遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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美しさの中にある暗闇が見事な作品
あまりにも自分の好みすぎる要素が多すぎてびっくりした。
正直、作品の内容的には人を選びそう。
エンタメ性が高く、わかりやすい内容の映画が好きな人にとっては、よくわからずつまらないという感想をもってしまう可能性も高い。
しかし、この手の映画が好きな人には、かなりブッ刺さる作品だった。賛否両論あるのも納得。
私はめちゃくちゃブッ刺さってしまって、鑑賞後思わず「おもしろかったー」と声に出して呟いてしまったぐらいだ。
この作品は余白が多く、全てを語らずこちらに解釈を委ねるシーンが多い。
常に付きまとう不穏な空気と、どこか、何かがおかしいという不気味さがずっとスクリーン上にある。
真実はなんだ? これは本当の話なのか?
ずっと落ち着きなくソワソワした気持ちで見ているのに、魅力的で、美しくて、ずっと見ていたいと思わせられる。
これはとても不思議な感覚だった。そしてそう思わせてくれたのは、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という3人の女優の演技があまりにも素晴らしかったからだ。
戦後の長崎パートの広瀬すずと二階堂ふみは、当時の服装や長崎の方言、話し方や言葉選びなど、何もかもが品があり文学的で美しく、何度も見惚れてしまった。
現代のイギリスパートの吉田羊は、全て英語のセリフだったにも関わらず、難しい役を見事に演じ切っていた。
今年は主演男優の良作が多かっただけに、女優3人が光る良作に出会えて嬉しい。
戦後の長崎という時代背景から、被爆者に対しての偏見など、当時の女性たちの心情や環境に思いを馳せると、彼女の決断や行動は決して責められない。
全ての真実が分かった時、あーあのシーンはこういうことを表していたのか、とか、きっとこれはこういうことを伝えたかったのかと答え合わせしていけばいくほど、作品の理解が深まりじわじわと感動が自分に広がる作品だった。
分かろうとすることではなく、感じることが大切な映画
戦禍の長崎に生きた女性たちの姿を描くヒューマンミステリー。ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの長編デビュー作を原作に、日本・イギリス・ポーランドの合作で映画化されている。二階堂ふみ、広瀬すずの熱演が光り、彼女たちが抱えた傷や葛藤がスクリーンから強く伝わってくる。
鑑賞後の感覚は、正直スッキリとはしない。まるで遠い山なみの光のように、見る角度やタイミングによって光にも闇にも見える映画だ。はっきりした輪郭ではなく、かげろうのような影を伴った「生」の姿—生きているようで、生きていないような、覚えているようで覚えていないような—が当時の社会を生きる人々の姿に重なる。
この映画の価値は、「分かろうとしなくて良い、感じることが大切」という点にある。当時の人々が必死で生き抜いた事実を胸に、スクリーンから受け取るメッセージを自分なりに噛み砕き、心に落とし込むことができれば、鑑賞の意義は十分だろう。
戦後80年を経た今、当時の社会を生き抜いた人たちの存在に思いを馳せ、今を生きる私たちがここにいる意味を改めて考えさせられる。
【鑑賞ポイント】
・ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの原作(長崎が舞台)
・二階堂ふみ、広瀬すずの熱演に注目🤫
・戦後80年の今、歴史と命の尊さに向き合う作品
重なり合う女たち、すれ違う男たち
改めて、原作を読み返したくなった。うすめの文庫本で、それほどの分量はないものの、意外にたくさんの主要人物が登場し、多層的に絡み合う。行きつ戻りつ読み返しても、さらりと飲みこむには少々手ごわく、断片的な印象を拾っては味わうことに留まってしまった記憶がある。今回映画版に触れ、なるほどと腑に落ちるところがたくさんあった。さらには、別の物語の可能性さえも伸びやかに広がり、とても贅沢な体験ができた。
