遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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映像とミステリーを楽しむ
原作未読で最後の方までこれはどういうこと?と考えながら観て、その後パンフレットやレビューを拝見して、なるほどと思った。
2大女優の聡明さと美しさを堪能した。原作を読んでみたい。最近長崎舞台の映画を観ることあり(国宝(冒頭)、夏の砂の上など)、長崎を訪問したくなった、
見終わったあとに残る???
ちょっと解釈が難しく・・・
広瀬すず推しなのでそれだけで原作未読のまま鑑賞しました。
戦後の1952年の長崎を1980年代のイギリスから主人公悦子(吉田羊)の回想録?どこまでが真実なの?って感じで観終わってから色々と解釈しなくてはならない難しい作品でした。(最近はこの手の作品が多い気がするのは私だけ)
なんか色々と疑問の残る場面も多々ありましたが、それはそれで鑑賞者にゆだねてるのでしょう?
イギリスの悦子の言っている事がどこまでが本当なのか?どこが嘘なのか?答えは?
私的回答は長崎時代の悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ)は同一人物なのではないかと思っています。(悦子の服の色が段々と佐知子に近づいて行きます)
当時の夫(松下洸平)とその父(三浦知良)との関係はどうだったのでしょうか?⇒色々な出来機事から実際にあった関係で結局被爆者と言ってしまい離婚したのではないか?その後景子を生みイギリス人と出会い再婚してイギリスへって感じかな?
多々???ですが
吉田羊の英語は素晴らしかった!(セリフのほとんどが英語)
広瀬すずと二階堂ふみの演技も最高でした!
猫好きの方には猫の水死は非常に残酷でしたw
過去と記憶を語り直す
カズオ・イシグロの原作は未読。長崎で被爆した後、イギリスへ移り住んだ母親をモチーフにしたこと、インタビューで親世代の記憶を次世代に「語り直す」ことが大切と語っていること、などを予備知識として観た。
80年代のイギリスでの母と次女との会話シーンと、母が語る戦後復興期を迎えつつある長崎でのある女性とその娘との交流を描くシーンが、謎めいて交差する。被爆体験と被爆者差別、戦後の価値観の転換、女性の自己決定権など、盛り込まれているテーマは広い。
広瀬すずと二階堂ふみのクラシカルな姿態と、石川慶監督ならではの丁寧な描写やコントラストを利かせた画づくりを味わいつつ、ミステリーとしてはモヤモヤしたまま進んでいく。そして、最後の最後になって、母が語っていた女性と娘の話は、実は自分と長女のことだったと明らかになる。その時点で、母が嘘を語っていたのだとしたら、それまで描かれてきた夫や義父とのシーンも作り話なのか、と戸惑ったのが正直なところ。
しかし、観終わって改めて考えて分かったのは、母が語った自分の話は本当にあったことで、つまり自分の過去と記憶を、自分ともう一人の別な女性に仮託して語り直していたということなのだろう。実際に、長女を出産した後に夫と離縁して、バラック暮らしをしたのかもしれない。そのように語らざるを得なかったのは、イギリスに移住した後、長女が不幸な死を迎えたためだろうが、その辺りの描写がもう少しあれば、より理解しやすかっただろう。
人は誰でも、意識的でなくても、自分の過去や記憶を忘れたり、間違えたり、都合良く組み替えたりしてしまうもの。前世代の記憶を一旦引き受け、捉え直して、次世代に引き継ぐという試みとしても、考えさせられるところは大きい。
邦題からはくっきりとした山なみのようなイメージだが、原題からすると「ぼんやりとした眺め」なので、そこにはすごく納得した。
書き換えられる記憶、、、
大人の映画だね。二階堂ふみが川辺に向かうシーンでドキドキした。脳みそが刺激された。落ち着いたイギリスの田舎&室内シーンに対して、原爆の被害を受けたはずの終戦直後の長崎がやけに輝かしく人工的な光を思わせたが、この対比がストーリーの展開につれて意味を持つことが分かりゾクゾクした。原作は読んでいないが、ここは映画ならではの演出だろう。三浦友和と渡辺大和のやりとり・対立はイギリスに移住した日本人としての戦後日本への思いの象徴なのかな。「日の名残り」「上海の伯爵夫人」「生きるliving」などのカズオ・イシグロ関連作品を見たが、もっと今作を含めて滋養あふれる味わい深い映画を見たい。「ニュー・オーダー」の楽曲が見るものを惑わせる。観客は思ったよりも若い層で、30代ぐらいの女性が多かった。
