遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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丁寧につくられてはいるが
二階堂ふみは
あくまで
吉田羊の語りのなかでの
存在ということ。
だとすると
どこまでが
真実かあいまいになる。
三浦友和の役割は
語りの世界なのか、実在の世界なのか
前者だとすると
あえて必要な登場人物でない気がする。
路面電車のシーンも
吉田羊が景子役の子役と
同時間を過ごすのは
矛盾している。
もう一度
始めからみたい。
遠い山なみの光 〜ピカドンと未来〜
わからないことは、いくら聞いてもわからない。
イシグロ・カズオの映画はたぶん全部観て、静かで落ち着いていて、寂しさが残ると思っている。時の移ろいを描写してそこに心を残している。
あれもこれも説明は、いらない。戦争や原爆が人間のなかに落とす陰は消せるものではないらしい、今がどれほど納得がいく時であっても。
拾った猫を飼っている。4年も経って猫風邪はやっと治り、近所の黒猫とじゃれ合っている。拾って良かった。不思議なことに、猫に限らず人を幸せにできなかったことの後悔は深いように思う。人は誰かあるいは何ものかを殺して、生きている。
衝撃の脚本。もちろん幅広く読み込める原作なのでこのような解釈もあるのかもしれないが。
50年代の長崎と、80年代のイギリスでの2つの物語が並行して進行するところは原作と同じ。終盤まではエピソードがほぼ原作通りだったので、悦子を演じた広瀬すずと吉田羊は全然違う顔なのにこの作品では繋がって見えるな、これは広瀬すずが上手くなったからかな、とか考えつつぼんやり観ていたら終盤、驚きの展開となってしまった。
原作者のカズオ・イシグロがエグゼクティブ・プロデューサーとして加わっているので了解済みなんだろうけど2時間サスペンスドラマじゃあるまいしそれはあんまりではというのが正直な感想である。
もちろん原作自体にも若干のホラー色がある。そしてイシグロの描く人物は皆、輪郭が淡く、その来し方往く末がはっきりしない。具体的に示すと、佐知子と万里子がその後どうなったのか、悦子は二郎といつどのように別れたのか、景子はいつ生まれ、どのようにして英国に渡ったのか、それらすべては原作では靄の中にあって何も明らかになっていない(ちなみに連続幼女殺しの犯人も明らかにならない)。イシグロは、人が記憶を意図的に消失させたり改編したりすることについて語り、また若い頃に被爆経験があった人のキズを想定してこのようなストーリーを書いたものと思われる(ただし原爆そのものへの言及は慎重に抑えられている)
悦子と佐知子の関係はシスターフッドといったような甘やかなものではない。お互いに批判的でありながらも時代の併走者として強烈に意識し合っている関係である。でも、悦子はあくまで悦子だし、佐知子はあくまで佐知子。そして、彼女たちの娘はあくまでそれぞれの娘である。だからこのような混線した形で映画作品として収拾したかったのだろうけどそれはないんじゃないかと違和感がハンパなかった。
もう一つ、こちらは違和感としてはより小さいけど、三浦友和演ずる緒方さんと、渡辺大知演ずる松田重雄の対決部分。ここは戦前的価値観に依る教育者と戦後の教育者(端的には日教組と言って良い)の対決であって、イシグロはそれなりの比重を持って書いていたものである。映画では残念ながらというかまったく主旨が表現できていない。緒方さんが声を荒らげて雑誌を投げつける?何も理解できていないひどい演出である。そもそもこのスタッフでは難しいと思うので最初からカットしておいた方が良かったね。
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの共演見ごたえあります
戦争を経験していない自分にとっては、すべてを理解するのは難しいですが、長崎で被爆し、その後イギリスへ渡った方の人生って、語りつくせないぐらい大変と思います。
