遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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いくつかの謎が気になる
予告から気になってた映画で鑑賞しました!
日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ。彼女は、戦後長崎から渡英してきた母悦子の半生を作品にしたいと考える。娘に乞われ、口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。それは、戦後復興期の活気溢れる長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。だが、何かがおかしい。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着く──。
というのがあらすじ!
80年代の悦子から50年代のことが語られるですけどもしかして佐知子と悦子が逆かなと思ってたました
そんなことはなかったですね…
途中から万里子が景子だとわかったんですけどいろいろ謎が…
佐知子も悦子ってことでいいのかそれとも違うのか?
佐知子が悦子なら二郎が前の夫なのか?
二郎だとして二郎は離婚したのかそれとも亡くなったのか?
それに紐が何回か出てきてそれは連続殺人の関係あるのかも気になる…
よくわからないことがいくつかあってU-NEXTに動画あってたので映画を観る前に観るべきなんですけど何かわかるかなと思い観ました
5つのヒントがあったんですがその一つに
少なくとも5組の親子が登場するってありました
5組もあったかなと思いました…
動画を観て思ったのがそれぞれに受け取って考えてくださいみたいな感じ笑
観た人といろいろ感想を語り合えたら面白いかもですね!
個人的には面白かったのですがいろいろわからないことがいくつかありました…
何回か観ればいろいろわかることもあるのかな🤔
それとみなさんの演技も良かったですね!
いろいろ謎があって何回も観てみたくなる映画でした!
ありがとうございました😊
ハッと二度はする!心胆を寒からしめる、この闇に触れる思いがした。
戦後80年、先月”雪風”、”木の上の軍隊”を見て今年のお盆は締めくくったと思っていたのですが、いえいえ 本命が残ってたと言う想いですね。
ここに来てこの作品なのでしょうか。そう言う思いが強いです。
今日はカズオ・イシグロ作「遠い山なみの光」の鑑賞です。
本作は第78回カンヌ国際映画祭でワ-ルドプレミアが行われました。
劇場内、女性の方が多く来られており関心の高さを感じましたです。
まずこの映画ですが、流れ仕掛け的に似ている作品が思いつくところでは
”ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日” これかなと感じました。
自分の事だけど他の物に例えて話していく様ですね。最後に総てを一瞬で語る辺りがそうかなと。
総評から言うと、4.2。
原爆病に触れた女性視点に立ち、心の底に抱いた どうする事も出来ない悲しみ、怒りの様なものが根底にあり そこから派生する主人公のやり切れない運命の定めを強く感じる事ができました。その点が素晴らしい点と評価致しました。
特にこの題名の ”山なみの光” とは何を指すのかです。色々と解釈が出来ると思いますが、私は素直に長崎に落とされた原爆光と感じました。
しかしそれだけでは無くて、主人公悦子が家族(夫)を捨てて再婚でイギリスへ渡った時に孤独の中で感じ得た脳裏に思い起こす故郷。その想いが遠くの山奥で仄かに光っている様な情景を思い描いてる様に感じます。そしてそれは同時に景子の運命をも引きずっています。
それらを感じて欲しい所でしょうか。その想いが次女へ語る話の中に虚構を産んでしまうキッカケの一つに繋がるのだろうと感じます。
原爆病を遺伝させたかも知れないと思われる自身の子供に関して、特に女性は切っても切れない程の運命の繋がりを持たれると思います。男性は女性のこの不安な思い苦しみはきっと分からないだろうと 私はそう感じます。
この部分の人物背景だけでも 心に重く響くものを受けました。
何故彼女は日本を離れようと思ったのか。娘が亡くなって閉ざされた部屋の秘密。
そして拾われた子猫達。戦後に忘れては成らない感情が沸々と蘇ってきます。
女性視点の戦後80年を私は忘れていたんだと、この作品を観てそう深く感じました。
原作:カズオ・イシグロ氏(長崎出身)
