遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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純文学作品をエンタメ映画化するのは難しいと思いました。
・カズオ・イシグロ原作文学の映画化。
・原爆投下から7年経過した1852年の長崎での主役の悦子(広瀬すず)の場面と、主役がイギリスへ渡ったあとの1982年の悦子(主役は吉田羊に変わる)の2つの時代を並行的に描いている。
・悦子(広瀬すず、吉田羊)と佐知子(二階堂ふみ)の3人の発言内容が微妙にチグハグな感じが最後まで続きます。この部分がこの映画のミステリー要素と言えます。石川監督によれば「5回観ればわかります」とのこと。
・この映画のテーマは「長崎を離れイギリスに渡った悦子による、長崎時代の回想」には偽りがあるという事ですが、裏のテーマとして「長崎の原爆」があると思います。被爆地に居たというだけで「あそこにいた人」というレッテルが貼られてしまうこと、悦子は「あそこ」にはいなかったので、被曝者ではない立場で妊娠したことを喜ぶシーン、悦子の義父(三浦友和)が「原爆」が日本を敗戦させた事を嘆くシーンなどが登場します。
・鑑賞後は、難しい文芸作品映画を観たという感じで、感動するというものではなく、「あの場面はどういう意味だったのだろうか。」と考え込む状態で終わります。
・あと、主役級の登場人物が「架空」であったことが最後に判明します(「え~」という感じで驚きます)。
ある日本の町について
やはりカズオ・イシグロ一筋縄にはいかないって思った
英国と日本長崎の2重3重構造にからめとられそうでそうはならない
複雑な郷里 長崎への思いが二人の対照的女性の話しとして展開されるが、騙されては、いけないというおちとして提示されたものは意外な程シンプルだ
主人公は日本から遥か遠い、英国の地にいて、その心情は計り知れないが、娘へ話して聞かせる内容が、日本が復興へ向かい日本のそこかしこにあった戦争・原爆で変わり果てたある場所のこと
そこは長崎でもあるし日本のここかしこに見られた光景でもあるのだ
私が注目したのは、三浦さん演じる元校長への批判を取り下げない、教師の気骨だったが、この時代の若き教師の今また三浦校長として再生産される日本の不幸についてを憂うのみだ。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 久しぶりに“文芸映画”を観た印象。1950年代の日本映画から抜け出た様な二階堂ふみの装いと佇まい。ヒロインの心象風景の見事な映像化。そして拭い去れない戦争の傷跡…
《原作未読》
①原作はどうか知らないが(でもカズオ・イシグロは影響を受けた映画監督に小津安次郎の名前を上げている)、本作からは小津安次郎映画の匂いがした。石川慶監督は敢えて小津映画要素を取り入れたのかも知れないけれど。
②『遠い山なみの光』という邦題にはやや違和感あり(元々の『女たちの遠い夏』の方がまだピッタリな気がするけれど謎めいた感じは薄れるね)。だって原題は『A Pale View of Hills 』だもの。
長崎の原爆投下時の“閃光”を連想しないでもないけれども、そういうシーンや台詞もないし、“pale”ですからもっと薄暗いというか薄暮のイメージがある。
本作中にも悦子が佐知子が娘を探して草深い道を走るシーンとか、佐知子の家のシーンとか、夕暮れの薄暮の中で撮った様なシーンが多く且つ印象的。
ベルトルッチの『暗殺のオペラ』の名高い薄暮のシーンを思い出してしまった。
③しかし日本人だからだろうけどわかりにくい“pale”という英語のニュアンス。プロコム・ハルムの『青い影』の原題は『A White Shade of Pale』だし、アガサ・クリスティの『蒼ざめた馬』も原題は『The Pale Horse』だし。