主人公・悦子の丁寧な所作に、まずは心を奪われる。はたきで部屋の埃を払い、シャツにアイロンをかけ、手早くオムレツを焼く。つましくも丁寧に日々の暮らしを営み、被曝や戦争を乗り越えようとしている彼女の視線の先に、不穏な異物がある。なぜか彼女はそこから目を離せず、どんどんと深入りしていってしまう。はじめは危うさを感じた私たち(観客)もまた、いつしか彼女たちの関係に惹かれ、その先にある「何か」を、息を詰めて待ち受けてしまうのだ。
悦子と佐智子の関係はもちろんだが、悦子の夫と義父である元教師・誠二のすれ違い、そして誠二と彼の教え子である松田のぶつかり合いも印象的だった。時代に翻弄され、居場所を失っていく誠二のような人が、あの頃どれだけたくさんいたのだろう。時代のせいと片付けるには、人ひとりの人生はあまりにも重く、長い。
終盤、本作は彼女たちの重なりを示唆し、パラレルな物語を紐解く。描き割りのようで少し違和感があった風景が、人物と同化し、説得力を増していく。さらに私は、実は彼らは皆死んでいるのではないか、もしくは、死者と生者が入り混じっているのではないかという気さえした。明るく生気あふれる1940年代に比して、薄暗く陰鬱ささえ漂う1980年代は、特に前半、生の気配がない。けれども、ラストで示されるあらたな命の予感が、彼女たちや物語に、あたたかな光を注ぐ。あの遠い山なみの向こうには、イギリスの深い森が広がっているかもしれない。そんな奥行きと時間軸のクロスも、本作の愉しみだと感じた。
遠ざかる記憶と消えない後悔
原作小説ではラストの種明かしや、映画と同じ表現での伏線はない。
ただ終盤にひとつだけ、それまで語られた悦子の物語の信憑性を疑わせる彼女の短い台詞があり、そこで初めて「万里子のエピソードは景子のものなのでは?」というもやっとした疑念が湧く(読解力がある人はもっと早くそう思うのかも)。だが、それに対する答えはない。
そういった表現は読者の想像力を刺激するが、時にわかりづらくもある。
本作の場合は謎の伏線と答えを明示することが、小説を映画に変換するにあたっては必要な演出だったように思う。
物語における佐知子が実は悦子自身のことであったなら、広瀬すずが演じた52年の悦子はどういう存在なのか。以下は完全に私の個人的な推測だが、彼女も全くの虚像ではなく、悦子の内面の一部である気がする。
81年の悦子(以下「現在の悦子」とする)は記憶の断片を時系列ごとシャッフルし、52年の悦子と佐知子という2人の人物像に組み直して語っているのではないだろうか。
蜘蛛を口に入れようとする万里子、イギリスの家の壁を這う蜘蛛。過去の悦子の足に絡みつくロープ、イギリスで縊死した景子。そういった描写にシャッフルの形跡を感じた。
実際の悦子の人生は、次のようではなかったか。
二郎と結婚し、それに伴い仕事を辞めた(教師と言っていた気がするが、英語の教師だったのかもしれない)。
景子を産んだが、男性に従属する当時の日本では一般的な女性の生き方に嫌気がさし、何らかのきっかけで娘を連れて家を出て、イギリス人男性と知り合った(序盤、ロープウェイの看板の前で案内嬢のような格好をして米兵と向き合う悦子(演・広瀬すず)のモノクロ写真が一瞬映る。英語を使った仕事をすれば海外の男性とも知り合えるだろう)。
彼女は嫌がる景子を連れて渡英したが、景子は現地に馴染めず自死してしまう。
では、悦子は何故過去についてそのような語り方をしたのかといえばひとつにはやはり、罪悪感なのだと思う。
「この暗い回想の底には、自分のアイデンティティを守ろうとした選択が景子を犠牲にしたという悦子の自責の念が一貫して流れている。」原作の訳者あとがきにある小野寺健氏のこの言葉の通りなのだろう。
ニキは最後に「母さんは悪くない」と悦子を慰めたが、個人的には景子がかわいそうだ、彼女への接し方だけはもう少しどうにかならなかったのかと思ってしまった。
猫殺しはさすがにちょっと……あの箱をイギリスに持ってきていたから猫水没も作り話かも(であってほしい)と思ったが、川を箱が流れる悪夢を見ていたから多分事実なのだろう。
もうひとつは、悦子の中で30年前の記憶が曖昧になりつつあることの表れではないだろうか。
