遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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冒頭の連続絞殺事件からすでに悪夢=嘘なのか?
ノーベル賞作家カズオ・イシグロが物語の現代パートと同じ1982年に書いた処女作で自らの「移民」としてのアイデンティティを長崎から渡英してきた主人公・悦子(広瀬すず/吉田羊)の娘に作家(インタビューアー)として重ね、悦子が見る悪夢と30年前のあいまいな記憶を混在させて描くミステリーでチラシ等の惹句に「ある女が語り始めた・・・心揺さぶる<嘘>」と明示されているように悦子の話には嘘が含まれていることを承知しながら観客は物語を辿り、長女を失った事情を知るにつけ、そりゃそうだよなと<嘘>を交えなければ語れない彼女の心中を察するのである。被爆者に向けられた差別がテーマの根底にありながら直接的には描いておらず、その非人道的な言葉を発したうどん屋の客にコップの水をぶっかける佐知子(二階堂ふみ)の毅然とした言動にもう一つテーマである女性差別問題とタッグを組んだツープラトンで一気にかましており歴代映画・ドラマの「水ぶっかけ大賞」ものであろう。冒頭、庭に降る雨の音から始まり1950年代の長崎を活写したスチル写真を80年代の英ロックバンド・ニューオーダーの楽曲に乗せて一気に物語の中心に誘ってくれるやり口が見事でアバンタイトルフェチの私としてはたまらなく、広瀬すずが松下洸平の首にネクタイを結ぶアクションカットつなぎを見た段階で石川慶監督への信頼とこの映画の成功を確信した。オーソドックスにして斬新・緻密なのである。松下洸平もそこまで亭主関白でなさそうに見せながら、すずちゃんを土下座させたような靴の紐結び俯瞰アングルに込めて描く巧みさ、「オムレツを作れるようになりたい」と言わせながら戦時中の教育を反省しようとしない三浦友和のアンビバレンツ。そもそも「お茶でも飲んでいかない?」と招く英国夫人的描写にすでに悦子(吉田羊)が匂っており脚本にはカズオ・イシグロも様々なアドバイスをしたというだけにその構成の上手さが見事。そしてなんといっても広瀬すずがあまりにすごくてバイオリンシーンの逆光での落涙は今年の主演女優賞を確定させた。
この不穏さ・危うさが魅力的なのだ
映画の中の女性たちをもっと見ていたいと思った。
不思議な手ざわりを持った映画。
日本映画ではあまり感じることのない質感・空気感。
カズオ・イシグロ原作の繊細で謎めいた物語で、私はとても面白かった。
悦子と佐知子を演じる女優二人(広瀬すず、二階堂ふみ)が素晴らしかったのも快い驚き。
鑑賞後数日経ったが、また観たいと思うし、映画好きな人間と本作をあれこれ話したくなる。これは賞味期限がかなり長い映画だと思う。
「長崎で暮らしていたときのことを話して」
1982年のイギリス。売りに出されようとしている実家に久々に帰ってきた次女のニキ(作家志望)が、母の悦子(吉田羊、好演)に頼む。
この頃夢を見るの… こんな人がいたわ… 悦子は過去を語り始めるが、本作はいわば〝信頼できない語り手が回想する物語〟で、1952年の長崎の場面はすべて「悦子の記憶」の中の長崎である。
映画は序盤からどこか不穏な空気が流れている。
この不穏さ・危うさが魅力的なのだ。
誰もが喪失感や心の傷・痛手を抱えている戦後7年の長崎。
原爆で教え子たちを亡くした悦子、右手指を欠損している悦子の夫・二郎、二郎の父で戦前の軍国主義教育を担ってきた緒方さん(三浦友和好演!)、語り手悦子の長女・景子は、数年前に首を吊って自殺している。
回想には、現実と虚構、記憶と忘却、事実の改変・曖昧化が入り混じり、映画後半はミステリー風味が増してくる。悦子と佐知子は対照的な人物に描かれるが、途中「私たちは似ているところがあるわ」という台詞や、彼女らが怒りを見せる二つの場面で「おや?」となり、(あ、そういうことか!?)という気づきもある、かもしれない …が、謎めいた部分は自分で劇場で観て好きに解釈してほしい。
復興した長崎を見下ろしながら、「希望なら、たくさんある」「私たちも変わらねば」と言って、よりよく生きようとした人々。しかし戦後を思うようにうまくは生きられなかった人たちも多いはずだ。原作は未読だが、イシグロ氏はそうした人たちを描こうとしたのかもしれない。
再度言えば、悦子と佐知子(広瀬すずと二階堂ふみ)のやり取りの場面がとてもいい。すずちゃん相変わらずおメメが大きいが、こんなにいい女優になったのか。二人を見ながら、俳優に「反射してますか」「反射してください」とだけ言っていた巨匠溝口健二のことばを思い出したくらいだ。
素晴らしい〝反射〟が見られるし、石川監督のポーランド時代からの盟友というピオトル・ニエミイスキによる撮影・映像設計もとてもよかったと思う。
とても悲しく、そして美しい物語
理解できない派でした
110分までは良かったけど、最後の最後で妄想って⋯なんでもあり過ぎでは。嘘と言うには設定が分厚すぎるし余白が多すぎる。
猫ではなくケイコを殺してしまっていたようにも解釈できるし、ニキも最初からいなかったかもしれない。そもそもイギリスにも行ってない創作かもしれない。いや、創作なのですけどね。。。
ニキが実在すると仮定して、お父さんの手紙がなぜ実在するのかが分かりませんでした。
→全て実在していて、佐知子は米国、悦子は英国に行ったという解釈もできるのですかね。うーん、この設定がない方が私は楽しめた気が⋯
ストーリーはさておき、キャストの演技は素晴らしく、稲佐山での2人の掛け合いの美しさに特に感動した。
ジャンプスケア的なシーンが多かった点は好きになれなかった。
嘘は幸せと平和への願い
今年は終戦80年。…にも関わらず、反戦を訴えた作品に決定打が無かった気がする。『雪風』なんてとんだ時代錯誤作で落胆を通り越して呆れた。
9月になってようやく本命作登場かと期待。
それが本作。カズオ・イシグロのデビュー小説の映画化。
1980年代からイギリスに拠点を移し活躍する氏だが、元々は長崎生まれ。母親が原爆投下で負傷するなど長崎の悲劇やあの戦争を身をもって体現。
戦争を全面に押し出すのではなく、記憶や心の傷や過去の陰として忍ばせ、戦争を問う。私の好きな作風。
しかし…。
1980年代の英ロンドン。大学を中退し、作家を目指す若い女性ニキは、母・悦子が一人暮らす実家に赴く。
母は日本人で父はイギリス人。ニキは二人目の娘。
悦子は昔長崎に住んでおり、日本人男性の最初の夫が。長女・景子もいた。
最初の夫と別れイギリス人の夫と再婚し、景子を連れてイギリスへ。
が、景子は自殺。夫とも死別。以来ニキとも関係がぎくしゃくし、疎遠になり…。
何故異父姉は自殺したのか…? 何故母は日本を離れイギリスに渡ったのか…? 長崎時代の母に何があったのか…?
