リアル・ペイン 心の旅のレビュー・感想・評価
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自然と涙が……
主人公二人よりも…🎹🎶
しみたな…
ベンジーのキャラが秀逸
対照的な性格の従兄弟同士が、亡き祖母の故郷ポーランドを巡りながら絆を深めていくロードムービー。
このツアーにはナチスに迫害されたユダヤ人の歴史を顧みるという目的がある。こうした過去の悲劇を辿る旅はとかく重苦しいムードに引っ張られる傾向にあるが、本作はそこをユーモラスに料理した所が新鮮だ。
例えば、ワルシャワ蜂起の銅像の前でおどけて記念写真を撮ったり、電車で寝過ごして遅刻したり、ホテルの屋上で隠れてマリファナを吸ったり等、やんちゃなベンジーと几帳面なデヴィッドのキャラクターの相違が、この旅を面白く見せている。
ただ、ベンジーは確かに陽キャで社交性抜群なのだが、その反面、上辺を取り繕うのが苦手で何でも本音を口に出してしまう悪い癖がある。時としてその言葉が周囲に気まずい空気を作り出し、デヴィッドは尻拭いをさせられることになる。やがて彼はこの旅に参加したことを後悔し始めるようになる。
こうした二人の衝突は後半から徐々に表面化するようになっていく。
印象的だったのはレストランのシーンである。ここでデヴィッドは初めて周囲にベンジーに対する思いを吐露するのだが、果たしてその言葉は空席だったベンジーの耳に入っていたのかどうか?観る側の想像に委ねた演出が秀逸だった。
旅を締め括るラストにもしみじみとさせられた。実は本作で最も笑ったのはこの場面なのだが、この笑いと哀愁の絶妙なバランスは見事だと思う。
惜しむらくは、他のツアー客との絡みが存外薄みだったことだろうか…。典型的なユダヤ人の老夫婦、バツイチ女性、ルワンダの虐殺を生き延びた黒人男性。夫々にキャラクターは屹立していたが、90分という小品なこともあり、ドラマに期待以上の膨らみは生まれなかった。
また、バックにショパンのピアノが流れ続けるのも、抑揚を失していて余り感心しない。もう少し抑制を利かせても良かったのではないだろうか。
キャストでは、ベンジーを演じたキーラン・カルキンが素晴らしかった。子役時代に大ブレイクを果たした兄マコーレ・カルキンが今やすっかりタレント業みたいになっているのに対し、弟の方がまさかここまで地道に俳優業を続けているとは思いもよらなかった。今回のようなお騒がせキャラは、演じ方次第では嫌味に映ってしまうものであるが、そこを愛嬌の良さで上手く乗り切ったという感じである。
デヴィッドを演じたジェシー・アイゼンバーグは、「イカとクジラ」、「ソーシャル・ネットワーク」からほぼ変わらずといった印象だが、こうした神経症的な演技は相変わらず上手い。
そして、彼は本作で製作、監督、脚本も務めており、演出家としてのセンスも中々のものである。今後もぜひ作品を撮り続けて行って欲しい。
ベンジーみたいになれたら
NYからポーランドへのヒストリカルツアーに参加したお騒がせ中年男2人の珍道中を描いた佳作。
ポーランド系ユダヤ人としてのルーツに触れるという旅の目的から、ホロコースト関連の史跡がいろいろ登場するけど、舞台装置として使われるだけで主眼はそこにはない。シチュエーション・コメディ仕立てで笑わせつつ、要所で展開するのは、この双子のような従兄弟2人の人生観、アイデンティティをめぐる会話劇だ。
しかしまあ、自由奔放というか野生児というか、ベンジーという男、こんなのが身内にいたら迷惑でしかない。多弁で無作法で予測不能な多動癖。しかしすぐに場を自分のペースに巻き込んでしまう不思議な魅力がある。凡人で人のいい相方のデヴィッドは、ほぼ100パー疎ましく思いながら、どこかでベンジーの生き方を羨む気持ちもあり、この愛憎半ばするストレスフルな旅で彼は何を得たのか---。
ベンジーを演じたキーラン・カルキン素晴らしい!
