リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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痛みは天秤にかけられない
原題「A Real Pain」は、「面倒なやつ、困ったやつ」といった意味だ。
オープニングで空港のベンチに座るベンジーの横にこのタイトルが浮かぶ場面は、彼がその面倒なやつであることを示唆しているようでもあり、実際ツアーの序盤ではその通りの印象を受ける。
それがラストシーンで再び彼の面差しと共にこのタイトルを見る時には、直訳の「本当の痛み」の方の意味合いが色濃く浮かぶ。最初のタイトルコールと対になった演出が効いている。
多分多数派だと思うが、私もまたデヴィッド寄りの人間なので、彼がベンジーの奔放さに困惑する気持ちは手に取るように分かった。
ワルシャワ蜂起記念碑の前で、おどけた写真を撮るベンジーを不謹慎に思って小声で注意したら、意外と他のツアーメンバーもベンジーのノリに付き合いだすのを見て気後れするところなんかはすっかりデヴィッド目線になり、疎外感に胸の奥がヒリヒリした。
ルワンダ虐殺サバイバーのエロージュやガイドのジェームズとの間には気を揉むようなやり取りがあったのに、最終的にベンジーは好かれてしまう。一見不躾なのに、その裏にある率直さという美徳がちゃんと伝わるのは羨ましい個性だ。
自由なベンジーの横にいると余計に自分の不器用さが際立って惨めな気分になる。一方で、彼がほんの数ヶ月前にオーバードーズ(OD)で生死の境を彷徨ったことも知っている。そんなデヴィッドは、好意や羨望に憎しみまでも入り混じった複雑な感情をベンジーに抱く。
だが、ベンジーの目にはデヴィッドの生き方の方が自分の人生よりよほど眩しかったのではないだろうか。行きの飛行機でデヴィッドの仕事をからかった時や、彼の家族の話を聞いている時、ベンジーはどこか寂しげだった。
対人関係は不器用であっても、デヴィッドには定職があり、家に帰れば愛しい妻とかわいい我が子がいる。
自分の家に会いに来るよう請うベンジーに、デヴィッドはベンジーの方がニューヨークに来ればいいのにと返す。でも多分、デヴィッドの幸せな家庭を見ることはベンジーにとって辛いことなのだ。
ラストシーンを見る頃、私はいつの間にかベンジーの目線になっていた。
こうした2人の男性それぞれの生きづらさが、ホロコースト史跡ツアーの道程と共に描かれる。
ツアーメンバーとの夕食の席で、デヴィッドはベンジーについて「祖母がホロコーストを生き延びた結果奇跡的に僕たちは生まれたのに、あんなこと(OD)をしていいのか」といった主旨のことを言った。確かにホロコーストは近代で他に類を見ないほどの圧倒的な「痛み」だ。その痛みを前にすれば現代人のパーソナルな苦悩は、一見ちっぽけなもののようでもある。
デヴィッドの言葉は、祖母のルーツを尊重する思いから出たものだろう。だが一方でこれは苦悩を抱える本人にとってはあまり役立たない論理だ。むしろ、ホロコーストの苦難に時間の隔たりを超えて全霊で感情移入する敏感さを持つからこそ、ベンジーは生きづらさに苦しんでいる。
「本当の痛み」は主観的なものであり、別の悲劇と比べたからといって卑小になったり偽物になるわけではない。
この物語がありがちな結末を迎えるとしたら、別れ際の2人の明るい表情で終わることだろう。だが実際は、あたたかい家庭に帰るデヴィッドと、そのまま空港に残るベンジーが対照的に描かれた。
旅の始まりでは待ち合わせ時間の何時間も前から空港に来ていて、旅の最後の別れ際にはしばらく空港に残ると言ったベンジー。元の日常で彼を待っている孤独との再会をしばし先送りにしているような、憂いを含んだ眼差しに胸が締め付けられる。
旅の経験は確かにこれからのベンジーにとって支えになるだろう。でも、彼の苦悩が即座に消えるわけではない。結局は旅の後の日常で、ひとりで地道に折り合いをつけてゆかなければならない。Real Painとはそういうものだ。
そんなことを思わせる、まさに現実的なラストシーンだった。
重いテーマの作品だが、全編を彩るショパンを聴きながらデヴィッドたちが訪れる史跡を順番に見ているうちに、ツアーに同行してポーランドを巡っているような気持ちになる。また、基本的にデヴィッドとベンジーのやり取りは軽やかで時にユーモアがあり、物語に親しみを感じさせてくれる。
人の心の痛みというものについてやわらかに問いかけ、安直ではないラストでその問いを問いのまま観客の心に残す。繊細で率直な誰かとしばらく過ごした後のような、不思議な余韻の残る映画だった。
めんどくさい若者も見守れる大人たち(旅の間限定で)
よくも悪くも、いや、いいも悪いもないのだけれど、自分の視点がデヴィッドでもベンジーでもなく、ツアーに参加しているほかの大人たちに近づいていた。ベンジーの混乱もデヴィッドの葛藤もわかるが、ほかの大人たち(ベンジーを嫌うおじさんを除く)は基本的に、彼らが悩みを突き詰めたところでわかりやすい答えが出ることなどないとわかったうえで、ベンジーがとっちらかってジッタバッタしているけれど本質的には善良な人間であることを感じて好意的に受け止めているし、ツアーの間くらいなら見守っていようという気持ちを持っている。もはや同じ土俵にいない大人たちと、大人の年齢なのに土俵から折りられないデヴィッドとベンジーという対比が印象に残る。そして短い旅の道連れという後腐れのない関係だからこそ、彼らは目立つベンジーと交流し、デヴィッドのことはあまり頓着しない。そりゃそうだよな、デヴィッドに旅の道連れとして面白みがないことは本人も自覚しているだろうし、自分が見向きもされないという自虐はあの環境では自業自得でもあり、そういう小さな残酷さがチクチクと効いてくる。しかしベンジーはあの後どうしたのか、で、見る人の人生観が問われる作品でもある。自分はどうしても、ベンジーには悲観的な未来しか想像できないのだけれど。