監督・脚本:石川慶氏
-------素晴らしい俳優陣--------
緒方悦子役:広瀬すずさん
緒方二郎(夫)役:松下洸平さん
緒方誠二(元校長 義父)役:三浦友和さん
悦子(現在)役:吉田羊さん
景子(長女)役:
ニキ(次女)役:カミラ・アイコさん
佐知子(友人)役:二階堂ふみさん
万里子(佐知子の子 子猫拾う)役:鈴木碧桜さん
藤原役(食堂):柴田理恵さん
松田重夫(誠二の教え子):渡辺大知さん
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(2度の驚き)
①驚き
私は家に老猫(オス)を飼っています。(保護ネコ)
餌をあげても猫パンチを時々して来て彼の愛情表現を食らってます。
そんな私ですが、この映画の 佐知子が引っ越す前日に、ダダをこねる万里子の拾ってきた子猫が入った箱をそのまま川岸に持って行く場面はかなり衝撃を受けました。
”うわぁっ” て 思わず口に手をしましたです。
これはかなりトラウマに成りそうな場面でした。
実は映画では 娘万里子の猫を取り上げて、母佐知子が殺める場面と成ってますが、元話は 悦子が気がついて止めたと言うのが本スジらしいです。間違っていたらごめんなさい。
②驚き
何と言っても、イギリス宅で次女のニキが閉ざされた景子部屋の遺品を観る時でしょう。流石に 何が何だかって成るかもです。
今まで娘ニキへ母が語ってきた ”家族を原爆で失った母”のその後の結婚生活、姉景子の話、友人の話と友人の子供の話。
どれも本当なのかと思っていたけど、 どうやらこの友人(佐知子)と友人の子(万里子)は虚構だと分かる所ですね。
実は 母悦子と、娘景子の事だったと遺品から分かるんですね。
私もこの場面は 心に震えが出るくらい ”えっ”て 成りました。
同時に何故長女景子がこうなったのか。(つまり自殺)
自分が過去(長崎を捨てた理由)そしてこのイギリス宅とも離れる理由。
生まれた日本長崎の思いとの断絶感。何も良い思い出が無かった自分。
イギリスに来ても孤独だった日々を過ごしてきた自分。
これはまるでイシグロさんの歩んできた半生(日本に居た時受けた感傷)を作品を通して そこに垣間見た気がします。
作者は何処かに自身の過去に獲た想いを透過させていたのでは無いでしょうか。
私はその様に感じました。
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結局のところ、これから書くことは映画では描かれてはいませんが
悦子は長崎の原爆で家族が亡くなり被爆者で原爆病に成っていたのではと思います。気になって周囲に馴染めない彼女。原爆の風評被害を受ける事もあったでしょう。その中で教育者として先生との結婚生活、景子妊娠出産は最初は上手くいったと思います。しかし・・・
やがて歯車が狂い夫と距離が出来て愛されなくなって孤独に。すべてはこの病からだったのかと感じます。そして何もかもから逃げ出しくて 夫を捨てて。
新しく出会ったイギリス人の元、自分を全く知らない異国へ娘を連れて向かったのでは無いでしょうか。
これらを叶える為に悦子は色々な仕事をすべてしたと思うのです。
しかしイギリス人との結婚生活、次女ニキが生まれても 戦後の敗戦国日本人への差別を受けたと思います。そうでは無かったでしょうか。
同時に無理やり父と離され連れて来られた景子。彼女の心が蝕んでゆく。
そして自身の命を絶つ事に。
ひょっとして この蝕んだ元凶も原爆病からの何らかの遺伝ではないでしょうか。
私は全ての不幸の繋がりが 結局のところ ”山なみの光”にある様に感じたのです。そう言う思いを心の奥深い所で触れたかなと、 そう想っています。
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俳優陣(特に女優)は素晴らしいかったです。
特に広瀬さん、今までにない位の成長を感じました。
目線に表情に訛り台詞、今作はとても良いですよ。
特にバイオリンへの想いを語る涙の場面。
あそこの場面の あの思い、こちらの心の奥までズーンと響きましたです。
そして何と言っても二階堂さん。
彼女らしい演技。そして役どころでしょうか。
何処となく はぐれ者、交えない自分を見事に演じていたと感じます。
私はあの川岸の場面、めちゃ衝撃を受けました。
義父役 三浦さんの優しさある目線。そして苛立ち。
元教え子との勇気ある対峙。(軍国主義と平和主義)
昭和初期の男姿を感じました。
9月入って 秋の新作が目白押し。
ご興味御座います方は、
是非、是非お早く劇場へお越し下さい!!