*話は逸れるが「蒼(そう、あお)」には以下の様な意味やニュアンスがあるそうなので『A White Shade of Pale 』も『青い影』じゃなくて『蒼い影』の方がよりピッタリだったかも…
意味:
樹木が青々と茂った様子や、青空、遠い山々のような、くすんだ、生気のない青色を表します。
特徴:
生気のない、あるいは灰色がかった青色を指すことが多く、緑に近いニュアンスも含まれます。
と話が逸れてしまったが、本作における "pale"は(特に遠い)記憶の曖昧さや混濁を指しているのだろうということはすぐ分かるけれども、敢えて想像力を働かせれば記憶の書き換え(それも故意な)まで含めているかも知れない。
④何故悦子が渡英したか、何故景子が自死したのか、悦子と景子の本当の関係は?等等に関する真実は直接的には語られない(少なくとも本人の口からは)けれども、こういう映画の文法に富んだ映画を久しぶりに観た気がする。
⑤カズオ・イシグロ作品の映画化作品としては『日の名残り』も素晴らしかったが本作も記憶に残る作品となった(『私を離さないで』は未見)。
豊潤である、という尺度では今年のNo. 1
私は映画のパンフレットは滅多に買わないのですが、この作品は何の迷いもなく、鑑賞後すぐに購入。それは謎の部分が自分の解釈で合っているのか確認したいと思ったことと、何よりもこんなに素晴らしい作品を見たことの記念を残しておきたいと思ったからです。
そうしたら驚くことに、このパンフレットの中身もひとつの文芸作品のように味わい深いのです。まだ3/5くらいしか読んでないのにもう値段分以上に作品愛の感情が上乗せされています。
映画化プロジェクトは2020年に始まったそうですが、スタッフ、キャストそれぞれの思いがいかに化学反応を引き起こしてこれだけのモノに結実したのか。知るほどに作品の出来映えに納得するし、あらためて感動と敬意を覚えることになります。
『とても丁寧に作られた作品だと感じました。何より一つ一つのセクションの完成度が高い。』
(二階堂ふみさんへのインタビューより)
『想像した以上にミステリー仕立てで、これは一体誰の物語なんだろうと振り回される楽しみもありながら、登場人物たちの後悔や痛みがじりじりと迫り来るリアリティもあって。最後は長崎の悦子と佐知子の、時代を逞しく生き抜く美しさに思わず涙が溢れました。』
(吉田羊さんへのインタビューより)
以上は、パンフレットからの一部引用ですが、本当にその通りの映画でした。
【追記】(2025.9.6)
最近読んだ福岡伸一さんの著作(生命と時間のあいだ 新潮社)の中で、原作者カズオ・イシグロさんの発言について書かれていることを抜粋しました。この物語にも大いに関わりのある〝記憶〟についての発言です。
・記憶とは、法廷における頼りにならない証人のようなもの
・人は自分自身の必要に応じてものごとを記憶するが、そこには、その時々の状態が反映されている
・記憶がそのような頼りないものだからこそ、作家として心奪われる
・記憶とは死に対する部分的な勝利なのです
人間はどんなに抗っても死には勝てないけれど、悔恨であろうが、喜ばしいものであろうが、恣意性があろうとなかろうと、記憶というものがあるからこそどんな人間のどんな人生にとっても生きている証であり、支えでもある。
そんなふうに考えて、この映画を見直すとまた新たな発見や解釈が生まれてくる。そんな豊潤な映画です。
どう解釈したらいいのだろう
長崎の女たち
原作の「遠い山なみの光」はノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの処女作ですが、最初は「女たちの遠い夏 」というタイトルだったそうな。この「遠い山なみの光」の光こそ長崎に落とされた原爆の光かな?と思うのですが。
