遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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曖昧が引きずり出す観客との鬩ぎあい、圧巻の広瀬すずに刮目
戦後80年の節目を目指したのか、よりによってノーベル文学賞の巨匠カズオ・イシグロの処女作を以って、長崎原爆の残影を描く。脚本・監督・編集を担った石川慶は映画的なアプローチを果敢に攻め、ミステリーの仕掛けを内包し女性の懺悔を温かく。と同時に、親に従うと言う当たり前の概念で遠く日本を離れされられた理不尽を、原作者自身の来し方に重ねることにより生きづらさにリアルを重ねる。ミステリー形式とは言え、隠されたパズルは決して解かれることはなく、むしろ曖昧なまま提示される、敢えて答えを避けることによる深淵を感じ取って頂ければと。文学でなら可能でしょうが、映像で具象として描く作品でそれを実践し成就させた技量は相当なものです。
この監督の挑戦を確実に支えたのが主演の広瀬すずです。圧巻とはここでの彼女の演技であって、可愛いアイドル女優はあれよあれよで既に大女優の風格に確実に成長しておりました。映画全盛期の頃の映画スターは当然に美男美女であった、スクリーンを注視し続けうる「美」が必要だったから。吉永小百合が引っ張りだこだったのは当然で、彼女に限らず「美」の上に「演技」が花開く。その意味でピークの頃の吉永に生き写しの圧倒的な広瀬の「美」がスクリーンを支配。そのうえで、視線から眉ひとつ口元ひとつ指先ひとつ肢体の僅かな捻り、そして口跡の的確な表現、すべてを駆使して監督の目指す人物をスクリーンに具象化する。素晴らしい「主演女優」に心奪われるってのは本当にあるのですね。来年春の日本アカデミー賞の主演男優は吉沢亮なのは100%で、主演女優は本作での広瀬すずでしょう。もっとも出演作が怒涛の勢いで、続く「宝島」でどう観客を揺さぶるのかまだわかりませんが。
まるでタイプの異なる二階堂ふみにとっても、最高の魅力を発揮できたのは確かで、スカーフを巻いたキリリとした意思を湛えた明確な美女は目も覚める程。広瀬と二階堂の2人で行動する長崎の陽光輝く光景は戦後の復興目覚ましい勢いを感じさせる。対する1983年のイギリス式庭園の美しい邸宅の光景はしかし日差しがあるにも関わらず、どんよりと薄暗い。実際にまるでライティングを自然光に委ねたような暗過ぎの中で、吉田羊とカミラ・アイコの噛み合わない会話劇によるコントラストが秀逸です。ネイティブスピーカーのカミラ・アイコの欧米風の演技に対し、吉田の重い演技が本作の肝でもある。ほぼ総て英語のセリフをこなし、結局のところ本作における30年間の総括を滲ませなければならない難役を見事にこなされてました。
対する男役ももちろん、松下洸平も三浦友和も心地よい演技でしたが、何故か浮いたような存在感の希薄を敢えて滲ませたのでしょうね、作品の方向性の必要性から。終戦を境に価値観の180°の転換により戦前の忠心を非難され、激高する主人公の義理の父親(三浦)。しかしずっとロングショットのままの醒めた描写に留め、何事かしらと立ち上がる広瀬の風情の凄まじさ。なんてことないただ立ち上がるだけなのに、起きている事象を涼風のように流してしまう映画的表現に舌を巻く。
(以下、ネタバレ含む) 解釈もいろいろですが私的には、長崎での佐知子こそが本当の悦子であり、そこで語られる悦子はとりもなおさず、望ましかった自分を理想的に夢想で描写。万里子は景子であって、ニキとは異父姉妹となる。従って前述の男2人の存在の薄さから、すべては悦子の意識の中だけの息遣いでしょう。とりも直さず原爆の直接・間接の影響を忌避したい闇の存在が浮かび上がる。ケイト・ウィンスレット主演の「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」原題「Lee」2023年での晩年のイギリス邸宅での庭の描写と、語られる謎も含め、本作と極めて類似する描写に驚きました。
カズオ・イシグロはノーベル文学賞受賞でも映画への訴求は強く、本作ではエグゼクティブプロデューサーとしても参加。「生きる LIVING」原題 Living 2022年では脚本も製作総指揮も担ってますね。石川慶との接点は知りませんが、望むべき最高の化学反応が起きたのが本作です。日本・イギリス・ポーランドの3カ国合作による国際共同製作ってステージが効いているのでしょう。
よくわからなかった笑笑
原爆は恐ろしい😭
二階堂ふみさんと広瀬すずさんが同一人物なのかな❓
お腹にいる子どもがニキ❓それとも二階堂ふみさんの子ども❓
けいこがまりこか。
よくわからなかった笑笑
でも色々考えさせられる映画ではあったかな。
変わらなきゃいけない 変わって今がある
そういうことなんだろうな
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。 追記
私に友達がいてね。
で始まる昔物語、それは、実は自分のことであった。
そういえばよくある話だ。
(絶対にネタバレなしで見なくてはならない)
最後の最後まで、そのことを理解するのに時間がかかった。
途中で、え、吉田羊って悦子だよね。でも、英語を話すのは佐和子だし、え、長女の写真て麻里子、
恵子じゃなかったけ? なんであんなに他人の子である、万里子にむきになるの?
