遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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【81.9】遠い山なみの光 映画レビュー
映画『遠い山なみの光』(2025)専門家批評
作品の完成度
ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの処女小説を、国際的な評価を受ける石川慶監督が映画化という高いハードルを超えた、文学性と映画的技巧が見事に融合した作品。戦後間もない長崎と1980年代のイギリスという二つの時代・場所を舞台に、主人公・悦子の記憶の曖昧さ、そして隠された真実を巡るミステリーとして構築されている。信頼できない語り手による回想という原作の構造を、映像の「違和感」として観客に提示する手法は、映画ならではの成功例。特に、長崎パートで積み重ねられる不穏な空気や、現実と虚構の境界を揺るがす演出は、見る者に深い考察を促す。母娘の断絶、戦争の傷跡、そして人間の記憶の不確かさという普遍的なテーマを扱いながら、単なる文芸作品に終わらせないサスペンスフルな語り口が秀逸。物語の結末で明らかになる真実の衝撃度は高いが、それまでの緻密な伏線と俳優陣の好演によって、単なる「種明かし」ではなく、重層的な余韻を残す傑作となっている。第78回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門への出品は、その完成度の高さを裏付けるもの。
監督・演出・編集
石川慶監督は、『ある男』に続き、ミステリーの枠組みを用いながら人間の内面に迫る手腕を遺憾なく発揮。静謐でありながら緊張感を孕んだ独特のトーンを確立。1950年代の長崎の空気を写実的に捉えつつも、どこか幻想的で不安を誘う演出が巧み。回想と現在のパートを交錯させながら、徐々に真実へと迫る編集のリズムは計算され尽くしており、観客の集中力を途切れさせない。特に、悦子と佐知子が同一人物である可能性を示唆する終盤の演出は、言葉ではなく映像で衝撃的な真実を表現し、鳥肌が立つほどのカタルシスを生む。全編を通じて、感情の過剰な表出を抑え、俳優の佇まいや微細な表情、そして美術・照明を駆使して物語を語る抑制された美学が貫かれている。
キャスティング・役者の演技
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という三人の実力派女優を配したキャスティングは、本作の成功の大きな要因。三者三様の「悦子」の側面を担い、それぞれが極めて高いレベルで役柄を体現。
• 広瀬すず(緒方悦子) 1950年代の若き悦子を演じる。戦後の混乱期を生きる凛とした強さと、秘めた孤独、そして次第に見え隠れする異常性を複雑に表現。朝ドラのヒロインのような朗らかさの裏にある翳り、佐知子との交流を通じて生まれる感情の揺れを、繊細かつ大胆に演じきり、観客に「信頼できない語り手」としての違和感を植え付けるその演技は、キャリアの中でも屈指の完成度。その存在感と説得力は主演として申し分なし。
• 二階堂ふみ(佐知子) 悦子の回想に登場する謎めいた女性。退廃的で自暴自棄な雰囲気を持ちながら、娘・万里子に対する歪んだ愛情を見せる難役。広瀬すず演じる悦子と対照的な人物像でありながら、その深層で繋がっていることを予感させる佇まいは圧巻。わずかな表情の変化や台詞回しに、戦後のトラウマと必死に生きる女性の業を感じさせ、作品のミステリー性を高めることに大きく貢献。
• 吉田羊(1980年代の悦子) イギリスで暮らす老年の悦子。過去の記憶を娘に語る「現在の悦子」として、冷静沈着でありながら、過去の出来事に対する後悔や諦念を滲ませる。流暢な英語での演技や、過去の記憶を語る際の微妙な間の取り方、表情に宿る諦観は、物語に奥行きと切実さをもたらす。広瀬すずの悦子との内面的な連続性を感じさせる演技も見事。
