リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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俺だって人気者になりたいんだ!
まずHe is real pain.って
「ヤツにはマジうんざり」って意味なんで、
キャップにメガネの冴えないデイビッド(強迫性障害)から見た
トリックスターみたいな従兄弟ベンジー(双極性障害)への嫉妬と羨望がまぜこぜになった感情を指してると思ってて、ああそんな感じの映画ね、ってわりと余裕ぶっこいて生暖かく見守ってたわけだけど…。
事実、デイビッドは今回のポーランド行きのお金を出してくれた亡くなったおばあちゃんも生前あからさまにベンジーを贔屓してたと思ってたし、一緒にツアーを回ったメンバーも自分のことなんて印象すらなくてベンジーのことが大好きになったんだろ?と思ってる。昔からこんなに周りに恵まれているのにODで死にかけるなんてありえないし、自分が得られない幸せを手にしているのに何が不幸せなんだ?そんなわけのわからない考えは許さないって思ってる一方で、双子の兄弟みたいに育ってるんだ、お前のことを愛してるに決まってるだろ、っていう揺るぎない大きな愛情を抱えたアンビバレントなデイビッド目線で物語は進んでいく。
デイビッド目線だから、ベンジーのことを周りを明るくするわがままだけどチャーミングなキャラクターだと思ってしまいがちだけど、実際劇中で心の内を吐露できたのはデイビッドだけで(本人に直接ではなくツアー客にだけど)、当のベンジーはいつも饒舌なのに何故メランコリーで、何故死のうとしたのかは一切語っていないということ。
つまりベンジーの行動原理が映画館を出る観客にはわからない。実はここがこの映画の主題なのかなと思ったり。
先の大戦でヨーロッパを席巻したホロコーストの悲劇は、出来事としては教科書や小説、映像としてさまざまな人々に記憶されているが、そこで人としての尊厳を奪われて殺されていった老若男女600万を超える個人の言葉は伝わらないし、どんなに恐ろしいものやおぞましいもの、悲しくなるようなものを見て心が動いたとしても、結局お前らには温かい家庭があるじゃないかと。真の孤独やハイセンシティブによる恐怖や絶望への共感など知らず、愛する我が子を抱きしめられる。その幸せを噛み締めろ、と。安全なところから心配だけして行動しないまま死んでいけと(言い過ぎ)。もしかしたらあの戦争の時代に比べたら現代の悩みなんて豊かさが作り上げた幻想だぜ?ってメッセージも込められているのかも?とまで思ってしまったな。
始まりと全く同じ画角のドリー映像で、空港のロビーに集うさまざまな人々の合間からのぞくベンジーの姿。そこに入るreal painの文字。こいつがデイビッドのリアルペインなんだよな、から始まった映画が、ベンジーの内面のリアルペインに見事に意味を代えていてとても鮮やかな手法だなと思った。
なお、これと同じようなタイトルの出し方をバカリズム脚本のホットスポットでもやってて、升野さんこういうの好きよなあ、となったり。
全編で流れる素敵なショパンのピアノ曲、ああ我が祖国ポーランド!と思ったけどワルシャワ空港がワルシャワ・ショパン空港になってたのは知らなかったな。ちなみにリバプール空港はリバプール・ジョン・レノン空港な。
まとまりないけどこんな感じ。
めちゃくちゃ無理したけどファーストディ制覇は順調です。
それではハバナイスムービー!
