遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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人の記憶の不確かさ
大学の卒業論文がカズオイシグロだった者です。
カズオイシグロの作品のテーマは「人の記憶」なんです。それも「人の記憶の不確かさ」です。
誰もが現実を受け入れられない時に自分にある種の嘘をついて生きている。その嘘は生きるために必要なものなんです。それが悪いのかというと、視聴者に考えさせるかのように、過去の自分を時代に合わせて捉え直さずに生きようとすると周囲と衝突する事もとある人物を通して描かれています。
前提として、エンターテイメントではないので説明的なカットやセリフは少なく文芸のように読解する必要があります。小説の場合、語り手が一人称なのか二人称なのかに着目して読む必要があります。そうではないと読んでいる方が騙されてしまいます。え?どういうこと??とページを遡りながら読む必要があるんです(これも楽しみなのですが)逆に過去の自分がした事を時代に合わせて捉え直さずに生きようとすると周囲と衝突してしまいます。とある人物と対照的に描かれていますね。
芥川龍之介の藪の中、フォレスト・ガンプのように小説や映画などの物語において、語り手(ナレーター)の信頼性をあえて低くすることによって、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりする技法です。この語り手は、たとえば精神疾患や記憶の欠落、強い偏見、悪意によって意図的に事実を歪める、あるいは自覚なく誤った情報を伝える場合があります。
こういう作家が現れるからノーベル賞に文学がある理由です。人類を進歩させた、言い換えると「人は何をする生き物なのか」にまた一歩近づいたと言っても過言ではないと思います。
映像化されると聞いてどうするんだろうとずっと思っていました。広瀬すずの演技無しに決して成り立たない作品だったと思います。
アメリカなのにイギリス?
予備知識が全くない状態で鑑賞したため、ラストで頭が大混乱した。ただ、イギリスにいる女性が誰であるかをそのまま受け取ってしまったとしても作品としては、とても見応えがある。
長崎に落とされた原爆がもたらした壊滅的な被害は、原爆後遺症だけでなく、被曝者を差別するという社会的な分断を生む。
戦後社会の影の部分が、食堂でのシーンなどで語られる。また、悦子の義理の父親が戦争に積極的に関わった教育者として、教え子から糾弾を受けることも描かれるが、思想の面裏がひっくり返ったことに気がつかないというか、理解したくないであろう。
わからないことが多すぎるので、ChatGPTに6ターンくらい解説をしてもらって全容が理解できた。
世界線が複数あることについては、自分が感じた通りだったが、その他については脳内で再生してようやく腑に落ちた。
理解できないとしても、聞かずにはいられないストーリーテリングで物語が語られるし、ショットが惚れ惚れするくらい美しい。
ざます言葉が出てきそうなくらい二階堂ふみの際立つ上品さに圧倒される。娘を愚弄する男への啖呵の切れ味もすごい。
難解だけどオススメでございます。
ネタバレ厳禁
体と心の共有
広瀬すずファンと言う事で鑑賞。
正直冒頭から一時間半は実に眠かった。
これどうやってラストを迎えるのか?と興味が出きて、あぁそう来るのね、と中々複雑なラスト。
終わってから色々と考えさせられて中々腑に落ちない。
これは考察と言うより、それぞれが感じた事で終わらせて良いんじゃ無いかと。
あの戦争の混乱の中食べて行くのもやっとの時代を生き抜いていた時代、ましてや当時弱者の女性、子供がいかに虐げられていたか。
悦子、佐知子、万里子、誰が実在し、誰が空想とかでは無く登場人物全員が存在し、みんなで意識を共有してると私は感じました。
二郎を旦那に持ち、子を授かり、周りから見れば幸せそうに見える悦子ですら、あの時代は女性は下に見られ旦那に尽くすように言われる。
当時、子供を捨てたり、我が子に手をかけたり、子供を取り違えたり、子供をさらったりと、とんでもない時代に生きた人達を描き、復唱になるが、誰が誰と言う話じゃなくて、みんなの意識と体を共有してると私なりに解釈しました。
あと原爆の差別の事を思い出した。