• 松下洸平(緒方二郎) 悦子の夫で、傷痍軍人。戦争によるトラウマと家族への責任感の間で葛藤する姿を、静かな熱量をもって演じる。悦子との夫婦関係における緊張感や、父・誠二との不和を表現し、戦後日本の家族の姿を象徴的に示す。
• 三浦友和(緒方誠二) 悦子の義父であり、元校長。戦後の価値観の変化に戸惑い、苦悩する旧世代の知識人を重厚に演じる。悦子や元教え子・松田との衝突のシーンでは、戦争の傷と時代の軋轢を体現。その燻銀の演技は、作品に確かなリアリティと重みを与えている。
脚本・ストーリー
カズオ・イシグロの原作の持つ「信頼できない語り手」という骨子を忠実に抽出し、映画脚本として再構築。原作の持つ文学的なニュアンスを保ちつつ、ミステリーとしてのフックを明確に打ち出し、現代の観客にも受け入れやすい構成とした。戦後の長崎という舞台設定が持つ、原爆や戦争の影という重いテーマを、直接的な描写ではなく、人々の心と生活に宿る「暗闇」として描いた点が評価できる。悦子の語りの中に潜む矛盾や不自然さが、終盤の真実の提示へと繋がる構造は、脚本家としての高度な技術を感じさせる。
映像・美術衣装
1950年代の長崎の再現度が高く、生活感あふれる長屋や、バラック小屋のセット、路面電車の光景など、細部にわたるこだわりが強い。全体的に光と影のコントラストが印象的で、特に回想シーンのやや黄ばんだような色調は、記憶の曖昧さを視覚的に表現。美術は、戦後の復興途上にある街の生々しさと、悦子の家庭が持つある種の「体裁」との対比が際立つ。衣装は、登場人物の社会的地位や心理状態を反映しており、広瀬すずの和服姿の美しさと、佐知子のどこか奔放な洋装との対比も効果的。映像美が、物語の持つ重層的なテーマ性を深める役割を果たしている。
音楽
オリジナルスコアは、物語の持つ静けさと不穏さを増幅させる役割を担う。主題歌は設定されておらず、劇中のムードを重視した音楽設計。劇中、ニュー・オーダーの楽曲(曲名記載なし)の使用は、現代的な視点と戦後日本の光景との意図的な「違和感」を生み出し、観客を現実と虚構の境界に引き戻す効果を持つ。メロディよりもテクスチャーや音響で感情を表現するアプローチ。
作品
監督 石川慶 114.5×0.715 81.9
編集
主演 広瀬すずA9×3
助演 二階堂ふみ A9
脚本・ストーリー 原作
カズオ・イシグロ
脚本
石川慶 B+7.5×7
撮影・映像 ピオトル・ニエミイスキ A9
美術・衣装 美術
我妻弘之
アダム・マーシャル
A9
音楽 パベウ・ミキェティン B8
秘密を守ってあげたくなる心に残る名作
二階堂ふみさんをスクリーンで初めて観ることができて氣分最高というのは置いておき、鑑賞前から、ある程度ストーリーを知っていたため驚きはありませんでしたが、時代の再現度、神秘的な演出、斬新な音楽、秘密を明かしたがらない年配女性の心理、母の真実を知りたがる若い娘、終盤の黄色い牛乳瓶ケースのエピソード、赤ちゃんを川に沈める話の伏線回収、知的でありながら感覚に訴える要素が強めで心に残る名作でした。
タイトルの意味は、なんとなくアレのことかな、と思っていますが考察したり詮索するのが失礼な氣がしてしまうという、主人公の秘密だけでなく作品の上品さを守りたくなりました。
女性視点の戦前戦中戦後の作品に滅法弱いため、減点なしで満点評価です。
戦後の日本人の営みが今に通ずる
この時代の空気感を知る原作者が伝えたかったことが描かれているのだろう。
戦後まもなくしてイギリスに移った作者と同様に、この物語は進んでいく。
原爆が投下された長崎の戦後の復興もまた、力強さを感じられる。
戦後80年の節目に、この時代を色んな表現で描かれるが、悲惨な部分だけでなく豊かになりつつある人々の暮らしも見ることができて救われる気がする。
私は30年程前に10年間、長崎に住んでいたが、町や店がそのままの名前で映っていて、懐かしく感じた。
私の親世代は幼少期に戦争を経験している。健在のうちに色んなことを聞いてみたくなった。
謎多き女性・佐知子さんはアメリカにひとりで渡航したのか?