それでも二人は前に進む
亡くなった祖母の遺言に従い、
ニューヨーク州に住む
『デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)』と
『ベンジー(キーラン・カルキン)』の従兄弟同士が、
彼女の故郷ポーランドに向かう。
祖母は第二次大戦を生き抜いたユダヤ人のサバイバー。
二人の旅の目的は、
ホロコーストの史跡をメインに巡るツアーに参加することと、
彼女が嘗て住んでいた家を訪れること。
幼い頃は兄弟同然に育った二人は今では疎遠。
間には目に見えない感情のわだかまりが横たわる。
今回の旅でその距離を昔のように戻したいとの意図が
祖母が遺した真意であるはず。
ホロコーストの史跡を巡るといっても、
ツアーそのものは気軽に参加できる予定調和的なもの。
『ベンジー』はそこでエキセントリックな言動で
一行を困惑させる一種のトリックスターとしての役割を演じる。
唐突で場にそぐわぬ発言は、しかし
一点の真実を突いており、
周囲を困惑させつつ魅了する力を持つ。
対する『デヴィッド』は妻子もある社会的には成功者。
『ベンジー』の奇矯な行動に振り回され、
眉をひそめながらも、周りに頭を下げる良識人。
他方、面白みのない人物でもあり、
旅が終われば同行者の誰の記憶にも残らぬだろう。
ツアーの冒頭、六名の参加者たちは
自身のプロフィールを披瀝する。
ルワンダの虐殺を生き延びたのち
ユダヤ教に改宗した黒人青年を始めとし、
皆が夫々のドラマを語るなか、
二人は祖母が亡くなったことにのみふれ、
自分たちのことを詳しくは語らない。
が、旅が進み
『ベンジー』の抱える心の闇と、
そのことに胸を痛める『デヴィッド』の心情が明らかに。
旅を終え、帰国の途につく二人。
空港に降り立っても旅立つ前と同じ会話が繰り返され、
大きな変化があったようには見えない。
原因が分かることと、改善されることは別物だから。
とは言え、前へ進むための小さな萌芽が
確かに起きていることは示され、
鑑賞者は、ほっと安堵の吐息を漏らす。
『ジェシー・アイゼンバーグ』の速射砲のような台詞回しは健在。
常であれば、彼をこそ他から際立たせる話法なのに、
本作では普通人に見えてしまう不思議。
『キーラン・カルキン』の特異な個性を際立たせる数々の描写と共に、
不器用な二人のことが次第に気になりだすファクターとして上手く機能させている。
左派と保守の和解
「メンタルヘルスに苦しむ僕の個人的な痛みは、客観的に見てもっと恐ろしい先祖の痛みと比べてどうなのか?僕の痛みは語るに値するものなのか?」実際強迫神経症に悩んでいるというユダヤ系アメリカ人ジェシー・アイゼンバーグが監督・脚本を担当した本作で、アイゼンバーグ本人が主役のベンジーを演じるつもりでいたところ、それでは荷が重すぎるとプロデューサーのエマ・ストーンにたしなめられ、そのベンジーの従兄弟デヴィッドを演じることにしたという。
自殺未遂経験者のベンジーには、マコーレーの弟キーラン・カルキンをキャスティング。社交的だが自分の考えが通らないとへそを曲げ反社的行動にでる、ベンジーそのままの性格の持ち主だったそうな。そんなベンジーがどういうわけか極度の鬱状態、従兄弟の病気を心配し本人も強迫神経症の気があるデヴィッドがベンジーを旅に誘った行く先が、なんと二人の祖母の故郷ポーランド。そこでガイド付ホロコースト・ツアーに参加するのだが....
私はこの映画を観て、何十年も前に一人で訪れたシチリアのオプショナル・ツアーのことをふと思い出したのである。どこぞの遺跡を訪れるために集まった観光客のほとんどが英国人かアメリカ人の老人たちで、日本人は私だけ。そこに自分のルーツ探しに来たと語るイタリア系アメリカ人の青年が一人いて、英語もろくに話せない私となぜか意気投合。老人ツアー客たちががクスクス料理に舌鼓をうっている間、私と青年は売店で大して美味しくもないチーズハムサンドを買って、旧市街地をブラブラ。集合までの時間潰しをしながらあてもなく歩いた記憶が甦って来たのである。