その時代を目撃するWitnessing an Era
映画を観て、その後、原作読了。
直後に原作に当たったのは、
映画の肝になるストーリーの確認のため。
原作にはハッキリとは書かれていなかった。
映画観た後で、
筋立ては尺に合わせて短くなり
話は前後し、
内容も一部変わっていたけれど
恐ろしいくらいまで、
原作との違和感がないことに驚いた。
むしろ、実写化の力を存分に味わえる。
原作者がスタッフとして関わりそれが
良い方向に作用した好例。
広瀬すずさんと、二階堂ふみさんのやりとりは
まさに悦子と佐知子の関係そのもの。
物語によってあの時代を生きた
あの時代を経験した人々を
永久保存して未来に繋げたと感じた。
物語の力によって真実を語る、
それを具現化している。
キャスティングにより、
時代の変化に取り残された者
時代の変化に対応していった者
時代の変化を受け入れた者
彼らが描かれ、
あの時代を垣間見たような感覚に襲われる。
今の映像技術ゆえに、
描く事が可能になったんだろうな。
10年前だとチープになった可能性もある。
やっぱり映画って凄い。
I first watched the film, then immediately picked up the novel it was based on. I wanted to confirm the core storyline, only to find that in the original text, it wasn’t as clearly stated as in the adaptation.
The film shortened the plot to fit within its runtime, shuffled the order of events, and even altered parts of the narrative. And yet, astonishingly, it felt seamless—there was no sense of dissonance with the source material.
Instead, the adaptation demonstrated the true strength of live-action filmmaking. It became a perfect example of how the involvement of the original author as part of the production team can enhance the work in a positive way.
The exchanges between Suzu Hirose and Fumi Nikaidō perfectly embodied the relationship between Etsuko and Sachiko. Through their performances, the story seemed to preserve the lives and experiences of that era, carrying them forward into the future like a time capsule.
This is the power of storytelling: to convey truth through fiction, and the film brought that idea to life.
The casting highlighted those left behind by the tides of history, those who adapted, and those who embraced change. Watching them unfold on screen gave me the uncanny sense of peering directly into that bygone age.
Thanks to modern filmmaking techniques, the film could achieve this depth of portrayal. Had it been attempted a decade ago, it might have felt flat or cheap.
In the end, I was left with a renewed sense of awe—cinema really is something extraordinary.
人によっては解釈が変わる?
本編が始まったときは、悦子と佐知子が反対のように思える場面が多く、ニキの姉は誰なんだろうとずっと考えながら観ていた。
悦子の過去の話を聞いているうちに少しずつ違和感を抱くことがある。
ラストまで観終わって、タイトルの意味などを考えたときに、悦子の人生は佐知子の方の人生で、景子が亡くなったのはイギリスに渡ったことで耐えられなくなって亡くなったのかと考えた。(佐知子はアメリカとなっていたが、そこを変えたのは自分の事として話すのを避けるため?
)
結果的に、悦子は回想をしながら、客観的に自分の過去を回想していたのかと思う。
原作を読んでいないので、あの悦子の人生(広瀬すず)は理想のものを考えていたのか、なんだったのかがまだ処理しきれていない。
原作読んでないからかな?
結局誰がどのような嘘をついてたのかが分かりにくいし、
どの話のパートも結末が中途半端
良いように言えば観客にすべて想像させる話
主人公の旦那と父親も最後までわかりあえなかったし、旦那と主人公は死別したのか離婚したのかもわからないまま、父親と元教え子もお互いの教育論がどのようなものかすらわからないのに対立場面だけ見せられる
景子の自殺の理由は?
うーん原作読んだら全ての話がわかるのかなぁ?