その長崎パートを演じる広瀬すずさんと二階堂ふみさんの共演、とても見ごたえあります。共演というか、役者としてお互いのバトルと言いたくなるぐらいでした。最後に秘密が解かれ、なるほど・・・と、二人の関係性がわかると、余計にそう思いました。
イギリスパートの吉田羊さん。本当なら、もうちょっと長年の苦労が滲み出るような人になるのでは?と思いつつ、それをすべて自分の心にしまって、決して多くを語らない強さが表れていて良かったと思います。
しっかりと丁寧に作られた映画を観させて頂きました。
謎が解かれ謎が生まれ
霧の中を歩くような鑑賞体験ーー戦後日本の記憶
カズオ・イシグロが20代に書いたデビュー作を原作に映画化されたという。彼の作品は「日の名残り」「私を離さないで」「クララとお日さま」を読んだことがあるけれど、この原作は未読だった。
全く知らないまま本作を観られるのは、幸せな体験なのか、無謀な挑戦だったのか……なかなかに手強い鑑賞体験であった。
どこまでがネタバレなのか、また僕がちゃんと観れているのかもわからないが、感想を書いてみたい。
この作品は推理小説などでいういわゆる「信頼できない語り手」による物語である。そして、映画の中では、語りと記念写真の食い違いなどで、そこまで映されてきた物語が信頼できないことを明示している。
ただ、その場面を見て「ああそうなのか」となったわけではなかった。よく翻訳ミステリー小説を読んでいると、誰が誰なんだかわからなくなることがある。それと同じで、主要登場人物の名前と役割が自分の中で混乱して分からなくなってしまったのだと諦めつつ、中盤は観ていた感じである。
多分これは、小説より映画の方がその混乱は大きいのではないだろうか。小説なら語り手が分かるけれど、映像の場合は、回想や主観的映像だと明示されない限りは、僕らは客観的描写、つまり事実(あくまでフィクション世界内での、だけれど)だと思って見ている。そこは部分は、もう少し分かりやすく表現してくれても良かった気がする。長い時間迷子のまま、半分あきらめつつ観ることになったからだ。
それでも見終わって、非常に強い余韻に浸っているのだから、これで成功なのかもしれない。
物語は、戦後7年後の長崎。そして27年後のイギリス。二つの時間と場所での、同一人物たちの物語である。
本作のPR映像に登場したイシグロによると、彼は5歳まで育った生まれ故郷、長崎を戦災と廃墟の街として記憶しておらず、未来に向けて発展する美しく元気な街だと記憶しているそうだ。
しかし、イシグロの記憶の中の長崎とは反対に、彼の誕生直前を舞台にしたこの映画は、戦争と原爆が登場人物それぞれに深い傷を与えている。
戦前の半宗教国家から、敗戦後いきなり民主主義世界に切り替わったわけだから、その2つの対照的世界をまたがって、大人として生きることがどれほど困難だったのかも、伝わってくる。
いきなり人間は生き方も価値観も変えることができない。それまで従ってきた基準が変わってしまうと、自分が心理的にバラバラになってしまうから、認知的不協和を解消するための合理化が行われる。要は自分が受け入れられるように自己物語を改変する心の働きがあるという。
そうした合理化が、この大戦後には日本中で行われた。共有できない個人の物語がさまざまな場面でコンフリクトを起こし、関係性も人生の一貫性も破壊されてしまった。それでもなんとか自己同一性を保って生きていかなければならないから、信頼できない語り手となるしかない、ということでもあると思った。
そもそも人は自己を通じてしか世界を認識できないから、常に世界はその人のフィルターを通してしかみることができない。
イシグロのノーベル賞受賞理由は「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」ためだそうだ。イシグロの作家としての特質が、私たち一人一人が幻想的感覚(主観的な世界理解)で生きていることを見事に描くことにあるということなのだろう。
だとすると、これまでに読んだ3作品以上に、このデビュー作にその特質が凝縮されていたのではないかとも感じた。
分かりにくさに文句も書いたけれど、原作を読んで、また映画を観直してと、何度も噛み締めるように鑑賞したい見事な映画であり映像だった。