当時身ごもっていた娘が、自殺した姉だったのか?それとも?
私の理解力不足だと思うが、ちゃんと描かれていたんだろうけど疑問に残る点があった。
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とここまで自分なりにレビューを書いたが、他者のレビューを見て疑問が解けました。ネタバレで皆さんにわかりやすく解説してくれて助かります。
原作と映画
原作、既読。
カズオイシグロ原作、石川慶脚本監督。
監督の映像化の力量が光る。
製作プロダクションに分福(是枝裕和監督)の名前も。
原作は読み易い文学作品。日本語訳も良く、巧みな会話が良い。
大胆な脚本の再構成も見事!
映画はミステリアスに、時にホラーチックに。
悦子の記憶が多層的である事を、原作よりもハッキリと描いている。
背景に戦後の貧しさと混沌、被曝の後ろめたさが流れている。
皆が、ナガサキから立ち直って行こうと希望を持って歩み始める清々しさ。繰り返し観る度に味わい深くなってくる。
映画のプログラムの最後の方にある。広瀬すずの白、吉田羊の黄、二階堂ふみの赤、それぞれが持つ花も象徴的。
広瀬すずの嗚咽、涙が弾ける。逆光の中で。
何とも美しい。映画史に残る名場面では。
「宝島」での慟哭と忍び泣きも見事だった。
異なる涙もそれぞれ良かった。
難しい…
子供の心が殺されないために
世の中の支配的な価値観、頭で考えた「正しさ」に翻弄されて結局あまり幸せになれなかった人たちの話、と見た。
戦後という激変期、開明的なアメリカに(イギリスに)行けば、正しい価値観のもとでより良い生活ができるはず。その正しさのためには子供の無邪気な欲求を犠牲にする。
最初の娘は「正しい」道に進ませたはずが自ら死を選んだ。詳細は語られていないが、おそらくは子供らしいあり方を押し殺されたのだろう。
この話は世代を超えて繰り返す構造が示されている。
親世代に対して「変わらなければ」と言うも、のちに自分自身も娘に同じことを言われる。
その親世代は子弟たちを正しさのために死地に送り出したのだろうし、娘はそもそも子を持つこと自体に否定的。
子供の欲求は一貫して足元にまとわりつく邪魔者と扱われている。その時代の支配的な価値観、頭で考える正しさの犠牲となっている。
そのような正しさを、目指すべき遠くの山の頂のように憧れるのは人の性であって、この先も繰り返される物語なのかもしれない。であるならば、せめて子供の心を殺さない方法を見出したい。
過去の自分に「エール」。
これは心の再生の物語であると思った。過去を肯定することによって心の傷を癒す物語である。母悦子は娘景子の死について自分に責任があったのではないかとひそかに悩んでいる。娘ニキは一人で生きる困難さを抱えながら、姉景子との疎遠だった関係を悔いている。ニキが悦子の長崎時代の話を聞いていく中で、原爆投下からの困難な時代の姿が明らかになっていく。前へ進もうと必死だったあの頃は、失敗があったとしても責められるものではない。むしろ尊く大切な記憶になっている。原作よりも母娘の関係が濃密に描かれているのがとても良かったと思う。悦子だけではなくニキとの母娘の物語になった。長崎時代を肯定することで心の整理がつき、距離ができていた二人の関係も修復されたようである。
景子の死が二人の心に大きな負担となっていたのは理解できるが、彼女が死を選んだ理由はほとんど触れられていない。幼い頃にいじめられて対人不信になっていたり、イギリスに行きたくないのを母親の都合で無理に連れて行ったりしたのが原因になっているのかと想像するだけである。原爆投下後の悲惨な状況は、大人が考えるよりも深くこどもの心を傷つけていたのかもしれない。悦子は景子に対する負い目のようなものを抱いているから自分の本心を隠し、長崎時代を佐知子と万里子という人物に託して語ったと思われる。また、イギリスに渡った理由にもほとんど触れられていない。二郎と別れたと思われるが、悦子は緒方さんが好きであって、緒方さんをないがしろにする二郎の態度には違和感を持っていたのかもしれない。イギリスに行ってもうまくいくとは限らない。その気持ちも佐知子に託している。長崎時代の路面電車に乗る悦子と景子を見送る現在の悦子が出てくるが、過去の自分に「あなたの選択は間違っていなかったよ」とエールを送っているように感じた。
戦後の復興が時代背景としてあるが、長崎は既に都市として相当に発展し、人々は新しい理想を抱いて明るく生きている。大きな時代の転換を経て逞しく生きる人を応援する作品でした。
品のある戦争のお話でした
目が喜んでいます
原作者がプロデュースに入っているから
なかなか見る機会がなくようやく見ることができた。
思っていた感じとは違っていたけれど、原作者も製作に入っているので、間違いはないと思う。
広瀬・二階堂の2人の女優にやられたなという印象だったし、羊さんは日本語を「いただきます」以外にしゃべったか?