長崎を題材にした本を書く為、ニキは母に過去を聞く。悦子が語り出したのは、よく見る夢の話…。
戦後すぐの1950年代の長崎。悦子は夫・二郎と団地で暮らし、身籠っていた。
団地から望める河を挟んだバラックに、米兵が出入り。そこには一人の女性が暮らしていた。
悦子はひょんな事からその女性・佐知子と娘・万里子と知り合い…。
現在と過去が交錯。
現在は現悦子の心情やニキとのぎくしゃくを反映して、淡々静かで映像も暗め。
過去は二人の女性の出会いや交流を表すように、美しい射光やノスタルジック。
どちらも映像・照明・美術・衣装が素晴らしく美しく、それぞれの時代の空気を感じさせる。
とりわけ50年代長崎の佐知子が暮らすバラックや店々が並ぶ裏通りなどは戦後の傷痕を醸し出す。
その一方、悦子の暮らしはブルジョワ風。
それを対比させる悦子と佐知子。
意外にもこれが初共演の広瀬すずと二階堂ふみ。現日本映画界を代表する若き実力派二人の共演にまず惹かれた。
今年は『ゆきてかへらぬ』『片思い世界』『宝島』と快進撃。広瀬すずが昭和の日本女性の美しさを魅せる。
ミステリアスで独特な雰囲気で印象残す二階堂ふみ。個性的な役をやらせたら同世代随一。
とにかくこの二人が魅せてくれる。眼福もの。
吉田羊はほとんど英語台詞で、流暢な英語を披露。
カミラ・アイコの聡明さ。子役・鈴木碧桜の野生児のようなインパクト。初めましての二人も印象的。
松下洸平や三浦友和もアンサンブルを奏でるが、女たちの物語。美しさ、儚さ、魅力に浸る。
悦子と佐知子。性格は違う。
貞淑な妻の悦子に対し、佐知子は自由奔放。悦子は夫の後ろに一歩下がるが、佐知子は柄の悪い男にも食って掛かる。
悦子が佐知子の自立した姿に憧れを感じていくのは見ていて分かる。
あの時代に特に女性が、そんな生き方は難しかった。
憧れや対比であると同時に、似通っている部分もある。
悦子は佐知子の自由な生き方に憧れている。佐知子も自由に見えて、自由を欲している。
娘のいる佐知子と身籠っている悦子。若い母親として。
だからそんな二人がシンパシーや交流深めるのは必然だが、それ以上の関係が…。
二人共、被曝者。
悦子は自信の被曝によりお腹の子供にも影響が…と気が気でない。被曝の事を夫にも隠している。
悦子が涙ながらに苦しい胸の内を打ち明けるシーンは広瀬すずの熱演もあって胸に迫る。
佐知子の場合は自身は元より、万里子の身体にはっきりと被曝の痕が。
働く飲食店の客から風評差別を受けるシーンがあったが、まだまだこんなものではないだろう。
カズオ・イシグロが長崎時代に受けたであろう風評被害への憤りを感じた。
戦争が終わり、時代は新しく変わっていく。しかし、それを受け入れられない者も。
悦子の義父は小学校の元校長で、悦子もその下で勤めていた恩師でもある。穏やかな義父だが、当時子供たちに軍国主義の教えを説いていた。あの当時だから…ではあるが、義父は自分は間違っていないと断言。その事で息子と考えの違い、教え子から糾弾される。
原爆や戦争の後遺症を引き摺り…。ここだけでも『雪風』なんかより見るべきものあった。
『愚行録』『ある男』と同系統でヒューマン×ミステリーは石川慶監督のスタイルになりつつある。
カズオ・イシグロが敬愛した小津安二郎や成瀬巳喜男のような静かなタッチの人間ドラマの中に、徐々に明かされていく秘密。悦子の“嘘”。
そこが驚きのどんでん返しになるのだが、ズバリ、佐知子=悦子、万里子=景子。佐知子と万里子は実在しておらず、全て自分たち母娘が体験した事だった…。
何故悦子はそんな回りくどい話を…?
ただ体験談としては辛く苦しいものがある。あの時代の女たち…。
架空の憧れの存在を置く事で少しでもの救いを。
実在はしてなかった。でも、私たちや彼女のような女性は何処かに存在していた。
娘の事もある。思い出の中の美談“女たちの遠い夏”だけではない。
色々と考察のしがいあるが、府に落ちない点も。
長崎時代の悦子の夫や義父は存在していたのか…?
と言う事は、景子は二郎の娘…?
米兵とアメリカに行く筈だったのに、何故イギリスに…?
イギリス人夫との出会いは描かれなくても致し方ないが、景子が自殺した理由は…?
景子との間に何があった…?