主演の今をときめく女優たちもとても美しく抑制された名演を見せてくれるし、映像的にはおそらく明るいレンズを開放で使った浅いピントが、イシグロの幻想的感覚世界を見事に描写しているとも感じた。
原作を読み直して、もう一度鑑賞したいと思う。見直すたびに、霧の中を歩くような感覚で鑑賞した今日のことを、幸せなことだったと思い返すことになる気がする。
なんだかなぁ
⭐︎3.4 / 5.0
9月5日(金) @映画館
遠い山なみの光
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見事なとっ散らかり脚本🙄(長崎である必要もないし三浦友和の無駄遣い)「ある男」より終わり方はスッキリだけど🙄いまひとつ
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隠したい過去
吉田羊(歳を重ねた広瀬スズ)が、英国人との夫との間に設けた娘(次女)に、長崎時代の話を聞かせるストーリー。その中で、知り合いになった二階堂ふみとその娘(恵子)との関わりを話すのだが… 映画の最後で次女が発見する過去の想い出に繋がる幾つもの品が、実は二階堂ふみは存在せず、恵子は実の娘であったことが観客に判明する。即ち、幸せな結婚生活をしていた夫(松下洸平)も義父(三浦友和)も存在などしなかったのだ。娘に語るのは、嘘の過去なのだ。何故か、被爆者として生きねばならぬ中で隠したい後ろめたいことををしながら、漸く掴んだチャンス(英国人夫)だったから。最後で、本作への評価に星一つ追加ですね。
観る者の知性が試される
ミステリアス色で流れていく日常
タイトルなし
すずさんは最近はふみさん側の役が多かったけど、今回はこっちがよかった。ためがあり、すずさんの演技の幅広がった感。吉田さんは英語の発音は良かったけど、流暢にしようとして抑揚がなさすぎ。逆に英語は入って来づらかった。
松下くんはこういう役も器用にできるのだというくらい、うまかった。
三浦友和も難しい役。でもこれは脚本が良くなかった気がする。
石川はある男を撮った人だから、こういう題材に惹かれるのか。
原作と脚本の違いがわからないのだけど、この夢や幻想が錯綜する構成こそが、この映画の醍醐味。
長崎にまつわる不安やトラウマを描いたものとして逸品。
松下くんの指(これは映画で付け加わったもの)、箱、オムレツ(美味しそうだった)。
自分がインタビューした経験から、戦争を経験した人々は、世間的な性役割や規範化から自由になることを知っている。どうせ死ぬなら好きなことをやらせようと子どもに対しても。長崎のまちを見つめるすずさんにはその爆発的な力は弱かった。
選択を肯定したい自分と、後悔している自分を同時に語っているような映画
2025.9.5 一部字幕 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(123分、G)
原作はカズオ・イシグロの小説『A Pale View of Hills(邦題:遠い山なみの光)』
原爆直後の長崎を生き抜いた母と疎遠の娘を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は石川慶
英題の『A Pale View of Hills』は直訳すると「丘の上の淡い景色」という意味
物語は、1952年の長崎のことを1982年のイギリスにて回想するという構成になっていた
1952年の長崎には、原爆を乗り越えて専業主婦をしている悦子(広瀬すず)がいて、彼女には多忙な夫・二郎(松下洸平)と2人で暮らしていた
ある日のこと、2人の元に二郎の父・誠二(三浦友和)がやってきた
彼は息子の同窓会に併せて訪れていたのだが、一週間も早く到着していた
やむを得ずに息子の家で泊まることになったものの、父親とあまり一緒に過ごしたくない二郎は、仕事を理由に帰宅を遅らせ、父との将棋指しも拒んでいくようになった
父にはとある目的があったのだが、それに向かうためには心の整理が必要で、息子との会話が必要だと考えていた
それは、誠二の元教え子で二郎の友人でもある松田重夫(渡辺大知)が、ある雑誌書評にて、誠二の教育方針に対する意義を唱えていて、さらに「追放されて当然だ」という強い言葉で締めくくられていたのである