ざわざわする。佐和子はアメリカに行くって言ってるし?
では、佐和子が実はイギリスの悦子なの?
話はそんなに単純ではない。
義理の父から届いた絵ハガキはイギリスの恵子の部屋から見つかる。
ニキは姉の才能に嫉妬している。
恵子がなぜ自殺したかは語られない。
長崎の悦子の描写は、いくばくか、イギリスの悦子にもつながっているのだろう。
ならば、悦子は二郎との関係を清算したのだろうか?
本当に、おなかの子は誰の子?
イギリスにはおなかの子がいた形跡はない。
このたゆたう感じは、カズオ・イシグロの文体そのままだ。
原爆に対する、差別も、戦争への忌避感も、大きな声を伴っては語られない。
これはなんと美しい文学であろうか。
カズオ・イシグロは原作をそのままにトレースすると映画は失敗すると言っているそうだ。
その意味で、この映画はイシグロの世界観を見事に写し取ったと思う。
なんという成功であろうか。
広瀬が長崎時代の悦子、二階堂が佐知子、吉田がイギリス時代の悦子を演じた
松下洸平が緒方二郎 三浦友和が二郎の父の校長先生
追記
実はお腹の子はニキ?
二郎の子ではない?
なら、日本を離れるわなぁ、これも想像です。
見終わった瞬間から一日中考察が続いてしまって大変…
難しい作品だった。
エンドロール中にはすでに「???」と、物語の復習が始まり、帰り道もずっと考え込んでしまった。
考える時間のあるときに見た方がいい作品なのかもしれない。
何はともあれ、主人公となる3人の女性たちは美しく、ミステリアスで素敵だった。
流れるような会話もテンポ良く、耳ざわりがよかった。
それを取り巻く他の俳優さんたちの演技も素晴らしく、それぞれの人が映るときには、その人たちは主人公になる。
あえて声だけ、手先だけ、背中だけ、といった画像表現も、作り手の意向が様々感じられ、凝られた作品だと感じた。
原作を読んでないせいなのかもしれないが、一度観ただけでは消化しきれない映画で、何度か観なければ、と思った。
暗闇を走るシーンがあったり、映画館でなければきちんと見ることができない映像もありそうなので、ぜひ映画館でみることをお勧めする。
どうしても、感想に考察を載せたくなってしまう…
これはこの物語に囚われた人の宿命だろうからご容赦いただきたい。
制作側は解釈を受け手側に任せており、自由に考えて良い。
決して「正解」があるわけではなく、私が想像で補いつつ考えた考察であるので、「違うよ」と思われる方もいるだろう。
あくまでも一個人の受け取り方を述べてみる。
以下は作品の考察となるので、観ていない方は鑑賞後にしていただきたい。
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個人的な考察であるが、この物語には時間軸が実は3つあるのではないかと思う。
一つは悦子が若い頃の団地住まいの時間軸。
二つめは佐知子の時間軸。
そして三つめはイギリスで過ごしている時間軸。
一つめと三つめは初めから明らかにされており、区別するのに問題はない。
二つめが別人の時間軸だとして物語が進むが、佐知子は後に悦子と同一人物であることが明らかにされる。
ここで我々は混乱に陥り、帰り道にぐるぐる考えながら帰るハメになる。
個人的な考えを述べると、
①被爆を隠し、団地住まいだった時代
②被爆に向き合い、明らかにした結果、バラック住まいに落ちた時代
③その後の現在
という、1人の女性の半生を描いた物語なのだと思う。
団地住まいの頃、被爆したことを隠し、表向きには幸せな生活をしていた。
おそらくその頃に、川の向こうにバラックを見ていたのだろう。
ただ、その時は、自分の生活を守るため、きっと遠くから眺めるだけだっただろう。
夫は被爆に対して拒否的であり、もし夫にバレたなら、「きっと私もあの場所に行くことになるだろう」と思いながら…
そこに、義父が現れ、戦時中の行いで昔の教え子と口論しているのを見る。
「過去と向き合わなければ、変わらなければ」と義父に言う言葉は、自分にも向ける刃となる。
