遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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広瀬すずさん素晴らしい
原作未読、殆ど情報を見ないで観た
「信頼できない語り手」に見事に振り回された自分
ある程度の種明かしがある
だが全てが語られるわけでもないので
観終わった後にアレはこうでアレはあれでと考えるの中々面白くもある
広瀬すずさんがとても色っぽくて素晴らしかったな
「夢」か?「騙り」か? 匂わせか?
10月6日と公開から1ヶ月後の鑑賞です。間が合わず見逃していましたが、TAMA映画祭での主演女優賞に推されて劇場に行きました。
予備知識は、Kazuo Ishiguroが原作、長崎とイギリスが舞台といった程度で、原作未読のまま観ました。素直な初見の読後感は「混乱」です。最終盤の種明かしで、プロットのトリックこそ理解できるのですが、だとすると語られた半生の何処から何処まで信じていいのか直ぐには整理できず、混乱したままエンドロールも終わっていました。
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1. 夢か? 騙りか?
本作は渡英後のヒロイン悦子(吉田羊)が、次女⋅ニキ(カミラ⋅アイコ)の取材に重い口を開き、しぶしぶ長崎での半生を語るという構成ですが、最終盤に、都合の悪い? もしくは自身で自身を許せない部分は、他人⋅佐知子(二階堂ふみ)の出来事のように騙っていた事が明かされます。正直に語れなかった動機は、渡英を拒んでいた長女⋅景子が、渡英後に自死してしまった事や、長崎で長女を充分愛してやれなかったという贖罪に起因する事も明示される。
ただ、本作のズルいというか、敢えて説明不足なのは、描かれた長崎での半生の内、どの部分が「夢」でどの部分が覚醒時に騙ったものなのかが判然としない処。長崎での過去のパートの後に、渡英後の悦子が目覚めた描写があれば夢で、次女に語っている場面があれば覚醒時の騙りと判断できる。配信されたり、DVDを手にしたら、その部分をチェックしながら観てみたい。
同じ嘘でも「夢」の中なら、自己防衛の為の無意識な自分自身に対する無意識な嘘だろう。一方、覚醒時の騙りは、長女に対する贖罪を次女に隠す為の自覚的な嘘であり、意味が大分変わってくる。母⋅悦子は若き自分が、夫(松下洸平)にも従順で、義父(三浦友和)にも優しく、友達の娘(鈴木碧桜)さえ気遣う大和撫子だったと思わせたかったのか? 離婚後解放された女として、長女を蔑ろにしていたかもしれない過去を、次女には隠しておきたかったのか? 長女の部屋にあれだけ物証が残っていたら、バレない方がおかしい気もするが、それでもありのままを証言する勇気がもてない程、悦子にはトラウマだったという事か?
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2. 貞淑な団地妻であり、解放された女であり、喪服の女でもあった?
種が明かされると、冒頭から悦子は、離婚前に団地にすむ裕福な妊婦(広瀬すず)としても、離婚して川岸の小屋に住まざる得ないシングル⋅マザーの「パンパン」(二階堂ふみ)としても同時に登場していたと分かる。
ここまでの解釈に異論はなさそうだが、問題は乳児を溺死させた「喪服の女」でもあり、川岸の子供の前でロープを手にする絞殺魔(誘拐犯)でもあったのか?という解釈。仮に本当に悦子が絞殺魔だったとしても、川岸の子供に近づく場面で、何故かロープが自分の周りにある事を、次女に意識的に騙る必要性がない。なので、ロープを手にする場面は夢と考えるのが自然。それでも、解釈は2つできてしまう。1つは、大方の解説記事通り、猫を溺死させてまで長女を渡英させて、自死に追い込んでしまった事への自己批判が、夢に現れた形。つまり、悦子が絞殺魔でもあったなんてbad endじゃない。ただ逆に、実際に絞殺魔であった過去を必死で忘れ去ろうとしていても、夢の中で繰り返し自身が自死を告発し続けているという解釈も完全には否定できない。未読なので原作のニュアンスは不明だが、本映画はそう匂わすように脚色されていた。
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3.神秘性を評価するか?