自分たちのルーツや自身の心の痛みと向き合いながらも、旅は道連れ世は情け
『ソーシャル・ネットワーク』では実在の天才、『バットマンvsスーパーマン』では悪の天才。
卓越した演技力で天才を演じてきたジェシー・アイゼンバーグだが、彼自身も天才であった。
注目を集めた監督デビュー作に続く監督2作目。その天才ぶりを確かなものに。
ユダヤ人のデヴィッドと従兄弟のベンジー。実の兄弟のように育ってきたが、ここ暫く疎遠。
大好きだった祖母が亡くなり、追悼と遺言で、自分たちや祖母、ユダヤ人のルーツを辿るポーランド・ツアーに参加する事に。
その旅の中で…
勿論ハートフルやユーモア、二人の掛け合いもあるが、思ってたより淡々と静かな印象。特別何か起こるロードムービーってほどでもない。
だけど、しみじみ心に染み入る。
気分や雰囲気は観光。ポーランドの美しい風景や歴史に触れる。
劇中彩るは、ポーランド出身のショパンの曲の数々。これが絶品。
ああ、良かった、楽しかった…だけで終わらない。
ちょっぴりのほろ苦さ、抱える悲しみ、痛み…。
ジェシー・アイゼンバーグの才(監督・脚本・製作・主演)に感嘆。
自分たちのルーツや自分自身。共に40男二人の心の旅路。
片や真面目で心配症。片やマイペースでトラブルメーカー。片や家族持ちで、片や独り身。何もかも正反対。
デヴィッド×ベンジーの掛け合いがメイン所で、ジェシー・アイゼンバーグ×キーラン・カルキンの素晴らしきケミストリー。
どちらがどちらなんて愚問。天才役多いが、ネガティブ人間も十八番。アイゼンバーグのハマり役。
何もかも正反対なのに、呼応するようなキーランの存在感。
言うまでもなく、あの名子役の弟。長らく兄の陰に埋もれていたが、数年ほど前からTVシリーズなどで実力が評価。
そんな絶好時に、本作。かなりの図々しく図太い性格で面倒臭い面も。が、ただの困ったちゃんでなく、不思議な魅力や人間味がある。所謂嫌いになれないタイプ。
劇中でも笑わせ、何かしでかすかもしれないと目を離せず、背景にそうとは見えない悲しみを滲ませ、しんみりさせる感動に大きく貢献。彼の全てが本作のハイライトだ。
本作の名演とこれまでの地道な努力がオスカー助演男優賞という形になったのも納得。
にしてもベンジーの良くも悪くも周囲を巻き込む破天荒な言動と、振り回されるデヴィッド。
ツアーの面々に迷惑がられたり、好かれたりのベンジー。
記念碑銅像の前でポージング写真。デヴィッドは断るが、ツアーの面々は参加。ベンジーの人を惹き付ける才…?
列車を乗り過ごしてしまった。戻りの列車に無賃し、車掌をやり過ごしながら、降りる方法教えま…いえいえ、こういう事しちゃダメ! 反面教師的に教えてくれます…多分。
ツアーの面々。ツアーガイドのイギリス人男性、ユダヤ人老夫婦、ユダヤ人女性、ルワンダ虐殺を経験しユダヤ教徒になったルワンダ人…。主演二人の土壇場の中で各々個性を見せ、彼らとの交流も見所の一つ。
美しい風景とクラシック名曲でポーランド観光に浸れるが、本作はユダヤ人の悲劇と歴史を知る教養の旅でもある。
ツアー参加者はただの遊び気分じゃない。自身のルーツや己を見つめ直す。
ポーランドという国やユダヤ人について詳しく知らない日本人の私が知った風に語るべきではないだろう。
ツアーガイドが説明してくれるし、その場その場が物語る。
ただ迫害されただけじゃなく、勇敢に闘った秘話。
強制収容所。壁に染み付いた青いシミ。ゾッとした…。
今も国のあちこちに残っている。風化されない為に。
日本人にポーランドやユダヤ人の歴史と言われてもピンと来ないかもしれない。
ならば、こう思えばいい。
広島/長崎を訪れ、戦争の傷痕に思いを馳せる。
戦争を遠い昔と思うなら、大震災。阪神淡路や東日本、昨今だと能登。未だ残る傷痕。
今年は終戦80年だが、戦争は風化されつつある。大震災も関心薄れつつある。
風化させてはならない。忘れてはならない。
その悲劇・歴史・傷痕に激しく動揺したのは神経質なデヴィッドではなく、ベンジーの方であった。
列車移動する自分たちに違和感。あの時代、ユダヤ人が列車で移動させられると言ったら…。
墓巡り。知識をひけらかせてただ解説するのは違う。
今を生きる我々は犠牲になった同胞を歴史の1ページとしか見ておらず、傲慢や敬意に欠けている。もっと謙虚に彼らに寄り添うべきだ。
彼の発案で石を置く気持ちの証が素敵だ。
言いたい事、分かる気がする。
実は誰よりも人の心の痛みが分かるベンジー。
何故なら、本人がそうだから。
半年ほど前、自殺未遂を起こしたベンジー。
理由は語られない。特定の理由にしなかった事で、何かを抱える現代人皆に通じる。
それもあり、疎遠となったデヴィッド。
心配していた。
助けや支えになってあげられなかった。
それを吐露するシーン。
ああいう奴でも根は繊細なんだ。
陰ながら心配し思いやる優しさにジ~ン…。
40男二人が面と向かって傷を癒し合うのはちと小っ恥ずかしい。
凸凹言い合いしながらも、こうやって会って、旅して、他愛ない話をするだけでも。
どれほど力になれるか。支えになるか。嬉しい事か。
自分たちのルーツや自分自身。旅の中で痛みを知って、向き合って。
大きく人生や価値観が変わったとは言わない。