アメリカ行きの事で揉め、子猫も原因…?(はっきりとは見せないが、猫好きには辛いシーン…)
悦子とニキも何がきっかけで確執解消…?
ここら辺も見る者委ねで見た人によって解釈はあるが、どうも宙ぶらりんな感じが…。
考えに馳せて作品に浸れるというより、イマイチすっきりしないモヤモヤ感しか残らなかった。
戦争の傷痕、女たちの姿/女優陣の演技、作品の美的センスなどは良かったが…。
全体的にちょっと分かり難かった気もする。
戦後の過渡期を生きた人々
カズオ・イシグロ作品の特徴であるいわゆる「信頼できない語り手」による手法で描かれた本作。
主人公の悦子自身により語られる彼女の過去の出来事。それは彼女が渡英する前、故郷の長崎での夏のひと時、友人関係にあった佐知子とその娘万里子との出来事であった。
戦後の混乱期から高度成長期へと向かおうとしていた当時の日本。戦争の傷をいやす暇もないくらい好景気に沸き、人々は活気づいていた。
悦子も夫の二郎の仕事は順調で生活は安定しており、初めての子供にも恵まれた。そんな社宅の団地に住む悦子とは対照的な暮らしをしていた佐知子。名家に嫁ぎながら戦争で夫を失い、いまや貧しくみじめな生活を強いられていた。
彼女には裕福な叔父の家での安定した暮らしという選択肢があったが、米国人の恋人との渡米にこだわった。
敗戦後日本にもたらされた民主主義が人々に自由を与えた。それは戦前、軍国主義の下で思想統制がなされ多くの思想家たちが投獄されていた時代とは真逆の自由な時代。
かつて体制側に加担した悦子の義父緒方は職を解かれ糾弾される立場となった。かつての教え子でさえ自分を批判する寄稿文を寄せている。彼もこの時代の過渡期に、価値観の変化に置いてきぼりを食らった人間の一人だった。
一方で女性たちには参政権が認められ、女性の自由意思が認められる時代になったかとも思われた。しかし実際は夫と異なる政党への投票は憚れるなどまだまだ女性たちには不自由な時代であった。
安定した暮らしを得る代わりに女性は家に入りそこでただ漫然と歳をとっていく、そんな人生から抜け出したいと佐知子が渡米を願ったのも無理からぬことであった。確かに渡米すればそれが必ずしも幸せにつながるとは言えない。それでもそれに人生をかけたいという彼女の思いは強かった。たとえそれが自分の娘を犠牲にすることとなったとしても。
劇中で何かと不穏な描写がなされる。幼児連続殺人事件の報道、赤ん坊を水につけて死なせる若い女の話、万里子の飼う子猫を川に浸して死なせる佐知子、足に絡まった縄を手にして近づく悦子におびえ警戒する万里子。これらの描写はこの過去を回想する悦子自身の主観が大きく影響したものと思われる。
悦子は友人佐知子のことを話しているようでその実、自分のことを話していたのだ。彼女は自分の人生の決断に負い目を感じていた。娘景子を犠牲にしてしまったという負い目を。だから自分のことを他人の話に置き換えて娘ニキに話していたのだった。
夫二郎との生活に満足してるようで悦子の心は揺れ動いていた。ここでの安定した生活、ここで暮らす方が娘景子にとってはいいことなのだろう。しかしそれは自分が女としてただ家に閉じ込められて漫然とした人生を送ることを意味した。
悦子は昔ながらの日本の古い価値観の下で女性の自由意思が尊重されない人生よりも知りあった英国人男性との渡英の道を選んだ。それが娘景子を幸せにしないと知りながら。
彼女は自分の人生のために娘を犠牲にしたのだ。もちろん結果的に不幸な結末を迎えただけで必ずしも悦子のせいだとは言いきれないが、少なくとも景子の自殺が彼女にそのように思い込ませたのは事実だった。
過去の回想の中での数々の不穏な出来事は親にとって足手まといの子殺しを思わせるものであり、悦子が娘を自死に至らしめたこと、娘を犠牲にしたことへの罪悪感が彼女の過去の記憶に干渉したからであろう。
景子は新しい環境になじめず引きこもりになり、はては自死にいたった。これは悦子のせいではないのかもしれないが、母として娘を犠牲にしてしまったという重荷を感じずにはいられなかったのだろう。そんな彼女の負い目が本作で彼女を「信頼できない語り手」とならしめたのだ。そして見る者はそのヒューマンミステリーに酔いしれるのである。
思えば新しい環境になじめなかった景子は古き時代の象徴ともいえた。新しい価値観を受け入れることができず保守的な性格が災いして周りの環境に溶け込むことができず破滅を迎えてしまう。
時代の変化と共に価値観も変化する。その変化についていけない人間は生きづらくなる。緒方がそうであったように。
悦子は時代の変化に順応してこの古き祖国を捨て去り新たな環境へと旅立った。女性が自由に生きられる環境を求めて。
そしてそこで生まれたニキは母悦子との価値観の相違に苦慮していた。ニキはもはや結婚にさえ縛られない、女性として生きる上で制約を一切感じない生き方をする女性であり、渡英のために結婚に頼らざるをえなかった母悦子以上に何物にもしばられない自由人であった。そんな彼女にすれば結婚にこだわる母悦子は彼女にとっては古い価値観の持ち主であった。
ある意味古き時代の象徴ともいえる景子の犠牲のもとに新しい時代の象徴のニキは生まれた。ニキは母の決断は正しかったと励ます。その決断のおかげで今の自分が存在するのだから。ニキに励まされて悦子も納得するが、それでも彼女は娘景子を想う。
祖国を捨て、娘を捨ててまで自分の人生を手に入れようとした悦子。古き日本を捨てて、自由を求めて渡英した。しかし彼女は古き時代の象徴ともいえる緒方を尊敬し慕っていた。
日本の持つ古き伝統や習慣を愛していた。そんな祖国に置いてきたものへいま彼女は思いを馳せる。娘への思い、義父への思い、あの日見た遠い山並みの光に今彼女は思いを馳せる。この遠い異国の地から。