映画は、1952年と1982年を行ったり来たりする構成になっているが、1952年に関しては悦子の回想とニキが残された荷物から想像するものが入り混じっている
悦子は新しい時代に向かう中で、新しい生活をしたいと考えていたが、夫はそうは考えていない
これまでの日本と同様に「母親は母親らしく」という考えに固執していて、おそらくは子どもが生まれれば一切の自由を与えない夫になっていたと思う
この考えは、彼の父から受け継がれているものであり、それが時代の変化とともに古きものとして断罪されていく
教え子との会話では、かつて反発していた者が今の教育の主流となっていて、戦争に向かわせた教育を全否定されていた
誠二は師に対する敬意とか当時の努力を語るものの、松田たちの世代からすれば、結果こそすべてであると言えるのだろう
物語は、実は悦子=佐知子だったというカラクリがあり、記憶が時を経て分離しているのか、混在しているのかが不明瞭になっている
景子=万里子(鈴木碧桜)であり、1952年時点でのお腹の子どもとなるのだが、同時進行で万里子が描かれているので、とてもややこしい演出になっていた
1952年の悦子は少し先の未来の自分(=佐知子)を同時に語っていることになり、そこに嘘があるのかは何とも言えない
だが、ありのままを話せない自分がいて、あの選択は間違っていなかったと思い込みたいのだと思う
それでも、アメリカに来たことで景子は自殺してしまっているので、選択の正しさを思い描けない部分はある
そう言った後悔と肯定の間において、記憶はあたかも自身を分離させるかの如く、同時期に存在するという構図を生み出していたのではないだろうか
いずれにせよ、余白の多い作品で、観終わった瞬間にスッと入ってくる作品ではなかった
ニキが見つける遺物によって悦子の話の真実がわかるのだが、景子=万里子という関係性の他にも「佐知子が万里子を捨てて1人でアメリカに行ってしまった」とも考えられてしまう
それは、二郎との夫婦関係がどうやって終わったのかを描いていないからであり、かなりの部分が抜け落ちた回想になっているからだと思う
アメリカではなくイギリスを選択した理由もわからないし、佐知子をあたかも他人のように説明するための嘘であると言えるのだが、やっぱりわかりにくいよなあと感じた
予想外に面白かった
レトロ昭和、広瀬すず、毎度の苦手系。
でも今作品は良かった。面白かった!
凛とした役をこなす広瀬すずは相変わらずいいねー
結局、二階堂ふみの役は幻⁉️
あれは広瀬すずだったのかな?
中々長女の詳細が明かされないなーって思っていたら、まさかあの娘が長女だったとは。やられた。
広瀬すずの旦那さんは昔の写真だと外人で、過去のシーンでは松下くん、あのカラクリは謎でした。ん?
猫の最期のシーン
あれは嫌だねー
わざわざ必要だったのかな。
そんな事するなら猫の登場を遠慮して欲しい。
無駄に悲しい。
女性としての生き方を学ぶ
戦争、さらに原爆からの復興を経て、あらゆるものの価値観が変化する中、皆忘れられない記憶と新しい生活の狭間で心を行ったり来たりさせながら生きている。
その中で悦子の絶望からの再生の為に辿った道は、女性で妻で母の自分の中でどれを一番に生きるかの模索だったように思う。
そしてその悦子の迷いや選択は、そのまま現在の私たちにも通じる不思議よ。
一番印象に残ったのは、佐知子の家のセットがとても秀逸だった。
原作を読んでからの参戦だけど、バラックに近い家の中で、高級な茶器セットだけ光ってるイメージだったのだけど、テーブルクロスと百合の花に彼女のプライドを感じて納得のいく素敵な演出だったな。
そしてそれはイギリスでの悦子の生活の中で出てくる高級イギリス茶器セットにも繋がってる気がした。
皿オタとても眼福でした。
ありがとう。
なんかこんなに時代は変わったように見えるのに、女性の悩みは普遍的で、根本的なところは今でもあまり変化はないんだなと思いました。
学びがあったわー。
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