英語版のwikiによると、原作出版直後、The New York Times は "infinitely ... mysterious"と神秘性を評価している。映画版も長崎の風景や広瀬すずと二階堂ふみの表情は神秘性を秘めていた。ただ、個人的にはヒロインが絞殺魔だった可能性までありえてしまう終わり方にはあまり賛同できない。「私が原爆症だったら結婚しなかったか?」との問いに向き合わない昭和男からの解放という観方もできなくないが、解放後の自分を他人だと騙ってしまう程恥じていて、貞淑な団地妻が結局理想だったと思っている節もあり、もうちと明確なメッセージが欲しかった。
レトロな美しさ
どこまでが
主人公の回想ということで、妊娠中の主人公と、出産後に娘を育てる主人公が混在しているような感じかと解釈していますが、どこまでが事実でどこまでが夢なのかは分かりにくかったです。
死んだ娘に対する罪悪感が現れていると思いますが、殺人事件の新聞記事とか猫のくだりとかは事実だったのか、罪悪感を示唆しているのか。
明るさの中にも暗い影がつきまとう主人公の様子や、被爆した母子の生きづらさ、娘への罪悪感などは、やはり戦争の影響が色濃く理不尽でやるせないです。
回想シーンについては、主人公が下の娘に語っているものを映像で観ているということだとは思いますが。
映像を見ているこちらとしては、あの箱を見たタイミングで明確に二人が同一人物だと分かるのですが、話として聞いている下の娘も同じように分かったらしいというのは、やや違和感がありました。
箱の外観について細かく話していたとか、中身も見て察することが出来たという感じかも知れませんが。
また、主人公が意図的に嘘をついているのか、それとも辛い記憶が改ざんされているのか、下の娘に対して思い出話として話しているのか、あくまで夢の話として話しているのか、それも分かりにくかったです。
下の娘が主人公に対して、娘の死について主人公は悪くないということを言いますが、主人公の辛い過去や罪悪感は理解できるものの、娘の死の原因がよく分からなかったので、この場面もモヤっとするものがありました。
個人的には、序盤から友人役の二階堂ふみの演技が妙にわざとらしいため(そういう演出だと思いますが)、この友人は妄想なのではないか、途中からは二人が同一人物なのではないか、という点に注目し過ぎてしまったような気がするので、全体の印象がぼやけてしまったかもしれません。
終わらない被爆
ナガサキとグリーナム・コモン女性平和キャンプ
(末尾に追記)
長崎原爆を経験した女性がイギリスに移住、映画は1982年の娘ニキとの対話シーンと、過去の1950年代の長崎での生活のシーンとを行き来する。冒頭の、母と娘の会話の短いシーンにしか込められていないのだが、この作品の底に流れているのは、核兵器への強い否定の精神と、これと戦う人々、特に女性たちへの応援のメッセージだと言うのは、反核運動に関わる私の思い込みだろうか。
この映画と、有名な80年代の英国の反核運動「グリーナムコモン女性平和キャンプ」との結び付きは、冒頭の、ニキが当時始まったばかりのこの運動を取材していることの描写と居間のテレビのニュース画面、そして母・悦子と娘・ニキの短い会話シーンだけに過ぎないが、この二人の次のやりとりに凝縮されて、今の私たちに問いかけるものになっていると思う。
ニキ ナガサキに関する家族の回顧録を出版しないかって言われてるの。
悦子 誰がそんな話に興味があるっていうの?
