「信頼のおけない語り手が、語り得なかったもの」遠い山なみの光 〇~kuboさんの映画レビュー(感想・評価)
信頼のおけない語り手が、語り得なかったもの
原作小説を読んでいたので、期待して劇場公開日に観てきました。
映像の光の演出(赤い空や万里子の首に差す西日、稲佐山の逆光等)は素晴らしく、佐知子の家の奥行き感や色彩の使い方も工夫されていてとても美しかったと思います。また俳優陣の演技もみな巧みで安心して最後まで観続けることが出来ました。
ただ残念なことに物語りの表現展開が私の期待していたものと違っていて、 どうしてもそこに物足りなさを感じる事になりました。
特に万里子のキャラクター表現が月並みでした。佐知子と悦子という重要な登場人物と同等、いやそれ以上に大切なキャラクターとしてもう一歩踏み込んだ演出をして欲しかった。
私がこの小説を読んで心をゆさぶられた箇所は子供殺しに関連した場面です。
1,狂った若い女が自分の赤ん坊を水に浸けて殺すところ。それを万里子は正面から見てしまう。
2,悦子の足首にからんだ縄(景子自殺の縄を連想)を「どうしてそんなもの持ってるの?」とおびえた万里子に訊かれるところ。
3,佐知子が万里子の飼っていた子猫(ちなみに万里子が子猫につけた名前はミ(Me)ーちゃん)を川に沈めて殺す場面。
原作では万里子は死者に近い存在として描かれています。おそらく川の向こうとは彼岸、死者たちの世界でそこから万里子を訪ねて来るのは、原爆で亡くなった死者もしくはその幽霊(川べりの土手には柳の木が生えている)なのではないでしょうか。
私はこの物語にはニ種類の人間が描かれていると思いました。一つは人を死に追いやる側の人間。もう一つは人から死に追いやられる側の人間です。
先の側の人間としてはまず原爆を長崎に落としたアメリカ軍の軍人であるフランクです。(万里子に、ふとんにうんこする豚のおしっこだ!とののしられる。ふとんのうんこは原爆の放射能汚染を強烈に連想させる。)それと悦子の義父の緒方さん。彼は教育者として教育を通じ教え子たちを死地に送り出した人です。しかも原爆を体験した戦後にも拘わらず自分は正しかったと言い張る人間なのです。(教師という”役割”を演じている姿は完璧だが、人間としての魂が欠けている。ナチスのアイヒマン。「日の名残り」の老執事スティーヴンズを思い起こさせる。)そして自己自立のため不都合な記憶に蓋をし米英の価値観にすがりついて我が子である景子(万里子)を犠牲にする母親の悦子(佐知子)です。緒方さんと悦子が仲良く見えるのは、お互い魂が欠落したカラッポな人間同士だからでしょう。
もう一方の側の人間としては、あえて直接には「語られていない」長崎の原爆で亡くなった多くの人々でしょう。(そこには悦子の家族や親しかった友人、知人、緒方さんの教え子たちが含まれていたはずです。)喪服を着て佐知子の家を訪ねる川田靖子とその父親も極めて死に近い存在で、まるで幽霊のようです。そしてイギリスで首を吊り自殺した景子と、母親の佐知子が川に沈めて殺した猫たちです。(子猫は万里子を暗示し、沈められる木箱は棺桶を想起させます。)それと人ではありませんが万里子(景子)が長崎で唯一楽しく想った稲佐山での「記憶」も猫を木箱ごと水に沈めるこの行為で全て消されて(殺されて)しまったとも言えます。
悦子が他人(佐知子)の姿を借りて自分を語るのは”罪”の意識から身を守るためでしょう。ではその”罪”の意識とは何なのか?信頼のおけない語り手である悦子は一体何を隠しているのか?それと子供殺しとはどう関連しているのか?これがこの物語の中心テーマなのではないでしょうか?このテーマが映画を通じどう回答され表現されるか期待しましたが、それに応えるものは残念ながら私には届きませんでした。
長崎に暮らす悦子は復興著しい長崎の街の様子や、将来に希望を託して何事も無かったかのようにふるまう周りの人々の様子は語りますが、肝心の悦子自身が体験したであろう”原爆”という悲劇の「記憶」について全くと言ってよいほど触れません。なぜでしょうか?