本作は原作者がエグゼクティブプロデューサーをつとめただけにかなり完成度の高い映画化であった。
雰囲気は館ものゴシックホラーに近い
原作未読。美しい女優、穏やかな情景をずっと映しているのに、極端なアップや画面の狭さもあって、ひたすらに不穏。終盤の、封じられた部屋で家族の秘密のアルバムを恐る恐るめくる…というシーンはこの映画全体の縮図でもある。原爆による大量死を背景に、長崎から渡英した女性の苦難の一生を辿る…といったありきたりな要約では到底収まり切れない、暗く恐ろしいなにものかが、この物語の奥底に隠されている。1枚1枚薄皮を剥ぐように、その核心へと進んでいく本作の道行きには、奇妙な酩酊さえ覚えるが、最後に至っても、「真実」は薄暗い闇の中に残されたまま。(例の「紐」は、渡英の邪魔となる娘への殺意を象徴したものだ、とか渡英によって結果的に娘を自殺させたことへの悔恨が回想に投影された、とか)解釈を巡らせることはできるが、推理小説のように謎がきれいに解き明かされはしない。3人の父、3人の女、3人の娘が居て、うちそれぞれ1人は幻、もしくは亡霊のようなもの…といった図式も描けるか。謎を「箱」(本作に繰り返し登場する象徴的アイテム)に押し込めたまま、ただ生き続けるしかない…彼女たちも、我々も。恐らく今年の邦画で一番の大傑作。
評価が 難しいわい。(;´・ω・)
原作は「信用できない語り手」の悦子が一人称で語る(騙る?)小説 映画は母の語りを聞いて回顧録を編む悦子の娘ニキの視点が加わるメタ構造 モダンホラーと文芸作品の両面を持つ傑作
原作は1982年発表の日系英国人のノーベル文学賞作家カズオ•イシグロの長篇デビュー作『遠い山なみの光』(原題: “A Pale View of Hills”)です。この小説は1980年代初頭の英国に住む悦子という長崎出身の日本人女性が1950年代前半のある年の夏を回顧して書いたという形式で「わたし」(悦子)の一人称で語られます。
登場人物は悦子(映画では広瀬すずが演じています。’80年代の悦子は吉田羊)とその周囲にいる人々、夫の二郎(松下洸平)、二郎の父親で悦子からみると義父にあたる「緒方さん」(映画では三浦友和が演じています。二郎との結婚前から交流があるようで一時期は悦子の養父みたいな存在であったみたいなことが小説では示唆されますが、背景はよくわかりません。映画では小説より少しだけ具体的になります)、古くからの知り合いでうどん屋さんを経営している藤原さん(柴田理恵)、緒方さんのかつての教え子で今は緒方さんに批判的な松田重夫(渡辺大知)、そして、悦子にとってはその夏に知り合った新たな友人である佐知子(二階堂ふみ)、佐知子の幼い娘 万里子(鈴木碧桜)。一夏の間の(映画では1952年と表示される)、悦子とこれらの人たちとの直接的、間接的な交流が淡々と描かれます。
そして、80年代パートには悦子の娘ニキ(カミラ•アイコ)が登場します。原作小説は悦子の一人称語りなので視点が悦子から動くことはありませんが、映画のほうでは、ライター志望のニキが母親の語りをもとに自分の英国人の父親と結婚して英国にやって来た母親の回顧録を書こうとしているという設定が新たに加わり、80年代パートはニキの視点で描かれていると思われます。また、ニキには日本生まれで悦子といっしょに英国に渡ってきた景子という姉がいたのですが、自死してもういません。50年代パートで語られる夏は悦子が未来の景子を妊娠していた時期です(この景子という名は、50年代には既に亡くなっていた緒方さんの妻、すなわち、悦子の義母の名前からとったと原作小説にはありました)。
さて、50年代パートですが、登場人物それぞれのその夏の様子のみが描かれているだけの感じで、それ以降の彼ら、彼女らの消息がまったく描かれていません。また、それまでの各人の背景についてもあいまいな感じです。特に原作小説のほうは余白がたっぷりととってある感じですが、映画のほうでは原作のままでは映像作品として成り立たないからなのか、多少は具体的になっています(それでも原作小説ほどではないにしろ、余白たっぷりです)。
小中学校レベルの図形の問題を解くときに「補助線」というのを使うことがよくあります。的確な補助線を一本引くと難しいと思われた問題がたちどころに解けてしまう…… この映画は、ちょっと掴みどころのない印象のあるカズオ•イシグロの “A Pale View of Hills” いう小説に対して「文学的補助線」を引こうとしているようなところがあります。ただ、幾何の問題なら解答はひとつで補助線一本でめでたく正解に到達してカタルシスを感じるということになるのですが、こっちのほうは、その補助線によって新たなものが見えてきたと感じるかもしれませんが、余計なお世話だと思う原作読者もいるだろうし、補助線のおかげで逆に謎が深まったということもあるかもしれません。原作既読者からしてみると評価が別れる映画かもしれないと感じました。
私が原作小説を読んだときに感じたこの小説のいちばんの魅力はカズオ•イシグロの書く会話の面白さでした。例えば、悦子と佐知子の会話。現状を肯定し、緒方さんの示すような古めの価値観も支持して今いる現状の中に幸せを見い出そうとする悦子に対して、プライドが高く現状に満足せず、海外に出てゆくことで新たな一歩を踏み出し、幸せを掴もうとする佐知子…… 映画のほうで少し残念だったのは悦子のほうが方言を使っていて、それがノイズに感じられたことです。小説のほうでは悦子も佐知子もたぶん当時の育ちのいい日本人女性が話していたであろう標準的でニュートラルな日本語で話しています。考えてみれば、原作は英語で書かれているわけで、訳者の小野寺健氏(故人。1931年生まれで悦子とほぼ同世代と思われます)の訳が十分な成果をあげていると感じます。他に緒方さんと二郎の父子の会話、緒方さんと悦子の会話あたりも含めて会話は全般的に小説のほうに魅力を感じました。