ニキ みんなよ。今だからこそ ちゃんと伝えなきゃ。
悦子 グリーナムと長崎は全然別の話よ。
実は、このグリーナム女性平和キャンプについては、つい最近、事件から40年も経った2021年にフランスで1時間のドキュメンタリーが作られていて、翌年NHKが放映した。つまりこれだけ「古い」話が「今だからこそ」伝えるべき、と作者やNHKの担当者が考えたためだろう。軍拡や戦争の影が濃くなっている今こそ必要な作品だと思う。そのドキュメンタリーの拙ブログの紹介記事もご覧頂ければありがたい。
「NHKが放映した「核ミサイルを拒んだ女たち - 証言 グリーナムコモンの19年」がネット上にオリジナルで復活!」(ペガサス・ブログ版)
ナガサキの惨害を潜り抜けた登場人物たちの苦しみを考えれば、非暴力である限り、ありとあらゆる手段と行動で「核」をこの世界から除去しなければならないと思う。
10/21追記:この小説が出版された1982年はグリーナムコモン女性平和キャンプは始まったばかりで、時間的に小説の題材にはなり得ません。つまり、この部分は映画で初めて盛り込まれた内容で、しかもそれは原作者イシグロ自身の意図だったということです。
それでも前を向いて生きていく
公開から少し経った、日曜朝8時という上映回なのに結構お客さんが入っていた。
原作未読。
ザックリと「ミステリー」だということだけ把握して劇場へ。
戦後直後の長崎、そして30年後のロンドンを舞台に過去と現在を行き来する物語。
敗戦・被爆・性差別・妊娠…といった社会的環境による苦難の中で生きていく女性たちの姿が描かれる。
冒頭に「ミステリー」と書いてしまったが、ミステリーと言うには曖昧な表現が多く、直接的に回収されないパーツも多いので、そういう前提で観てしまうとモヤモヤするかも。
振り返ってみると、冒頭のシーンからいろんな伏線が張ってあることが分かる。
この主人公は、当時における「良き妻」に見えながら、決して戦後の男性社会の中で貞淑に生きていくことを良しとはしていない。
そんな、画面内で描かれること、話されることが、どこか一貫しない違和感。
これが最後の展開に生きてくる。
ただ、何にせよ全体として表現が曖昧なので、多様な解釈ができる、という意味では真っ直ぐエンタメ的な「ミステリー」とは言い難く、より「文学作品」に近い。
戦争という異常な時代を必死で生きてきた人々が後の世代に非難されたり、完全な被害者である被爆者が、同じ長崎の人々に差別されたり、女性は男たちの身勝手に振り回されたり。
それに抗うにせよ、飲み込むにせよ、人は前を向いて生きていくしかない。
表現は、ことさらに「映画的」。
ケレン味とも言える「溜め」「ズームアップ」「光」。
「うわぁ、映画っぽいなぁ」と思いながら観てた。
観た後の正直な感想は
「んんんん。つまり…どゆこと?」
でも、そんなわからないことが不快ではなく、思い出してパーツを繋げていく過程が楽しめるタイブの作品でした。
その辺りは好き嫌いが別れるかも。
【余談】
分かりやすく面白い映画より、こういうモヤモヤした感想の映画レビューを書く方が、記憶の整理ができるし、何となく思ってたことが文字化できた時の満足度も高いなあ。
掴みどころのない映画
戦争ってのは、全ての人生を狂わせる
戦後の長崎の当時最先端の団地でのお話と
その数十年後のイギリスの静かな地方の閑静な住宅でのお話。
最初は昔を懐かしむお話かと思ったら
観ているとだんだんに
あら?それって??どう言うこと???
真剣に観れば観るほど迷路に落ちてゆく映画(笑)
でも、観た後に、戦闘シーンも無い、空襲シーンも無い、
飢餓や大きな怪我も無い、一見平和な市民の話だけど、
戦争の無惨さ、原爆の非常さ、
戦争ってのは、全ての人の人生を狂わせる
その本質が、静かに立ち昇ってくる映画でした。
ぜひ映画館で集中しての鑑賞がお勧めです。
で、月に8回程映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
いろんな方が感想を書かれてる通り
なかなかにトリッキーな流れの作品。
豪華キャストでカズオ・イシグロの原作なので
映画好きは期待大で観に行かれた方も多いでしょう。
前半にも書きましがこの映画も「リアル・ペイン」と同じで
当事者でなけれな分からない戦争の傷痕の苦しさ、重さ。
戦争に直接触れていなくても、その惨禍は
深く人の思いを捻じ曲げ、捻じ曲がった状態で起きてしまった事実に
後年になってさらに傷つけられてしまう。
「戦争」に限らず、人生の一時期には
後で消せるものなら消してしまいたい出来事なんて
誰にも何かしらあるとは思うが
「戦争」と言う惨禍はあまりにも大規模で深すぎて容赦無い。
この作品はカズオ・イシグロ氏による反戦メッセージなのかな〜と
私は受け取りました。
覚書
2025年の夏は人生最初で最後の大イベント「万博」に全集中してたので
映画鑑賞が極端に減ってしまった。
今年もあと2ヶ月半、何とか残りは映画鑑賞頑張りたい!