何を話したのかも全く憶えていないのだが、ツアー客の中で明らかに浮いていた私たちは、その気まずさをお互い察していたに違いない。ホロコースト・ツアーのハイライトであるマイダネク収容所跡地を訪れた後、電車の中でベンジーが人目もはばからず嗚咽するシーンがある。ガス室の中で命を落とした祖先たちの大量に積み上げられた履き物を目撃し、激しくショックを受けたのである。広島の原爆記念館を訪れて涙を流す白人女性をYouTube等で目にすることがあるが、それとは明らかに異質な“涙”だったような気がする。
他人の悲しみや痛みに一時的に同情するふりができる人は沢山いるが、それを自分の痛みとして感じられる人は果たしてどのくらいいるのだろう。本作のベンジーとデヴィッドはおそらく後者に属する感受性の豊かな人種なのだ。祖先の受難を辿る旅で、なぜか一等車に乗って移動し、腹が減ったら🍷片手に豪勢な食事を堪能する。そんな嘘臭い旅のどこに真実味があるというのだ、チーズハムサンド?で充分ではないか。ベンジーは愛する故人ドリー婆ちゃんがサバイブした歴史的悲劇を、単なる傍観者として眺めることができなかったのであろう。
旅先で祖先が経験した“痛み”を知ったデヴィッド(🟥T→家族持ち→共和党)は同時に、従兄弟ベンジー(🟦T→ホームレス→民主党)の苦悩を心の底から理解することができたのではないだろうか。ポーランドから持ち帰った“石”そのものが、ホロコーストで犠牲となったユダヤ人祖先の皆さん、そしてベンジーが背負い続ける“悲しみ”のメタファーのように思えたのである。ポーランド出身の天才作曲家ショパンの調べが、全編を通じて劇伴として使用されている。第二次大戦中持病の肺結核が原因でパリで命を落としたショパンは、生涯を通じて祖国ポーランドへの帰郷を強く望んでいたという。
あのイタリア系青年もレスだったのかなぁ、もしかして。
ユダヤ系アメリカ人のルーツ
近年のホロコーストを題材にした映画というと、ホロコーストを生き延びた人たちに焦点を当て、当時の体験談を元に構成されたものが多いという印象だった。しかし、本作は、そういう戦争世代が主人公ではなく、その子孫であるミレニアル世代の物語であり、先祖を崇拝し、戦争を語り継ぐ一方、内省的な男同士の語り合いがメインのストーリーとなっている。監督によれば、様々な悲しみや痛みの交わりを描き出し、痛みをどう評価するべきなのかを問うことを目標としたらしい。
ニューヨークに住むユダヤ人のデヴィッドとその従兄弟のベンジーは、亡き最愛の祖母を偲ぶ意味を込めて、一族のルーツであるポーランドを訪れる。そこで第二次大戦が残した爪痕をめぐるツアーに参加する。ツアーは、ゲットー英雄記念碑、ワルシャワ蜂起記念碑、ルブリンのユダヤ人墓地、マイダネク(ルブリン強制収容所)と訪問していくが、その中で、2人は同じツアー参加者と交流しつつ、内に秘めていた感情をさらけ出していく。
監督・脚本・製作・主演を務めるジェシー・アイゼンバーグは、自身のルーツがユダヤ系ポーランド人である。本作の祖母のモデルは1938年にアメリカに移住し3年前に107歳で亡くなったアイゼンバーグの大叔母ドリスとポーランドに残った家族のうち唯一の生き残りである従姉妹のマリアの2人を合わせたものだという。アイゼンバーグは妻とともに本作と同じ目的で、2007年に実際にポーランドを訪れてマリアに会っており、映画の中で2人が訪ねる家は実際にマリアの生家だそうである。アイゼンバーグはポーランド国籍を取得するため申請を出しているくらい、自分のルーツに思いが深い。
映画に登場する早口で饒舌で神経質なユダヤ系アメリカ人男性、と聞けば大勢がウディ・アレンを思い浮かべるだろう。アイゼンバーグは、アレン監督の「カフェ・ソサエティ」で主演しているが、自身の監督第2作でそうしたキャラクターである主人公デヴィッドを演じるということは、性的虐待で映画界を追放されて不在となったアレンの立ち位置を受け継ぐ意思の表れだろうか。
今まで深く考えてこなかったがジェシー・アイゼンバーグは『ソーシャル...