そして、「私が被爆していたら?」という問いにつながる。
夫は「今さら何の話を」という様子だが、被爆という過去に向き合った彼女は離縁され、お腹にいた景子とともにあのバラックでの生活に行きつく。
母子家庭であの頃生きていくのは、佐知子が言うように何でもしなければ生きていけなかっただろう。
その頃に新しく「夫」と出会い、景子(作中では途中まで万里子)を伴って渡英する。
作中、万里子が被爆で差別を受けているとあるが、景子は戦後生まれなので、被爆2世でしかない。
そう考えると、景子が受けたという差別は、それすらも「自分への差別」を転換したものなのかもしれない。
ちなみに、佐知子は渡米する話になっているが、それも「嘘」というか、他人の話になるための要素だったのだと思う。
佐知子の家にはイギリス式のお茶を楽しむ食器があり、度々紅茶を楽しんでいる。
あのバラックに出入りしていた男性は、イギリス出身と考えるのがしっくりくる。
そして、全てを経験した後のイギリス在住の現在。
ニキと言い争うシーンの真意まではまだ理解できていないが、悦子は子供たちが自分で選んだ人生を認めているのだろうと思う。
むしろ、被爆の過去を隠していた自分の過去の方が、恥ずかしい記憶なのかもしれない。
過去に出てくる縄は、まとわりつくしがらみや苦しみの表現なのだろう。
色づいたもみじが移動して日が当たるのも、人生の終盤だが、これからの彼女の人生が明るく照らされる比喩なのかもしれない。
と、自分を納得させるためにじっくり考察した内容は以上。
この考察を胸に、もう一度観てみたい。
どのみち答えはないので、自由に受け取り、作品と対話しよう。
質の高い作品で、とても素晴らしかった。
久しぶりにいいミステリーを観た。
戦後の長崎を経て、イギリスへと移り住んだ女性の過去と、現在を交互に行き来する今作。
一風変わった変わった女性の佐知子と出会い、関係を続ける主人公。
そして夫と娘を亡くしながらもイギリスで暮らす主人公の誰にも見せない心の奥深くに迫りたいとする2人目の娘。
2人のやり取りと過去の回顧録から察するストーリーは、ミステリーとして凄く濃厚で、簡単に正解を示さない。
また原爆の被害者の心の傷に迫った物語なのかと思いきや、この作品がフォーカスを当てているのは果たしてそれではない気がする。
それよりかは、チェンジをしながら前に進む人としての強さを感じた。
そこが凄く良かったと思う。
信頼できない不安に塗りつぶされた過去
主人公視点(一人称)で語られる「殺人事件の犯人が主人公」ってミステリー、小説なら面白くできるけど、映画だと(=映像化すると)めちゃつまらないケースが多いじゃないですか。
語り手の信頼度を落とすことで、客を不安で揺さぶる、いわゆる「信頼できない語り手」。
本作も、そんな作品に似た印象。
語り手の自分(主人公)が嘘をついているというか、妄想を信じたがっているというか。
おそらく「こうだったらいいな」という夢見た過去、目指した姿を、虚実入り混じえて娘(=観客)に語り、そこに生じる謎を"ミステリー"と言われても……
原作未読なので、再現度、忠実度は分かりません。
ただ、おそらく原作小説は語られない事項を増やしてより曖昧模糊とすることで、「人間の記憶の曖昧さ」と「信じたいもので自己の記憶が塗り替えられていく罪深さ」みたいなものを伝えるために、もっと解釈の幅を広げる余地を残し、読者の心理を揺さぶったもののようにしている気がします。
映像化した故に、過去の記憶が具体性を帯びて生臭く、そしてうさん臭くなったような。
ちゃんと原作が読みたくなりました。
石川慶監督は、『ある男』『蜜蜂と遠雷』は好きだったんだけどな……
今回は『不都合な記憶』『愚行録』寄りで、ちょっと苦手。
嘘、願望、夢、記憶、現実。そして希望。
原作は未読だが、非常に文学的な印象を受ける映像作品だった。
現在(80年代)のイギリスと過去(50年代)の長崎を行きつ戻りつ進む物語。