舞台は1952年の長崎と1982年のイギリスで場面転換をしながら進みますが、冒頭数分で?????といろいろな疑問が出てきます。観ている私達にいろいろな想像や連想をさせるのはなかなか楽しいものでした。広瀬すずが30年後に吉田羊に成長するのは、観ているうちに「案外似てるやん」などと思えるのが面白かったです。広瀬すずも、二階堂ふみも、吉田羊もそれぞれ美しかったです。
「川向い」という言葉が何度か出てきます。川で隔てられた対岸は異国って考え方はわからなくはないのですが、そこに差別的な思いも見え隠れしてあまり好きではありません。「三途の川」を出すまでもなく、昔々から仏教徒にとっては川向うは禁足の地である異国なのかもしれません。
三浦友和、松下洸平が演じた「緒方父息子」について色々と突っ込みたいところですが、ネタバレにもなりかねないので。
広瀬すずの出演映画は今年3本目。もうすぐ大作「宝島」も公開されます。
ツッコミどころが無い
そうはならんだろう、
それはないだろう、
都合いいな、
いささか、ひねくれておりますので見終わったらそう思う事が割とあり、批判的な眼で感想を言うことで解ったような態度を取って偉そうにしている。
この作品はそんな気を一切起こさせない。
小津作品のような印象を持ちました。
これが「良質さ」かと思いました。
令和のコンプライアンスに昭和育ちが戸惑い変わらなくちゃと言われます。おそらく1945年とその後では想像を絶する大転換だったのでしょう。
親の万歳はお国の為、教育ではなく洗脳だった、
被爆者なら結婚しなかった?
印象的でしたね。
戦争を知らない子供たちなのです。
たくさんの希望があった、そして彼女は手に入れたのだろう、しかし失ってしまった物もあった。
幸せな人生って何でしょうか?
wiki予習が
正解。作者のルーツ、事実上の処女長編作。
自問自答は自分自身が引き裂かれたって事か。あまりにも深い傷で、今だに血を流している日本人って事か。タイトルはピカドンの事なのか。
広瀬すず、凄絶な美しさ。腰回りに貫録が♥
オープニング、エンディングに凄い違和感のUKサウンド。ジョイディヴィジョンでなくニューオーダーだったのは意図あり?
説明が足りない気が
圧倒的な映像美に打ちのめされた2時間
日暮れ間近な暗い空が煽る不安感、夕焼けが照らす孤独、晴れ晴れとした夏の日差し。
レトロなファッションに身を包んだ広瀬すずと二階堂ふみの輝くばかりの美しさ
イギリスの家に設えた日本風な庭に降り注ぐ雨
ドキドキするような弦楽器の重低音
長崎なまりで語られる古風な言い回しのセリフ
スクリーンに映し出された圧倒的な映像美に打ちのめされた2時間でした。
原作未読で映画を鑑賞したので予備知識ゼロでストーリーを追っていると…終盤で突然足元が崩れ落ちるような不安感が観客を襲います。
これまで自分が観ていたものは何だったのだろうか?
天地がひっくり返るような胸騒ぎ。
戦争は日本人から何を奪ったのか?が原作のテーマだと思いますが
映像の世界では難しいテーマを追うよりも、スクリーンに映し出された凄まじいまでの美を存分に堪能することに夢中でした。
ちょっと早いですが本年ベストかも。
嘘オチ?
馬鹿正直に生きてきたんで馬鹿正直に書きますね
結局ほとんど嘘ってことでしょうか?
映画はたとえフィクションでもそこにそう言う世界があるんだと思い主人公などに感情移入しながら楽しむもんだと思ってたんですけど
「被爆してたら結婚してましたか?」や
「日本は原爆に負けた」
とかも妄想で
夫や義理の父親もいない
広瀬すずをおばさん呼びするクソガキもいない
木登りで蹴り落とされて広瀬すずにめっちゃディスられてたぽっちゃり男子もいないんですか?