遠い山なみの光
何処かすっきりしない…
…見応えはありました
主人公長崎で被爆した悦子の広瀬すずさん
夢の中に出てくる佐知子二階堂ふみさんの
演技に自然に引き込まれていく
この二人どこか似ている
と…それは後にわかってくるけど
イギリスに移住して三十年
夢となり当時の記憶が蘇ってくる
英語を流暢に話す悦子役の吉田羊さん
リアルな悦子がいる語られる話からは
佐知子から悦子に変わることもあり
…飾られた写真のなかにも
驚きはあった
自殺した景子も
謎 謎だらけで・・
少しモヤモヤ感が残った
被爆し復興する1952年の長崎を1980年代初頭のロンドンで回想する。
どこまでが真実でどこからが虚構なのか。どれが記憶の改竄でどれが意図した嘘なのか。
1952年の長崎、僕はまだ生まれていなかったけれどどこか懐かしくて美しい映像。被爆地長崎はまだ戦災の色濃い一方で復興も進み活気に満ち溢れてもいる。何もない原っぱに真新しい団地。団地のベランダから見えるバラック小屋。バラック小屋に入るとなぜか高級感のある家具に食器。小屋の住人がアメリカ兵にもらったんだろう。悲惨な被災者への共感と被爆者に対する酷い差別が共存している。今では考えられないことだが、そんな社会だったんだろう。二郎が子供を宿す悦子の腹を擦りながら「君が被爆してなくてよかったよ」というデリカシーゼロの発言。その二郎だって傷痍軍人なのだ。彼のデリカシーのなさも擁護されるべきなのか、だからこそ強く糾弾されるべきなのか。何から何まで対立する二つの事柄が頭のなかを交錯する。悦子の行動、そして嘘や記憶の改竄。僕の頭のなかで謎が交錯し、さらにこの映画に登場する人々の行動をどう解釈し評価されるべきなのか、頭の中の葛藤はここには書き切れないほどにある。
僕はカズオ・イシグロの小説が好きで多くの作品を読んでます(「遠い山並みの光」は読んでませんが)。「日の名残り」「私を離さないで」は好きな小説であり映画です。そしてこの映画は僕の好きなカズオ・イシグロの世界です。
シンクロ
あくまで、私の勝手な想像です。
悦子は、二郎に被爆体験を打ち明けてしまったため、妊娠した状態で離婚してしまいます。その後町の外れのバラック住宅で住み始めた悦子は、英語力を生かして米兵たちと仲良くなることでお金を稼いで子育てを始めます。アメリカに連れて行ってあげるという話があっても、おそらく叶うことはなかったと思われます。その後何らかの理由でイギリス人と知り合い、ニキが生まれたのだと思います。
ニキにした話は、別の時代をシンクロさせて一つの話にしたのだと思います。いくら戦後とはいえ、団地とバラック家が隣り合わせにある事に多少違和感を感じていました。
消えない罪の意識、薄れゆく記憶(★4.2)
広瀬すずさんと二階堂ふみさんの美しさが際立っていました。
戦後の復興がめざましく活気があふれていた日本。人々も希望に満ちているかに見えたが、心の傷は簡単に癒えるものではなかった。生きるためにそうするしかなかった、でもその選択に苦しんだ人生と赦しの話かと思います。
1982年、イギリス。日本人の母(吉田羊)が一人で暮らす郊外の家に、久しぶりに戻った作家志望のニキ。母は最近怖い夢を見ると言う。母は日本から連れてきた長女景子が死んだ事に罪悪感を持っていたが、家族と距離を置いていた姉を、ニキは好きではなかった。彼女は、自分が知らない母の過去を知りたいとせがむ。
1952年、戦後7年経った長崎。団地で暮らす悦子( 広瀬)は、川のそばのバラックに住む佐知子(二階堂)とその娘の万里子と親しくなる。ある日、夫(松下洸平)の父(三浦友和)が訪ねてきて、しばらく滞在する事になる。
これは、記憶にまつわるミステリーです。(以下、ネタバレです)
母の話を文章にまとめるうち、ニキは母悦子と佐知子が同一人物であり、万里子とは姉景子であると気付く。
30年前の悦子は、完璧な女性。美しく、優しく、妻としての務めもそつなくこなし、仕事も出来た。思いやりがあって、可愛げのない万里子を放っておけない悦子。
一方で、佐知子は本当の自分。自立した女性を夢見ていたけれど、戦争で傷つき、米兵と付き合い、娘を叩いたりしたこともあったかもしれない。もしかしたら、その姿は、昔出会った、自分の赤ん坊を川に沈めた女であったかもしれません。
本作は解釈の余地がありすぎて、自分で考えるしかないですが、人によって解釈は違ってくると思います。