今年、「長崎」を扱った作品が続いて、「広島」ほど知らない自分に色々と突き刺さった。
安易な反戦や戦時青春謳歌なものではなく、そこから続く今を感じたようなきがした。
なかなかスッキリしなかった
戦争という地獄のような日々を生き、生と死を目の当たりにしたその後。生き残った者としての生き方。今までではいけない。初めは寄り添い合い生きていくことから、力強く明るい未来へ変わろうとする生き方を選ぶ。
その中で現実と願望の記憶が混同しているのか?
観る側として謎めいた部分が多様に想像出来てしまう。
何が真実で、何が空想なのか難しすぎてよく分からなかった。
ただ、俳優の方々は素晴らしい演技でした。
何やねん😮💨
恥ずかしながら、分からなかった
信頼のおけない語り手が、語り得なかったもの
原作小説を読んでいたので、期待して劇場公開日に観てきました。
映像の光の演出(赤い空や万里子の首に差す西日、稲佐山の逆光等)は素晴らしく、佐知子の家の奥行き感や色彩の使い方も工夫されていてとても美しかったと思います。また俳優陣の演技もみな巧みで安心して最後まで観続けることが出来ました。
ただ残念なことに物語りの表現展開が私の期待していたものと違っていて、 どうしてもそこに物足りなさを感じる事になりました。
特に万里子のキャラクター表現が月並みでした。佐知子と悦子という重要な登場人物と同等、いやそれ以上に大切なキャラクターとしてもう一歩踏み込んだ演出をして欲しかった。
私がこの小説を読んで心をゆさぶられた箇所は子供殺しに関連した場面です。
1,狂った若い女が自分の赤ん坊を水に浸けて殺すところ。それを万里子は正面から見てしまう。
2,悦子の足首にからんだ縄(景子自殺の縄を連想)を「どうしてそんなもの持ってるの?」とおびえた万里子に訊かれるところ。
3,佐知子が万里子の飼っていた子猫(ちなみに万里子が子猫につけた名前はミ(Me)ーちゃん)を川に沈めて殺す場面。
原作では万里子は死者に近い存在として描かれています。おそらく川の向こうとは彼岸、死者たちの世界でそこから万里子を訪ねて来るのは、原爆で亡くなった死者もしくはその幽霊(川べりの土手には柳の木が生えている)なのではないでしょうか。
私はこの物語にはニ種類の人間が描かれていると思いました。一つは人を死に追いやる側の人間。もう一つは人から死に追いやられる側の人間です。
先の側の人間としてはまず原爆を長崎に落としたアメリカ軍の軍人であるフランクです。(万里子に、ふとんにうんこする豚のおしっこだ!とののしられる。ふとんのうんこは原爆の放射能汚染を強烈に連想させる。)それと悦子の義父の緒方さん。彼は教育者として教育を通じ教え子たちを死地に送り出した人です。しかも原爆を体験した戦後にも拘わらず自分は正しかったと言い張る人間なのです。(教師という”役割”を演じている姿は完璧だが、人間としての魂が欠けている。ナチスのアイヒマン。「日の名残り」の老執事スティーヴンズを思い起こさせる。)そして自己自立のため不都合な記憶に蓋をし米英の価値観にすがりついて我が子である景子(万里子)を犠牲にする母親の悦子(佐知子)です。緒方さんと悦子が仲良く見えるのは、お互い魂が欠落したカラッポな人間同士だからでしょう。