何も変わらないし、何か少なからず得たかもしれない。
しかしきっと、これからの旅路のより良い活力になった。
痛み=生
人間の生き方について深く問いを投げかける映画はたくさんあるが、今作は生を「痛み」という視点で見ていく。
ビンタされた時のような身体的な痛みから、家族の死と向き合う時のような精神的な痛みなど、誰もがそれなりの痛みを抱えて生きている中、登場人物一人一人の痛みも描かれていく。
ホロコーストという人類史上最大の痛みの一つを取り上げているにもかかわらず、それでも映画は驚くほどさっぱりした仕上がりで、淡々と情景が流れていく。
今作の好きなポイントは、結局痛みと共に生きていくしかないという点をあっさりと見せていること。強制収容所が残酷にも人々の生活のすぐそばにあるというのもショックだが、痛みと共に淡々と進んでいく人生の旅を表している。しかし、それは絶望的でなく、無気力にも感じさせない。
個人的に好きなシーンは、亡くなったおばあちゃんの家の玄関に弔意を表し石を置いたベンジーとデイビットに隣人さんが「危ないからやめとけ」とばさっと言い放つシーン。思わず吹き出してしまった笑
心に残るキネカ大森、水曜日の夜
水曜日だし、仕事帰りに映画に行こう!と映画.comを検索。観たい映画はたくさんで迷いに迷ったが、まだ観ていなかったこの映画が、もう大森でしかやってない!終わっちゃう!と焦り、新作はさておきチケットを買った。
映画よりキネカ大森という初めて行った映画館の話になるが、なんとも魅力的な映画館だったので紹介したい。JR大森駅向かい側西友の5階。ここは今年で40周年、女優の片桐はいりさんが過去にバイトをしていたので有名。『もぎりさん』という片桐はいりさんモチーフのグッズが売店で売っている。Cinema 1から3まであり、今回の映画はCinema 3で観たのだが、4列ほどの小さい部屋だった。赤っぽいオレンジの壁にレトロな電球が並んでおり、なんともいい雰囲気。先週日比谷シャンテで満員の中で教皇選挙を観て疲れた私は、今晩の人が10人ほどの小さなシアターでこの映画をのんびり観れたことが、ずっと記憶に残りそうな気がする。
映画の話。かねてから行ってみたいと思っていたポーランドを舞台のロードムービー。のめり込んだ。大好きなショパンのピアノも結構な音量で驚いたが、あれがまた脚本にピッタリで、どうしようもないイラつきや悲しみを表現するのに効果的であった。
キーラン•カルキン演じるベンジーのキャラクターに私自身を重ね、胸が痛くなり泣きたくなった。人を楽しませる事も出来て人の心を掴むことが出来るのに、何故かいつも孤独感を感じている。独りでいることが寂しいと誰よりも思っているのに、独りでいることを選んでしまう。亡くなったおばあさんに平手を喰らって幸せを感じたというエピソードから、ものすごく愛を求めているんだなと感じた。確実な愛を。しばらく居場所にしていたと思われるあの空港から、外に出て新たな人生を歩んでいってもらいたいと思った。
さて、恒例の帰りの電車での感想文を終え、あとはベッドの中で皆さんのレビューを読んでいきます。
みんな彼を好きになる
従兄弟同士のユダヤ系アメリカ人、デヴィッド( ジェシー・アイゼンバーグ )とベンジー( キーラン・カルキン )は、ポーランドのホロコーストを巡る史跡ツアーに参加する為、数年ぶりに空港のロビーで再会する。
時にかみ合わなくなる会話、相手の言動に苛立つ事も。それでも互いをとても大切に思う二人。それらの描写が、リアルで切ない気持ちにさせる。
監督・脚本・製作・主演を務めたジェシー・アイゼンバーグと、アカデミー賞助演男優賞を受賞したキーラン・カルキンのナチュラルな演技に引き込まれた。
本作撮影後に自身のルーツの地、ポーランドの市民権を申請し取得したジェシー・アイゼンバーグの、ポーランドに対する真摯な思いに溢れた作品。
映画館での鑑賞
今後に思いを馳せて切なく愛おしく物語は閉じていく
良い映画だった。
実は、全然期待をしていなかったけれど、良かった。
中盤、主人公達が鉄道を乗り過ごしたり、無賃乗車をしたりするのだけれど、そこで何故かぐっと来た。
短い旅が終わって、物語も終焉に至っても、主人公達は何も変わらない。日常に戻っていくだけ。
でも、主人公達の今後に思いを馳せて、切なく愛おしく物語は閉じていく。
「エマニュエル」で良い演技を見せていたウィル・シャープが、ツアー・ガイドで好演。話しの主軸の中では何でもない存在でありながら物語の横軸になる存在。
だから難しい抑えた演技は良かったと思う。
不思議な感情
特に説明もなく淡々と終わるアウシュビッツのシーンで、気づいたら涙していた。
元々アンネの日記、戦場のピアニスト、シンドラーのリスト、近年は関心領域など、ホロコーストをテーマにした映画や文化には比較的興味を持って触れてきたほうではある。だが生粋の日本人だ。
私は歴史そのものに涙していたわけではなく、自分をベンジーに重ねていたのだと気づいた。
大事な人を失った喪失感、普段は明るい人だと言われても、内では繊細で悩みも多いこと。
ベンジーの感情が動くたび、わたしの感情も大きく揺れた。
演技、余白、音楽、その土地の歴史までもが完璧に調和していた。
出逢う人たちの優しさにも、静かなラストにも、希望を感じた。良作。
絶妙な横顔
ベンジーのあの寂しそうな表情が非常に印象的な映画。感情を素直に表現して時には波風を立てることもあるけれど、人の懐にスッと入り打ち解け合う人懐っこさがある。自分とおなじように寂しげな瞳を持つひとりのツアー仲間がいれば放っておけない。それによって一緒に来たデヴィットが孤独になるんだけど、悪気はないんだよね。一緒に来てくれたことには本当に感謝してるんだよ。