薄暗く、湿気を帯び、不穏な雰囲気の漂うイギリスのカントリーサイドの平屋の家。
窓から光がさす、どこか希望を感じさせる団地の一室。
豊かな現在と悲惨な過去の対比がなされるのかと思っていたが、どうやらそう単純な話ではなさそう。陰鬱さの漂う現在の悦子。過去の若い悦子も朗らかのように見えて何かを抱えている。単なるヒューマンドラマではない。ミステリアスな雰囲気。
過去の悦子が抱えていたものは、そこが長崎であることから、生き残った人々が抱えているであろう忌まわしい原爆の傷であることは容易に想像できる。しかし、彼女が抱えているもの(内に秘めているもの)がそれだけではないということが、佐知子と万里子の母娘、元上司であり義父の緒方、夫の二郎との関わりの中で徐々に浮かび上がってくる。
佐知子と万里子に惹かれていく様子。緒方との弁当の会話、バイオリンをやめた話。順調なようでどこか冷めた二郎との関係性。
しかし、一体何を秘めているのか、はっきりしない。
佐知子と万里子の暮らすバラックは、橋を渡った先の湿地帯のようなところに建っている。その向こうには一切の人工物が見えない。バラックの中に入ると場違いなテーブルと洋食器、ライトがある。この2人はこの世の者か?実在するのかという疑問符が浮かぶ。
色々な場面に、違和感を抱きつつも物語は静かに進んでいく。
突然、ゾワッとして鳥肌がたった。
ロープウェイで登った展望台で悦子と佐知子が並んで会話を始めたときのことだ。
佐知子はもう一人の悦子!急に合点がいった。では、万里子は一体誰?
万里子の正体は、それから徐々に明らかになり、最終盤で完全に明かされる。しかし、この物語は、悦子の妊娠や二郎の存在など、つじつまの合わない細部の真相を明らかにしない。それは、映画のポスタービジュアルに描かれたように「嘘」だったのだろうか?
ここから先は、映画を見た人それぞれの考察になるだろうが、私は全てが「嘘」ではなく、そこには真実や願望、夢も含まれていただろうと思う。あるいは、悦子が自死で失った娘に対する贖罪と自己防御のために「歪めた記憶」も含まれていたかもしれない。
この作品は、文章から場面映像や登場人物の心情を想像をするような小説を読むような感覚を覚える。
戦争・原爆で見た地獄と生き残り背負った罪の意識。
家庭や世間体に縛られず自己実現を果たしたい女性。
失った娘への贖罪と後悔。
(真相を知らない故に)姉への嫉妬、母への複雑な感情を抱える妹。
そして、変わろうとする人、変わることのできない人・・・。
非常に文学的で、重層的な作りになっているように感じた。
長崎編の広瀬すず、二階堂ふみは、役柄に非常に合う配役だったと思う。イギリス編の吉田羊とカミラ・アイコの演技もよかった。
相当難易度の高そうな原作の映画化を成し遂げた石川監督の手腕は凄い。「ある男」で人間とは何か、ということを考えさせられたが、本作も人間について考えさせられる作品だった。
後半もう少し短くまとまっていたら・・・という思いもあるが、余韻と前向きな希望を残すまとめ方も、選曲にもセンスを感じる作品だった。
母の本心を想像する
母の悦子より、長崎時代の話を聞く次女のニキ。母が語る被ばく体験、佐知子母娘、長女の自死などの話が絡み合い、徐々に不穏な空気が漂う。他にも、母はなぜイギリスに来たのか、なぜ家を売り出すのか、悦子と夫との関係、義父の戦時教育、ニキ自身の問題など、さらに不穏な空気が漂う。
後半になって、ニキは母の語る話に疑問を持つが、見ている私たちも混乱させられる。何が真実なのか、母の本心は何か、はっきりと描かれていないので、想像するしかない。ただ、誰もがいつも正直に、真実を語ることはないのは当たり前なのだ。人間だもの。分かりやすい映画が好きな人は納得しないだろうけど、見ている人が自由に感じて、考えるのも、映画の見方ではないだろうか。
意味わからん。
あの頃の自分を抱きしめる
後半になって、佐知子は、悦子本人だったと判る、悦子がどのように景子という娘を得たのか?