「遠い山なみの光〜A Pale view of Hills」の意味するところ
この映画に関して、書きたい事がいっぱいある。けれども、まずは素晴らしい映画でした。戦後80年の節目として見ておくべき映画だと思います。日本はまだまだ80年経っても総括できていないいろんな事があるのだと感じるものです。題名の「遠い山なみの光〜A Pale view of Hills」の意味するところは、自分自身を客観視して捉え直すために必要な、長い時間と遠くから見る目線なのだという事なのでしょう。
===さてここから「ネタバレ」。見てない人はご遠慮ください。===
素晴らしく良い映画なんですけれども、見終わって感動に浸る前に、なに?なに?なに?どゆこと? ねぇ!誰か説明してくれぃ!?? という????の嵐になってしまうことですよねぇ。
妻と二人で見終わってから1時間くらい映画の解釈について話をし、他の人のレビューも見たりしましたが、原作を読んでも結局疑問は解決せず、映画レビューでも誰一人説明できる人がいない。つまり、どう解釈するかは見た人次第という名の「放置プレイ」のようです。
ただ、わたしの理解として、緒方悦子(広瀬すず)自身として、まだ自分自身を客観視して見る事しかできない、他人の姿をした自分が佐知子(二階堂ふみ)であること。そして、自分が長崎という場所で負った戦争の記憶が、何十年経っても自分ごととして受け止めきれない状態のまま、この映画の現在である1981年に来てしまった事。それを、ロンドンへの移住と娘のニキの取材に応じる中で、ようやく区切りをつける自分(それが、電車の外に経っていた現在の悦子=吉田羊)を見つける事ができた。吉田羊が昔に黒い人物として登場する頃から、広瀬すずが二階堂ふみなのではないか?みたいな可能性が見えてきて、広瀬すずの長女景子は二階堂ふみの子供万里子なのではないかとか、だんだんと明らかになってくる。。。
ただ、
だとしたら、誰?あの松下洸平扮する旦那は?三浦友和扮する緒方誠二は? 孕っていたはずの子供はどうなった? 謎だらけ。 散らかし放題に伏線を拡げまくって、少しも回収してくれないもどかしい感じが強い終わり方でした。
まー、原作カズオイシグロで監督脚本が石川慶なので、こういう作品なのでしょう。
映画のテーマといっていい部分は、三浦友和扮する緒方誠二元校長が、かつての教え子書いた、校長が行った戦時の責任についての記事で口論になるところでしょう。 この核心部分を端的に顕すこのシーンが、ただの悦子の「想像の世界」???なのか。あの戦争で右手が不自由な旦那さん、父である三浦友和と不仲だったりした、細かい描写の全てが、ただの「妄想の世界」??? そこの座りのわるい椅子に腰掛けた時のような落ち着きのない感じが、単純に「感動した」と言いにくい後味になっていますね。
あと特筆すべき事は、子(万里子と景子)役の鈴木碧桜さん、めちゃくちゃ凄い! また凄い子役スターが生まれたと言って過言ではない。演技が自然。もう何年も役者やってます!みたいなセリフ回しの自然さが、際立っていて、芦田愛菜よりも凄いかもしれない。すでに河合優実なみの場面に溶け入るような自然さと艶やかさが際立っています。この人は、今後大注目の役者さんです。
音楽も素晴らしい。カメラも素晴らしい。
そして、広瀬すずちゃん、二階堂ふみちゃんの二人の美人を、堪能するためだけでも十分に価値ある映画です。めちゃめちゃいい表情をしています。特に、緒方誠二がかつての教え子と口論する場面の、凛とした着物姿の広瀬すずは、バッキューンッって死にそうなくらい艶やかでした。
いろいろ書きましたけど、とはいえ、最初からグイグイ惹きつけられて、非常に面白い映画でした。主人公が、自分でもどんな風に収拾して良いかわからない自分自身の過酷な中で生きてきた道を、独特の表現で現した、良質な映画だったという事だけは間違いありません。
登場キャラが理解できなかった。