もう一方の側の人間としては、あえて直接には「語られていない」長崎の原爆で亡くなった多くの人々でしょう。(そこには悦子の家族や親しかった友人、知人、緒方さんの教え子たちが含まれていたはずです。)喪服を着て佐知子の家を訪ねる川田靖子とその父親も極めて死に近い存在で、まるで幽霊のようです。そしてイギリスで首を吊り自殺した景子と、母親の佐知子が川に沈めて殺した猫たちです。(子猫は万里子を暗示し、沈められる木箱は棺桶を想起させます。)それと人ではありませんが万里子(景子)が長崎で唯一楽しく想った稲佐山での「記憶」も猫を木箱ごと水に沈めるこの行為で全て消されて(殺されて)しまったとも言えます。
悦子が他人(佐知子)の姿を借りて自分を語るのは”罪”の意識から身を守るためでしょう。ではその”罪”の意識とは何なのか?信頼のおけない語り手である悦子は一体何を隠しているのか?それと子供殺しとはどう関連しているのか?これがこの物語の中心テーマなのではないでしょうか?このテーマが映画を通じどう回答され表現されるか期待しましたが、それに応えるものは残念ながら私には届きませんでした。
長崎に暮らす悦子は復興著しい長崎の街の様子や、将来に希望を託して何事も無かったかのようにふるまう周りの人々の様子は語りますが、肝心の悦子自身が体験したであろう”原爆”という悲劇の「記憶」について全くと言ってよいほど触れません。なぜでしょうか?
なぜならそれは悦子にとって目を逸らしたい真実だからです。長崎を抜け出し、女性として自立した自分の立場を得るため戦勝国(米英←原爆を落とした事は正当だと主張する自己欺瞞の国々)の男と結婚する事を望む悦子(佐知子)にとって”原爆”という「記憶」はできれば隠したい不都合な「記憶」なのです。また、その不都合な「記憶」を呼び覚ます景子(万里子)の存在は邪魔で消し去りたい存在といえます。これが子供殺しのイメージにつながるのです。
私がこの物語(小説)から受け取った普遍的なメッセージはこうです。(あくまで私個人の感想ですが)原爆や戦争という大きな悲劇の「記憶」(過去)に目をつぶり真摯に次の世代に語り継ごうとせず、何事も無かったかのように振る舞う態度は、自分達の「子供」(未来)を殺すことになる。(同じ過ち、悲劇を何度も繰り返してしまうという事)
戦後80年にあたる節目の年にこの映画が日本で公開される意味があるとすれば、ここにこそあるのだと思います。
英国で自責の念に囚われている悦子に残された唯一の救済(赦し)の方法は、おそらくもう一人の娘であるニキに自己を欺くことなく正直に長崎時代の「記憶」を、景子を含めた死者達に想いを馳せながら語り伝えることだけだでしょう。しかし物語はそれも為されることなく薄暗い雰囲気のなか幕を閉じます。映画のような母娘がピアノを連弾なんかして、お互い理解しあえてそれぞれ前向きに生きていきましょう、みたいな希望を暗示するラストは決してあり得ません。私には、悦子の足首にはまだ縄が絡みついている。(今度は自分に向けられたものとして)というイメージの方がこの物語のラストにはふさわしいように思います。
私はこの原作小説を読んだとき一つの違和感を感じました。それは長崎出身のカズオ・イシグロは、きっと両親から長崎原爆の体験談を聞いているだろうになぜその「記憶」を、テーマやモチーフとして長崎が舞台のこの小説に直接織り込む事をしなかったのか?むしろ避けて描いて見えるのは何故か?という点です。これはあくまでも私の想像ですが、それは「語らない事で、語る」「語りえない事を、伝える」必要性がこの物語にはあったからなのでしょう。”信頼のおけない語り手”とはカズオ・イシグロその人そのものなのではないでしょうか。ーおわりー