25-018
日頃の疲れにホッとひと息
ダークツーリズムを通して描かれる「みんな辛い」
この映画には2つの要素があると思った。
1つ目は「ダークツーリズム」について。
ダークツーリズム(個人的には最近知った言葉)を題材にした映画は珍しいと思う。
知らない人のために一応説明させていただくと、ダークツーリズムは「歴史的に悲劇が起きた場所を訪問する観光」のこと。
今回はホロコーストツアー。
ポーランドの各地を訪問していく話なので、まるでポーランドを観光している気分が味わえた。
でもこの映画で一番重要な訪問先は「強制収容所」。
この場面になると音楽が止み、各部屋で何が行われたかをツアーガイドが淡々と説明していくだけの静かな場面になるが、説明を聴いてその場所で何が起きたかを想像するだけで戦慄が走った。
同じ人間が起こしたとは思えない非道の数々。
この場面を観れば誰でも「こんな異常なことを人類は二度と起こしてはならない」と思うはず。
それだけでもこの映画には価値がある。
本作の中で、ダークツーリズムの問題点について言及する場面が出てくるも面白い。
最近、映画やドラマなどの考察が流行っているような気がするが、そういうのが好みではない人間からすると、この映画の中で指摘されているダークツーリズムの駄目な部分って、そのまま「映画やドラマなどの考察」についても言えるなと思った。
2つ目の要素は「陰キャと陽キャ」なついて。
ジェシー・アイゼンバーグ演じるデヴィットは陰キャ、キーラン・カルキン演じるベンジーは陽キャの代表みたいな人物に思えた。
この映画は基本的には次の二つの場面が何度も出てくる構成。
「最初はデヴィットとベンジーが一緒に行動するも、デヴィットは他人の迷惑になるのを嫌がって大人しくしているのに対し、ベンジーの方はゼロ距離で他のツアー客と積極的にコミュニケーション、その結果、ベンジーはみんなと打ち解けあって仲良くなり、デヴィットは孤立していく」という場面と、「デヴィットがベンジーの悪さに付き合わされて最初は迷惑そうにするも、付き合っているうちにワクワクしてくる」という場面。
ツアー客みんなでディナーする場面で、ベンジーはみんなと仲良くなって大盛り上がり、一方、同じテーブルの隅で黙々と食事していたデヴィットは一人で先にホテルに戻ってふて寝。
個人的にはデヴィット側の人間なので、気持ちがわかりすぎた。
あと、非常識なベンジーの行動を他人は我慢していちいち指摘しないのに、ベンジーの方は他人がちょっとでも問題があると思ったら遠慮なく常識を諭してくる感じ、とても既視感。
「おまいう」と突っ込まずにはいられなかった。
ツアーでみんなとお別れする場面での、ツアー客のデヴィットとベンジーに対する対応の差がリアルすぎて「ひえー」となった。
みんなデヴィットとはしっかりと別れの挨拶をして、ベンジーには何もしないと可哀想だからとりあえずやってあげてる感が滲み出てて、何気ないけど凄い場面だった。
この映画はデヴィットとベンジーの「服の色」に目がいく作りで、たぶん意図的。
ずっとそこを気にして観ていたら、後半、びっくりした。
ジェシー・アイゼンバーグ監督は去年公開の初監督作『僕らの世界が交わるまで』を観た時も思ったが、脚本が上手いと思う。
会話のやり取りが面白く、登場人物たちの行動は「実際にこういうことする人いる」と思わせる説得力があり、前半の何気ない物や行動の多くがその後の伏線として生かされていたりして、脚本に無駄が無くレベルが高いと感じた。
祖母が亡くなった理由がちゃんとは描かれないが、デヴィットが映画の中で繰り返し行う行動から推測はできる作りで、そこも脚本上手い(的外れな推測かもしれないが…)。
伝聞よりも自分で思いつく方が衝撃が大きい。
終盤、デヴィットがベンジーに対して取る突発的な行動を観て、「だから『リアル・ペイン』なのか」と一瞬思った。
デヴィット側の人間の人間としては「陰キャって辛いわ」と思う場面の連続だったが、この映画は「陽キャだって辛い」も描いていて、そこが素晴らしいと思った。
本作は一番最初と一番最後がどちらも同じシーンの画になっているが、映画を最後まで観ると、印象が全く違って見えるのが凄い。
空港にたたずむベンジー
まずは、今年度の最高傑作でしたね!(って、まだ2月頭やろ…)
いとこ同士のデヴィッドとベンジーがポーランドの第2次世界大戦の史跡ツアーに参加するロードムービー。
デヴィッドは常識人で仕事もあれば妻も子供もいる。
それに対してベンジーは未だにその日暮らし。
デヴィッドはベンジーの自由奔放さを疎ましく思いながらも、そこにずっと憧れを抱いていた。
一言で言うとデヴィッドとベンジーの友情物語。
破天荒で自由奔放で、すぐ感情的になるデヴィッド。
そういう面倒な友達っているよね。
でもなぜか憎めなくて、その明るさが皆に愛されるんで嫉妬する。
この映画を観た多くの人がデヴィッドに共感すると思う。
なぜならベンジータイプの人は、そもそもこういう映画を観に行かないし…
たとえ行っても自分とは違うと思うから。(個人的感想です)
でも、ベンジーにはグッとくる、涙出る。
空港にたたずむベンジーがこの映画のすべてを語っている。
全編に流れるクラシックピアノは岩井俊二の映画のように心地いい。
(同じようなピアノ曲のせい?)