原作は全く知らないけれど広瀬すずが主役なので、かなり楽しいんじゃ無いかと期待しながら着席。日本・イギリス・ポーランドの合作なんだけど、登場人物は日本人ばかりだから、ずっと日本語かと思ってたら、日本人親子で英会話、イギリスに住んでても日本語使うんじゃないかと思ってたが、娘のニキはイギリス生まれだったので、日本語喋れなかったのね。ずっと過去と未来が行ったり来たりで、会話が楽しかったんだけど、分からない事だらけだった。広瀬すず演じる悦子は、いつイギリスへ移住したのか?旦那と長女が亡くなった理由がわからなかった。えっ!?広瀬すずと二階堂ふみは名前が違うのに同一人物だったの?モヤッ!長崎の近所に住む佐知子の娘、万里子の性格にイラっとしちゃった。万里子はアメリカに行くって言ってたのにイギリス?万里子の猫に対する行動ひどかったよね。ストーリー的にはあまり楽しくなかったが、すずのお陰で眠くならずに最後まで観られました。ソコソコでした。
先が気になる感じじゃなかった
2025年劇場鑑賞241本目。
エンドロール後映像無し。
文学作品ということで小難しそうだなぁと思っていましたが、そうでもなかったです。今年は原爆投下後の長崎フィーチャーの映画が多い気がします。
時系列が行ったり来たりしますが、広瀬すずと吉田羊なので全く混乱しません。ストーリーも難解ではなく、演技にも不満なく、最後もなるほどという感じでした。でもこの先どうなるんだろう的な事はなかったのです。確かに昔と今で主人公を囲む環境が大きく変わっていて、間をどう埋めるのだろう、というところはあるにせよ、思っていた経緯と若干違っていても、結果は序盤で与えられる情報からやっぱりそうだよねという感じだったのでこの先どうなるのかな、という感じでは観られませんでした。
長崎駅ホームの背景に見える車両が変です。(欧州の車両のようです。)こういうところでガッカリ
カンヌ映画祭がらみの映画は、難解なものが多くて苦手です。今回もその印象です。わからないままのものが多い、(エピソードが回収されていない。)それは観衆が各自考えろと言うことなのでしょうか? いちいち伏線ガー 回収ガー と言うなよ という映画通はいますね。
皆さん気が付いたでしょうか? 鉄道ファンの私は、長崎駅のプラットホームのシーンで後ろに映る留置線の紺色の客車に違和感を感じました。
窓の配置といいシルエットといいヨーロッパの客車です。(オリエント急行のような)連結器が自動連結器ではなく日本では1925(大正14)年に一斉に取り換えたバッファーが付いた連結器が見えます。
本題には関係ない。いちいち重箱の隅をつつくなと言われそうですが、なにか参考にする画像にしてもちょっとは考証してほしいと思いました。(映画制作側に鉄道に少しだけ詳しい人はいないのか?)
(日本映画にある時々見られるエラーの例 東海道新幹線、ABCの席(本来海側)で真横に富士山が映るというもの。(実際にはありえません) 海側←ABC通路DE→山側(富士山真横)です。)
※なお長崎市内の街路のシーンで走る路面電車も鉄道ファンの目で見れば変なのですが、これは茨城県つくばみらい市にある商用撮影施設「ワープステーション江戸」で撮影したと一目でわかるので(この施設には自走できる路面電車まで用意されている。)不問です。
※高倉健主演「鉄道員(ぽっぽや)」に出てくるディーゼルカーは、その当時の新しい車両を苦心してレトロ化したもので、ファン的にはまだ違和感が残るものの、こだわろうとしたことを高く評価します。(今も前頭部の実物カットが廃線となった幾寅駅(映画の中では幌舞駅)に保存されています。)
地味な作品だけど、いろいろ解釈できそうだ。
長崎の原爆投下が作品の背景にある。それぞれの登場人物には、過去のトラウマがあって作品を奥深くしているが、本当に地味な物語で退屈してしまう人もいそうだ。
私は自殺した長女と二階堂ふみの娘が重なって見えた。また、義理の父三浦友和も教師として戦前の軍国教育を推進した過去を教え子に批判され、悩みを抱えている。被爆した広瀬すずは、その事を心の奥底に抱えている。自分を自制し行きてきた彼女は、自由奔放に生きる二階堂が、気になって仕方がない。また、その娘にも。たくましく見える二階堂も新しい人生を切り開くためアメリカ軍人と結婚し米国へ渡るという、他人任せの人生のなっている。