私事なんですが、当時広島の方と知り合いお付き合いする事になった。
付き合い間もない頃、彼女から私の家族は被爆して無いと言われた。
そうなんや、と特に気にする事も無かった。
数ヶ月過ぎ、彼女の実家まで行く用事があり、親御さんと初めてお会いし挨拶して話していると、私共家族祖父母は被爆してませんと伝えられ、そこで気づいた。
その頃すでに戦後60年以上経っているのにもかかわらず、私がそこを気にしてるんじゃ無いかと親御さんが伝えてくれたんだと。
親御さんにそう思わせてしまう自体、まだ暗黙の被爆差別がずっと今も続いてるんだなぁと。
静かな映画だったが、一生忘れる事のない作品でしょう。
解釈
外国の賞に出すためのお手本のような作品
原作は海外でも著名な作家。
出演俳優は実力派を揃えた。
舞台は広島ではなく、ニッチな長崎。
日本は女性の社会参画指数が低い国。
日本は変わる必要がある。
そんな既存の声に寄り添う手間暇のかかったクソ作品だった。見る人全員を馬鹿にしてる。
背景は明らかにCGだし、合成であることは一目でわかる。「手間暇のかかった」のとこも嘘かもしれない。
原作を知らないが、おそらく、信頼できない語り手、叙述トリックを使ったミステリーを映像化したのだろう。困惑しかない。ああ、そういやこいつが語り手やったな、ってならせる余韻がない。小説だと余韻は読み手が作れるけど、映画だとそれができない。
こういうのは裸の王様が作るんだろうなと思う。反面教師にしたい。
面白かった、でも想定外の難解作・・・
観終わっての第一印象は、
“デヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』(2001)みたい”だった
決してあんなホラー要素は無いし、精神分裂云々ということではないんだけど、綺麗なお姉さん2人が主役、終始不穏なBGMが流れ続け、薄暗い画も多く、後半のセンセーショナルで難解なストーリー展開というのが何となくあの作品を想起させ、グイグイ引き込まれました
独特な映像世界も楽しかった
特に人物を大写しで捉えたショットがとても美しく印象的、長崎パートは意図的に背景がCGで作り込まれ、異世界に引きずり込まれるという意味ではとても効果的な映像美だったと思う
とにかく広瀬すずさんがすごく綺麗で魅力的、よくあるエセ訛り台詞じゃなくて、長崎言葉がバッチリ合っていてビジュアルも耳も含めて完璧な眼福にとても心地よかった
二階堂ふみさんの演技も良かった、口調やセリフ運びがとてもレトロな演技で相当昔の映画を観て勉強したのかなという印象、素晴らしかったです
その他 吉田羊さんが英語メチャ上手い
松下洸平と三浦友和は何だったんだー!というほどストーリーとの関係性が理解できなかった
おおおおおー
だから、生きてこれた
??…。
………。うーん…?
観賞後3時間、やっと少し言語化出来てきた。
受け止めきれない、持ちきれない。そんな辛いことを忘れられない、捨てられない、ならどうしよう?!
そこで彼女は、記憶を操作しつなぎ合わせ、共に歩めるストーリーを、1つだけのウソをついて、作り上げたのかな。 希望とともに。
戦時中教育の後悔、大切な人との別れ、被曝差別、男女差別。
戦争中じゃなく、終わった後にも襲ってきたどうしょうもない辛さ。
あの当時こんな思いをすべての日本人が、多かれ少なかれしていたと思うと…言葉がうかばない。
そう、あの時、すべての日本人が変わることを求められたのだろう。
生き続けるために日本から逃げざるおえなかった母と、日本に残りたかった娘。
どちらも罪など無いし、お互い努力したように思えるが、距離は埋まらなかったのか、悲しい結末に。
先日長崎の映画を観たばかりだし、朝ドラで、戦時教育の問題も見てきたので、身近なテーマに思えた。
この映画のさまざまな捉え方は、すべて否定せず尊重する上で、私が受け取ったモノも書いておきました。
見ごたえのあれ作品
なんじゃこりゃ
上映後消化不良になった頭を余韻に浸りながら自分なりの解釈をする。とても上質な時間を得ることができる作品。
衝撃的でした
最後の最後に、子供のセリフで、「イギリスには行きたくない」とあったときに、鳥肌がたちました。
そして、また、もう一度観なければ、と強く思いました
こんな体験初めてです
役者の皆さん、一人ひとりの演技も素晴らしく、最高です