明るくて人生たのしそうに見えるベンジーの光と影が絶妙に映し出される旅。
随所に散りばめられたコメディ要素もクスリと笑えて良い。
ホロコーストの現場を歩いて凄惨な過去をめぐり、今がどれだけ恵まれた環境かは理解できるし有り難いとも思えるけれど、それでも今を生きているベンジーにもデヴィットにもそれぞれ固有の痛みがあって、それを抱えながら生きている。
ラストのシーンで、ベンジーは空港にとどまった。
まるで帰る場所がないかのようで、なんとも言えない不安を映し出す。
ホロコーストの孫たち巡礼の旅
ユダヤ人としての自分、個としての自分、その二つのアイデンティのはざまで揺れ動く主人公。従兄弟のベンジーはもう一人の自分、ベンジーのように自由でいたいと思う反面、ユダヤ人として恥ずかしくない人生を送らねばならないと思う自分もいる。自由な人生、しかし堕落した人生、ユダヤ人として恥ずかしくない人生。どう生きるべきか主人公のその抱える心の葛藤そして心の変遷が描かれる。これは主人公がたどる心の旅。
作品冒頭、空港で待ち合わせをするベンジーに頻繫に留守電を入れまくるデヴィッドの姿は明らかに常軌を逸してる。彼は強迫性障害を患っている、でもなんとか病気と折り合いをつけながらちゃんと職を持ち家庭も築いている。
従兄弟同士のベンジーと祖母が亡くなったのを機に彼らのルーツの地であるポーランドへの慰霊の旅へ。しかしそこはホロコーストが行われた地でもあった。
ベンジーもデヴィッド同様やたら落ち着きがなく、空港で再開した二人は終始のべつまくなしにしゃべり続けていて見ている方が落ち着かなくなるほど。この冒頭で彼らがどういう人間かがよくわかる。まるで正反対の性格のようで似た者同士でもある二人。
物語は祖母の慰霊の旅であるとともに先祖たちユダヤ民族がたどった受難の地の巡礼の旅でもあった。それはホロコーストの旅、と言ってもそんな仰々しいものではなくいわゆる歴史見学ツアーだ。その参加者たちはツアーガイドを除けばみながユダヤ人、ルワンダ難民の青年も虐殺を乗り越えて改宗したユダヤ人だった。
旅は最初でこそあくまでもゆかりの地を巡る気楽なツアーでみながモニュメントの前で各々ポーズをとって楽しんだり、地元の料理を楽しんだりと和気あいあいと進行する。参加者同士で次第に会話も弾み互いの関係を深めていく。
だがツアーが進みホロコーストの深奥に迫るにつれて空気は重たくなる。情緒不安定なベンジーへの影響は特に顕著だ。列車の特等席にいることに違和感を抱くベンジー。この列者が今向かうのは収容所への道だと考えると居ても立っても居られない、皆なぜ平然としていられるんだと。過去の我々の先祖が同じ道を貨物車にぎゅうぎゅう詰めにされた光景が彼には浮かんだという。彼の破天荒な行動に巻き込まれるデヴィッド。旅は何が起きるかわからない、そんな旅の醍醐味を味わいつつもベンジーの行動に振り回されてる自分がいた。
今回の旅はお互いのことに向き合う旅でもあった。睡眠薬を多量摂取したベンジーになぜだと問いかけるデヴィッド。幼いころから兄弟のように育った彼の現在の変わりように落胆を隠せない。定職にもつかず家族も持たない、これからの人生の展望もない。自分は強迫性障害を患いながらも人並みの生活を築いているというのに。
ベンジーが好き放題でやたらとツアーの雰囲気を台無しにする、そんな同じツアー客たちにデヴィッドは謝罪も込めてベンジーのことを語り始める。
とても自分本位で周りを乱す奴だが、同時に周りの雰囲気を和ませてくれる愛すべき存在でもあり彼のようになりたいと思う反面、時にはこの世から消し去りたい存在でもあるという。
憧れの存在でもあり時には殺したいと思う存在、自分にとってかけがえのない存在、それは彼の中に住むもう一人の自分なのではないか。このアンビバレントなベンジーの存在はデヴィッドの内面をそのまま反映しているのかもしれない。そしてそれはそのままユダヤ人としての彼のルーツと関係しているのかもしれない。ユダヤ人という悲しい歴史を持つ民族、その十字架を背負って生きていかねばならない宿命、その宿命を受け入れつつ逆にその宿命から解放されたい二つの相反する気持ちを具現化した存在がベンジーであり、彼との旅は自分自身を見つめなおす旅でもある。
自分の思うことを遠慮なく言いたい、自分の思うがまま自由に生きたい、でもユダヤ人として生まれてきた自分。自分は受難を乗り越えてかろうじて生き延びてきた先人たちの子孫としてふさわしい生き方をできているのだろうか、いつも自問自答する、常にその考えが頭から離れない。ユダヤ人として生まれてこなければこんな考えに支配されずに済んだはず。ありのままの自分でいたい、ユダヤ人とは関係なく生きていきたい。ユダヤ教にもあまり興味がない、ルワンダ難民の彼の熱い言葉も一歩引いて聞いていた。時にはユダヤ人としての自分を消し去りたいとも思う。
思えばベンジーが旅の中でとった行動はすべてデヴィッドの願望を代弁していたのかもしれない。モニュメントの前ではしゃぎたいと思いながら自分は平静を装う、ほんとは自分もポーズをとりたかった。でも先祖の過去の受難を思えばどこかで不謹慎だとの考えもあった。歴史ツアーだが現地ポーランドの人々との交流もないことに注文を無遠慮にぶつけたかった、特等席で自分も感じた違和感、そして収容所見学の後の精神的な落ち込み。これはすべてデヴィッド自身の感情をその分身のベンジーを通して描いてるのではないか。ベンジーの自殺未遂の話もデヴィッドの中にある自殺願望を表してるのかもしれない。