そして、エンドロールに流れるレゲエに少し救われる。
ウディ・アレンのモノマネか
ジェシー・アイゼンバーグ演じるデヴィッドの、
ウディ・アレンのモノマネのような、
早口でイライラしたセリフ回しから始まる。
冒頭の空港でのシークエンスは、
ふたりの性格を端的に表すと同時に、
映画全体のトーンを暗示する。
映画が空港で始まり、
エンドロール後も空港の音が聞こえてくる。
この構成は、
観客に「これで終わりではない」という感覚を抱かせる。
空港は出発と到着の場所であり、
最初と最後にタイトルが出て、
特にベンジー(ジェシー自身)にとって、
あるいは観客にとって、
この旅(〈めんどくさい〉旅)は、
まだ終わっていないことを示唆しているのかもしれない。
この空港の残響は、
ジェシー・アイゼンバーグ自身からのメッセージとも解釈できる。
それは、ふたりのキャラクターを通して、
観客に向けて、
ドラマティックな展開や明確な答えを求めるのではなく、
日常の延長線上にある感情や葛藤に、
目を向けることの重要性を語っているようにも思える。
ワルシャワやゲットー跡地、
マイダネク強制収容所(アウシュビッツよりも規模、施設、遺品の数は少ない収容所を選択したのかもしれない)といった場所を訪れるが、
それらを過度にドラマティックに描くことはない、
ホロコーストやナチスも、
必要以上に便利使いしないスタンスがいい。
あくまでも、祖母の生家を訪ねる旅という視点から、
歴史や記憶と向き合っている。
この映画は、観客に何かを示唆したり、
感動させたりすることを目的としているのではなさそうだ。
むしろ、ふたりの視点を通して、
自分自身の人生や感情と向き合うきっかけを与えてくれる。
若者、ばか者、ヨソ者を受け入れてくれるツアーの人たち。
それは、ジェシーからのメッセージ、
そのままでいい、
〈Let it be〉という事なのかもしれない。
空港の残響は、その問いかけを増幅させ、
悪くないエコーチェンバーとして、
観客に深く考えさせる余韻を残す。
様々な「痛み」を描いているのに、爽やかな観賞感が残る一作
軽快だけど何が起きてるんだろう?と思わせる予告編。本編もその流れを引き継いで、スピーディーに展開していきます。なにしろ観客は、慌てて空港に到着したデヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)とベンジー(キーラン・カルキン)がどういう関係なのかすらわからないまま、彼らとともにポーランドへの空路に着くわけですから。
ポーランド到着後、彼らが参加するツアーの過程で、予告編の突拍子もない展開は、どうもベンジーの奔放な言動に起因することが段々分かってきます。最初はその振る舞いに戸惑っていたツアーガイドや他のツアー客も、破天荒だけど人間的魅力に溢れた彼を受け入れていきます。
彼らはこのツアーを通じてどんな体験を共有していくのか、なぜベンジーはそのように「振舞わざるを得ない」のか、デヴィッドが常にベンジーに寄り添うのはなぜか。それらの背後は様々な次元の「痛み」が伴っていることが分かってくるのですが、それを直接的な描写でも説明的な台詞でもなく、ツアー中のごく日常的なやりとりで理解させてしまう作劇は実に巧みです。
ある場面におけるデヴィッドの長い独白も、単なる長々とした説明などではなく、心の奥からの叫びであることが実感できるのも、それまでの丁寧な描写の積み重ねがあるためでしょう。
結末の、デヴィッドとベンジーのやり取りが、これしかない!という気の利いたもので、最後まで「痛み(ペイン)」の物語であるにもかかわらず、爽やかな観賞感を残してくれました!