なぜならそれは悦子にとって目を逸らしたい真実だからです。長崎を抜け出し、女性として自立した自分の立場を得るため戦勝国(米英←原爆を落とした事は正当だと主張する自己欺瞞の国々)の男と結婚する事を望む悦子(佐知子)にとって”原爆”という「記憶」はできれば隠したい不都合な「記憶」なのです。また、その不都合な「記憶」を呼び覚ます景子(万里子)の存在は邪魔で消し去りたい存在といえます。これが子供殺しのイメージにつながるのです。
私がこの物語(小説)から受け取った普遍的なメッセージはこうです。(あくまで私個人の感想ですが)原爆や戦争という大きな悲劇の「記憶」(過去)に目をつぶり真摯に次の世代に語り継ごうとせず、何事も無かったかのように振る舞う態度は、自分達の「子供」(未来)を殺すことになる。(同じ過ち、悲劇を何度も繰り返してしまうという事)
戦後80年にあたる節目の年にこの映画が日本で公開される意味があるとすれば、ここにこそあるのだと思います。
英国で自責の念に囚われている悦子に残された唯一の救済(赦し)の方法は、おそらくもう一人の娘であるニキに自己を欺くことなく正直に長崎時代の「記憶」を、景子を含めた死者達に想いを馳せながら語り伝えることだけだでしょう。しかし物語はそれも為されることなく薄暗い雰囲気のなか幕を閉じます。映画のような母娘がピアノを連弾なんかして、お互い理解しあえてそれぞれ前向きに生きていきましょう、みたいな希望を暗示するラストは決してあり得ません。私には、悦子の足首にはまだ縄が絡みついている。(今度は自分に向けられたものとして)というイメージの方がこの物語のラストにはふさわしいように思います。
私はこの原作小説を読んだとき一つの違和感を感じました。それは長崎出身のカズオ・イシグロは、きっと両親から長崎原爆の体験談を聞いているだろうになぜその「記憶」を、テーマやモチーフとして長崎が舞台のこの小説に直接織り込む事をしなかったのか?むしろ避けて描いて見えるのは何故か?という点です。これはあくまでも私の想像ですが、それは「語らない事で、語る」「語りえない事を、伝える」必要性がこの物語にはあったからなのでしょう。”信頼のおけない語り手”とはカズオ・イシグロその人そのものなのではないでしょうか。ーおわりー
ー追記ー
カズオ・イシグロの両親の事が気になり調べてみました。やはり母親の石黒静子さんは妹さんと一緒に長崎で被爆されていたようです。しかもカズオ・イシグロが小説を書き始めた時期に、必要と感じた彼女は折に触れ長崎で受けた原爆の体験を彼に語り伝えたそうです。
長崎の被爆体験を綴ったものと言えば、林京子の「祭りの場」が有名ですが、なんと林京子さんと石黒静子さんは同じ長崎高等女学校出身で(林さんは本科、石黒さんは専攻科)原爆が落とされた日、場所は別々でしたが、長崎市内の軍需工場にそれぞれ学徒動員で働きに出ておりその際に被爆されたそうです。(二人に直接の面識は無かったようです)お二人とも奇跡的に助かりましたが、(石黒静子さんの妹も含めれば三人とも)地獄のような惨状を目にした事は想像に難くありません。
林京子の「祭りの場」には長崎に落とされた原爆の「記憶」。それも抽象としての「記憶」ではなく、生の、具体の、真実の「記憶」が記されています。決して長くない文章なので、未読の方はぜひ手に取って読んでみて下さい。そしてこの物語(小説)の悦子(佐知子)景子(万里子)の事をぜひ振り返ってみてください。ー以上ー
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