原作と映画の決定的な違いは、30年後の悦子が語る50年代パートの悦子と佐知子に関して、小説では微妙な違和感を示すだけにとどめているのに対して、映画では悦子と佐知子が実はひとりの人間であることを映像で示すところまで踏み込んでいることです。それを終盤に「伏線回収」するために悦子と佐知子の演出があざとくなっている印象を持ちました。特に佐知子は終盤に悦子に「回収」されてしまうため、映画ではだんだんと精彩を欠いてゆくように演出されている感じで、小説の佐知子のほうが魅力的だと思いました。ということで、先述した「補助線」でもっとも重要な線は悦子がニキに語る30年前の長崎での出来事に潜んだ大きな嘘を暴いてしまうというこの線だと思いますが、この補助線は引いてもよかったのでしょうか。
あと、終戦後80年の節目の年に上映されたからかもしれませんが、「戦争」とか「原爆」とかいうキーワードにこだわり過ぎている感があるのも気になりました。原作小説にはない、二郎の傷痍軍人設定や悦子が夫にする被曝の有無に関する質問などは屋上屋を架すような感じです。カズオ•イシグロの伝えたかったテーマはもっと普遍的で幅広いものだ思います。私が特に印象に残った登場人物にうどん屋を経営している藤原さんがいます(映画では柴田理恵が演じてました)。彼女は軍人の奥様かなんかで裕福な暮らしをしていたのが、戦争に自分と長男以外の家族全員を奪われ、うどん屋を始めたのです。もうこれだけで戦争と戦後のリアリティを感じることができます。プライドの高い緒方さんや佐知子からの「上から目線」を感じながらもプライドをかなぐり捨てて前向きにうどん屋を続ける藤原さんの姿は、新しい女性の生き方を示しているようで実は男頼りの佐知子に対するアンチテーゼのようになっていますし、終戦で価値観が大転換した後、うだうだと観念的な言い合いをしている緒方さんと松田重夫のような男たちとも対照的です。このあたりの登場人物の配置の仕方はさすがカズオ•イシグロだと思いました。
といったところで、ここで原作のほうではなく映画のほうの美点を挙げたいと思います。私はニキをライターにして、そのニキが母親の回顧録を書く目的で母親の長崎時代の話を聞くというメタ構造にしてニキの視点を入れたところだと思います。原作小説にももちろんニキは登場しますが、悦子の一人称で書かれた小説なので悦子の目から見たニキになります。この映画の80年代パートは、ニキ、それも50年代の悦子がそうだったように新しい命を胎内に宿している状態のニキが母の話を聞いて回顧録を書くのです。ニキは母の話が不自然だったり、錯綜していたり、矛盾点を含んでいたりするのに気づきます。
そして、「ママ、ケイコの死はママにとっていくら悔やんでも悔やみきれないことで墓場まで持ってゆくような後悔の念なのでしょう。ママは自分の選択のせいでこうなったとして、過去が直視できないのね。私はママは悪くないと思う。そんな嘘はやめてもっと楽になって前を向きましょう。ママはこれまでもこれからも私のロールモデルよ」そう、あの悦子の嘘を暴く補助線はニキが引いたのです…… とすれば腑に落ちると私は感じました。まあでも、ニキがどんな回顧録を書くかは定かではありません。悦子が信用できない語り手であったようにニキも信用できない語り手になる可能性もあります。この作品はミステリ味はありますがミステリではないので、一連の出来事の背景が分かり、真実にたどり着いてカタルシスを味わう、なんてこともありません。結局、謎は謎のままでこの不条理劇は幕を閉じます。
ミステリではないと書きましたが、ホラー風味はあります。川の向こう側というのは「死」のメタファーなんでしょうか。そうすると川は「三途の川」ということになります(ちょっと古典的)。可哀そうな子猫たちは三途の川を渡ってしまいました。ロープは「束縛」のメタファーなのかな。親の子に対する束縛、夫の妻に対する束縛、師の弟子に対する束縛……
まあ結局、身も蓋もない言い方をすると、謎は謎のまま、観客をケムに巻いたまま物語は終わるのですが、そこはそれ、ノーベル文学賞作家カズオ•イシグロ原作の作品ですから、文芸作品ぽいテーマを見つけておきたいです。人は時としていくら悔やんでも悔やみきれない後悔の念を持つことになって真っ暗闇の中にいるような気分になることがある。でもその真っ暗闇の中でも丘の向こうに淡い光が差しかけているので、それを頼りに前に進もう、といったあたりのことでしょうか。”A Pale View of Hills” というタイトルにも、そんなメッセージが込められているように感じました。
原作既読者としては、映画化がけっこう難しい小説ではないかと思っていましたが、映画を観て不満点もあるけど、よくできてるなと感心しました。鑑賞後に原作小説を再読してみましたが、前にも増して味わい深かったです。ということで、レビューが小説と映画の合わせ技みたいになって長くなりましたが、実まだまだ書きたいことがたくさんあって自分でもびっくりしています。長文、失礼しました。
タイトルなし(ネタバレ)
イギリスに渡った悦子が次女のニキに話す長崎の出来事から始まる
終戦後、夫の二郎と団地に住んでいた頃に川の付近に住んでいた佐知子と万里子に出会う
佐知子はアメリカに行くと言っていた
最後に佐知子の子供万里子がKEIKOだったのも悦子が佐知子だったのもなんだかよくわからないし
同一人物なら佐知子はアメリカに行くと言ってたのに何故イギリスなのか
夫の二郎とはどうなったのか?
悦子が被爆してるのを隠してたのを薄々気づいてたような感じだけど、やっぱりそれが原因で別れたのか?