「こういう記憶もいずれはあいまいになって、いま思い出せることは事実と違っていたということになる時が来るかもしれない。」小説の悦子の語りには、このような言葉が数回出てくる。
必死で生きていた当時の感情は忘れがたくとも、細部は曖昧になってゆく。現在の悦子にとって、過去の風景はまさに本作の原題「A Pale View of Hills」、遠くに霞んで見える丘陵のような眺めになりつつあったのだろう。
罪悪感と細部の忘却、それらを抱えた悦子がニキに過去を語る時、最終的に景子を追い込むことになった(と悦子自身が認識している)自身の性質や行動については佐知子という「自分ではない第三者」のこととして語った。自分の過去として語るには、いまだに自責の念に耐えられないということか。
そして、当時の出来事のように装いながら、実はその後の人生で感じた悔いを物語の中で晴らしていたのではないだろうか。
過去の中の悦子は、万里子に優しかった。それはその後景子を失った悦子の、あの時こうしてあげればよかった、という後悔が生んだ想像のように思えてならない。
電車の車窓の向こうに佇んで過去の悦子たちを見つめる現在の悦子、その視線を佐知子も感知していたという場面はファンタジックだが、これも彼女の後悔を表すイメージなのかもしれない。
悦子が渡英を決意する一因になったと思われる結婚生活だが、昭和の男の(女性から見て)駄目な部分が笑ってしまうほど見事に二郎に集約されていた。妊婦の横で煙草を吸うわ、予告なく職場の人間を家に連れ込むわ。そりゃ悦子も渡英したくなるわ、と思わされるという意味ではよくできた人物造形だ。
緒方と、息子の二郎や元教え子の重夫との価値観の衝突も興味深かった。緒方はおそらく戦時中には教師として愛国心を大いに煽ったのだろう。万歳三唱で息子を戦地に送り出すが、年齢的に自分は出征しない。
対して二郎や重夫はその教えを信じ、戦地に行かされた世代だ。敗戦で時代の空気が変われば軋轢が生じるのは当然のこと。重夫は緒方に悪意がないことは理解しつつも、その無責任さが許せなかったのだろう。渡辺大知の演技が、出演時間は短いのに印象的だ。
時の流れでうつろう記憶と残り続ける感情、変わってゆく価値観と変化に取り残される哀しさ、そういったことを考えさせられ、あの表現はこういうことかも、という想像も膨らむ良作だった。
主演スターとしての広瀬すずの得難い貫禄と名演技
スクリーン上での広瀬すずの映り方がほとんど黄金時代のの映画スターと遜色がなく、演技者としても堂々としたみごとなもので、死語になりつつある「映画女優」という存在が復活したかのような凄味があった。ただし、おそらく曖昧さを味わうような原作の持ち味が、映画になったことでテーマなのかモチーフの意味みたいなものがより明確になってしまい、結果どっちつかずになってしまったのではないか、という気はした。最後がミステリー的な種明かしに見えることも、果たして映画に取ってプラスであったかどうかは判断ができない。が、松下洸平の無自覚なクソ夫っぷりや、三浦友和演じる義父の過去の遺物感など、ゾワゾワさせてくれる表現があちこちにあって目を惹かれる。イギリスでのシーンでは、母と娘のやり取りなどで急にセリフがベタでつまらなくなるのは気になりました。
今年を代表する1本
人間は意図せず嘘をつく生き物だということを大変に力強い説得力を持って描いた作品だ。だましているつもりもない、しかし、架空の誰かに自分の思いを仮託せねば語れない苦しい過去がある時、自分でもなぜか設定を作ってしまう。本作で語られる物語は、そういう類のものだ。ポストトゥルースの時代にふさわしい作品と言える。
日本、イギリス、ポーランドの国際共同製作で作られた本作は、日本の50年代を舞台にしつつ、日本映画らしさの他にも様々な要素が含まれている、これまでにない雰囲気をまとった作品に仕上がっている。ルックの見事さは石川慶作品として相変わらずだし、セットの完成度も高い。そして、役者たちの芝居は素晴らしい。その役者を見つめる石川監督独特の不穏さもあいまって、心理ミステリーとしての完成度が非常に高い。
今年はクオリティの高い日本映画が多いが、これはその中でも今年を代表する1本と言っていいと思う。