自宅を売却することがきっかけとして、過去のトラウマに向き合う主人公の物語だった。
原作を読んだのだが、すっかり忘れていた。製作者に作家本人の名があり、原作を尊重した映画になっている。映像化に成功している映画だと思う。最後に家族写真を見て、救われた気持ちになった。
本年度トップクラスの余韻
絵画的なファーストショット。徐々にピントが合うと、呼吸の荒い、うなされている人物が浮かび上がってくる。
他人を丸ごと理解することは難しいけれど、共感的に理解しようとしなければ、いつまでも明確な像を結ばない。
この映画全体を象徴するような、美しく見事な導入だった。
物書きを目指す娘が、母親へのインタビューをまとめるといった形で、1950年代の長崎と1980年代のイギリスとが、行きつ戻りつしながら描かれる今作。
ロケーション、調度品・インテリアなどの美術、ライティング、映像に重なる音や楽曲の一体感が素晴らしく、鑑賞後の余韻でいうと、今年度観た作品の中でトップクラス。様々な側面から振り返りたくなる、とても複雑な味わいを感じた。
今作を論理的に解ろうとするには、一回の鑑賞で自分が手に入れたピースは充分ではないし、それが解ったからといって、受け取ったものがより豊かになるとは思えないので、一つ一つには細かく触れないが、自分が特に考えさせられた点についてのみ、記録に残したいと思う。
<一部内容に触れた、個人的な感想や解釈です>
=記憶の曖昧さとその向き合い方について=
つい最近のこと。小学校時代の友人と話していて、自分の記憶の中に残っていた「とある友人とのエピソード」が、いつの間にか「別の友人とのエピソード」にすり替わっていたことに驚かされたことがあった。
本作で感じたのは、正にそのこと。
何が事実なのか、そもそも本人にとっても記憶の輪郭は曖昧なのだ。
しかも、悦子のように、できれば目を背けたい過去がある場合には、意図的な欠落や改変も混じって、余計に真相はわかりにくくなる。
ただ、本作では、娘のニキが自分の中にあるわだかまりを乗り越えようと一歩踏み越えたことをきっかけとして、母の悦子自身も、長く蓋をしてきた自分の過去を掘り起こすことにつながった。市電の中から見えた黒い服の女性が、自分の顔だったシーンが象徴的だ。
生きるためには、目を背けることが必要な時もあるけれど、見つめ直すことで改めて前を向けることもあるのだろうと思ったし、希望の光が見える終わり方だった。
=悦子にとっての「縄」=
川縁の沼地を走る悦子の足に絡みつく葛のツル。ツルは編めば、リンゴを収穫するカゴにも、思い出の品を保管するトランクにもなるが、景子が自死に利用したり、また連続幼児殺人の犯人が凶器にしたりした縄にもなる。
悦子は、自分の尊厳を守り生き抜く「抑圧に屈しない強さ」を持ってはいるが、合わせて、受け持ちの子どもたちを見殺しにして、自分ばかりが助かってしまったのではないかという自責の念と、景子を自死させてしまった原因が、長崎を離れたいがためにイギリスに連れてきた自分にあるのではないかという悔恨も持っている。(もちろん、景子が被曝による誹謗中傷を受けずにいられる環境を願った意味もあっただろうが…)
そうした悦子が、夢の中で手に持つ縄は、その悔恨の象徴なのだろう。
本作の中では、連続幼児殺人が報じられている。
この犯人は、何の為に殺人を犯しているのか不明だが、悦子自身は、心の奥底で「自分のしたことは、この幼児殺人と何が違うのか」という自問を繰り返していたのではないかと思わされた。
=信念と価値観について=
日本は、原爆に負けたのか。それとも、元々、皇国の嘘を教えて洗脳していたことが間違いだったのか。
三浦友和演じる元校長と、渡辺大知演じる教え子の教師とのやりとりが重かった。
指示を出す側ではなく、応召で戦地に赴いた人々や、積極的に送り出した人々は、心情的には、自分の良心からの行為だった訳で、そこを否定できない苦しさが、三浦友和の佇まいに滲み出ていた。