存在するのは虚言癖のおばさんとその娘だけあとは作り話な感じで難しいですね
最後まで飽きずに見れましたし馬鹿正直にまわりに流されるタイプなので星5にしますね
予想外のミステリー作品
まさかのミステリー作品で正直おどろいた。全くの予想外。
ある意味戦争映画なので、戦後7年の時代感、そこに残る差別、昭和の家父長制、
価値観を変えられない人と変わらなきゃと考えている人、
当時のキツさを感じながらも、広瀬すずと二階堂ふみの美さに見惚れながら
集中力を欠くことなく最後まで観ることができた。
悦子は佐知子であり、万里子は景子だった。
娘ニキに昔語りをする悦子だが、そこには自分の都合の良いように、
改変しながら話していたことがラストでわかる。
やはりニキが景子の部屋に入ってわかる事実が衝撃的だった。
映像の美しさも目を見張るものがあった。
CGをつかった擬似背景など違和感もあったが、
広瀬すずと二階堂ふみの演技がそれを凌駕していた。
もちろん、吉田羊、三浦友和、松下洸平も素晴らしかったのだが。
女性の力強さを感じる前向きな作品と捉えた。
なかなか出会えない風味の映画だ。
赤い空
文学ミステリー
戦後のトラウマを抱えた人の苦しみ
ゾクっとするシーンや
月明かりの世界が幻想的
衣装も素敵
三浦友和さんが
さらにイケ爺で眼福
戦争で幸せになれる人は少ない
ファイトクラブ
考察向き
まず、映画のタイトルが漠然とし過ぎていて、何度聞いても覚えられません。
内容は、全体的に謎めいていて、観終わった後に、他の方々の考察を読むのが楽しいです。
終盤のどんでん返しには、「ビックリ!」というよりも、「ということは…?」といった感じで、ジワジワ味わうといった感じでした。
久々に面白い作品に出会えました。
静謐な記憶の深淵
■ 作品情報
監督・脚本は石川慶。原作はノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの長編デビュー作。主要キャストは広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、松下洸平、三浦友和。日本、イギリス、ポーランドの3カ国共同製作。
■ ストーリー
1980年代のイギリスに住む日本人女性・悦子は、疎遠になっていた娘ニキの訪問を受ける。長崎で原爆を経験し戦後イギリスへ渡った悦子だが、その過去を娘に語ることはなかった。夫と長女を亡くした悦子は、ニキとの数日間の中で、最近よく見る夢について語り始める。それは1950年代の長崎で悦子が出会った、佐知子という謎めいた女性とその幼い娘との記憶だった。ニキは母が語る物語にしだいに違和感を覚えるようになり、戦後の長崎と現代のイギリス、二つの時代を舞台に、女性たちの記憶に隠された嘘と真実が紐解かれていく。
■ 感想
冒頭から心を落ち着かせるように、物語は静かに展開していきます。大きな事件が突如として起こるわけではなく、ゆったりとした時間の流れの中で、登場人物たちの日常が淡々と描かれていきます。決して悪くはないのですが、仕事帰りの鑑賞だったため、ちょっと意識が遠のきました。
しかし、物語が中盤に差しかかる頃から、その静けさの奥に不穏な気配が少しずつ漂い始めます。主人公・悦子の裏側に隠されたどこか謎めいた雰囲気が、漠然とした不安を感じさせるとともに、これから起こるであろう何かを期待させ、徐々に作品世界に引き込まれていきます。
そして、序盤からさりげなく提示されながらも明確な説明がなかったピースが、まるでパズルのように少しずつ繋がり始める瞬間は、ちょっとした鳥肌ものです。佐知子の意外な正体が明らかになった時、それまで悦子が語っていた出来事が、全く異なる意味をもって迫ってきます。特に、物語の核心にありながら終盤まで伏せられていた長女の死の真相との関連を想起させられた瞬間は、物語の構成の巧みさに衝撃を受けます。自身の行動が長女を死に追い詰めるほど苦しめたと考える悦子の強い自責の念が、ひしひと伝わってきます。