ユダヤ人の里帰り
見る側の立場とか時期とかステイタスによって感じ方が変わるやつ
俺だって人気者になりたいんだ!
まずHe is real pain.って
「ヤツにはマジうんざり」って意味なんで、
キャップにメガネの冴えないデイビッド(強迫性障害)から見た
トリックスターみたいな従兄弟ベンジー(双極性障害)への嫉妬と羨望がまぜこぜになった感情を指してると思ってて、ああそんな感じの映画ね、ってわりと余裕ぶっこいて生暖かく見守ってたわけだけど…。
事実、デイビッドは今回のポーランド行きのお金を出してくれた亡くなったおばあちゃんも生前あからさまにベンジーを贔屓してたと思ってたし、一緒にツアーを回ったメンバーも自分のことなんて印象すらなくてベンジーのことが大好きになったんだろ?と思ってる。昔からこんなに周りに恵まれているのにODで死にかけるなんてありえないし、自分が得られない幸せを手にしているのに何が不幸せなんだ?そんなわけのわからない考えは許さないって思ってる一方で、双子の兄弟みたいに育ってるんだ、お前のことを愛してるに決まってるだろ、っていう揺るぎない大きな愛情を抱えたアンビバレントなデイビッド目線で物語は進んでいく。
デイビッド目線だから、ベンジーのことを周りを明るくするわがままだけどチャーミングなキャラクターだと思ってしまいがちだけど、実際劇中で心の内を吐露できたのはデイビッドだけで(本人に直接ではなくツアー客にだけど)、当のベンジーはいつも饒舌なのに何故メランコリーで、何故死のうとしたのかは一切語っていないということ。
つまりベンジーの行動原理が映画館を出る観客にはわからない。実はここがこの映画の主題なのかなと思ったり。
先の大戦でヨーロッパを席巻したホロコーストの悲劇は、出来事としては教科書や小説、映像としてさまざまな人々に記憶されているが、そこで人としての尊厳を奪われて殺されていった老若男女600万を超える個人の言葉は伝わらないし、どんなに恐ろしいものやおぞましいもの、悲しくなるようなものを見て心が動いたとしても、結局お前らには温かい家庭があるじゃないかと。真の孤独やハイセンシティブによる恐怖や絶望への共感など知らず、愛する我が子を抱きしめられる。その幸せを噛み締めろ、と。安全なところから心配だけして行動しないまま死んでいけと(言い過ぎ)。もしかしたらあの戦争の時代に比べたら現代の悩みなんて豊かさが作り上げた幻想だぜ?ってメッセージも込められているのかも?とまで思ってしまったな。
始まりと全く同じ画角のドリー映像で、空港のロビーに集うさまざまな人々の合間からのぞくベンジーの姿。そこに入るreal painの文字。こいつがデイビッドのリアルペインなんだよな、から始まった映画が、ベンジーの内面のリアルペインに見事に意味を代えていてとても鮮やかな手法だなと思った。
なお、これと同じようなタイトルの出し方をバカリズム脚本のホットスポットでもやってて、升野さんこういうの好きよなあ、となったり。
全編で流れる素敵なショパンのピアノ曲、ああ我が祖国ポーランド!と思ったけどワルシャワ空港がワルシャワ・ショパン空港になってたのは知らなかったな。ちなみにリバプール空港はリバプール・ジョン・レノン空港な。
まとまりないけどこんな感じ。
めちゃくちゃ無理したけどファーストディ制覇は順調です。
それではハバナイスムービー!