記憶とは何かについて深く考えさせられる
記憶とは何だろうか。初老の女性の述懐がベースとなる物語だが、彼女が語るのは何十年も前の昔話であり、なおかつ場所も日本と英国とで随分と遠い。遠い山並みの光とはまるで、そうやって時間と空間を隔てたところから望む、おぼろげな追想の日々のよう。冒頭、長崎の劇的な復興を記録した写真が、まさかの楽曲に乗せて勢いよく駆け抜ける。この新鮮な風を感じつつ、ネオンや看板が放つ鮮やかな色彩に満ちた街並みにも心奪われるひととき。あらゆるものが変容する。そういった過程の中に浮かび上がる「二人の女性」は一体何を意味するのか。かくも記憶という題材は、長崎生まれで英国暮らしの長いイシグロ氏にとって、常に、そしていつまでもリアリティを放ち続けるものに違いない。私には小説と映画とではやや印象が違って見えたが、その印象の違いもまた本作の狙いのような気がする。女優たちの研ぎ澄まされた表現力、石川監督の人間描写が際立つ一作である。
記憶こそが“信頼できない語り手”
物語の叙述手法の一類型を指す“信頼できない語り手”という用語は、米評論家によって1960年代に提唱され、文学の研究者やマニアを中心に徐々に認知されていったと思われるが、この用語をより広い層へ浸透させるのに一役買ったのがカズオ・イシグロ原作の英映画「日の名残り」(1993)。イシグロは1982年の長編小説デビュー作「A Pale View of Hills」ですでに“信頼できない語り手”を用いており、訳書の邦題にあわせた今回の映画化作品「遠い山なみの光」でも、ミステリー要素に貢献するこの手法の妙味が効いている。
映画の序盤、英国郊外で暮らす悦子(吉田羊)は作家志望の次女ニキから、長崎で第二次世界大戦期から1950年代まで過ごした頃の思い出を聞かせてと頼まれる。気が乗らない悦子だったが、深夜に「長崎にいた頃に知り合った女性とその幼い娘のことを夢に見ていた」と語り出す。悦子によるこの前置きが、回想パートをめぐる謎の重要なヒントになる。
夢には過去の実体験の断片が現れることも多いが、事実が奇妙に歪められていたり、非現実的な要素が紛れ込むこともある。悦子の長崎時代の記憶は、30年もの時を経て曖昧になっている部分も当然あるだろう。さらに悦子は渡英後に長女を自死で失うというつらい経験もした。そうした諸々の状況から、悦子がニキに(そして映画の観客に)語る回想には、理想や願望、後悔や現実逃避といった複雑な精神状態が図らずも影響を与えている可能性があることを、夢というワードでほのめかしたと解釈できる。
石川慶監督はあるインタビューでネタバレを避けつつ、長崎時代の悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ)という2人のキャラクターを理想の女性像の多面性を表すもの、つまり異なる視点から見た別々の面を表すものと言える、といった趣旨のコメントをしていた。回想パートに理想や憧憬が込められているとすれば、長崎の景観が不自然なほど彩度の高い映像で描写されたシーンが多いのも納得がいく。
石川監督は平野啓一郎の小説を映画化した「ある男」でも、ストーリーの中で語られるキャラクターとアイデンティティーの関係を追求していた。同作と「遠い山なみの光」のテーマが深いところで呼応している印象を受けるのも感慨深い。また、長崎への原爆投下と敗戦後の日本を扱った映画でありながら反戦を前面に出さなかった点は、日本・イギリス・ポーランド合作として妥当な判断であり、分断が深刻化する今の時代に国際市場で売り込む戦略的な狙いもあるはず。国や組織の大きな歴史ではなく、個人の生き方や他者との関わり方に重点を置く物語だからこそ、さまざまな壁を越えて伝わるものがきっとあると信じたい。
評判を聞いて観に行った
戦争、そして原爆のもたらすもの
彼女は何者だったのだろう。
52年当時の中で2人の女性は誰であったのだろう。82年の世界の家族が現実であり過去を振り返るときの思い出は朧げである。
そして過去の荷物の中にある雑誌やハガキ、ティーカップなどの2人の物が混在してるということは、彼女の中にある2人の女性は1人なのだろうか?
