良い妻、良い嫁、良い母…
求められ問われる度に葛藤を重ねどんなに生きづらかったことだろう
そして悦子は絶望を断つ
こうありたいと思う虚像の自分でつなぎとめ
彼女なりの生きるための術でひかりをつないだ
蒸す草が絡みつく夢に起こされる日々は止まず
罪悪感という縄が食い込む感触はいつもここにあり
捨てられない小さな赤い長靴に本音を秘めたまま
代償は年月を越えて襲う
それでも〝私らしさ〟を生きてきた証だと本人が誰よりも知りつくす
その人生に誰が何を言えるだろう
庭を見渡す窓越しに曇りがちなイギリスの空気を纏いながら、30年後の憧れの地の部屋でも艶やかなユリが香っていた
悦子という人間のアイデンティティが凝縮されたかのようなカットが印象的な彩を放ち、その様子に私もほんのり安らいだ
あぁ家族の節目の時間は母娘のこれからに大切なをきっかけを与えたのだなと感じられた
若い悩みを抱えるニキは母の半生から自分の意志を信じる人生の意義を感じてまた一歩踏み出すだろう
悦子は娘のまっすぐで優しい勇気により、孤独すぎた夢のための重荷を少しはおろせのではないだろうか
そしてきっとこれからも自分の中の自分をあちらとこちらを漂ようように紡ぐ
だけどようやくのんびりとゆっくりと
日本は戦後80年を迎えた
しかし、隣り合わせで繰り返される悪夢は人ごとではない
誰もが希望という名の光を見つめることができ
それを見失わせない世界を
原作者や監督のメッセージを受けた私たちは考え行動しなければと思うのだ
平和はかりそめではいけない
その意味がこの物語には溢れていた
訂正済み
回収されないのが人生かな
原作のエピソードは、もちろん多少の改変省略は少なからずありますが、比較的丁寧に映画に反映されています。
ただし最後の部分を除いて。
最後は回収と言えるのかもしれませんが、よく考えてみると佐知子が悦子だとしても佐知子+悦子が悦子だとしても、矛盾点は多々残りそう単純なものでもなさそうです。
壮絶な被爆体験や身近な肉親の死などなど、どんな悲しみや後悔があっても人生はただ続いていく。
そこにはっきりした理由なんてないし、ましてやすっきりした回収なんてありえない。
それにしてもメイン3名の女性の演技は素晴らしいです。
世界最高精度の画面
この映画は、ストーリーラインを律儀に追っているだけでは半分も分からない。色彩と光、画角、俳優の移動・カメラの移動、音楽をひっかけたシークエンス間の移行、それがどれほど緻密に組み上げられているか。そういう細部が「物語」の大半を担っている。この精度の高さは今の映画の世界で文句なく最高水準。
そして俳優の見事さ。広瀬すずは彼女の最大の武器である印象的な瞳をつかって、視線だけでさまざまな物語を語っている。そして吉田羊、そのたたずまいが物語るものの多さ(吉田羊の英語は本当に見事で、あの日本人訛りをも上手に利用している)。二階堂ふみの昭和のアクセントと語尾を駆使した演技もうまくいっていて、彼女の映画的教養の深さがよく分かる。
そしてショット演出と構図の周到さ。たとえば川縁の粗末な小屋へ行って、悦子(広瀬すず)が佐知子(二階堂ふみ)の長いモノローグをきいているとき、カメラは佐知子を撮っていなかったのを覚えているでしょうか。あのときカメラは、ずっと悦子の周りを回っていた。そしてようやく佐知子が映ると、彼女はカメラに背を向けている。二階堂ふみは、その表情の表現力を封じられたまま言葉だけで物語をつくりあげていて、広瀬すずのわずかな視線の動きが、それを補強している。観客はフレーム外から聞こえてくる言葉だけを追わねばならないので、想像力をつよく喚起されてゆく。
そんな風なので、この映画を見るときは台詞を追って物語だけを理解しようとしてはダメなのです。広瀬すずが視線をどこにさまよわせるか、吉田羊がどこでどう立つか、そして画面から画面がどのように切り替わってゆくか、その照明と光の関係は、どんな構図の画面がどこに挟み込まれるか…というところに注目してほしいですね。
全422件中、81~100件目を表示
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