なぜにここまでデヴィッドがユダヤ人としての重荷を背負わされるのか。ホロコーストから辛うじて生き延びた人々が元の故郷に戻ってみれば自分たちの家にはすでに知らない誰かが住んでいる、知り合いに預けていた財産もすべて売りさばかれていた。身分証も何もかも奪われ職や住居を探すのも一筋縄ではいかない。生活を何とか取り戻してもつねにまた誰かが押し入ってきてすべてを奪われ自分たちはどこかへ収容されてしまうという不安にさいなまれ続ける。そんなホロコースト一世たちの記憶は子孫にも受け継がれる。自分たちは常に今いる社会から排斥される存在、だから誰よりも力を身につけねば、誰よりもお金を儲けて豊かにならなければ、そうした考えが自然とユダヤ人の間に芽吹く。
デヴィッドも普段は普通に生活するうえでは自分がユダヤ人であることを特段意識せず暮らしている、しかし時折そのような不安が頭をよぎるはず。だからこそ自分たちは常にそれに備えなければならない、生き延びた人達の子孫として常に恥ずかしくない人生を送らねばならない、そんな強迫観念のようなものが心の奥底に潜んでいるのかもしれない。だからこそベンジーのような体たらくに憎悪を感じもし、逆にそんな自分のように縛られないような彼の人生をうらやましくも思う。
監督のアイゼンバーグ自身が強迫性障害を患う。本作は彼が妻と行った歴史ツアーの体験から着想を得て脚本を書いたいわば自伝的物語。
ベンジーは架空の人物であり、アイゼンバーグが自分の内面と向き合うために自分を映す鏡として創り出したのではないだろうか。
これは彼の巡礼の旅であると同時に自分自身を見つめなおす旅でもある。ユダヤ民族の家系に生まれたために生まれながらにして持たされた宿命、歴史的なジェノサイドを経験した不幸な民族、彼の親世代すなわちホロコーストの子供たちはその親たち大半が絶滅収容所で亡くなるか、かろうじて生き延びた人々。
生き延びた人々も生還を果たしたもののそのトラウマから逃れられず苦悩の日々を送った。その苦悩する親の姿を間近に見て育った子供達にもその親の影響が少なからずあり、中には神経症を患う人も多いという。
彼らのつらく生々しい記憶を歴史として冷静に見つめるにはまだまだいくつもの世代を重ねる必要があり、そしてそれがようやく歴史になりつつある世代がアイゼンバーグたちの世代。しかし歴史になればなったでその歴史を背負わなければならないという宿命。
彼の強迫性障害が彼個人のものなのかユダヤ人として生まれ先祖の苦しみから受け継がれたものからくるものなのかはわからないが、しかし彼個人の悩みとは別にユダヤ民族としての歴史の重圧も彼の体には重くのしかかる。それだけホロコーストが与えた影響は根深いものがあった。原爆による放射線被害が孫子の代まで引き継がれるようにそのトラウマは数世代を経ても残留し続ける。彼らのその痛みの記憶が歴史となるにはまだまだ時間が必要かもしれない。
今年がちょうどアウシュヴィッツ解放から80年の年で六つの収容所が建てられたポーランドでは式典が行われた。ポーランドの大統領はスピーチで自分たちは記憶の守護者だと述べた。忌まわしい記憶が込められた収容所を人類が犯した過ちの象徴として守っていくのだと。当事者のユダヤ人たちにとっては痛みの記憶を和らげるためにもその記憶が歴史になることが望ましいが、我々は歴史ではなく記憶としてとどめるべきだという。犠牲者である人々の痛みを完全に理解することはできない、しかしそばで寄り添うことはできる、悲しみの記憶を後世に受け継いでいくことで。
本作はユダヤ人としてのアイデンティと個としてのアイデンティとの間で揺れ動くアイゼンバーグ自身の心の変遷をたどる物語。
ベンジーのお前のきれいな足先が好きだという言葉、自分の足先をじっと見つめるデヴィッド、これは僕の足先、それは唯一無二のもの。ユダヤ人でもなく誰のものでもない。
この旅を通して自分のこれからの人生をどう切り開いていくのか何かを確かに自分のものとしたデヴィッド。
アイゼンバーグがポーランドの市民権を取ったという記事を読んだ。ポーランドは絶滅収容所が建設されそこで少なからずホロコーストへの加担もなされた、また戦後の3月事件によるユダヤ人排斥運動などユダヤ人との確執がある。彼はそんな確執を埋めたいという。自分の親族はみなポーランドにゆかりがあるし、この地に愛着があるからだという。
過去のわだかまりを捨ててポーランド市民となったアイゼンバーグにはもはや迷いはなくなったのだろう。本作のデヴィッドのように。
彼はきっとデヴィッドたちがこの旅を通して自分を見つめなおすことでこの先の人生の道を切り開いたように心の旅を経て今に至りこの映画を撮影したんだろう。
題名のリアルペインが表すように主人公達の実にリアルな心情が伝わってくる人間ドラマだった。
映画はベンジーとの空港での待ち合わせに始まり空港での別れで終わる。あくまでもベンジーは旅の同伴者であり、彼のプライベートは一切描かれない。まるで今回の旅のためだけに存在した旅のお守りのような。それは監督の創作による人物だから旅の始まりで生まれ旅の終わりで姿を消すのは当然かもしれない。ベンジーは旅でデヴィッドを振り回したかのようで実は彼の中に住むもう一人の旅の道連れ、モーセがエジプトから逃れるときに海を切り開いてくれたアロンの杖のようにデヴィッドの旅を常に支えてくれた存在、そして彼のこの先の人生を切り開いてくれた存在でもあった。
誰でも、困った自分を抱えて生きてる