唯一、原爆における被害者の人々が迫害され暮らすことすらままならない状況への憤りと悲しみ、そして戦争によりもたらす愚かな爪痕が言葉の端々から伝わってきた。
カズオ・イシグロの原点が、夢と記憶の狭間に光る。
まず印象的なのは女優陣の存在感。主演の広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、それぞれが感情を抑えつつも張りつめた緊張感を漂わせる演技を見せている。
台詞回しは昭和20〜30年代の邦画を思わせるような少し硬さのある調子で、背景もスタジオセット的な雰囲気。これらが合わさり、独特の世界観を生み出していた。
正直に言えば、自分の理解力不足もあり、途中でストーリーを見失いかけた。終盤で何とか追いついたものの、「あれがこれで、これは誰?」という具合にやや消化不良。だがその曖昧さもまた、夢を見ているかのような体験に近い。例えるなら、夏の昼寝のあと、夕景と夜景の狭間で見た夢のような映画だった。
一見すると反戦や女性の自立を描いた作品のように見えるが、そう単純ではない気がする。むしろこれはイシグロ自身の原点を映し出した物語なのではないだろうか。
1954年に長崎で生まれ、5歳でイギリスへ移住。幼い頃に抱いた不安や、異国での将来を想像する中で芽生えた曖昧な感情。その精神世界を形にしたのが本作だと感じた。だからこそ、普遍的なテーマ性よりも、彼自身の幼少期の心象風景が強く投影されているように思う。
つまり、この作品はストーリーを「理解する」よりも、映像から自分が「感じ取る」こと自体が正しい鑑賞体験なのかもしれない。
ただし商業映画として観るなら、もう少し輪郭のはっきりした物語を期待したくなる部分もある。とはいえ、サブスクで繰り返し観れば、新たな発見や自分なりの答えが見つかる作品だと思う。
以上
あのシーンが無ければ
人の記憶は都合のいいように上書きされ、都合のいいように書き換えられて心の傷を癒していくんだろうな。
戦争で傷を負い、戦後の復興からバブル前のとても昭和な女性が生きづらい時代に行きた女性が描かれている。
バラックの中でも高価なティーセットを使って優雅なティータイムは真実なのか夢なのか?