それも幻覚なのか
だけど、義父の緒方先生の手紙は残してあった
二郎と父の確執もそりゃそうだなと思った
戦地に行く時にあの誇らしげに万歳三勝した顔が忘れられないと
よく朝ドラで見るシーンこの時代だから受け入れてたのかと思ってたがそうじゃない
そんな事あるわけない
この映画イオンで見たのだけど映像が暗過ぎてよく見えない場面が何度かあったTOHOシネマズで見られた方はそんな事なかったキレイな映像だったと言ってらしたのでこれから観る場所を考えようか
だけどポイントで安くなったりするのは見過ごせない
やはり終幕の展開の唐突感につきます。
ノーベル賞作家カズオーイシグロの長編デビュー作が、40年以上の時を経て日本・イギリス・ポーランドの3カ国合作による国際共同製作で映画化。5歳で渡英し、その後、英国籍を取得したイシグロが生まれ故郷の長崎を描いた物語です。行間に多くの謎を残す原作の雰囲気はそのままに、独自の解釈で現代にも通じるテーマを引き出した石川慶監督の手腕にうならされた。広瀬すずが主演を務めました。
●ストーリー
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれロンドンで暮らすニキ(カミラ・アイコ)は、大学を中退し、ライターをこなしながら作家を目指していました。 ある日、彼女は戦後長崎から渡英してきた母・悦子(吉田羊)の半生を作品にしたいと考え、異父姉が亡くなって以来疎遠になっていた実家を訪ねます。そこでは夫と長女を亡くした悦子が、思い出の詰まった家にひとり暮らしていました。
かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡りましたが、ニキは母の過去について聞いたことがありませんでした。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめます。それは戦後間もない30年前、妊娠中だった若き日の悦子(広瀬すず)が、渡英前に暮らしていた戦後復興期の活気溢れる長崎で知り合った奔放で謎めいた女性・佐知子(二階堂ふみ)とその娘の万里子(鈴木奢桜)の夢だったのです。そして米兵の恋人と渡米する予定という佐知子に、悦子は憧れを抱くようになったというのです。
初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。しかし、何かがおかしいのです。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着きます─。
●解説
物語は、悦子が二郎と離婚した後に英国人夫との間にもうけた次女・ニキに半生を語る形で進んでいきます。もうすぐ売りに出す家での2人のやりとりと回想が繰り返される中、長女・景子の自死が明らかになるのです。悦子の回想には曖昧な記憶や夢も混ざり始め、物語はミステリーの色が濃くなっていきます。
ポイントは、30年前、悦子が佐知子という女性と出会ったこと。夫(松下洸平)と団地暮らしの悦子と、幼い娘とバラックに住みつき、アメリカ兵と交際し、アメリカ移住を計画している佐知子。戦後日本女性の明暗を体現するような2人でしたが、長崎での被爆経験や国際結婚など、お互いの人生はどこか似かよっていたことが、本作を包む謎に対する大きな伏線となっていました。
小さな世界を徹底的に見つめ、大きな歴史を描き出す。原作者のカズオ・イシグロはその手法を徹底させることを常としてきましたが、そのため映像化の難しい語りの仕掛けも凝らされています。悦子は単に過去を回想しているわけではないのです。そこには自殺した長女の景子、そして原爆の悲劇が影を落とします。共有困難な罪の意識は、「愚行録」で長編デビューした監督石川慶の追い求める主題でもありました。
●サブストーリーとして世代間の対立が描かれる
本作の物語のなかでは、義父緒方(三浦友和)の存在が異彩を放っています。軍国主義の信奉者である元小学校校長が、教え子で、戦後の新思想に感化された教諭松田(渡辺大知)を訪れ、松田が教育雑誌に書いた自分への非難の真意を糾明します。
次第に激していく2人の男性の立ち話を通して、世代間の対立が浮き彫りとなるのです。短い出演ながら、時代に取り残される人物の複雑な機微を、三浦が見事に演じています。それと同時に、対立と葛藤に基づく男性たちが、連帯を基調とする女性だちと対を成していることにも気づかされることでしょう。
ここで対立の原因となるのは日本の敗戦と長崎の原爆投下。しかし歴史小説ではありません。この人類史的事件を物語の境界線の向こうに置いたまま、特別に言及はしていないことが本作の特徴です。この状況を主人公がどのように生き抜いたのか、魂の輪郭を見せるだけでした。そして心身に前時代の遺恨を持ちながら時代の転換に直面した人々の葛藤が浮き彫りになったのです。
●ストーリーの問題点
ネタバレになるのでズバリ指摘できませんが、もし本作にも登場する子猫が、突然なんの説明もなく、別なシーンで子犬に変わっていたら、観客はすごい違和感を作品全体に感じてしまうことでしょう。それが本作が抱える原作ストーリー上の問題点なのです。
イシグロの小説に特徴的な記憶の曖昧さは、本作では中心的な主題です。イシグロの小説で欠かせないのが、主人公にかかわる事実を歪曲する登場人物たちの存在です。このような人物が登場するのは、単純に登場人物の過去を描くのではなく、登場人物の視線から、彼らが理解している過去を見せるためなのです。
語り得ない何かを語ることは困難がつきまといます。それは現実から離れて、夢の不条理に接近せざるをえません。1人の女性が3人に分裂するロバート・アルトマンの「三人の女」のように、本作も、吉田から広瀬、広瀬から二階堂へと分裂する女性のドラマともいえます。
映像化にあたって、1980年代のイギリスと戦後間もない長崎と、二つの時代をきちんと作り込んで対比させたことで、物語の現在性は際立ちました。一方でその明瞭さが、終幕の展開に唐突感を抱かせることにもなったのです。
