「尖りすぎた実験映画です」クィア QUEER ゆーしさんの映画レビュー(感想・評価)
尖りすぎた実験映画です
えーと、この映画に関しては、おすすめしたいというより、
私自身の解釈を整理し記録したいので、レビューする形となります。
そのため、ネタバレ含めてのレビューとなります。
こんな解釈もあるんだな、程度に"鑑賞後の方"がご覧いただけましたら幸いです。
まず、この映画は、"殆どがリーの空想および妄想である"と仮定してください。
どこから空想かと言いますと、
『ユージーンと一緒に飲めるような顔見知り程度の関係になった頃』から、『リーがラブホテルを覗いていて、中にリーが入っていきユージーンを射殺する』ところまでと、私は思ってます。
なぜなら、彼の手の影の演出が、現実で出来てないことを意味していて、妄想の世界にしては絶妙な意識の表現だからですね。
それを整理すると、リーとユージーンは現実では互いに深く知り合ってもない、"リーにとってかっこいい人"程度の認知であるわけです。
その上で、彼が妄想を働かせ、彼が行動的にしながら恋の駆け引きをしていくシーンが連なっていくのですが、
どこか"リーにとって理想的な都合がいい存在である"ところが散見されます。
ただ、それだけではリアリティが薄れるのか、難しいキャラクターであることを着色して演出するのです。
そしてこの妄想は、現実と一部リンクしている、と仮定してみましょう。
最初の方は恋の駆け引き、途中から南米の旅、そして植物博士と出逢い、心臓を吐き出してユージーンと融合するメチャメチャな状況へ。
途中まではなんだか甘酸っぱい話ですが、途中から妄想の様子がだんだんおかしくなっていくのがわかるでしょうか?
つまり、リーの現実の状況に異変があったのだと思われます。
それは酒や薬の影響でしょうか?わかりませんが。
そして、彼の妄想の中で、私にとって大きく引っかかるところがあります。
リーが食事をしているシーンが無いこと、仕事をしているあるいは収入を得るシーンが無いこと、ですね。
これは、人間が生きている表現に必要な映画的要素であり、キャラクターの背景を理解する重要なキーになります。これは、どんなにディストピアな世界であってもサバイバルな世界でも、食事は絶対にあります。この映画ではリーが食べるシーンが存在しません。
それは何故か。妄想だからですよ。
お金も出処が意味不明です。使う発想のお金が湯水の如く出てくるし、収入どこですかと違和感が凄いです。私は最初、ユージーンが家に来た時に映ったタイプライターで、一瞬小説家として生きていて落ちぶれたけど印税収入を得ている人物である、とリーのことを定義しましたが、これすらもちょっと怪しい。そのシーンすら妄想だからですね。
彼がゲイと表現するのでなく、『クィア』というワードで物語を進行させたのは、
現実での振る舞いでもそうですが、どこか直接的なワードを避けて、曖昧化する傾向を感じました。
現実を直視したくない、という心理からかもしれませんね。
彼は妄想の最後にユージーンを射殺します。
彼は彼自身の妄想を最後に殺したんですね。
その次のシーンで、老人になったリーが現れ、よろよろの姿でベッドに倒れます。ここは現実なのでしょうね。
さて、やっとここまでは私なりに整理して解剖できました。
では、この映画で語りたかったことってなんでしょうか。
それは妄執と孤独、それによる悲痛な侘しさ、でしょうか。
ここまで妄想を膨らませるほど、現実には起こりづらいパートナーを探すことの難しさ、迫り来る孤独、襲ってくる侘しさ。
リーはずっとそれを妄想の中で呟き続けていたのでしょう。
リーを現実に引き戻すような誰かがいれば、物語の途中で妄想は途切れ、現実に引き戻されたかもしれません。そんなことはなかった訳ですが。
そして残酷なことに、誰も手を差し伸べてくれることもなく、終わりを迎えました。
ああ、なんて悲しい映画なんでしょうか。
そして、そのリーの究極の侘しさを汲み取れる者がどれだけいるのでしょうか。
分からないから、誰も助けなかったんでしょうか。
みたいな、私なりの"妄想"をしてみました。
映画としての総評はレビュータイトルの通りです。
尖りすぎた実験映画です。
ダニエル・クレイグ目当てや、ジェンダー関連映画として見に来た方、可哀想ですが結果的に合わない映画、という評価になるでしょうね。
配給の広報が勘違いさせるのが問題だと思いますけど、
予告編をよく見ると答え書いてるんですよね。
ずるいですねぇ。