原作未読で不安しかなかったが問題なし!
りんご取り放題
原作はかなり昔に読んだが、あまり覚えていない。川のあたりが暗く、不穏な雰囲気だったことだけ、うっすら記憶している。カズオ・イシグロの小説は一貫して、影のような暗さと、痛みや悲しみなどが感じられ、異国で育つ上で体験したことが反映されているのでは、と想像する。
イギリスの家や庭などはすごく素敵で、この背景で撮影されると、ほんと映画に没入できる。庭に生ってるリンゴをもぎ放題。いいなー。ジャムにコンポートにパイ、うわー最高じゃん。母と娘で食事しているところも、お料理がおいしそうで、映画の中に入って一緒に食べたくなった。室内の設えも素敵で、花瓶に花をさすシーンなど、さりげなくおしゃれだった。吉田羊さんがこの家の中で、ものすごく自然で、30年住んでるかのように溶け込んでいた。滑らかな英語も素晴らしい!
終戦後8年の長崎は、こんなにキレイだったのかな。復興はみんなでがんばっただろうが、ずいぶん小綺麗。若い悦子も、いい色でいい布地の服を、とっかえひっかえ着る、素敵な若奥様。なんでこんないい暮らしができてるんだ。まぼろし〜? 河原で暮らす佐知子も、建物はボロいが、けっこういい服を着てる。それに、茶器や花瓶などが高級そうで、ほんとこの人どうやって金稼いでるの、と思った。長崎の話は、なんだか現実感が薄めだった。あと、夜の河原で、あんなに早く走れないんじゃないかな。暗くて転ぶよね。昼間に撮影して、色を整えたんだろうな。
原作に謎が多いのだろうが、映画で解説しているように思えた。でも、謎はそのままでもいいんじゃないかな。わかりやすくするのが良いとも限らない。それに、別にイシグロの小説じゃなくてもいいのではないだろうか。なんでか自分でもよくわからないが、鑑賞後なんとなくモヤモヤしている。
被爆女性の生き方の一例と思われるが、目的と焦点がはっきりしない
1.はじめに:石川慶監督との相性:
❶石川慶は、幼少の頃から両親の影響で映画が好きで、東北大学で興味のあった物理学を学んだ後、映画監督を志し、ポーランドの国立ウッチ映画大学に留学し演出を学んだというユニークな経験を持つ。長編映画デビューは2017年(40歳)の『愚行録』。(出典:Wikipedia)
❷それ以降、本作まで計5本が劇場公開されている。9年間に5本なので、「量産」ではなく、気に入った企画を「一個作り」で丁寧に撮るタイプと思われる。
❸その全作をリアルタイム観ているが、全体の相性は「上~中」。
①2017年 愚行録 ★2017.02鑑賞85点。
②2019年 蜜蜂と遠雷 ★2019.10鑑賞80点。
③2021年 Arc アーク ★2021.07鑑賞70点。
④2022年 ある男 ★2022.11鑑賞85点。
⑤2025年 遠い山なみの光 ★2025.09鑑賞60点。
2.マイレビュー
❶相性:中。
★被爆女性の生き方の一例と思われるが、目的と焦点がはっきりしない。
➋時代と舞台:1982年のイギリス(サッチャー政権時代) & 1952年(原爆から7年)以降数年間の長崎。
❸主な登場人物
①緒方悦子〔1952年〕(広瀬すず、26歳):主人公。長崎市内で、夫の二郎と団地住まいの妊婦。戦前は小学教員で、授業中被爆するが、子供たちを救えなかったことが心の重荷になっている。悦子は一時期身を寄せていた元校長・緒方の勧めで、出征から帰還した息子の二郎と、被爆を隠して結婚して、今は専業主婦。娘・景子を出産後、二郎と離婚(多分被爆が理由)し、シングルマザーとして、通訳やうどん屋で働いて生計を立てる。
②緒方二郎(松下洸平、37歳):悦子の夫。傷痍軍人で右手の自由が効かない。会社員として忙しく働き、妊娠中の悦子を気遣う。父の誠二とは気まずく、自宅に誠二が訪ねてきても打ち解けない。