ー追記ー
カズオ・イシグロの両親の事が気になり調べてみました。やはり母親の石黒静子さんは妹さんと一緒に長崎で被爆されていたようです。しかもカズオ・イシグロが小説を書き始めた時期に、必要と感じた彼女は折に触れ長崎で受けた原爆の体験を彼に語り伝えたそうです。
長崎の被爆体験を綴ったものと言えば、林京子の「祭りの場」が有名ですが、なんと林京子さんと石黒静子さんは同じ長崎高等女学校出身で(林さんは本科、石黒さんは専攻科)原爆が落とされた日、場所は別々でしたが、長崎市内の軍需工場にそれぞれ学徒動員で働きに出ておりその際に被爆されたそうです。(二人に直接の面識は無かったようです)お二人とも奇跡的に助かりましたが、(石黒静子さんの妹も含めれば三人とも)地獄のような惨状を目にした事は想像に難くありません。
林京子の「祭りの場」には長崎に落とされた原爆の「記憶」。それも抽象としての「記憶」ではなく、生の、具体の、真実の「記憶」が記されています。決して長くない文章なので、未読の方はぜひ手に取って読んでみて下さい。そしてこの物語(小説)の悦子(佐知子)景子(万里子)の事をぜひ振り返ってみてください。ー以上ー
映像の色と光が印象的
謎が謎を残したまま…
イギリスに帰化したノーベル賞作家カズオ・イシグロの処女作の映画化。
原作未読もあって、娘に語る回想に紛れ込む嘘に、最後の最後に気付かされる不穏さ。
しかし長崎の被爆が体験者にもたらした傷は、たしかに一筋縄のものではないはず。
それにしても彼女の周囲の男の無頓着さ、頑迷さは如何ともし難い。
あと二階堂ふみ演じる佐知子が娘から取り上げた子猫を川に沈めるシーンは、鬼気迫って出来れば見たくなかった。こういう役、彼女は上手い。
広瀬すずは、今年になって「ゆきてかへらぬ」
本作、「宝島」とあいついで文芸作品で大正、昭和の大人の女を演じ心境著しい。本格的な女優の途を登り始めていると言えるだろう。今後が楽しみである。
「遠い山なみの光」という表題がいかにも読書心を誘い、原作を読んでからもう一度噛み締めながら映画を見直したい気持ちになった。
鑑賞後の考察で忙しい
原作未読です。読んでない者として…
長崎 原爆投下後・敗戦によって心身に受けた傷と幼い娘を抱えながら前に進み出している佐知子と、彼女と出会うことで、自身も被爆の事実を隠し、心の傷を抱えた悦子に起こる心境の変化。
戦時中の価値観・思想を唱えてきた元教師と、戦争で傷ついた息子との冷えた関係性。戦後の新しい思想を得た教え子との断絶。
次第に思惑と違う方へ向かう事態と現状に折り合えない娘の聞き分けの無さに苛立ちを隠せなくなる佐知子の行動。
そして、30数年後に漸くそれらを語ってきた悦子の正体。
ほとんど最後に仄めかされる悦子の真実(?)で、頭の中がいっぱいになり、自死した長女の謎(?)や成長してなお屈折している次女の状況など吹っ飛んでしまいました。嫌いじゃないです。
1980年代の作者のデビュー作らしいのですが、40年経った今なら観覧者の理解はスムーズに受け容れられるのではと思います。が、原作発表後すぐに映画化されれば相当の衝撃作になり得たのではないかと想像しました。現代だと…。(おそらく1980年代では映画化は不可能でしょうが)
全406件中、21~40件目を表示
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