ひょっとしたら、夫と義父も存在しなかったのかもしれません。居たとしても、悦子の話の通りとは思えません。夫が身支度を手伝わせたり、突然同僚を連れ帰ったりするのは、当時としては普通の夫ですが、身重の妻にかがんで靴ひもを結ばせるのは流石に酷すぎで、そんな男は妻の代わりに玄関に出たりしません。同僚の手前もあります。もしかしたら暴力をふるう男だったかもしれないと思いました。
義父も、嫁に気を使っていて、オムレツの作り方を覚えようかなと言っていたのに、教え子に対して激高する様子は、この人も本当は横暴な人間だったんだろうと思いました。
夢の話なのか思い出話なのかも曖昧でした。
あの箱があるという事は、猫は捨てただけで、でも長女は殺されたと思い込んだ可能性もありますし、実際に殺したから、もう一人の自分が「捨てるのでは駄目なの?」と止めたのかもしれません。
ロープを持っていたのは、娘を死に追いやった罪の意識のイメージかなと思いました。
本作は、会話だけでなく、視覚的にも敢えて違和感を入れてあったと思います。
護岸工事もしていない川のそばに立派な団地。義父の外出時に突然着物姿。佐知子の家にあった高級な食器類。なんか変だなと思ったものの、結末は想像を超えていました。
私は解釈を観客に委ねる映画は好みではありませんが、本作はそれが魅力になっています。
<追記>
本作には印象的な場面が幾つもありました。また、敢えて説明せず、曖昧にしてあるところもあるので、解釈の余地が大きい作品でした。考察を重ねても明確な答えは出せませんが、他の方のレビューも読んで、自分の考えをまとめました。
まず、1982年は現実なので、悦子は恐らく数年前に自殺した娘の事で、自分がイギリスに連れて来たせいだと責任を感じている。でも悦子は家族を大切に思っていて、その気持ちに嘘は無いと思います。
1952年時点で、娘景子は悦子のお腹の中に居たのか、それとも架空の人物佐知子の娘万里子として登場したのかは分かりません。景子が万里子なのは間違いないです。1952年の悦子の姿には、こうであったら景子は死ななかったかもしれないという願望が混じっている気がします。夫は本当は戦死していたという可能性もあります。
でも、悦子は佐知子でもあるので、アメリカで女優になりたいという夢があった悦子は男の付属物であることを良しとせずに離婚したのかもしれないし、被爆を理由に離婚され、娘の為にも外国に渡ってやり直そうと思ったのかもしれません。
いずれにせよ女性が子供を抱えて一人で生計を立てるのは困難で、バラック暮らしは大変だったはずです。悦子が黒ずくめの女を見かけて駆け付けた時に、佐知子は、「今度こそ必ず行く」と言ったと思うので、願いが叶うまでに数年かかり、行き先はイギリスになったのでしょう。
万里子が川の向こうの女の人に声を掛けられる、とか最後に悦子に対して警戒したのは、外国に行きたくないという気持ちだったのかなと思いました。
でも、被爆の事で死を予感したという考えもありますね。
ニキは母の辛い気持ちを理解しつつ、「きっと本当に理解する事は出来ないのね」と言っていました。
<追記2>
ロケ地には長崎とイギリスの他に、千葉県の印旛沼とそこに繋がる手繰川が使われました(結構地元です)レビューで不気味とか、不穏とかいう感想が多いですが、本物の印旛沼は不気味感は無い、ただ静かな所ですよ。私は正確なロケ地点を知りませんが、日当たりも良く、ウォーキングにもってこいな場所のはずです。少し離れた場所ですが、2020年に話題になった、崖の上の子ヤギのポニョの崖も印旛沼のほとりです。コロナ禍で密を避ける為に場所が伏せられましたが、崖の線路を挟んだ反対側にはオランダ風車があって、チューリップ祭りの会場になる広場があります。このチューリップの種類と株数の多さは自慢なんですが、公園に整備するらしく、2027年までお祭りは中止ですので、是非おいで下さいとは言えなくて残念です。コロナ禍が無ければ、ポニョはチューリップを掘り取った後、ひまわりの種を蒔いてるところを見ていたはずです。
過去の自分と向き合う
「過去に戻ってやり直したい」という人もいますが、私は過去を振り返るのが苦手で、そんな風に考えることはありません。
経験しているものの重さは比になりませんが、悦子もそんな風に考えていたのかと想像しました。絶望的な景色や目を覆いたくなるような出来事を眼にしてきたり、思い描く「なりたい自分」になれずにいたりした彼女は、工夫してそれを昇華しながら過ごしていました。