主人公2人の其々のキャラクターに少しづつ自分にもあんな面ある、デイヴィット8.5対1.5ベンジー。人生に馴染めてるようで馴染めない、困った自分がチョイチョイ顔を出す。2人のロードムービーの設定だけど、アイゼンバーグは人間の【心の穴】を表現したかったの?だとしたら表現うまいな、才能あるんだ、今後の作品に期待します。ベンジーが収容所の帰りのバスで泣いた場面、帰りの空港で2人キツく抱き合う場面、泣けてしまいました。
タイトルなし(ネタバレ)
デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)はニューヨークに暮らすユダヤ人のいとこ同士。
ふたりは、先ごろ亡くなった祖母の遺言資金で、彼女の故郷・ポーランドの歴史ツアー旅行に参加することになった。
WEB広告制作で安定した家庭も持つデヴィッドに対して、他人を魅了するがエキセントリックで危うさを抱えたベンジー。
ツアーでの行動は、そんなふたりを物語っていた。
特に、ユダヤ人虐殺にからむ地への訪問では、ベンジーの行動は常軌を逸しているすれすれだった。
かれらはツアーを離れて祖母が暮らしていたポーランドの家を訪問する。
別の住人が住んでいるその部屋のドアの前に、訪れた印に石を置こうした・・・
といった物語。
ときおり常軌を逸するすれすれの行動をとるベンジーは少し前に自死をしようとしたことが中盤で明らかになる。
四十目前にして抱える生きづらさ。
センシティヴという言葉だけで片付けられないものがあるのかもしれないが、多くは描かれない。
映画全編を通じて、背景などそれほど多くは語られない。
が、多くは語られない中で、ちょっとしたこと(旅行で同じとか、飲み屋で隣り合わせとか)で知り合って事情を知ることは、日常の生活でも多い。
つまり、本作の観客は、そういう日常の隣人の立場でいることが求められている。
最終盤、自死を選ぼうとしたベンジーの左頬をデヴィッドは平手打ちで殴る。
ホロコーストの地の訪問や祖母の生家の訪問でベンジーは心に痛みを感じただろうが、お前が死のうとしたことで俺はもっと痛みを感じたのだというデヴィッドの主張。
頬の痛みのリアルな痛みは、俺の心の痛みだと伝えるデヴィッド。
ベンジー、お前を喪う方がどれだけ痛いか、わかってくれ。
そのリアルな痛みでベンジーは救われる。
演出的には、巻頭と巻末でタイトルが表示されるが、巻頭のそれはベンジーの右頬横(向かって左)に出るが、巻末では打たれた左頬横(向かって右)に出る。
簡潔な演出ですばらしい。
なお、のべつショパンのピアノ曲が劇伴以上に主張して鳴り響くのだが、ショパンがポーランド出身ということだけでなく、うるさいともいえる音楽はベンジーの心の不安定さを表しているのだろう。
ま、それにしてもうるさいことには変わりはないのだけれども。
ジェシー・アイゼンバーグ、かなり計算した演出力ですね。
隔世の感
「ソーシャルネットワーク」でザッカーバーグを演じてから15年。当時はベンジー側だったアイゼンバーグのまとも人間ぶりに戸惑いつつ、ポーランドの旅を楽しみました。上手いなぁと思うのが、誰しもデーブに共感しているであろうシチュエーションでベンジーが全てを持っていくという残酷なまでの反復。「変人を観察する」と言って空港に残った彼の表情が印象的でした。
とても良い
劇場で予告を見て気になっていた作品。
デヴィッドがひたすら留守電に状況報告し続ける冒頭のシーンで、すでにこれは好きだと確信。
テーマはかなり重いものだと思いますが、ピアノ音楽が心地よく、全体的にゆっくりと穏やかに時が流れるようなロードムービーで、心癒される時間でした。所々で笑わせてくれるのも良かった。
社会人になりきれず引きこもり(に近い)生活を送っている私は、ベンジーの行動や気持ちに共感できる部分が多く、完全にベンジーの視点から観ていました。
ベンジーのように素直で純粋で人の痛みが分かり、どこか子供のように無邪気で誰よりも優しい心をもった人は、大半の大人たちのように社会で生き延びることが難しいのだと思います。
一方でデヴィッドのように仕事があり幸せな家庭も築いて、辛いこともあるけど表には出さずに社会で生き抜いていくには、人(や自身)の痛みに鈍感になる、または気付いてもスルーするスキルが多少必要なのではと思います。
これは、ツアー初めの方でマーシャが深い悲しみを秘めた目をしていることに気付き、話しかけに行くベンジーと、そんな風には見えなかった、1人になりたいのでは、と話すデヴィッドにも表れているかと思います。
この旅を通してベンジーに心境の変化があったのか、この後ポジティブに人生を歩んでいくのか、それともまた自殺しようとしてしまうのか、エンディングからは読み取れないところもリアル。
この映画を観て、人の痛みを本当に理解することは難しい、そして理解できたとしても、他人の力でその痛みから解放してあげることは不可能に近いのではとさえ思いました。
でもだからこそ、家族や友人など周りの人が何か痛みや悲しみを抱えていれば気付いて味方になってあげられるよう、普段からもっと気にかけたり会話をしたりしよう、とリマインドしてくれているような気がします。
キーラン・カルキンの演技、本当に素晴らしくて最初から最後まで引き込まれました。ジェシー・アイゼンバーグも。特にレストランでベンジーが席を立っている間に本音があふれて止まらないシーンが印象的でした。
観る人によって捉え方が大きく変わってくる映画だと思うので、他の方のレビューも読んでみたいと思います。
デイブのアンビバレントな感情
ツアーから一日早く離れるシーン ガイドがベンジーとはハグして「指摘ありがとう、君に会えて良かった」と心通わせてるのに、自分とは「じゃあ」とだけのあっさりした離別。