カンヌへ二階堂ふみが行かなかった《謎》が解けました。
観て分かりました。行かない訳です。
二階堂ふみがカンヌ国際映画祭のワールドプレミアに居なかったことに
とても違和感を感じていました。
つまりそれが、この映画の最大の《謎》でした。
最後の最後まで騙されましたね。
川を挟んで向かいに立つ高い丘に高層の新興団地がある。
団地には悦子(広瀬すず)が夫の緒方二郎(松下洸平)と平穏に暮らしている。
悦子は身重で家のベランダから遠くに見える川下の粗末なバラックに住み、
米兵を家に誘い入れている派手な服装の佐知子(二階堂ふみ)の様子を
気にかけている。
佐知子には幼い万里子(鈴木碧桜)という娘がいる。
その万里子が行方不明になったと佐知子が駆け込んでくる。
付近では少女絞殺事件が3件も発生している。
二郎の同僚たちの客を放り投げて、悦子は万里子を探す、
えっ、アレっと違和感。
佐知子はアメリカへ渡ることを夢見ていて、荷造りをしており
もうすぐ神戸から船に乗るつもりでいます。
この映画は1952年長崎の悦子を広瀬すず。
イギリスに渡った1982年の悦子を吉田羊が演じている。
1982年の悦子は長女の景子の自殺に傷つき、ベッドでは眠れず、
居間のソファで仮眠を取り悪夢にうなされている。
そんな時、文筆業に踏み入れた次女のニキが、母親の長崎から
イギリスに渡った日本女性の回想を書く依頼を受けて、
「ママの全部が知りたい」と取材を始めるのです。
ニキを演じるカミラ・アキコが実にチャーミング。
美しいし聡明だし演技の基礎がしっかりしている。
そうして、長崎時代の悦子の人生を振り返る回想場面がとても多い映画です。
原作者のノーベル賞作家カズオイシグロは1954年長崎に生まれていました。
1960年にイギリスに移住して、帰化。
1985年に書いたデビュー作がこの「遠い山なみの光」
発表当時の題名は「女たちの遠い夏」だったのも、意味がありますね。
長崎は1945年8月9日午前11時2分。
原子爆弾が広島に次いで2番目に投下された都市です。
一瞬で7万人以上が死亡しました。
生き残った人も一様に傷つき必死で生きようとしている1952年。
その長崎ですら被爆者への差別が存在しているのには正直言って
驚きました。
二郎は悦子が被爆してしなくて良かった・・・と妊娠を受け止め、
悦子は「私が被爆してたなら、結婚しなかった?」と、
問うのでした。
如何にも従順でお淑やかで危なげない悦子。
それに対して佐知子はバラックで派手に着飾り、ロイヤルコペンハーゲンの
紅茶セットで悦子をもてなす、夢見がちな女性です。
けれど娘の万里子は汚れた粗末な服装に、腕にはケロイドのような
傷跡さえある。
悦子の生活に突然割り込む二郎の父親・緒方誠二(三浦友和)は、
軍国主義の高校校長で未だに自分の過去を反省などしていない。
《3人の女》と娘が2人。
1952年の悦子と佐知子。1982年の吉田羊の佐知子。
そして万里子は、実はイギリスに連れて渡った悦子の長女。
万里子と景子は同じ子供です。
そしてイギリス人の父親に生まれた悦子の次女がニキです。
イギリスの田舎の悦子の家は日本風の庭を持つ西洋建築。
とても居心地の良さそうな素敵な家。
対して1952年代の長崎はケーブルカーもできて、市電も走り
たった戦後7年で、見た目は力強く復興している。
もしか悦子が1952年にイギリスへ渡っていたら、
《日本人に当時のイギリス人の風潮は決して優しくは無かった》
との会話があります。
ここで大きな種明かしをしてみれば、
佐知子(二階堂ふみ)イコール・悦子(広瀬すず)
万里子イコール景子。
佐知子は居なかったととも言えるし悦子もいなかったとも言える。
2人で1人の同一人物であるとともに、あの長崎の原爆を経験した
不特定多数の1人である女性像だと私は思います。
2人とも創作の上で生まれた戦後を生きて海外へ渡った日本女性の
モンタージュでありメタファーであり架空の人物なのです。
そもそも映画も小説もフィクションですから、登場人物は
架空の存在です。
しかし原作者のカズオイシグロの小説を映画化した石川慶の脚本は
素晴らしいし、1952年の長崎を再現した映像は、懐かしい昭和そのもの。
セピア色がかった暖色系の夕刻の市街地が本当に美しい。
橋の下の佐知子と新興団地の悦子との格差を映像で際立たせ、
広瀬すずという芯が強く美しくブレない真っ当な女。