③佐知子(二階堂ふみ、30歳):悦子の親しい友人。団地の近くの川沿いの粗末な小屋で、娘の万理子と暮らしているシングルマザー。母子共、被爆している。英語が堪能で、アメリカに移住することを夢見て、駐留アメリカ兵・フランクと交際している。愛読書は「若草物語」。
④万里子(鈴木碧桜、9歳):佐知子の娘。いつも一人で遊んでいる。学校に通うシーンはない。悦子には心を開かない。野良猫を飼って世話している。
⑤緒方誠二(三浦友和、72歳):緒方二郎の父。悦子が以前勤めていた国民学校の元校長。旧時代の価値観を持ち、二郎との間には、葛藤がある。
⑥悦子〔1982年〕(吉田羊、50歳):長崎で再婚したイギリス人の夫に従って、二郎との長女・景子を伴ってイギリスに移住する。景子は、新しい環境に馴染めず引きこもりになり、幼くして自殺してしまう。イギリス人との次女・ニキは、都会暮らし。今の悦子は、夫も亡くなり、一人暮らしで、自宅の売却を決め、荷物を整理中。過去のことは口を閉ざしてきた。
⑦ニキ〔1982年〕(カミラ・アイコ/ Camilla Aiko、20歳代):悦子とイギリス人の夫の間に生まれた娘。大学を中退して作家を目指している。不倫相手の子を身籠っている。母の半生を綴りたいと考え、長崎時代のことを尋ねるが、母が語る物語に違和感を感じる。
⑧その他
ⓐ松田重夫(渡辺大知、34歳):緒方二郎の同級生で友人。恩師、誠二の紹介で高校教員になっている。
ⓑ藤原(柴田理恵、65歳):悦子が通ううどん屋の店主。妊婦の悦子を気遣う。
❹概要
①1982年のイギリスで、悦子(吉田羊)が目覚めるシーンから幕が開く。
②舞台はいきなり1952年の長崎に飛び、タイトルが出る。
③その後、長崎とイギリスが交互に描かれる構成になっている。
④1982年イギリス。郊外に建つ一軒家で一人で暮らす悦子のもとに、娘のニキ(カミラ・アイコ)が訪ねてくる。作家志望のニキは、長らく口を閉ざしてきた悦子の半生を本にしたいと、取材する。
⑤悦子は、ニキと数日間を一緒に過ごす中で、最近よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が30年前の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘・万理子の夢だった。
⑥1952年の長崎。妊婦の悦子(広瀬すず)は新夫の二郎(松下洸平)と団地住まい。食事の際、二郎の右手が不自由なことや、幼女殺人事件が起きていることが語られる。
⑦悦子は、川向こうの粗末な小屋で、娘の万理子と暮らしている佐知子(二階堂ふみ)と親しくなる。るシングルマザーの佐知子は、アメリカに移住することを夢見て、駐留アメリカ兵・フランクと交際している。
⑧佐知子は、フランクから、アメリカ行きの船を見つけ次第チケットを送るが、万理子が飼っている野良猫は連れていけないと言われ、猫を箱に入れ溺死させる。その夜、万理子がアメリカに行きたくないと家出するが、見つけた悦子がまず行ってみてから考えるよう説得する。
★このエピソードは、悦子と共に渡英した娘・景子が、新しい環境に馴染めず自殺したことと関連する設定になっている。
⑨その後の数年間のことは、詳しく描かれないが、悦子は景子を出産後、二郎と離婚(多分被爆が理由)し、シングルマザーとして、通訳やうどん屋で働いて生計を立てていることが示される。
⑩そして、舞台は1982年のイギリスに戻る。
★これまでの経緯から、悦子と佐知子、及び、景子と万里子とがリンクしているらしいことが理解出来る。
⑪悦子の取材を終えたニキは、家を売ることには大反対だと念をおして、都会に帰っていく。それを悦子が門の前で見送っている。
★映画一巻の終わりでございます。いささか疑問点や消化不良の面はありましたが、まずはお楽しみ様でした(笑)。
❺考察とまとめ
①原作が、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロが自身の出生地・長崎を舞台に27歳で執筆した長編小説デビュー作で、そのタイトルも:『遠い山なみの光』という、文学的なものだったので、大いに期待した。
