「初音ミクと私たちが会話する日」劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
初音ミクと私たちが会話する日
『脳漿炸裂ガール』『桜ノ雨』『トリノコシティ』と、VOCALOID曲を題材とした実写映画は従来からいくつか存在していたが、VOCALOID本人が主演で登場する映画というのは本作が初だ。
ゼロ年代より連綿と続くVOCALOID文化が爛熟を迎え、広く一般に浸透し、ようやく一本の映画になった。初音ミク黎明期から現在に至るまでシーンを追い続けてきた身としては非常に感慨深いものがある。
本作はSEGAとCouloful Paletteによって開発されたスマホ用ゲームアプリ「プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク」の世界観を基にしている。
作品内に架空ユニットがいくつも存在し、それらが相互関係し合うという構造は「ヒプノシスマイク」や「BanG Dream!」といった先達に着想を得たものだが、本ゲームが特異なのはそれぞれのユニットが人間とバーチャルシンガー(=VOCALOID)の混成ユニットであるという点だ。
当然、彼らが歌う楽曲の中では、人間のシンガーとバーチャルシンガーが同居している。肉声と機械音声が混じり合うある意味で不協和音的事態が難なく受け入れられているのは、VOCALOIDカルチャー自体の流行はもちろんのこと、ニコニコ動画における「VOCALOIDと歌ってみた」シリーズの流行によるところも大きいだろう(ピノキオピー 「ぼくらはみんな意味不明」、LOLI.COM「ブレイクアウト!」など)。
あるいは人文学の領域でいえば、脱人間主義を標榜し、物体それ自体の自立性を説いたグレアム・ハーマンらのオブジェクト指向実在論の隆盛なども理由として挙げられるだろう。
そんな「プロセカ」の映画化作品である本作においても、人間とVOCALOIDが当たり前のように会話している。
ルーク・スカイウォーカーとR2D2が会話することは『スター・ウォーズ』という作品が有する明らかなサイエンス・フィクション的世界観によって成立していたが、本作ではそういった留保が一切ない。そこに相手が「人間である(VOCALOIDである)」という意識がもはや存在しないまま、人間とVOCALOIDは会話を繰り広げる。
くちばしP「私の時間」では「お話するのちょっとへたくそだけど」と評されていたVOCALOIDが、多分にぎこちなさを残したまま普通に喋っているのを見ていると、やはり変化したのはVOCALOIDという製品の技術ではなく、それを取り巻く文化領域なのだと実感する。
本作では、既存のセカイ(作品内ユニットがそれぞれ属している並行世界のようなもの)の初音ミクではない、孤独で匿名的な「初音ミク(以後「劇ミク」とする)」が登場する。
劇ミクは共通した「想い」を抱く人々に自分の歌を届けようとするが、しかしその「想い」を持つ人々の前では、彼女は物理的ノイズとしてしか映らない。彼女がどうにかして「想い」を持つ人々に歌を届けられるようLeo/needをはじめとする各ユニットが彼女に助力する、というのが本作の筋だ。
それを支える形で各ユニットの活躍が細かく描かれるわけだが、総勢数十人にも及ぶキャラクターを過不足なく描画してみせる脚本の手腕に恐れ入った。正直に言って私はそこまでプロセカには詳しくないのだが、そんな私でも難なく各キャラクターの特徴を掴むことができた。
各ユニットの助力によりようやく力を取り戻した劇ミクがあらゆるデバイスを跳梁しながら自らの歌を披露する一連のシークエンスは、さながら今敏『パプリカ』の冒頭部を彷彿とさせるような視覚的快楽に溢れていた。
パプリカが夢の中を自由自在に遊泳するように、電子の歌姫初音ミクはインターネットの海を泳ぎ回る。そこにインターネットがある限り、初音ミクはどこにでも現れる。物理的距離は彼女にとって無いにも等しい。『serial experiments lain』の表現を借りるなら、初音ミクは「遍在している」。
また劇ミク復活の折には、「0」と「1」の瓦礫が浮かび上がり天に舞い上がっていくという演出がなされる。0と1は2進数、ひいては2進数によってあらゆる処理を行うコンピューターそのものを示す。あるいは初音ミクの左肩に刻印された「01」の文字を示す。初音ミクとは、一個のキャラクターであると同時にコンピューターが織り成す電子世界そのものの暗喩でもある、ということ。
そういう意味では本作はサイバーパンクアニメの新たな1ページとして記憶されるべきだとも思う。
VOCALOIDの映画化作品とだけあって、作中にはさまざまな実在のVOCALOID楽曲の片鱗が窺える。確認できただけでも、keeno「glow」、西沢さんP「ハングリーモンスター」、Orangestar「快晴」、かいりきベア「ダーリンダンス」、MIMI「もーいいかい」、じん「NEO」、DECO*27「Journey」といった古今の名曲が流れており、ボカロオタクとしてボルテージが高まった。
40mP×sasakure.UKのオープニング主題歌、DECO*27の各ユニットソング、じんのエンディング主題歌と、各種新曲もバラエティに富んでおり、聴いていて飽きなかった。
また、実際に流れる楽曲のほか、往年の名曲を示唆するようなセリフが各所に散りばめられていたのもアツかった。たとえば「想い」を持った人々が怨嗟を吐き出すシーンで「ごちゃごちゃうるせえ!」というセリフがあったが、これは明らかにオワタP「ゴチャゴチャうるせー!」へのリファレンスだ。あるいは劇ミクの「ありがとう。そして、さようなら」はcosMo@暴走P「初音ミクの消失」の歌詞だし、ラストシーンの天馬咲希の「撫でていい?ねえ、撫でていい?」も「初音ミクの暴走」のワンフレーズをもじったものだ。
最後に、本作の特殊な上映スタイルについて言及しておく。本作の上映は「舞台挨拶→本編上映→アフターライブ」という三幕形式で構成されている。当然、これらはすべて画面の中で完結しており、声優やスタッフが実際に登壇するわけではない。
「舞台挨拶」「アフターライブ」というナマモノ性が強いイベントを画面の中で完結させる強気な上映スタイルを可能にしたのは、プロセカひいてはVOCALOIDというコンテンツがバーチャル空間の中で育まれてきたからだと断言できる。普通の映画では決して味わうことのできない無類の体験だった。
ちゃんとペンライト持っていけばよかったな…