夫の二郎、悦子と二郎を繋いだであろう緒方も、映画のあるエピソードは、真実ではなさそう。こういう暮らしの中で、景子を産みたかったということではなかったか?
自分の生き方を嫌う景子とは、景子が自殺する最後まで、和解することはなかったようである。
お祭りからの帰りの電車のシーンが一番秀逸、捨て猫のおうちをゲットして喜び、珍しく悦子にやさしい景子。
その電車の中の母子を遠くから見つめる
悦子の心、悦子は嗚咽していたか。
自分の生き方の犠牲者になってしまった景子に対する贖罪か、でも
当時の長崎の状況、被爆し、頼る者をすべて失った境遇の中、娘を守って、なんとか生き抜こうとすることの過酷さは、想像を絶する。
英国で、なんとか暮らしを立てたのに、
一番守ろうとした景子が自殺してしまう悲しみは、自分の行き方を二度と許されないことが確定した絶望。
それでも、もう1人の娘、ニキには
なんとか、解ってもらいたくての回想、作り話、一人語りだったのだろうと思う。
悦子は、あの頃の自分を、
思いきり抱きしめて、「でも、よく頑張って生き抜いたね」と言ったのだと思う。
遠い山なみを見ながら。
光と影
あの原爆破壊から7年、決して癒やす事の出来ないトラウマを隠して、朝鮮特需と高度経済成長で日本は復興に邁進。
暇になった旧い父世代男性は過去を正当化したく、新しい息子世代男性は新しい時代の超多忙戦士。
置き去りにされるのは相変わらず女と子どもだが、どの女も生き延びる為に自立しようと男たちより逞しい。
悲惨な戦後なのに、希望に向かって明るく、若き主人公広瀬すずと二階堂ふみはキラキラ輝いてて美しい。
一方、その後渡英し我が道を選んだ老いた主人公の暮らすイギリスの静かな田舎家は、雨か曇かのトーンで明るさはなく、様々なトラウマの影が朧げに、母と娘の会話も冷え冷えとしている。
その光と影のコントラストが、悲惨な被爆、戦争戦後時代よりも、現代の方が更に生きづらいのだろうかと、(自分もカズオ・イシグロ世代なので)考えさせられた。
本当に辛い過去をどう伝えるか
ネタバレがあるので見る前には読まないでください
「友達の話なんだけどね」というのが実は自分の話だったりするのは良くある話。それは友達の話という部分は嘘かもしれないが、伝えたいことは満たしているかもしれない。そういう意味では嘘が混じっていても伝える価値はあるのかもしれない。
結論としては、悦子が佐知子とその子供(万里子)と語っているのはフィクションであり、良き妻でいようとする自分がいる一方で未来へ向けて葛藤しているもう一人の自分がおり、それが佐知子という架空の人物として語られていて、万里子は実際は景子のことに他ならない。そのことは明示こそされないものの間接的に表現されている。つまり、会話ではなく、写真や映像で表現されており、なかなか難しい映画でもある。
話を元に戻すと、どう考えてもいくら考えても、自分を主語にして話せないことが世の中にはあるのかもしれない。世の中とは残酷なもので、自分がどうしてもこうしたいとという時にだれかの夢や希望を奪ってしまうことだって現実にはある。
悦子は、いい妻でありたい一方で、被曝しているとわかられた瞬間に平和な時間は終わって、酷い扱いを受けるかもしれない、海外で女優になりたいという希望も捨てられない、男性社会の中で女性は弱い立場でもある。ここから逃げたい、それは子供である景子の希望を奪い取ってでも成さなくてはならない。自分の夢のためには犠牲があっても前へ進むのだ。それは悲壮な決意でもある。
悦子は大筋は後悔はしていないだろう。でも疼くのだ、景子が大切にしたかったものを自分の夢のために自分の手で葬ってしまったこと、嫌がる景子をイギリスまで連れてきたこと。そして結果的に馴染むことなく自分で終止符を打つことにさせてしまったことに。
景子の部屋を見ると悦子が景子のことを自分目線で大事に思っていたことは確かであるが結果としては景子本人の目線で大切にしたい意思や希望を潰す形で夢を推し進めたということになって、景子を深く傷つけ、それは治癒されることなく景子はこの世を去った。
子供は親の運命に翻弄されることがある。大きく翻弄されることがある。今回はその結果何処へも行けなくなった子供の話でもある。しかし思うのは、翻弄される中でも自分で運命や宿命に逆らって生きる強さを持たなければならない。親を恨むことは簡単だ、でも運命や宿命に逆らって自分で人生を切り開くことの大事さを世の中でもっと認識して欲しいと、親に大きく翻弄される人生を歩んできた自分は個人的には思うのである。
配役はなかなか良い。広瀬すず、二階堂ふみは巧い。三浦友和はアウトレ...