②太平洋戦争の惨禍と、被爆をも乗り越えた、一人の女性の生き方が、1952年の長崎と、1982年のイギリスでのエピソードにより交互に描かれる。
③語るは1982年の悦子、インタビュアーは次女のニキ。
④すべてが悦子の視点になっていて、信じるか否かの判断や解釈は、観客に委ねられている。
⑤原作未読だが、映画を観た限りでは、「悦子と佐知子が同一人物で、1952年の佐知子は悦子の創作だった」ということが大方の解釈になると思う。この設定は良く出来ている。正解が明示されていないので、別の解釈でも否定出来ない。
⑥2人の娘、景子と万里子をリンクさせる脚本も良い。
⑦主人公・悦子が歩んできた、過去が明らかにされていく過程は、見応えがある。
⑧しかし、目的と焦点がはっきりしないのが残念。
回想の部分に、そのままの真実はない
老人の域に達するまで、明瞭に夢とか想像と表示・暗示されていない限り、映像はそのままの事実として受け入れることが、観客のマナーだと信じて生きてきた。生まれて初めて、監督の意図として、観客に明示せずに、主人公の回想として虚偽、事実の改変を突き付けた映画に遭遇したのが本作であった。60年以上も馬鹿で純朴な観客だったんですね。
戦後の女性たちの生きるための醜い現実は知っている。戦前から社交界にいたわけでもない日本女性が、真っ当な(世間から祝福される)形で嫁いでアメリカに移住することを強く願うとか、昭和27年にイギリスに行くという前提は、通常あり得ない。身を売るとかそれに近い商売でないと、英米人と関係を結ぶことはまず不可能だったはず。また戦後もずっと軍国主義信奉者から脱却できなかった元校長が、原爆で焼け出された元部下の女性教員を終戦から長らく支援し続けることも、息子とめあわせて幸福な家庭を用意することも信じがたい。伝統的映画と同様に時制や事実関係を重視するなら、映像化された、悦子がニキに語る多くのエピソードは、語れないグロテスクな事実を変形したものとしか思えない。特に暗い画像になった部分は、明るい映像の部分と打って変わって、おぞましい現実の羅列をしまい込んだものだった。明敏なニキは母に同情はしても、語られた内容は信じなかった。だが自身、不義の子供を妊娠した立場で母を顧みれば、子供(景子)を抱え苦難の人生を歩み、自分を育てた母の踏んできたであろう過去に深い敬意を持つしかなかった。私の中では一応そういう整理をしている。
「人」ってどの目線からで変わるんだなぁ
【81.9】遠い山なみの光 映画レビュー
映画『遠い山なみの光』(2025)専門家批評
作品の完成度
ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの処女小説を、国際的な評価を受ける石川慶監督が映画化という高いハードルを超えた、文学性と映画的技巧が見事に融合した作品。戦後間もない長崎と1980年代のイギリスという二つの時代・場所を舞台に、主人公・悦子の記憶の曖昧さ、そして隠された真実を巡るミステリーとして構築されている。信頼できない語り手による回想という原作の構造を、映像の「違和感」として観客に提示する手法は、映画ならではの成功例。特に、長崎パートで積み重ねられる不穏な空気や、現実と虚構の境界を揺るがす演出は、見る者に深い考察を促す。母娘の断絶、戦争の傷跡、そして人間の記憶の不確かさという普遍的なテーマを扱いながら、単なる文芸作品に終わらせないサスペンスフルな語り口が秀逸。物語の結末で明らかになる真実の衝撃度は高いが、それまでの緻密な伏線と俳優陣の好演によって、単なる「種明かし」ではなく、重層的な余韻を残す傑作となっている。第78回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門への出品は、その完成度の高さを裏付けるもの。