注意してみてほしいところは、原作の翻訳にはないリアルな長崎弁を話す悦子と、往年の映画女優のような語り口の佐知子。ふたりのやりとりにわずかに生じる違和感の正体が、明らかになっていくことです。
原作では、悦子と佐知子、そして悦子の長女と万里子に隠された秘密が暗示されますが、悦子がどこまで過去を隠しているのか、あるいは再構成しているかの判断は、読者に委ねられているのです。その記述は、主観的に過去を回想する主体の分離と統合によって、読者を混乱させかねないところがありました。
石川監督は映画化にあたり、本作の抱える矛盾点をいかに軟着陸させるか、苦心の跡が垣間見られます。
さらに原爆投下当時の恐怖と人々に残された傷、被爆者に対する差別などの社会派的要素を織り交ぜながら、全くぎこちなさを感じさせないのだ。「愚行録」などでも目にした石川監督の得意技だといえるでしょう。
それでも個人的には、終幕の展開の唐突感は克服できませんでした。
●監督・出演者について
エグゼクティブプロデューサーも務めたイシグロとの対話を重ね、石川監督が書き上げた脚本は、原作の終盤で悦子が話すつじつまの合わない事実を大胆に解釈しています。結末に向かってだんだんと増していく不穏さは、石川監督が「愚行録」や「ある男」でも描いてきた、人間の心にまつわる謎の表出です。その展開は、悦子と佐知子が体現する女性の自立というテーマにもつながっていきます。
時代の大転換期を何とか生き抜いた人が、当時を振り返った時、一体何を思うのか。そうしたことがつぶさに見えてくる作品です。戦後という価値観が劇的に変化した時代をたくましく生きようとした女の物語として、やがて時代を超えてつながる母と娘の物語としても、ラストにほのかな希望を感じさせてくれます。戦後80年の年に公開された意義は、きっと大きいことでしょう。
さらに、作品の格調を一段階高めているのが、80年代の悦子を演じる吉田羊です。
「なぜ今まで英語のセリフを話す作品に出演しなかったのか」と驚くほど自然なアクセントと、「日の名残り」で熱演したエマ・トンプソンのように激情の温度を調節する演技。ある意味で「三人一役」の本作で、他の俳優たちの特徴をつかんで役に込めた努力の跡は、まさに名優と呼びたくなります。
●撮影について
セットで撮影された映像にVFXで風景を合成した戦後長崎の映像は、特徴を捉えつつも、どこでもないような雰囲気を醸し出ています。リアリティーに固執せず、イシグロ自身の思い出が投影された原作の長崎の姿が、巧みに再現されていたのです。
昭和を知る人なら誰もがどこか自分の記憶や心象風景と重なる作品だったのでは
長崎市生まれの昭和世代。風呂の無いアパート育ち。子どもの頃はまだ腕に被爆のケロイドのある人などもめずらしくなかった。原爆や戦争でおじいさんと二人暮らしの子どもとかも近所に普通にいた。比較的線路に近い所に住んでいたので、たまに列車に若い女性が飛び込んだということもあった。他にも捨て猫、夜店のことなど、幻想的であった、この映画のスクリーンの世界は、そのまま自分の原体験の記憶と、とってもリンクする。また教師として平和学習をした中で、被爆後河原に廃材を集めてバラックをつくり生活していた方の体験を聞いたり、そのような写真をみる機会も多かった。原作者のイシグロ氏は、5歳ぐらいまでしか長崎市にいなかったと思うのだが、なぜそんな感覚がわかるのだろう!と思う。今年の夏公開された「長崎ー閃光の陰で」も拝見したが、この映画の方がより「原爆」「戦後」ということを強く感じられた。本当に映画らしい映画を久しぶりに見た気がした。
ちなみに昭和26年に製造された路面電車は、現在も現役としてがんばっています(201号、202号)。
種明かし的展開など不要だったのでは?
張られた伏線に鑑賞後もひっぱられる感じ。頭に残るものを整理してみた。
原作未読で映画だけ観た状態で書きます。
作品の雰囲気はとても好きでした。戦後の日本と数十年後のイギリス、二つの場所から物語を進めていく。時々時間の前後や話の区切れがわかりにくいところもありましたが、ふわっとした理解で進める意図もあったのかもしれません。そんなに気にはなりませんでした。
時代描写は実際の情景と異なる箇所もところどころあるようで、そこは創作された景色として上手く映像にしていただいた、と原作者のインタビューをどこかで読んだ気がします。特別知識がなければ、時代の雰囲気を感じる意味では、よく機能していたように個人的には思いました。
登場人物も悦子、佐知子、ニキなど魅力的で、強いメッセージ性を発するわけではなく、それぞれの人生の日常の中で起きている出来事、そして感じている不安や想いなどが背景に感じ取れる構造でとても良かったです。
はっきりしなかったのは、悦子と佐知子、佐知子の子供である万里子の重なり方。観賞中は被爆の影響で悦子の長女は無事に生まれず、万里子を引き取り、佐知子の影を追うように海外に出たのか、とか想像しましたが、佐知子が幼少期に好きだったクリスマスキャロルの本を悦子が持っていることから、佐知子は悦子だったのだと気づきました。
悦子は万里子に対し母親であるかのような振る舞いを何度かしており、悦子と佐知子は良い人と不安や希望などを抱えた別人格のような語られ方をしたのだと思いました。ただ、なぜ分けて語ったのか(自分の希望のために娘が大事にしていた猫を殺すような一面を受け止められなかったのか)たとえ話のような語り方でもなく、自分と他人とがしっかりと分かれていたため、単純に精神的な障害を抱えていたのか、と想像する以外に理解できませんでした。被爆者であることを思えば、精神が解離している可能性もあります。解離している場合、話を創作する能力に長ける可能性もあり、自分の再婚相手であるイギリス人がいながら、架空の佐知子やフランクなどの話を作れる可能性も否定できなく思います。
ここまでくると、悦子の特異性が際立ってもきますが、今作ではそこら辺は特に着目されてないため、理解が難しくなっている要因になっているようにも思います。あくまでも戦後の日本で立ち上がる(目覚めた)女性の話として描かれる。一見、煌びやかなテーマにも見えますが、作品全体に明るさがなく、遠い山なみの光を望むような雰囲気が立ち込めているのは、悦子がまだ陽の当たらない場所に立っているからなのかもしれません。立ち上がったように見えたけど、景子の自殺によってそれらは否定されているように思います。