それでも二人は前に進む
亡くなった祖母の遺言に従い、
ニューヨーク州に住む
『デヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)』と
『ベンジー(キーラン・カルキン)』の従兄弟同士が、
彼女の故郷ポーランドに向かう。
祖母は第二次大戦を生き抜いたユダヤ人のサバイバー。
二人の旅の目的は、
ホロコーストの史跡をメインに巡るツアーに参加することと、
彼女が嘗て住んでいた家を訪れること。
幼い頃は兄弟同然に育った二人は今では疎遠。
間には目に見えない感情のわだかまりが横たわる。
今回の旅でその距離を昔のように戻したいとの意図が
祖母が遺した真意であるはず。
ホロコーストの史跡を巡るといっても、
ツアーそのものは気軽に参加できる予定調和的なもの。
『ベンジー』はそこでエキセントリックな言動で
一行を困惑させる一種のトリックスターとしての役割を演じる。
唐突で場にそぐわぬ発言は、しかし
一点の真実を突いており、
周囲を困惑させつつ魅了する力を持つ。
対する『デヴィッド』は妻子もある社会的には成功者。
『ベンジー』の奇矯な行動に振り回され、
眉をひそめながらも、周りに頭を下げる良識人。
他方、面白みのない人物でもあり、
旅が終われば同行者の誰の記憶にも残らぬだろう。
ツアーの冒頭、六名の参加者たちは
自身のプロフィールを披瀝する。
ルワンダの虐殺を生き延びたのち
ユダヤ教に改宗した黒人青年を始めとし、
皆が夫々のドラマを語るなか、
二人は祖母が亡くなったことにのみふれ、
自分たちのことを詳しくは語らない。
が、旅が進み
『ベンジー』の抱える心の闇と、
そのことに胸を痛める『デヴィッド』の心情が明らかに。
旅を終え、帰国の途につく二人。
空港に降り立っても旅立つ前と同じ会話が繰り返され、
大きな変化があったようには見えない。
原因が分かることと、改善されることは別物だから。
とは言え、前へ進むための小さな萌芽が
確かに起きていることは示され、
鑑賞者は、ほっと安堵の吐息を漏らす。
『ジェシー・アイゼンバーグ』の速射砲のような台詞回しは健在。
常であれば、彼をこそ他から際立たせる話法なのに、
本作では普通人に見えてしまう不思議。
『キーラン・カルキン』の特異な個性を際立たせる数々の描写と共に、
不器用な二人のことが次第に気になりだすファクターとして上手く機能させている。
左派と保守の和解
「メンタルヘルスに苦しむ僕の個人的な痛みは、客観的に見てもっと恐ろしい先祖の痛みと比べてどうなのか?僕の痛みは語るに値するものなのか?」実際強迫神経症に悩んでいるというユダヤ系アメリカ人ジェシー・アイゼンバーグが監督・脚本を担当した本作で、アイゼンバーグ本人が主役のベンジーを演じるつもりでいたところ、それでは荷が重すぎるとプロデューサーのエマ・ストーンにたしなめられ、そのベンジーの従兄弟デヴィッドを演じることにしたという。
自殺未遂経験者のベンジーには、マコーレーの弟キーラン・カルキンをキャスティング。社交的だが自分の考えが通らないとへそを曲げ反社的行動にでる、ベンジーそのままの性格の持ち主だったそうな。そんなベンジーがどういうわけか極度の鬱状態、従兄弟の病気を心配し本人も強迫神経症の気があるデヴィッドがベンジーを旅に誘った行く先が、なんと二人の祖母の故郷ポーランド。そこでガイド付ホロコースト・ツアーに参加するのだが....