監督・演出・編集
石川慶監督は、『ある男』に続き、ミステリーの枠組みを用いながら人間の内面に迫る手腕を遺憾なく発揮。静謐でありながら緊張感を孕んだ独特のトーンを確立。1950年代の長崎の空気を写実的に捉えつつも、どこか幻想的で不安を誘う演出が巧み。回想と現在のパートを交錯させながら、徐々に真実へと迫る編集のリズムは計算され尽くしており、観客の集中力を途切れさせない。特に、悦子と佐知子が同一人物である可能性を示唆する終盤の演出は、言葉ではなく映像で衝撃的な真実を表現し、鳥肌が立つほどのカタルシスを生む。全編を通じて、感情の過剰な表出を抑え、俳優の佇まいや微細な表情、そして美術・照明を駆使して物語を語る抑制された美学が貫かれている。
キャスティング・役者の演技
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という三人の実力派女優を配したキャスティングは、本作の成功の大きな要因。三者三様の「悦子」の側面を担い、それぞれが極めて高いレベルで役柄を体現。
• 広瀬すず(緒方悦子) 1950年代の若き悦子を演じる。戦後の混乱期を生きる凛とした強さと、秘めた孤独、そして次第に見え隠れする異常性を複雑に表現。朝ドラのヒロインのような朗らかさの裏にある翳り、佐知子との交流を通じて生まれる感情の揺れを、繊細かつ大胆に演じきり、観客に「信頼できない語り手」としての違和感を植え付けるその演技は、キャリアの中でも屈指の完成度。その存在感と説得力は主演として申し分なし。
• 二階堂ふみ(佐知子) 悦子の回想に登場する謎めいた女性。退廃的で自暴自棄な雰囲気を持ちながら、娘・万里子に対する歪んだ愛情を見せる難役。広瀬すず演じる悦子と対照的な人物像でありながら、その深層で繋がっていることを予感させる佇まいは圧巻。わずかな表情の変化や台詞回しに、戦後のトラウマと必死に生きる女性の業を感じさせ、作品のミステリー性を高めることに大きく貢献。
• 吉田羊(1980年代の悦子) イギリスで暮らす老年の悦子。過去の記憶を娘に語る「現在の悦子」として、冷静沈着でありながら、過去の出来事に対する後悔や諦念を滲ませる。流暢な英語での演技や、過去の記憶を語る際の微妙な間の取り方、表情に宿る諦観は、物語に奥行きと切実さをもたらす。広瀬すずの悦子との内面的な連続性を感じさせる演技も見事。
• 松下洸平(緒方二郎) 悦子の夫で、傷痍軍人。戦争によるトラウマと家族への責任感の間で葛藤する姿を、静かな熱量をもって演じる。悦子との夫婦関係における緊張感や、父・誠二との不和を表現し、戦後日本の家族の姿を象徴的に示す。
• 三浦友和(緒方誠二) 悦子の義父であり、元校長。戦後の価値観の変化に戸惑い、苦悩する旧世代の知識人を重厚に演じる。悦子や元教え子・松田との衝突のシーンでは、戦争の傷と時代の軋轢を体現。その燻銀の演技は、作品に確かなリアリティと重みを与えている。
脚本・ストーリー
カズオ・イシグロの原作の持つ「信頼できない語り手」という骨子を忠実に抽出し、映画脚本として再構築。原作の持つ文学的なニュアンスを保ちつつ、ミステリーとしてのフックを明確に打ち出し、現代の観客にも受け入れやすい構成とした。戦後の長崎という舞台設定が持つ、原爆や戦争の影という重いテーマを、直接的な描写ではなく、人々の心と生活に宿る「暗闇」として描いた点が評価できる。悦子の語りの中に潜む矛盾や不自然さが、終盤の真実の提示へと繋がる構造は、脚本家としての高度な技術を感じさせる。
映像・美術衣装
1950年代の長崎の再現度が高く、生活感あふれる長屋や、バラック小屋のセット、路面電車の光景など、細部にわたるこだわりが強い。全体的に光と影のコントラストが印象的で、特に回想シーンのやや黄ばんだような色調は、記憶の曖昧さを視覚的に表現。美術は、戦後の復興途上にある街の生々しさと、悦子の家庭が持つある種の「体裁」との対比が際立つ。衣装は、登場人物の社会的地位や心理状態を反映しており、広瀬すずの和服姿の美しさと、佐知子のどこか奔放な洋装との対比も効果的。映像美が、物語の持つ重層的なテーマ性を深める役割を果たしている。
