「選択を肯定したい自分と、後悔している自分を同時に語っているような映画」遠い山なみの光 Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
選択を肯定したい自分と、後悔している自分を同時に語っているような映画
2025.9.5 一部字幕 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(123分、G)
原作はカズオ・イシグロの小説『A Pale View of Hills(邦題:遠い山なみの光)』
原爆直後の長崎を生き抜いた母と疎遠の娘を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は石川慶
英題の『A Pale View of Hills』は直訳すると「丘の上の淡い景色」という意味
物語は、1952年の長崎のことを1982年のイギリスにて回想するという構成になっていた
1952年の長崎には、原爆を乗り越えて専業主婦をしている悦子(広瀬すず)がいて、彼女には多忙な夫・二郎(松下洸平)と2人で暮らしていた
ある日のこと、2人の元に二郎の父・誠二(三浦友和)がやってきた
彼は息子の同窓会に併せて訪れていたのだが、一週間も早く到着していた
やむを得ずに息子の家で泊まることになったものの、父親とあまり一緒に過ごしたくない二郎は、仕事を理由に帰宅を遅らせ、父との将棋指しも拒んでいくようになった
父にはとある目的があったのだが、それに向かうためには心の整理が必要で、息子との会話が必要だと考えていた
それは、誠二の元教え子で二郎の友人でもある松田重夫(渡辺大知)が、ある雑誌書評にて、誠二の教育方針に対する意義を唱えていて、さらに「追放されて当然だ」という強い言葉で締めくくられていたのである
映画は、1952年と1982年を行ったり来たりする構成になっているが、1952年に関しては悦子の回想とニキが残された荷物から想像するものが入り混じっている
悦子は新しい時代に向かう中で、新しい生活をしたいと考えていたが、夫はそうは考えていない
これまでの日本と同様に「母親は母親らしく」という考えに固執していて、おそらくは子どもが生まれれば一切の自由を与えない夫になっていたと思う
この考えは、彼の父から受け継がれているものであり、それが時代の変化とともに古きものとして断罪されていく
教え子との会話では、かつて反発していた者が今の教育の主流となっていて、戦争に向かわせた教育を全否定されていた
誠二は師に対する敬意とか当時の努力を語るものの、松田たちの世代からすれば、結果こそすべてであると言えるのだろう
物語は、実は悦子=佐知子だったというカラクリがあり、記憶が時を経て分離しているのか、混在しているのかが不明瞭になっている
景子=万里子(鈴木碧桜)であり、1952年時点でのお腹の子どもとなるのだが、同時進行で万里子が描かれているので、とてもややこしい演出になっていた
1952年の悦子は少し先の未来の自分(=佐知子)を同時に語っていることになり、そこに嘘があるのかは何とも言えない
だが、ありのままを話せない自分がいて、あの選択は間違っていなかったと思い込みたいのだと思う
それでも、アメリカに来たことで景子は自殺してしまっているので、選択の正しさを思い描けない部分はある
そう言った後悔と肯定の間において、記憶はあたかも自身を分離させるかの如く、同時期に存在するという構図を生み出していたのではないだろうか
いずれにせよ、余白の多い作品で、観終わった瞬間にスッと入ってくる作品ではなかった
ニキが見つける遺物によって悦子の話の真実がわかるのだが、景子=万里子という関係性の他にも「佐知子が万里子を捨てて1人でアメリカに行ってしまった」とも考えられてしまう
それは、二郎との夫婦関係がどうやって終わったのかを描いていないからであり、かなりの部分が抜け落ちた回想になっているからだと思う
アメリカではなくイギリスを選択した理由もわからないし、佐知子をあたかも他人のように説明するための嘘であると言えるのだが、やっぱりわかりにくいよなあと感じた
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