「霧の中を歩くような鑑賞体験ーー戦後日本の記憶」遠い山なみの光 ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
霧の中を歩くような鑑賞体験ーー戦後日本の記憶
カズオ・イシグロが20代に書いたデビュー作を原作に映画化されたという。彼の作品は「日の名残り」「私を離さないで」「クララとお日さま」を読んだことがあるけれど、この原作は未読だった。
全く知らないまま本作を観られるのは、幸せな体験なのか、無謀な挑戦だったのか……なかなかに手強い鑑賞体験であった。
どこまでがネタバレなのか、また僕がちゃんと観れているのかもわからないが、感想を書いてみたい。
この作品は推理小説などでいういわゆる「信頼できない語り手」による物語である。そして、映画の中では、語りと記念写真の食い違いなどで、そこまで映されてきた物語が信頼できないことを明示している。
ただ、その場面を見て「ああそうなのか」となったわけではなかった。よく翻訳ミステリー小説を読んでいると、誰が誰なんだかわからなくなることがある。それと同じで、主要登場人物の名前と役割が自分の中で混乱して分からなくなってしまったのだと諦めつつ、中盤は観ていた感じである。
多分これは、小説より映画の方がその混乱は大きいのではないだろうか。小説なら語り手が分かるけれど、映像の場合は、回想や主観的映像だと明示されない限りは、僕らは客観的描写、つまり事実(あくまでフィクション世界内での、だけれど)だと思って見ている。そこは部分は、もう少し分かりやすく表現してくれても良かった気がする。長い時間迷子のまま、半分あきらめつつ観ることになったからだ。
それでも見終わって、非常に強い余韻に浸っているのだから、これで成功なのかもしれない。
物語は、戦後7年後の長崎。そして27年後のイギリス。二つの時間と場所での、同一人物たちの物語である。
本作のPR映像に登場したイシグロによると、彼は5歳まで育った生まれ故郷、長崎を戦災と廃墟の街として記憶しておらず、未来に向けて発展する美しく元気な街だと記憶しているそうだ。
しかし、イシグロの記憶の中の長崎とは反対に、彼の誕生直前を舞台にしたこの映画は、戦争と原爆が登場人物それぞれに深い傷を与えている。
戦前の半宗教国家から、敗戦後いきなり民主主義世界に切り替わったわけだから、その2つの対照的世界をまたがって、大人として生きることがどれほど困難だったのかも、伝わってくる。
いきなり人間は生き方も価値観も変えることができない。それまで従ってきた基準が変わってしまうと、自分が心理的にバラバラになってしまうから、認知的不協和を解消するための合理化が行われる。要は自分が受け入れられるように自己物語を改変する心の働きがあるという。
そうした合理化が、この大戦後には日本中で行われた。共有できない個人の物語がさまざまな場面でコンフリクトを起こし、関係性も人生の一貫性も破壊されてしまった。それでもなんとか自己同一性を保って生きていかなければならないから、信頼できない語り手となるしかない、ということでもあると思った。
そもそも人は自己を通じてしか世界を認識できないから、常に世界はその人のフィルターを通してしかみることができない。
イシグロのノーベル賞受賞理由は「壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた」ためだそうだ。イシグロの作家としての特質が、私たち一人一人が幻想的感覚(主観的な世界理解)で生きていることを見事に描くことにあるということなのだろう。
だとすると、これまでに読んだ3作品以上に、このデビュー作にその特質が凝縮されていたのではないかとも感じた。
分かりにくさに文句も書いたけれど、原作を読んで、また映画を観直してと、何度も噛み締めるように鑑賞したい見事な映画であり映像だった。
主演の今をときめく女優たちもとても美しく抑制された名演を見せてくれるし、映像的にはおそらく明るいレンズを開放で使った浅いピントが、イシグロの幻想的感覚世界を見事に描写しているとも感じた。
原作を読み直して、もう一度鑑賞したいと思う。見直すたびに、霧の中を歩くような感覚で鑑賞した今日のことを、幸せなことだったと思い返すことになる気がする。
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