キーラン・カルキンの映画
キャラクターがすべて
いとこ同士で対象的な二人
しかし二人の痛みや本音を知るたびに
"本当の痛み"の意味に気付いていく
本音を打ち明けられた主人公と、
決して本音を打ち明けることが出来なかったベンジー。
恐らくベンジーは本音を人に打ち明けた瞬間、
自分を保てなくなってしまうのだろうと思った。
そこには深い深い矛盾があり、自分にも他人にも解決ものでは無いのだろう。
その孤独を想って、非常に淋しくなった。
しかしそれでも人生は続いていく。
少なくとも、今の人生は。
人に甘えるのって大人になるほど難しいなと思う
甘えたことが無いから、甘える拍子に自分を失ってしまうのだろうなと思った
ベンジーのような人、
すなわち輪の中にいたら楽しいけれども、
家には居て欲しくないような人、
そんな人を主役に据える映画が増えた気がする。
「システム・クラッシャー」とか。
本当の本当の心の底なんて本人しか知らなくていいし、
自分で抱え込んでもいいのだけれど、
他者はやっぱり近づきにくくなってしまうよね。
何で生きていくだけで、こんなにも痛いんだろうねえ。
アイゼンバーグすごい
共感性羞恥が発動
行動はあまり褒められたものではないが、社交的でいつも周りを巻き込んでその中心にいて、何かと注目を浴びてしまう人。
可愛げがあってどこか憎めない人。
感覚がビビッドで、純粋だがそれを隠さず周りを気にせず言動に表す人。
そんなベンジーを見ながら、私もデヴィッドと同じように困惑しながらもどこかで「憧れ」てしまっていたり。
でも、ベンジーには純粋で奔放であるが故の痛みや悩み、地獄がある。
ただの石ころが死者への想いを表す一方で、ただの危険物にもなり得る様に、同じ人・モノにもたくさんの価値観や印象があって、そのどれかがいつも正しいということもないし、その逆もない。
それでも人はその地獄から逃れることができず、時には他人、そして自分をも傷つけてしまう。
もしかしたら、今回登場する収容所やルワンダでの虐殺もそういった異なる価値観が生んだ最悪の終着点であったのかも知れない。
主人公の二人は、旅を終えてまた日常に戻っていく。
この旅で何か彼らに変化があったかは分からないけど、離れた場所に住む仲の良い二人が、お互いの無事を確認し、そしてまた生きていくというだけで、十分な映画的な意味があるのかも知れない。
いや、ぶっちゃけ、物語で特に大きな事件が起きるワケではないし、ベンジーは普通に考えて厄介な親戚だし、デヴィッドの立場に立つと、共感性羞恥が発動してしまう。どこに私は心を寄せていけばいいの、というタイプの作品ではあるけどね。
重いテーマを重苦しくならず描いたこの監督は凄い。
私が映画鑑賞の目印とする週刊文春の映画評で、高評価なので鑑賞してみた。冒頭、疲れていて寝入ってしまった。主人公2人が何故ポーランドツアーに参加する経緯は、正直なところ観ていない。が観ていなくても、十分わかる映画だった。つまりは脚本が良く出来ていることの証左。
私はナチスによるユダヤ人のホロコーストには、同情するけれど、映画になっているユダヤ人の一方的な被害者映画の描き方に辟易している。批判は覚悟している。人類の歴史で滅亡・この世から抹殺された・されそうたなった人種・民族は恐らくユダヤ人だけでない。他にもっとあると思う。前のレビューに書いたが、加害者であるドイツ人からみた映画が製作されないと手落ちだと考えている。嬉しいことまだ数は少ないけれど、そんな映画が製作されている。背筋が凍る映画もあって、人間は怖いと感じさせる。あれはドイツだけ(ナチスだけを悪者にするのは、おかしい)が例外的な存在ではない。自国の歴史を調べればナチスと同様な事をしているのが人間の真実だと思っている。
この映画を観ていて、ホロコーストの対象となったユダヤ人の視点から観るのは、誤っている。どこの国でもある。人類共通の心の痛み(リアル・ベイン)を描いた映画だ。そう私は受け取った。全編に流れるポーランド出身のジョバンの作品が美しい。私は、アシュケナージとルービンシュタイン及びサンソン・フランソワのジョバン全集のCDを持っている。全てを聞いていないけどね。
