「なんじゃこりゃ」遠い山なみの光 karaagehkさんの映画レビュー(感想・評価)
なんじゃこりゃ
これは全部嘘の話ですか?わからい事が多すぎる。何を伝えたいのか、主人公の長崎から今に至るロンドンまでの事を伝えたいのか、三浦友和はなんだったのか、なんかとっちらかって何も回収せずに終了という感じ。劇場では見なくていい作品です。監督の力量がたらないのか。
直線的なストーリーだけを追っていたのではわかりませんね。この作品は人の記憶の意図的な歪曲を描いています。そのためガラスに描いた2枚の絵を重ねたような構造になっていて、見る側の想像力が試される極めて文学的な作品です。
この映画、シーンを繋ぐ説明が無いので見ている間は?が溜まります。それでも、私は以下の通り解釈しました。
以下、ネタバレを含みます。
先ず、この映画は戦争(原爆)によって体と心に傷を負わされた一人の女性(悦子)の苦悩(自責の念)と葛藤(新しい自分に変わる)を描いた作品だろう。そして、遠いやまなみの光とは原爆の光のことで、悦子が守れなかった教え子達と被爆した景子(長女)への自責の念に支配されることになる。長崎の町は復興し始めたが心の傷は癒えない。時を経て1982年に悦子はライターの次女(ニキ)にナゼ日本からイギリスに渡ってきたのかインタビューされる中で、過去の自分と景子のことを佐知子と万里子に置き換えて(或いは思い込んでしまって)振り返っている。佐和子は変わろうとしている自分であり、黒い服の女は長崎に残ろうとする自分であろう。結局、悦子は忌まわしい光の呪縛から自分自身を解放する為にイギリス行きを決意するが、それは長崎に残りたい景子(=万里子)の気持ちを葬るものであり(川に沈めた猫が象徴)、新たな自責の念を生むことなる。川辺りを走り悦子の足に絡まっていたロープは景子を連れて行く道具(象徴)となり景子はそのことを酷く警戒したが従うしかなかった。長崎の団地の窓から眺めていた景色は明るい希望であったが、実際にイギリスに渡って住んでみた家のトーンはどんよりしている。終盤で悦子(吉田羊)が路面電車に乗る悦子(広瀬すず)と景子を陰のある表情で見守っているのはイギリスでの生活でも晴れない悦子の自責の念の表れだろう。更にイギリスでは景子を溺愛するも、景子は自死してしまう。しかし、それでも悦子はそこから変わろうとする。景子と過ごした家を売り、思い出深い荷物も処分するとニキに告げる。そうすることで自責の念から解放されるかどうかは分からないが、前を向いて歩き出そうとする母の姿に娘のニキは漸く希望の光を感じたのではないか。と言う映画かな。
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