音楽
オリジナルスコアは、物語の持つ静けさと不穏さを増幅させる役割を担う。主題歌は設定されておらず、劇中のムードを重視した音楽設計。劇中、ニュー・オーダーの楽曲(曲名記載なし)の使用は、現代的な視点と戦後日本の光景との意図的な「違和感」を生み出し、観客を現実と虚構の境界に引き戻す効果を持つ。メロディよりもテクスチャーや音響で感情を表現するアプローチ。
作品
監督 石川慶 114.5×0.715 81.9
編集
主演 広瀬すずA9×3
助演 二階堂ふみ A9
脚本・ストーリー 原作
カズオ・イシグロ
脚本
石川慶 B+7.5×7
撮影・映像 ピオトル・ニエミイスキ A9
美術・衣装 美術
我妻弘之
アダム・マーシャル
A9
音楽 パベウ・ミキェティン B8
秘密を守ってあげたくなる心に残る名作
二階堂ふみさんをスクリーンで初めて観ることができて氣分最高というのは置いておき、鑑賞前から、ある程度ストーリーを知っていたため驚きはありませんでしたが、時代の再現度、神秘的な演出、斬新な音楽、秘密を明かしたがらない年配女性の心理、母の真実を知りたがる若い娘、終盤の黄色い牛乳瓶ケースのエピソード、赤ちゃんを川に沈める話の伏線回収、知的でありながら感覚に訴える要素が強めで心に残る名作でした。
タイトルの意味は、なんとなくアレのことかな、と思っていますが考察したり詮索するのが失礼な氣がしてしまうという、主人公の秘密だけでなく作品の上品さを守りたくなりました。
女性視点の戦前戦中戦後の作品に滅法弱いため、減点なしで満点評価です。
戦後の日本人の営みが今に通ずる
この時代の空気感を知る原作者が伝えたかったことが描かれているのだろう。
戦後まもなくしてイギリスに移った作者と同様に、この物語は進んでいく。
原爆が投下された長崎の戦後の復興もまた、力強さを感じられる。
戦後80年の節目に、この時代を色んな表現で描かれるが、悲惨な部分だけでなく豊かになりつつある人々の暮らしも見ることができて救われる気がする。
私は30年程前に10年間、長崎に住んでいたが、町や店がそのままの名前で映っていて、懐かしく感じた。
私の親世代は幼少期に戦争を経験している。健在のうちに色んなことを聞いてみたくなった。
謎多き女性・佐知子さんはアメリカにひとりで渡航したのか?
当時身ごもっていた娘が、自殺した姉だったのか?それとも?
私の理解力不足だと思うが、ちゃんと描かれていたんだろうけど疑問に残る点があった。
>>>
とここまで自分なりにレビューを書いたが、他者のレビューを見て疑問が解けました。ネタバレで皆さんにわかりやすく解説してくれて助かります。
原作と映画
原作、既読。
カズオイシグロ原作、石川慶脚本監督。
監督の映像化の力量が光る。
製作プロダクションに分福(是枝裕和監督)の名前も。
原作は読み易い文学作品。日本語訳も良く、巧みな会話が良い。
大胆な脚本の再構成も見事!
映画はミステリアスに、時にホラーチックに。
悦子の記憶が多層的である事を、原作よりもハッキリと描いている。
背景に戦後の貧しさと混沌、被曝の後ろめたさが流れている。
皆が、ナガサキから立ち直って行こうと希望を持って歩み始める清々しさ。繰り返し観る度に味わい深くなってくる。
映画のプログラムの最後の方にある。広瀬すずの白、吉田羊の黄、二階堂ふみの赤、それぞれが持つ花も象徴的。
広瀬すずの嗚咽、涙が弾ける。逆光の中で。
何とも美しい。映画史に残る名場面では。
「宝島」での慟哭と忍び泣きも見事だった。
異なる涙もそれぞれ良かった。
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