消せない記憶‼️❓うなされる夢‼️❓
痛みと共に生きているのが人間
ルーツを辿る旅路
鑑賞後の余韻が暖かい
痛いというのか、面倒くさいヤツというのか、なんかイライラさせられるヤツというのか、自分を同類だと周りの人に思われたくないし、巻き込まないで欲しい。
うまく言えないけれど、というより、私の語彙不足でベンジーの人柄を変な方向で誤解されると困るのだけれど、とにかくそんな感じの人と人生のある段階で出会うことって結構あると思う。しかも困ったことに、そういう人を否定的に捉えたり、時には自分より〝下の人〟(絶対口にはしないけれど)だと決めつけて優越的な感情を持ってしまったりすることもある。なのに、そんなことを思ってしまった後は、大抵の場合、本当はオレだってあんな風に振る舞えたらどれだけいいだろう、と重い自己嫌悪に陥ることになるのだから堪らない。
ベンジーのような人にイライラしてしまうのは、どこかで、自分の嫌らしい負の感情や家族や友達には知られていない自分の醜い部分を気付かされてしまうような気がするから。
日本で言えば、〝被爆三世〟に当たる世代の二人の旅。底流にある重いテーマとは別に、今を生きる若者の漠然とした不安や苛立ちにそっと寄り添う、とても暖かい作品だと思います。
ショパンの旋律と共に
性格が対照的な従兄弟同士のデヴィッドとベンジーが生前祖母が住んでいたお家を訪れるためにポーランドへ旅行をするお話です。
奔放な言動が目立つのに人を魅了するベンジーと妻と子供がいるデヴィッドは互いを羨むけれど、それぞれに見えない葛藤や痛みがあり、脚本がとても良かったのか、その心情が繊細に描かれていました。特にベンジーの人物設定はとても良かったと思います。
他の人の意見にも耳を傾けて自分の考えもしっかりと伝えるという欧米を象徴するようなコミュニケーションが随所に見られてこの映画がとても好きになりました。
熟睡していたデヴィッドをベンジーは起こさず、降りるはずの駅を通り過ぎデヴィッドが「優先順位が異常」と言い放ったシーンは愛が詰まっていました。思い返せばデヴィッドもすやすや眠るベンジーを起こさず待ち合わせに遅れていましたね笑
ラストシーンの空港では様々な人が行き交う中で穏やかな表情になったベンジーが印象的でした。とても良かったです。
真の痛みに気づく大切さ
それほど期待していたわけではないですが、予告の雰囲気になんとなく惹かれ、公開2日目に鑑賞してきました。鑑賞後の率直な感想としては、強烈なメッセージを受け取ったわけではありませんが、人を思う優しさを感じ、なんとなく心温まる思いがしたといった印象です。
ストーリーは、アメリカに住むユダヤ人のデヴィッドと従兄弟のベンジーが、亡くなった最愛の祖母の実家を訪ねるためにポーランドのツアー旅行に参加し、久しぶりの再会を喜び、ツアー仲間との交流やボーランドの観光地巡りを通して、それぞれの抱える悩みに向き合っていくというもの。
冒頭から対照的なデヴィッドとベンジーの姿が描かれ、二人の関係性が強く印象付けられます。当初は、単なる仲よしの従兄弟に見えた二人ですが、物語が進むにつれ、互いに抱える思いがあったことがわかってきます。
生真面目な性格ゆえ、何かと周囲に気を遣い、ベンジーに振り回されるデヴィッド。実は心のどこかでずっと、ベンジーの社交的で気さくな人柄に憧れ、その一方で自分にはないその性格を妬み、疎ましくも思っていたのでしょう。それでも、やっぱり、ベンジーを嫌いになれないし、今の彼の様子を気遣い、旅に誘ったのでしょう。
そんなデヴィッドの思いを知ってか知らずか、自由奔放に振る舞い、気持ちの浮き沈みの激しいベンジー。場を和ませ、誰とでもすぐに打ち解けられるベンジーですが、鬱病からくる不安定な一面をもっています。祖母を失った悲しみを抱え、ユダヤ人としての出自をもちながら、それを忘れて楽しくアメリカで暮らすことに悩んでいたのかもしれません。
兄弟同然に育ち、お互いなんでもわかり合えるゼロ距離だと思っていた二人。しかし、実は相手の本当の悩みや苦しみに気づいておらず、今回のポーランド旅行がそれに気づかせてくれたように思います。まるで市街地のすぐ近くの収容所で行われていた惨劇に、気づいても気づかないように生活していた当時の人々に重なります。見えないから存在しないのではありません。見えなくてもあるのです。