本作は、一人の女性が住み慣れた家を手放すことを機に、自身の半生を振り返り、心に秘めていた後悔や反省と向き合い、それを誰かに語ることで懺悔とし、新たな一歩を踏み出す再生の物語のようにも感じられます。感情の機微を繊細に描き出す演出は、観る者の心に深く訴えかけてくるようです。
正直なところ、集中が途切れてしまい、いくつか細部を見落とした箇所もあるかもしれません。手紙の文字や写真の裏書きなど、目が悪くて見逃した情報もあります。また、回収しきれていないように見える伏線や、メインストーリーとの関連性が掴みにくい描写もいくつかあったように思います。こんな感じで、理解不十分なところも多いので、機会があればもう一度観直してみたいと思います。
射的プロ
1982年イギリスで、出版社で働く友人からのオファーで長崎の記事を書くと言う娘に、長崎出身の母親が長崎の怖い夢の話しを語って行くストーリー。
1952年長崎は、とりあえず広瀬すずがが若かりし吉田羊な訳で、そこに被爆母娘が絡んで行くけれど、序盤から違和感有りまくり。
そして佐知子の仕事がーアメリカがーって…。
なんとなくそうだよね…?と感じてしまうと、繋がったところでやっぱそうだよねぐらいにしか感じられず、更にはなんでこんなに回りくどく娘に話しを…と狙い過ぎに感じてしまい、本質の心情部分よりもそれが強くて響かず。
母親が書いた小説とか、そういう設定ならもうちょい納得感あったかもな〜。
原作者お墨付きの謎解き
原作を読んだ時点ではーー
佐知子はなんだか嘘ばっかりついてないか?と思わせる台詞が多く、
娘の万里子への当たりもキツすぎるんだが、
その実、悦子も明らかに嘘をついている場面があり、
そう考えると、万里子への接し方も含めて、悦子の一人称語りをどれだけ信用できるのか分からなくなる。
そうして頭がクラクラしてきたところで、
なんの謎解きもないまま、話は終わる。
1950年頃、長崎で長女景子を妊娠していた悦子が、
それから約30年、最近景子を失うに至った経緯は、
ほとんど何も明かされない。
こちとらのアタマの中でも、
過去の悦子と現在の悦子が同一人物だという気がせず、
むしろ佐知子が今の悦子?そして万里子が景子?とか妄想したり、
ハテナがいっぱい。
これってホントに完成形?とすら思う。
映画では、いったいどうするんだろう。
ふつうに撮るだけでは収まりがつかないんじゃなかろうか、と
余計な心配などしたりしていたんでありますが、
映画を観てーー
映画は、原作のエピソードをベースに、
(1) 人物設定の要素を追加/変更し、
(2) 日本(人)ならではの視点を加え、
そしてなんと、
(3) 謎に対する回答を提示した。
しかも、エグゼキュティブ・プロデューサーに
カズオ・イシグロの名が。
ということはこの回答/解釈は、
唯一とは言わないにしても、
原作者公認、ということになる。
(1)は、
原作では大学に入学していないニキが、
映画では大学を中退してライターしてたり、
原作にはなかった結婚願望を持ってたり。
正直、変える必要ある?
(2)は、
若き英国人たる原作者は思い及ばなかったのだろうけれど
戦後間もない長崎の日本人なら当然
こう言ったり思ったりするだろう、という設定の追加。
これはまあ、納得。
そして(3)がびっくり。
万里子は景子で、
佐知子は悦子の分身であり、虚構
だってんだから、ブッ飛んだ。
しかも、原作者お墨付き。
いやあ、そういうの、ありなのね。
おかげでワタクシは、
原作読後のモヤモヤが、スッキリ晴れたのであります♪
なお、
悦子/佐知子を演じた3人の女優さんの演技は、
それはもう、見事でありました。
【追記】
原作についてもう一度考えてみた結果、
佐知子と万里子は1960年頃の悦子と景子である、
という結論に至りました。
映画も、そういう見方で齟齬はなかろうかと。
全424件中、361~380件目を表示
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