私はこの映画を観て、何十年も前に一人で訪れたシチリアのオプショナル・ツアーのことをふと思い出したのである。どこぞの遺跡を訪れるために集まった観光客のほとんどが英国人かアメリカ人の老人たちで、日本人は私だけ。そこに自分のルーツ探しに来たと語るイタリア系アメリカ人の青年が一人いて、英語もろくに話せない私となぜか意気投合。老人ツアー客たちががクスクス料理に舌鼓をうっている間、私と青年は売店で大して美味しくもないチーズハムサンドを買って、旧市街地をブラブラ。集合までの時間潰しをしながらあてもなく歩いた記憶が甦って来たのである。
何を話したのかも全く憶えていないのだが、ツアー客の中で明らかに浮いていた私たちは、その気まずさをお互い察していたに違いない。ホロコースト・ツアーのハイライトであるマイダネク収容所跡地を訪れた後、電車の中でベンジーが人目もはばからず嗚咽するシーンがある。ガス室の中で命を落とした祖先たちの大量に積み上げられた履き物を目撃し、激しくショックを受けたのである。広島の原爆記念館を訪れて涙を流す白人女性をYouTube等で目にすることがあるが、それとは明らかに異質な“涙”だったような気がする。
他人の悲しみや痛みに一時的に同情するふりができる人は沢山いるが、それを自分の痛みとして感じられる人は果たしてどのくらいいるのだろう。本作のベンジーとデヴィッドはおそらく後者に属する感受性の豊かな人種なのだ。祖先の受難を辿る旅で、なぜか一等車に乗って移動し、腹が減ったら🍷片手に豪勢な食事を堪能する。そんな嘘臭い旅のどこに真実味があるというのだ、チーズハムサンド?で充分ではないか。ベンジーは愛する故人ドリー婆ちゃんがサバイブした歴史的悲劇を、単なる傍観者として眺めることができなかったのであろう。
旅先で祖先が経験した“痛み”を知ったデヴィッド(🟥T→家族持ち→共和党)は同時に、従兄弟ベンジー(🟦T→ホームレス→民主党)の苦悩を心の底から理解することができたのではないだろうか。ポーランドから持ち帰った“石”そのものが、ホロコーストで犠牲となったユダヤ人祖先の皆さん、そしてベンジーが背負い続ける“悲しみ”のメタファーのように思えたのである。ポーランド出身の天才作曲家ショパンの調べが、全編を通じて劇伴として使用されている。第二次大戦中持病の肺結核が原因でパリで命を落としたショパンは、生涯を通じて祖国ポーランドへの帰郷を強く望んでいたという。
あのイタリア系青年もレスだったのかなぁ、もしかして。
ユダヤ系アメリカ人のルーツ
近年のホロコーストを題材にした映画というと、ホロコーストを生き延びた人たちに焦点を当て、当時の体験談を元に構成されたものが多いという印象だった。しかし、本作は、そういう戦争世代が主人公ではなく、その子孫であるミレニアル世代の物語であり、先祖を崇拝し、戦争を語り継ぐ一方、内省的な男同士の語り合いがメインのストーリーとなっている。監督によれば、様々な悲しみや痛みの交わりを描き出し、痛みをどう評価するべきなのかを問うことを目標としたらしい。
ニューヨークに住むユダヤ人のデヴィッドとその従兄弟のベンジーは、亡き最愛の祖母を偲ぶ意味を込めて、一族のルーツであるポーランドを訪れる。そこで第二次大戦が残した爪痕をめぐるツアーに参加する。ツアーは、ゲットー英雄記念碑、ワルシャワ蜂起記念碑、ルブリンのユダヤ人墓地、マイダネク(ルブリン強制収容所)と訪問していくが、その中で、2人は同じツアー参加者と交流しつつ、内に秘めていた感情をさらけ出していく。
監督・脚本・製作・主演を務めるジェシー・アイゼンバーグは、自身のルーツがユダヤ系ポーランド人である。本作の祖母のモデルは1938年にアメリカに移住し3年前に107歳で亡くなったアイゼンバーグの大叔母ドリスとポーランドに残った家族のうち唯一の生き残りである従姉妹のマリアの2人を合わせたものだという。アイゼンバーグは妻とともに本作と同じ目的で、2007年に実際にポーランドを訪れてマリアに会っており、映画の中で2人が訪ねる家は実際にマリアの生家だそうである。アイゼンバーグはポーランド国籍を取得するため申請を出しているくらい、自分のルーツに思いが深い。
映画に登場する早口で饒舌で神経質なユダヤ系アメリカ人男性、と聞けば大勢がウディ・アレンを思い浮かべるだろう。アイゼンバーグは、アレン監督の「カフェ・ソサエティ」で主演しているが、自身の監督第2作でそうしたキャラクターである主人公デヴィッドを演じるということは、性的虐待で映画界を追放されて不在となったアレンの立ち位置を受け継ぐ意思の表れだろうか。
今まで深く考えてこなかったがジェシー・アイゼンバーグは『ソーシャル...
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