終盤、祖母の生家を訪れた証として石を置いていこうとした二人に、隣人が「そんなことすると危ない」と注意する様子が描かれます。二人は石を持ち帰り、デヴィッドは自宅の玄関脇にそっと置きます。祖母宅の現在の住人への気遣いとともに、今回のベンジーとの旅行でデヴィッドが噛み締めた思いなど、見えない思いを象徴しているかのようの感じます。
本作は、人の真の痛みは、それに気づいた人にしか理解できないものであり、それに気づくことこそが大切だと訴えているような気がします。そして、気づくためには直接感じることが重要だと伝えているような気がします。収容所の惨劇が説明や数字だけでは伝わらないように、自身で感じたり想像することが大切なのではないでしょうか。私も、以前から興味があったのですが、本作を通して、ポーランドにますます行ってみたくなりました。
キャストは、ジェシー・アイゼンバーグ、キーラン・カルキン、ウィル・シャープ、ジェニファー・グレイ、カート・エジアイアワン、ライザ・サドビ、ダニエル・オレスケスら。
地下2階へのロードムービー
公開3日目の週末、昼の回。前評判の高い映画だから混んでいるかと思ったら、有楽町の映画館は意外にも空いていた。
見終わって、すぐに言葉が出てこない。長く瞑想をした後のように、豊かな時間を過ごした感覚がある。ストーリーはシンプルで、わかりにくいところは何もない。
ただしどう受け止めたらよいか、なかなか言葉にできない映画だと思う。
ポーランドのホロコースト史跡を巡るツアーに参加した、親しい従兄弟同士のデヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)。
ツアーのメンバーは、ユダヤ系アメリカ人、ルワンダ難民、イギリス人のガイドなど、多様なバックグラウンドを持つ7人の小グループ。
それぞれが知的で寛容で礼儀をわきまえた成熟した大人だが、そこをかき回すのが、カルキン演じるベンジーだ。
オープニングから、彼は周囲の目を気にせずはしゃぎまわる。
正直、僕は苦手なタイプだ。デヴィッドも迷惑そうだが、表に出さずに受け入れている。
けれど、見ているうちに、ただのトラブルメーカーではないことがわかってくる。
例えば、空港の手荷物検査でのシーン。ベンジーは係員とほんの短い時間で打ち解け、相手の個人的な話を自然と引き出してしまう。
その瞬間、知人の娘さんのことを思い出した。発達障害があり、20歳で亡くなった彼女。幼い頃から知っていたが、彼女のことが僕は大好きだった。
彼女はいつも率直で、自分の感じたことをすぐ口に出した。時にそれは鋭く、本音を見透かされるようだった。彼女は、自分の内面と強くつながり、豊かな世界を持っていたのだろう。その言葉には邪気がなかった。それは20歳まで成長しても変わらなかった。
ベンジーもそんな人物だ。彼は、普通の大人なら誰でも身につける「自己欺瞞」から自由な人物なのだ。
だからこそ、時に無礼な振る舞いをしながらも、人の心に深く入り込み、愛される存在になるのだろう。
人を家に例えたのは、河合隼雄だったか、村上春樹だったか、忘れてしまったが、この映画は「家」の比喩で理解できる気がする。
私たちは、家のようなものだ。掘立て小屋の人もいれば、自己欺瞞で飾り立てた豪邸もあるし、地位と名声を誇る高層ビルのような人もいる。
そして、他人から見えず、自分も普段は忘れているけれど、どの家にも地下室がある。
地下1階は、個人的な無意識の部屋だ。そこには、過去に経験したさまざまな痛み=ペインが転がっている。でもその多くを忘れ、時には克服したものとして、私たちは「大人」になる。
さらに、その下には地下2階がある。それはおそらく、ユングのいう集合的無意識の領域だ。そこには、個人を超えた民族や国家、先祖たちが受け継いできた痛み=リアル・ペインが眠っている。
そう考えると、この映画は、地下1階、そして地下2階へと降りていくロードムービーでもあるのだろう。