原作のモヤモヤを吹き飛ばす演出!
原作者であるカズオ・イシグロ氏をエグゼクティブプロデューサーとして参加させ、原作に忠実な写実と、原作にはない要素をバランス良くブレンドした傑作です。
カズオ・イシグロ氏の小説の特徴でもある…読者によって捉え方が分かれる…ある意味読み手の自由度が高い構成は…時に、読後にモヤモヤ感が残ります。それが彼の作品の真骨頂でもあるのですが…捉え方のバリエーションの一つにフォーカスを当て、斬新でミステリアスなストーリーに展開させたのは、脚本の勝利とも言えましょう。
広瀬すずの演技が光ります。「こんなに…演技うまかったか…」と唸ります。また二階堂ふみの圧倒的存在感と美的オーラは、才能でという言葉では表せない。彼女は役者が天職なのでしょう。そして吉田羊の英語が美しく、その佇まいは、当時、外国に移住した日本人の持つ憂いや諦念を描き出します。三浦友和は…やっぱりカッコイイ。アウトレイジばりのど迫力演技は圧巻です。
生き残った者の視点から、原爆後の長崎を捉えています。私たちが気付かされることも多くあり、戦後80年の今年にふさわしい良作だと思います。おすすめです。
ちなみに原作を読まなくても、全く問題ありません。
なにしろ色が良くて 追記
原作未読、とても素直にスジを追って、美しい映像にジャストな演技に酔っ払っていい気持ち。あり?え?はぁ…。なるほどぉ。今年の上位は確定した。
撮影がヨーロッパ人だからなのか、今作もまた細部までコントロールされた映像が素晴らしい。特に1950年代の長崎。街並みや家の中や小物類。土手の草ぼうぼうな段も。
広瀬すず始め役者はみんな良いけど、二階堂ふみが特に良かったね。あの子も良かった。
(追記 スジが合理的に整合できないところや矛盾は、本人自身が整理しきれていないことを示している、と好意的に解釈しました。)
しかしね。イオンシネマ武蔵村山で鑑賞後にパンフレットを購入したのだが、元々ビニール袋に包装された状態で売られていたので、男性店員の「袋入りますか?」の問いに「要りません」と回答したら、元々入っていたビニール袋をわざわざ外して裸で渡された。いやあ驚いたわ、一手間かけちゃうんだねー、いやいや。
評価が分かれるようだが
事前にいくつかのレビューを読んで、あまり期待せずに鑑賞したが、想像以上に良かった。
被爆で地獄をみた一人の女性の強く生きる心と、その裏に閉じ込めている弱く壊れた心の様子を、二人の女性の人生を通して表現したかったのてはないかと思った。
現実なのか想像なのか、全てを分かりやすく描写されてない分、観る人によってストーリーは別の解釈になると思う。
個人的には戦争の生々しい苦しみを感じることができる名作だと思う。
あの時私は其処に居た
長崎市出身のカズオ・イシグロ氏の原作を元に映画化された作品。
終戦後の長崎で懸命に生きる悦子を広瀬すずさんが、佐知子を二階堂ふみさんが熱演。
作家を志す娘ニキ( カミラ・アイコさん )に促され、自身の過去を語り始める母・悦子を吉田羊さんが好演。大半の台詞が英語でした。凄い!
悦子の義父・緒方を三浦友和さんが好演。安定の存在感と演技力。
元教員の悦子が「 私が生徒を殺した … 。」と嗚咽するシーンに涙が溢れた。
広瀬すずさんの凛とした表情と佇まい、粋な雰囲気を纏った二階堂ふみさん、お二人の演技に魅了された。
あの時代を懸命に生きた女性達の苦悩や想いが胸に迫る。彼女達の苦しみを、私達は決して忘れてはいけない。
余韻の残る作品。
ーシェパーズパイ
映画館での鑑賞
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