牛乳箱を巡るある行為が無ければ良かった。あの川でのシーンで一気に悲しくなった。
忘却の彼方から蘇る長崎の原爆の記憶の語り直し
長崎は原爆で壊滅的で放射能によるずっと続く不安も含め、悲惨な被害を蒙った
戦後復興のなかで、そこに住む原爆の被害をこうむった人々は、勇気を奮い立たせて前に進むために仕方なく、子供たちへの放射能の影響や日々の生活の苦しさや葛藤などの封印していた辛い記憶を抱えて戦後を暮らしてきた
復興が一段落し観光地として脚光を浴び始めていた長崎を舞台に、その一度、封印した記憶をあたかも遠い山なみから層をなすように浮かび来る仄かな光のように描き出す
母が語る記憶を見事に描いたのがノーベル賞作家カズオ・イシグロの「A Pale View of Hills」は傑作文学であり、石川慶監督が映像化に真正面から取り組んだのがこの映画「遠い山なみの光」だ
記憶の中で形作られる嘘も含めて、戦後における原爆が心に落とした影だけでなく、復興に取り組む人々の逞しさが放つ希望の曙光など、さまざまな記憶をしっかり胸に抱き留めた上での"語り直し"をしっかりと映像化している
タイトル「遠い山なみの光」は過去 現在 未来へ向かって逞しく生きる女性たちの放つ光が層をなして光っている情景そのものだ
過去のものだけではなく、現代を生きる娘のニキの葛藤を通して、この物語は、あなた自身にも照らしてみて欲しいというメッセージも伝えている
映画は記憶の中の嘘や混乱に明確な答えを用意していない、敢えて最後まで曖昧のままだからこそ、観客は映画館を出た後もモヤモヤを感じて自分や他者と語り合うことだろう
そして何遍も観ることで、自分なりに答え合わせが出来る、優れた文学のように余白を描いてみせた、紛れもない傑作だ
珍しく感想を言葉にするまで長い時間を要したが、その煩悶は心地よい時間でありました
記憶に残る美しい映像を是非とも映画館で観て欲しいと思います
前半が物足りない
イギリスに住む悦子が娘に昔、長崎に住んでいた頃の話をして欲しいと、過去を回想するお話。
前半の話の長崎パートは面白く見れるが、ロンドンパートが面白くない。娘と母の煮えきれない会話が延々と続いて飽きてしまった。
全体が後半につれ面白くなっていくだけに勿体無いと思った。
悦子の信頼できない語り手として、二面性を上手く演じた広瀬すずさん、とても良かったです。
猫を水死させるシーンの広瀬すずをどんな顔するか見たかったなぁ。
せっかくならもう少しお金をかけてCGとセット感を無くして欲しかったです。
いつまでも変わらない男性と、変わっていく女性をこの映画から感じた。そらが、やりたかった事だとすればとても上手く出来ている作品でした。
人の人生は意外とこういうものかもしれない
いわゆる「これは友達の話なんだけどね」と言いつつ自分の話だったという話。
現在パートを軸に回想交えながら過去パートが展開される。
過去パートの雰囲気はちょっとミステリアスで徐々に伏線がばら撒かれて違和感が増していく。
最後の最後で答え合わせのようになるのだが、よくよく考えると、人の人生は映画のようにずっと記録されてきるものでもないし、関わる人々の目線でしか語られない。ましてや自分しかいないとなると、たとえ過去を偽装したとしても誰も確かめることができない。
本作の場合はあきらかに恣意的な捏造の記憶ではあったが、意外と人間の記憶は曖昧なもので、無意識に都合の良い過去の改変をしてしまっているかもしれない。
ところで、広瀬すずも二階堂ふみ他、過去パートの雰囲気ある演技はとてもよかった。
関東屈指の大きなSCREEN😧贅沢!!🤣
UNITED CINEMAS豊洲で映画『遠い山なみの光』を観ました。しかも10番SCREEN🤩封切りから1ヶ月経ちますが新作や話題作を抑えての上映 ほぼ貸し切り状態で贅沢すぎます。これだから映画は映画館で観るに限る。場所はららぽーとなので映画以外でも楽しめます。映画はカズオ・イシグロさん原作ですが脚本は石川慶監督なので彼の色が反映されているのでは🤔🧐(?) 彼が手掛けた作品の中で芳根京子さんが主演した『Arc アーク』は邦画の仮面をしたFrance映画で内容が難解すぎて玄人向けだという批評もあります。吉田羊さんは映画『ハナレイ・ベイ』と同様にこの作品でも輝きを放っていました。最初の感想は、昭和時代の邦画を鑑賞した後の余韻に似ていますね。横溝正史よりは松本清張かしら🤔🧐
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