夫の靴紐を体をかがめて結ぶ自分からは変わろうとしていましたよね。
でも、そんな彼女が本当に変われたのは、次女ニキに財産やこれまでの記憶をつなごうと、過去の自分に向き合えたときからなんでしょう。そんな彼女の姿勢がニキを変えることにもつながったようでした。
そんな彼女が義理の父に「変わらなきゃ」と促していたのは皮肉な感じにも映りました。
節目の年だからとかいうのではなく、いろんな意味で「変わらなきゃ」いけない状況にある現代を生きる私たちに課題を投げられたような気がしました。
苦手だとしても、過去と向き合うことも必要なんでしょうね。悦子が過去の自分と長女と向き合ったときの表情が印象に残りました。
戦争の後遺症といった場合、男性の視点で語られることが多かったわけですが、当然、女性もいろんな想いや傷を背負わされたわけですよね。悦子に辛い半生を押し付けた悲惨な過去、歴史が終始鮮やかな色彩で描かれていたことで、脳裏に鮮明に訴えるものがありました。
「長崎とロンドン」
最後でなるほどとわかる
1980年代のイギリスで、日本人の母とイギリス人の父の間に生まれたニキは、大学を中退し作家を目指しロンドンで執筆活動をしていた。ある日、彼女は執筆の取材のため、疎遠になっていた実家を訪れた。その家では夫と長女を亡くした母・悦子がひとりで暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去についてこれまで聞いたことがなかった。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、長崎での生活について語りはじめた。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の話だった。長崎でどんなことがあったのか、そんな話。
長崎で何があってイギリスへ移住したのだろうか、とか、異父姉の景子の死に関わる謎、など気になり、広瀬すずと二階堂ふみの演技に引き込まれた。
吉田羊の英語、上手かった。イギリスで英語を特訓したらしいが、ほとんどのセリフが英語で、大変だったろうなぁ、と思ったし、彼女の俳優魂に感動した。
佐知子と悦子、万里子と景子の関係がわかると鳥肌ものだった。
悦子は二郎に原爆を受けた事を告げて離婚に至ったんだろうと想像した。
広島でも被曝体験を語れなかった被爆者がほとんどだから。
1950年代の長崎での悦子を広瀬すず、悦子が長崎で出会った佐知子役の二階堂ふみの2人は名演技、名女優だ。
そして、1980年代のイギリスで暮らす悦子役の吉田羊も素晴らしかった。
悦子の夫二郎の父緒方役の三浦友和もプライドと過去の栄光が捨てれない元校長役が上手かった。
名俳優、名演技、そしてなるほどと納得の脚本、素晴らしい作品だった。
映画女優広瀬すず
説明過多の映画はあまり好きではないが、もう少し解りやすく作ってくれてもいいのに。映画なんだから。
今でこそ被曝者の方を差別するようなことはないだろうが、当時は差別がひどかったんだろうなぁ。
被害に遭った者が、地獄のような体験をして、さらに同じ日本人から差別を受ける。原爆・戦争・人間の恐ろしさ。
広瀬すずはワン・シーンを除けば、ほとんどが受け身の抑えた演技ばかりだったけれど、さすがに人気・実力とも備えた映画女優、大きな画面に映える、映える。
三浦友和が渡辺大知に詰め寄るシーンは見応えがあったけれど、悦子の回想だからなくてもよかったような。どうしても描きたかったシーンだとは思うが、インパクトが強すぎて。これだけで別に一本作ってもいいくらいのテーマだと思う。
あの女の子は上手いんだろうけど、なんかあの時代の子どものような感じがしなかった。
英語のタイトル(原題)と過去の回想へ入っていくところなど、内容は関係ないけれど、カズオイシグロは「ジュリア」好きだったんだろうなと思った。 フレッド・ジンネマンの、ジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレープの映画。 なんとなくそう思った。
この映画いろいろみなさんの考察を読んでからもいちど観に行こうかな。
小説ではなく映画という観点で言えば駄作は否めない
信用のできない語り手
どこまでが“嘘”なのか・・・ 想像することを楽しむ
俺の再推し女優広瀬すず作品なので、早速2回観賞。近年分かり易いとは言えない作品に出演が続いているが、今作もそう。「メチャ難しい」と言うほどではないが、観賞者の想像力に託される部分が大きく、複数回観たくなる作品だと言える。