離婚直後のマーシャに、気遣って声掛けない方がいいと遠慮してたのに、ベンジーは「マーシャと朝まで騒いでた」とあっさり打ち解けてる。
「あれ、コイツ問題児なのに、なんでこんなに人気あんの!?、俺は。。」というデイブの何とも言えない表情が印象的。
不可解、抵抗感、羨望、卑下そして根っこにある友情などがないまぜとなった感情描写が実に素晴らしい。
アイゼンバーグの確かな才能を確信。次作に期待してやまない。
ショパンの曲が良かった
ジェシー・アイゼンバーグを見てソーシャルネットワークを思い出し、懐かしかった。主人公二人の祖母や歴史、仕事、境遇、家族への複雑な思いに共感するが、旅の仲間とのやりとりやポーランドの美しさも楽しい。ショパンの曲が聴きなれないものも多かったが新鮮で良かった。
観たらきっと誰かと話したくなる。
すべてのシーンに意味があり、その伏線は自然体を持ってやわらかく回収されてゆく。ジェシー・アイゼンバーグ。この人の前監督作は見れなかったのだが、一気に共感。上手だなぁ。音楽の世界でいうとシンガーソングライター的な表現者か。
思えば、赤と青で始まる衣装からして分かりやすく対照的だった二人のスタンス。
そしてタイトルの「痛み」は「孤独」と読み替えられるだろうか。
主人公のベンジーは、空港ロビーに行き交う変人を眺めるのが好きという、現在過去あらゆる人間、社会そのものが家族と言えそうな男。
もう一人の主人公、ザ・コミュ障のデヴィッドは、社会はあくまで「外の他人」。内なるファミリーこそがかけがえの無い家族だ。
その両極端を俯瞰する面白さ。
超コミュ力のベンジーに実は自◯未遂経験があることが知れた物語中盤から、それまでストレートだったロードムービーに「ゆらぎ」を掛けていく。
お墓に石ころを積むアレも、意味合いの持たせ方として最高だった。追って2回それを回収するが、いずれも、寡黙なデヴィッドの気持ちを饒舌に語らせることに成功していた。
元おばあちゃん家で石を置こうと言い出したのはデヴィッド。ベンジーにスタンスを寄せた努力を垣間見せた。
また、ラストシーンではその時の石を自宅玄関の外に置くのだ。これは石≒ベンジー。ここから中はデヴィッドの世界ということだね。これを理解していたベンジーは、旅の別れに感極まっても食事への誘いを断ったのだ。
孤独だから、ニンゲンみな家族。そう考えよう、いや考えるべきという自己脅迫的な思考によって、ベンジーは生きる意味を見つけたか。だから「もう大丈夫」なのか。
***
キーランの演出、パフォーマンスがキラキラと光る。最後のハッパ一本。「吸わないならくれよ」と大事がっていたはずなのに、デヴィッドから過去を責められ、吸うことも忘れてしまっている…これは絶品だった。
物語のラスト、空港で暫しの別れ。
「じゃあな」「またな」からのデヴィッド強烈ビンタ、パチーン!
いやコレ僕、笑っちゃって周りの席の方ホントスミマセン😂ベンジー『…なんで?』ってこれ中川家のなんで?シリーズかよ。※ご存知ない方はYouTubeで中川家なんで?でご検索
ふざけたレビューで申し訳ないが、このビンタ一発は本当に最高のシーン。作品のユーモア向上もそうだが、何と言っても真逆な2人の精神の志向性・他者に求めたいものが、互いに満たされた瞬間と思った。互い存在の大切さを認め合うに至るのだ。
二人の小さな旅はここにシュリンクした。
お見事。まったくもってお見事なストーリーである。
キツーく抱擁を交わす二人。
私はその二人を抱きしめたいような気持ちになった。
誰にも言えない痛みを抱えながら、それでも人生は続いていく
旅好きの私にとって、ようやく「観たい!」と思える映画が公開された。
40代を迎えた従兄弟のデヴィッドとベンジー。幼い頃は兄弟のように育った二人も、大人になった今ではすっかり疎遠になっている。デヴィッドは、破天荒でトラブルメーカーなベンジーに振り回されながらも、どこか羨ましく思っている。一方のベンジーは、周囲には陽気にふるまうものの、実は誰よりも繊細で、人の痛みに敏感な一面を持っている。
そんな二人が、亡き祖母の遺言によってポーランドのホロコーストツアーへと旅立つことに。歴史の重みを感じながら過ごす時間の中で、彼らはそれぞれが抱える不安や葛藤と向き合っていく。デヴィッドは軽度の強迫性障害に悩み、ベンジーもまた心に傷を抱えている。年齢を重ねることへの漠然とした不安、誰にも言えない心の痛み—それはきっと、誰にでも共感できるものではないだろうか。
人はそれぞれ違った「生きづらさ」を抱えて生きている。
「もっと大変な人がいる」と言われたとしても、自分の苦しみを他人と比べることはできない。でも、違う痛みを想像し、寄り添うことはできるはず。ショパンの旋律が静かに心を癒してくれるように、この映画もまた、観る人にそっと寄り添い、優しく語りかけてくれる。
軽妙なユーモアと、胸を打つ切なさが見事に共存する脚本。くすっと笑ったかと思えば、ふと心を揺さぶられる瞬間が訪れ、気づけば深く考えさせられている。
旅の醍醐味とは、美しい景色や美味しい食事を楽しむことだけではない。そこで生まれる出会いや経験が、私たちの心に刻まれることこそが、旅の本当の意味なのだと思う。デヴィッドとベンジーにとっても、この旅は祖母との思い出を辿るだけのものではなく、自分自身を見つめ直す時間になったのだろう。
観終わったあと、そんな「心の旅」について考えずにはいられない作品だ。
バカリズムさんの脚本みたいな映画(笑)
【ポーランド3日間 ユダヤ人強制収容所見学、英語話者の歴史専門家によるガイド付き、ワルシャワ現地集合】