不勉強ながら、「ホロコーストがテーマなのになぜドイツじゃなくポーランドなのか?」と疑問に思っていた。この映画を見るなら、事前にWikipediaでもいいから、ポーランドのユダヤ人の歴史を調べてから見に行くと良いと思う。
どれほどのことが行われたのか。そして、このツアーの参加者たちが、自分が生きていることの奇跡を感じている理由もわかるからだ。
そして、さらに驚いたのは、ハリウッドのルーツを初めて知ったことだ。従来の仕事になかなか就かせてもらえなかったユダヤ系移民たちが映画産業を立ち上げ、アメリカ社会から差別される身でありながら、やがて「アメリカの神話」となる作品を多数輩出し、現在のように世界を席巻するまでになったことも僕は知らなかった。
おそらく、この映画は、ユダヤ系映画人にとって「自らのルーツをたどる旅」 でもあるのだろう。
私も戦後生まれだが、父母は戦中生まれ、祖父母はもう亡くなったが、彼らは戦前に成人した世代だった。戦争の記憶は、僕に直接はない。祖父母や両親からもあまり詳しい話を聞いたことはない。
しかし、僕の「地下2階」にも、その先祖たちから受け継いだなんらかの痛みが眠っているのかもしれない。
たまには、自分のルーツへと降りてみる旅をしよう。その旅は、劇的な変化を自分にもたらすわけではないかもしれない。でも、そこに向き合う時間が、自分の存在の確かさや、生きていることの奇跡を感じさせてくれる。
そんな示唆をくれる映画だった。
いろいろがリアル
擬似ポーランド旅行と切なさの残るエンディングを堪能
大体1年に2本くらい観ている”ナチス物”ですが、今年の1本目が本作となりました。去年話題になった「関心領域」同様、舞台は強制収容所があったポーランドでしたが、時代設定は戦時中ではなく現代。ナチスによる大虐殺を逃れてポーランドからアメリカに渡った祖母の生家を訪ねるため、同国に渡ったデヴィッドとベンジーのユダヤ人従兄弟が、同国のユダヤ人にまつわる旧跡を巡るツアーに参加する物語であり、旧跡はもとよりポーランドの街並みや車窓の風景などを眺めることが出来て、擬似ポーランド旅行が楽しめる作品でした。また、ポーランドの国民的作曲家であるショパンのピアノの調べが全編を通して流れており、こちらも心地よかったです。
肝心の内容ですが、キャラクター設定が鮮明で、その枠組みがしっかりとしており、彼らの関わり方とか会話を見るべき作品と言う印象で、その辺は舞台劇に近い感じもしました。監督兼主演のジェシー・アイゼンバーグが演ずるデヴィッドは、どちらかと言えば引っ込み思案で内向きであるのに対して、従兄弟のベンジー(キーラン・カルキン)は社交的で何でも口にするタイプ。しかも感受性の塊のような性格で純心。でも裏を返せば大人になり切れない面があり、最愛の祖母が亡くなったショックで自殺未遂をしたらしい。一見お騒がせタイプではあるけれども、人の心を掴む天性の才能を持っていて、デヴィッドはそれを妬ましく思っている。
そんな2人の物語だけでも興味深いですが、ツアーに参加する面子のキャラ設定も中々でした。引退したユダヤ人夫婦、ルワンダの大虐殺を生き抜きユダヤ教に改宗した黒人青年、デヴィッドとベンジーと同世代の女性、そしてイギリス人のツアーガイドと、それぞれに意味合いを持たせていて、旅の中での彼らの関わり方が非常に面白い作品でした。
そして題名である”リアル・ペイン”について。前述の通りベンジーは祖母の死を受け入れきれずに自らの命を断とうとした訳ですが、この旅を通じてすらも完全に傷は癒えていないと感じました。心の傷は簡単には癒えないということでしょう。一方デヴィッドは、最近疎遠になっていたベンジーとの旅を通じて、心が晴れ晴れとした印象。エンディングにおいけるこの対照的な2人の姿を観て、ちょっと切なくなりました。8割はスカッとさせつつも、2割のモヤモヤ感の残像を作ったことで、本作に世界観が現実世界と地続きなんだと思わせてくれたように感じました。
そんな訳で、本作の評価は★4.2とします。
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