【物語】
長崎生まれの母(吉田羊)が一人で暮らすロンドン郊外の実家にイギリス人の父との間に生まれ、今はロンドンで暮らす娘ニキ(カミラ・アイコ)が帰っていた。大学を中退し、ライターをしているニキは被爆地ナガサキの記事を書くため、今まで母が話したがらなかった長崎の話を聞き出したかったのだった。母悦子はニキに聞かれ、少し躊躇いながらイギリスに来る前、長崎での30年前の夏の記憶を語り始める。
被爆から7年経った長崎は活気を取り戻しつつあった。悦子(広瀬すず)は戦争から復員した二郎(松下洸平)と戦後結婚し、団地で暮らしていた。腹には一人目の子供を宿し、つつましくも平和な日々を送っていた。そんなある日、部屋の窓から見える粗末な小屋で暮らす女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘と知り合う。その夏のことを悦子が話したのは、最近その頃の夢をよく見るからだった。
ニキは母と佐知子母子の話を一通り書き留めるが、近く売却されることになっている実家に仕舞いこまれていた母の古い収納品をたまたま目にして、母の話にはある “嘘”が隠されていることに気づく。
【感想】
中盤までは、「被爆地長崎」「敗戦後間もない日本」が強調される。事前に読んだ作品の記事によれば、そこは原作より濃い味付けになっているようで、「あの時代の長崎を舞台にするなら」という監督の思いが込められていそうだ。
そして全編にわたるキーワードは「変わる」。悦子、佐知子、ニキ、作品の中心にある3人の女性の「変わって行く」決意。時代の変化に応じて「変わる」ということもあるが、人生のどのような状況の中でも「常に前を向いて進む」という意志が込められていそうだ。
しかし、ハイライトは終盤に明かされる悦子の“嘘”。そのシーンに観客は結構驚かされることになる。嘘は、ボヤっとではなくハッキリ描かれるのだが、嘘の解釈には想像力を働かせることになる。悦子が語った話のどこからどこまでが嘘なのか? また、二郎は・・・
もちろん、全てが作り話のはずはなく、真実と嘘が入り混じっているはず。
また、嘘なのか、悦子は嘘を言っているつもりはなく記憶がそう書き換えられているのかどちらかも分からない。意図的嘘ではなくて、30年の間に記憶が置き換えられたと俺は解釈したい。
原作を読もうかとも思った。原作を読めばカズオ イシグロの意図はどうだったかのヒントは読み取れるかも知れない。でも、やっぱりやめておこうと思う。観賞者に委ねられる場合は、解釈に正解は無く鑑賞者がそれぞれ物語を作ることが作品の一部だと思うから。むしろその想像こそが本作の楽しむべきところだと思いなおした。
いずれにしても、文学的作品だ。脚本・演出は非常に丁寧に作りこまれていることは冒頭5分で感じた。そして役者の演技も素晴らしい。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、そしてカミラ・アイコの4女優が中心となるが、それぞれ納得感の高い演技を見せてくれている。
最後に役者に目当ての広瀬すずについて。
今年は“阿修羅のごとく”に始まり、なぜか大正・昭和の作品が続いていて、必然的に古いファッション、現代の感覚からすればダサい風体になってしまうので、ファンとしては現代的なファッショブルな彼女をもっと観たいと思たりもするのだが、オールドファッションでも「やっぱりキレイだ」と実感してしまった。 また、興行的には不利なエンタメ性の低い作品への出演が続くのもファンとしては若干歯痒さも感じるのだが、今作も才能ある監督が熱を持って制作した作品で一流の役者共演する機会を得たことは間違いなく財産になったはずなので、今後の益々の進化と活躍に期待したい。
最近では“国宝”が異例の大ヒット中ではあるが、昨今実写邦画は全般的に興行的に苦境にある。 前述のとおり特にこういう映画芸術に真正面から取り組んだ作品は特に厳しい傾向にあり、本作もやはり地味な興行成績になりそうだ。自分が観た上映回では年齢層が高く、若者には興味が薄いことが良く分かる。でも、エンタメ作品ももちろん良いのだが、こういう作品も観たいし、無くなっては困るので本作も大いに応援したい。
全421件中、241~260件目を表示
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