対して米米兵を受け入れ、派手な生き方で眉を顰められる二階堂ふみの
現実にもがき打破しようとする強い女性像。
その2人が1人だなんて。
本当に驚きました。
かなりのサプライズでした。
しかし前述した通り、悦子も佐知子も戦後の長崎を生き抜いた女たちの
不特定多数の集約だと思います。
そして石川慶監督は人物に生命を吹き込むことに成功。
悦子も佐知子もニキも万里子も、登場人物が現実として生きて
その人生を暮らしていました。
創作上の人物に原作以上に膨らませて味付けした石川慶監督の
演出は冴えわたりました。
佐知子と悦子が同一人物と、ラストで知った時、
熱い涙が込み上げて、なんとも言えない感動に震えました。
誰でも話したくない過去がある
抽象的な映画が好きでない方には好みではないかもしれないが、映画の雰囲気を味わうことが好きなら、とても好みの映画なのかと思った。
わたしは好きだった。
「映画を観てる」という感覚になった。
最後の解釈は他の方のレビューを見てなるほどと思った。
原作は読んでいないので、あくまでもわたしの解釈ですが、
戦後の人々は、希望を持って戦った最後に原爆を落とされ、敗戦した。
その後は何に希望を持ったらいいかやり場のない気持ちをかかえ、変わらなせればならず、変わることができない。
そんな中に主人公は、(想像だが)被爆者ということで子が産まれた後に観念的な夫と離婚することになり、やっと見つけた働き先でも客から差別を受ける。そしてアメリカに希望を持ち、アメリカなら変われると信じていたのかもしれない。
しかし、望み通り長崎から離れられても子どもは馴染めず自死という結果になってしまった。
後悔と懺悔の思いから、架空の女性を作り出し投影させていたのかもしれない。
物語と同じように葛藤や過去の自分を肯定したいときに、心にもう一人の自分を作り出し、対話を繰り返す人がいるのではないだろうか。
明るい映画ではないが、感傷に浸れる映画だった。
もう一度観ようかなとも思った。
余談だが、映画が2,200円の時代になった。通常料金では気軽に何度も観ることができないな。
純文学作品をエンタメ映画化するのは難しいと思いました。
・カズオ・イシグロ原作文学の映画化。
・原爆投下から7年経過した1852年の長崎での主役の悦子(広瀬すず)の場面と、主役がイギリスへ渡ったあとの1982年の悦子(主役は吉田羊に変わる)の2つの時代を並行的に描いている。
・悦子(広瀬すず、吉田羊)と佐知子(二階堂ふみ)の3人の発言内容が微妙にチグハグな感じが最後まで続きます。この部分がこの映画のミステリー要素と言えます。石川監督によれば「5回観ればわかります」とのこと。
・この映画のテーマは「長崎を離れイギリスに渡った悦子による、長崎時代の回想」には偽りがあるという事ですが、裏のテーマとして「長崎の原爆」があると思います。被爆地に居たというだけで「あそこにいた人」というレッテルが貼られてしまうこと、悦子は「あそこ」にはいなかったので、被曝者ではない立場で妊娠したことを喜ぶシーン、悦子の義父(三浦友和)が「原爆」が日本を敗戦させた事を嘆くシーンなどが登場します。
・鑑賞後は、難しい文芸作品映画を観たという感じで、感動するというものではなく、「あの場面はどういう意味だったのだろうか。」と考え込む状態で終わります。
・あと、主役級の登場人物が「架空」であったことが最後に判明します(「え~」という感じで驚きます)。
ある日本の町について
やはりカズオ・イシグロ一筋縄にはいかないって思った
英国と日本長崎の2重3重構造にからめとられそうでそうはならない
複雑な郷里 長崎への思いが二人の対照的女性の話しとして展開されるが、騙されては、いけないというおちとして提示されたものは意外な程シンプルだ
主人公は日本から遥か遠い、英国の地にいて、その心情は計り知れないが、娘へ話して聞かせる内容が、日本が復興へ向かい日本のそこかしこにあった戦争・原爆で変わり果てたある場所のこと
そこは長崎でもあるし日本のここかしこに見られた光景でもあるのだ
私が注目したのは、三浦さん演じる元校長への批判を取り下げない、教師の気骨だったが、この時代の若き教師の今また三浦校長として再生産される日本の不幸についてを憂うのみだ。
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