このツアーに参加したアメリカ人の中年男性2人(いとこ同士)が主人公。出発する空港での待ち合わせから、ふたりのキャラの違いが浮き彫りにされる。道路の渋滞で乗り遅れそう!と必死にベンジーのスマホにメッセージをひたすら送り続けるデヴィッドと、それに全く気づかないベンジー
飛行機で一睡も出来ず、ようやく到着したワルシャワのホテルでシャワーでも浴びようとするデヴィッドと、半ば横入り的にデヴィッドのスマホを奪い、彼のスマホで音楽を聴きながら先にシャワーを浴びるベンジー
(そしてスマホが水没…かなと思ったけど、そこはセーフ)
ホテルロビーでのツアー同行者との顔合わせ。強制収容所見学も組み込まれたツアーだけに、何故このツアーに参加したかをそれぞれが自己紹介とともに語る
外国の団体ツアーってそうなんだ!と発見。日本の団体ツアーは参加者同士の横の繋がりを促すイベントは無い。添乗員が旅行の注意点をそれぞれに集合した時点で説明するだけ
確かに横の繋がりって、日本人の気質から言って面倒に思うけど、最低限メンバーのプロフィールくらい知っておきたいとも思う(個人的見解)
ゲットー蜂起を称えた大きな像の前での記念写真、それを各々のスマホで撮影する羽目になったデヴィッド(笑)
昼食時、デヴィッド以外がひとつのテーブルに付いて、何となく仲間外れみたいになった時、サッとデヴィッドの真向かいに座って食事を始めるベンジー
「あっちに座るかと思った」
「…え?なんで(笑)」
こういうことって、結構ある
ひとつひとつは大したエピソードではないけど、そうだな〜、バカリズムさんの脚本(ホットスポット)みたいだな
凄い事件が起きるわけではないけど、ちょっとしたニュアンスの連続でふたりの交流が描かれる
ラスト、二人で訪ねたおばあちゃんが暮らした家も、感動のエピソードがある訳でなく。むしろちょっとした行き違いが生じるくらいで、泣けるようなシーンもなく、むしろ後半はちょっと眠くなったくらい
強制収容所に行く為の列車の一等車、動物が乗る貨車に押し込められて運ばれた先人達の労苦を思えば、乗りたくない!と拒否
ユダヤの偉大な故人の墓の訪問には、その歴史や背景を表す数字より、故人に思いを馳せることが必要なんだ!とブチ切れる
列車で眠りこけたデヴィッドが寝ぼけて間違えて、違う駅で下車しても止めなかったり
ベンジーの周りを困惑させるエピソードは数しれず
でも彼の、人の懐にするりと入り込むキャラクターゆえに、嫌われずに済むギリギリの人生だったんだろうなと推察、イヤ、日本だったら確実に迷惑な奴認定されるな
強制収容所見学シーンはそんなに時間をかけていない。感傷的になるような演出もなく、そういう背景の施設が今も遺されていること、遺された大量の靴がその主がいたことを教えてくれる
感動作ではない
わたしはちょっと眠くなったくらいだし
ツアー参加者とのふれあいで、何か特別なストーリー展開が生まれるわけでもなく
帰国して、デヴィッドは家族の待つ家へ
家に持ち帰った小石、彼はじきにその存在を忘れてしまうのだろうし
ベンジーは空港の待合室でもう少し人間観察する、と残って
淡々と終わる映画だけど
何かを心に遺してくれる映画
ふと気づくと、玄関の前に転がっている小石のように
しんどくても自分を抱えて生きる
個人的な思い出として、昔ワルシャワに数日間滞在したことがあり、自分の思い出を辿ることができたら、と思って映画を見ました。
ずいぶんと考えさせられる映画でした。
主人公のデヴィッドは映画冒頭で空港へ向かうタクシーの中から繰り返し繰り返し、旅の相棒である従兄弟のベンジーに電話をします。電話をするデヴィッドが神経質な危ない人に見えたのですが、話が進むにつれてデヴィッドは普通の人で、相手のベンジーの方が問題であることが判ります。
ポーランドでのナチスによるユダヤ人迫害を知るツアーで、デヴィッドはベンジーに振り回され続けます。ベンジーは自分の感情に正直な人で、ツアー参加者と衝突しそうになりながらも、正直であるがゆえに人を惹きつけ、愛される魅力を持ちます。
ツアー参加者と別れるシーンで、彼らはベンジーに感謝し別れを惜しみ、一方のデヴィッドにはベンジーのオマケのような対応をします。
その日の前の夕食のシーンで、デヴィッドはベンジーに対して持っている感情をツアー参加者に明かしますが、それは嫉妬と羨望が入り混じった複雑なもの。自分の感情を赤裸々に表現したのですが、ベンジーがピアノを弾き始め、注目を持っていってしまいます。
それでもデヴィッドはベンジーと葉っぱを吹かし、おばあさんの家でベンジーを真似て石を置き、旅の終わりではベンジーを自宅に招き、ベンジーの心に近づこうとします。
ベンジーとの旅で傷つくこともあったものの、思い出を作ったデヴィッドは家族の待つ家に戻り、旅を終えます。
一方のベンジーは、映画の終わりで一人空港に佇み笑顔を浮かべます。
ベンジーはまた、一人に戻ってしまったのです。
ツアー参加者を楽しませ感謝されたベンジーでしたが、旅を強く印象付ける存在としてありがたい、でも彼のような存在は日常生活で刺激が強すぎ、疲れてしまうのです。
ベンジーと辛抱強く付き合ってくれるのは、亡くなったおばあさんとデヴィッドだけ。
デヴィッドから家に誘われても、デヴィッドの家族を苛立たせて関係を壊してしまいそうだから訪問を断った、自ら孤独を選ばなければいけないのがベンジーの日常であり、彼が抱えている苦悩なのでしょう。
映画ラストのベンジーの笑顔は、自己憐憫の気持ちが表れていたように思います。
傷つけ合いながらも相手を思いやる、生きていくのは切ないものだ、そんな気持ちになりました。
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