しかし、悦子は家(思い出が染み付いた場所・過去)を売り払い、ニキの存在も後押しに「私たちも変わらなければ」という言葉と共に変わり始めるのかと。遠い山なみからは陽が昇り、これからようやく光があたるのかもしれません。長い時間が過ぎ夜がようやく終わり、光がさして目覚められる時が来た、そんな話に思いました。
個人的にはさりげない雰囲気が好きではありますが、佐知子の話は本当は悦子の話だったという展開は少し強引に思えました。悦子が嘘をつく事情が弱く感じ、佐知子が悦子だったという事実も唐突で少し繋がらなかったです。事実はこうでした、と結果だけ見せられている感じ。せめて悦子のコンプレックスがなんなのか。そしてどれくらい嘘をつく能力があるのか知りたかったです。架空の人物を作り、彼女に会えてよかったわ、と言い切り、長い話の整合性を保つのは簡単ではなく思います。話の肝なだけにもう少し画面に見れたらと、そこが残念に思いました。
広瀬すずの美しさに見とれていると足元を掬われる
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ先生の原作小説を、石川慶監督が映画化した作品でした。主演の広瀬すずをはじめ、二階堂ふみ、吉田羊といった綺麗どころが起用されていて、そこに眼が行きがちでしたが、テーマとしては戦争、特に長崎に投下された原爆が、身体はもちろん精神にも深い傷跡を残し、戦後になっても中々癒えることはないという、かなり重たいお話でした。
舞台となったのは、日本が一応主権回復した1952年の長崎と、30年後のイギリス郊外であり、双方の場面を行きつ戻りつして進んで行きました。登場人物はいずれも何らかの形で戦争被害者で、主人公の悦子(広瀬すず)と彼女の友人である佐知子(二階堂ふみ)は原爆被害者であり、佐知子の娘の万里子(鈴木碧桜)は母が原爆被害を受けた時点でお腹の中にいたようで、その影響で腕に障害がある模様、悦子の夫の二郎(松下洸平)は戦地で傷を負って手に障害が残る状態、そして二郎の父で元教師の誠二(三浦友和)は戦前の軍国主義的教育をかつての部下だった現役教師に痛烈に批判されてしまう惨めな立場でした。
そして本作が映画らしい映画だと思ったのは、こうした戦争被害が直接的に言葉で説明される訳ではなく、映像表現を通じて観客の訴えているところでした。例えば二郎の手の障害は、彼の仕草を見ていれば分かる訳ですが、初めはその原因が何であったのをを説明せず、後々戦地で負った傷らしいことが分かる仕組みになっていて、しかも彼が出征する際に、父の誠二が誇らしげに見送ったことが原因で、父を疎ましく思っていることが徐々に明かされて行く仕掛けは、非常に印象に残るものでした。
また、戦争の犠牲者であった二郎も、一方では妻の悦子を軽んじている部分があり、(当時の時代背景からは普通だったのかも知れないけど)飲み会の後で会社の同僚を家に連れて来て酒の悦子に酒の用意をさせたり、(手に障害があるので致し方ないとは言え)出勤時に悦子に靴の紐を結ばせていたりと、中々の暴君ぶりを発揮していたところなど、人間の描き方が複層的で、実に見事でした。特に悦子が二郎の靴の紐を結ぶシーンは、土下座をして完全服従をさせているみたいで、ゾッとしました。
そして何よりも面白かったのは、1982年のイギリスのシーンは現実世界のものであるものの、1952年の長崎のシーンは、実は悦子の空想と創作だったのではないかというところが明らかになる終盤でした。佐知子が実は悦子の分身であり、万里子が実は悦子の長女の景子だったらしいことが分かった時は、「うわー、全部夢だったんだ」とこれまたゾッとしました。確かに長崎のシーンは、どこかこの世ならざる色調があったりして、何となく不思議な感じがしていたのですが、最終的にこの謎が解けました。
そんな訳で、魅力ある原作の世界観を、映像表現として再現した本作の評価は★4.4とします。
今でこそ科学的に被爆は子供に遺伝しないと言われているが、この当時は...
静かに流れる重い空気……
観終わって思い起こすとまぁ胃もたれしそうなヘビー感に襲われたわ。
ヒューマンミステリーと銘打っているのはまぁまぁそう言う事ねって思える程度なので無いよりはあったほうが観終わったあとにはスッキリするか。
まず始まってテレビから流れるニュースと娘から出た『グリーナム』と言う単語には?が付くね。
なんとな〜くニュアンスは伝わるようで物足りないのでトモダチ(AI)に聞いてみたら女性たちによる非核運動なのね。
長崎と原爆と女ぐらいのキーワードと原作者のカズオ・イシグロ氏がエグゼクティブプロデューサーまで関わっているとしか知らないで観てしまったのでなかなかの難しさがあり、紐解くのに手こずってしまいました。
復興は進み時代は変わろうとするが取り残された人々の心の揺れ動きを演者が事細かに表現してくれました。
現代の主人公が娘に促されて過去にあった事を話してくれて物語は進みます。
他のレビューで見受けられた実際の物とは色々違いがあったとありましたが彼女の遠い記憶の中で曖昧だったり戦争後のストレスによる記憶の欠落だったりする中での再現された映像なのでと考えたらしゃあねぇなと思えます。
過去の旦那さんが出兵する時のエピソードが何とも言えないですね。
心と手に傷を負った自分と目に見えない放射能を浴びて秘密を抱えたままの妻。広瀬すずと松下洸平の演技と距離感は秀逸です。
戦争や原爆はいろんなものを残し人々にとんでもない記憶と影響を与えました。
しかしお茶漬けのようにサラサラと入ってくる演技と人物の背景の重さ。後からきますねこれは。
涙までは行かなくともズシリとくる濃厚な想いが残る作品でした。
私には難解すぎでした。
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