それに対して、渡辺大知は若さゆえの直情を感じさせる演技で、正論と思われる言葉を吐くが、戦時下で検挙された教師たちの多くは、教え子たちの貧困や社会的階層による不条理に対する憤りがきっかけだったものの、彼らが教室で行った行動の中身的には、逆の意味での洗脳を企図する危うさもあり、それが戦後の「教育の政治的中立性」につながっているのだろう。
後の時代の者が、簡単に当時の人々のことを断じることはできないし、今、生きている我々も、信念と価値観は、常にアップデートを求められ続ける。
松下洸平演じる息子二郎が、自分の指を失うという代償を払ったことで、父へのわだかまりを募らせながらも、急激な価値観の変化には自分もついていかれず、同じ長崎市民ながら被曝者への偏見を口にしたり、男性性にとらわれたりしている様子は、決して遠い昔のことと切り捨てられないと思わされた。
※ただ、本編とは関係ないが、映画のプロモーション方向はちょっと迷走していると感じる。
「5つのヒント」のような手段は、作品の質とフィットしていない印象。
主演2人に惹き込まれる
原作とともに話題なので観てみたが、なかなか深い。
ミステリー調で話自体がどうなるかと先が気になりながらも、
最後にあっと驚く仕掛けとともに、もう一回、みたくなる。
その中に時代背景、女性、戦争へのメッセージや意図が含まれており、それらすべてがつながっている。
しかし、普通に見ただけでは、概要の部分しかわからない。
レビューなどをなんとなくわかったが。。。
ある男っぽく終わってはいるのも監督らしくて面白い。
主演2人の広瀬すず、二階堂ふみが容姿に引っ張られず、しっかりと長崎混じりながらも色っぽい口調で惹き込まれた。
重い作品ながらも、2人の演技で少し明るく見ることもできた。
過去の再現のためには仕方ないものの、
CGや映像の特殊効果が強いのが気になってしまいはした。
映画鑑賞後の謎めぐる旅
翻訳調に揺れる『遠い山なみの光』
『遠い山なみの光』の映画でまず気になったのは、芝居がかった台詞回しでした。
悦子と佐知子の話す言葉は日本語としては時代感を演出していますが、当時の女性がそのように話していたかというと違います。また原作は英語で書かれているため芝居がかったセリフはなく雰囲気が違います。
イシグロ・カズオの英語原文はもっと淡々とニュートラルで、感情を抑えた会話が特徴です。しかし映画の脚本は翻訳本である小野寺健訳に依拠しており、翻訳上の解釈がそのまま映画のトーンを決めてしまったように感じました。
私はむしろ、原文の抑制されたニュアンスを活かした「自然な日本語」で観たかった。そうすればイシグロ作品の核心である「静けさと余白」が、より鮮明に感じられたと思いました。
女性の居場所を見つけようとする物語ということか
1953年の長崎と1983年のイングランドを舞台に、時系列を入れ替えながら展開する物語。
予告編では本作に隠された「謎」をかなり推していたが、そこはあまり大したことがないんだろうなと予想。むしろ、戦後10年たっていない被爆地・長崎で居場所を見つけようとする女性の物語として期待していた。
広瀬すず演じる悦子がある秘密を夫に隠しているというのは実際にありそうなこと。夫と義父に対して変わらないと時代に置いていかれると伝える悦子の気持ちは、現代に生きている自分たちが深く共感できるもの。そしてあの時代で必死に生きようとする2人の女性の友情物語かと思っていた。
ところが1983年のパートで明らかになることの数々にどうにも違和感を拭えない。これがあの「謎」につながるんだなと思っていたが、その謎が明らかになっても腑に落ちない。どういうこと?と。だからラストのあの2人のシーンも戸惑いながら見つめていた。
正直、最後の部分は、他の人のレビューを読んでやっと理解ができた。わかったけど、わかりづらくてモヤモヤする。みんな理解してるのか。話としてはなかなかいいし、2人の女優の演技も素晴らしかっただけにちょっともったいない。
考察合戦で良いのでは?
全422件中、301~320件目を表示
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