ブルータリストのレビュー・感想・評価
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天才建築家と傲慢なパトロンの確執…という「フォックスキャッチャー...
天才建築家と傲慢なパトロンの確執…という「フォックスキャッチャー」的なストーリーよりも、建築そのもの(とその建造過程)こそがこの本作の主役。それぞれに悩みや欠点を抱えてドロドロとした人間模様を遥かに見下ろし、大地に屹立する建築の、なんと荘重な姿!作中で建築家の理想、として掲げられる以上の偉容で、抜群に決まった劇伴も相まって、この3時間超のドラマを一瞬も弛緩させない迫力に満ちている。冒頭の移民船の狭苦しさから、外へ出て目にする逆さまの「自由の女神像」のシーンが示すように、緊張と解放、明暗のコントラストが凄まじい。冒頭は左から右へ、終幕ではななめに流れるスタッフロールも実に洒落ている。おそらく前述の理由で人間ドラマとしては敢えて描き切っていない部分もあるが、ガイ・ピアースの暴君ぶりは劇中随一の怪演として褒め称えられるべき。
な、ながすぎ…
私にはピンとこない映画やったなあ。前評判でアカデミーを狙いすぎとか言われていたが題材からして確かに意識しすぎなのかなとは思う。
上映時間脅威の215分。絶対にお手洗いいきたくなるやん!何考えてんねん!なんて思っていたが100分くらいで15分休憩が入るのでトイレ心配な人はご安心を!
3時間を超えるような長い映画はこの映画のように休みを入れてくれるとほんとにありがたい🙏
物語冒頭は収容所から無事脱出した後のシーンからスタート。アメリカンドリームに期待する主人公。収容所での困難はおそらく時間の問題で入れられなかったのかな?アメリカに渡った主人公に困難が…とか思いきや割と幸運が続き責任ある仕事を任せられることとなる。仕事の重圧とハリソンとの不和によりラースローと妻の間には歪みが生じていく。序章、第1章まで物語に入り込むことが全くできず関係ない仕事のことを考えていた。2章の妻エルジェベートの出演開始くらいからようやく集中。フェリシティジョーンズの夫思いで苦しみを抱えた妻役、熱演やったなあ。
ほぼ4時間という大作ではあるんやけど物語の緩急がほとんどないため眠気に負けそうに(1章あたりは負けました)
今回主演男優賞でノミネートされていたのは実在の人物を演じた人たちが多かった!
ボブディランに扮したティモシーシャラメ、トランプ大統領を演じたセバスチャンスタン…ラースロートートは実在の人物かと思っていたがフィクションだと知り驚き。皆さん熱演には違いない。
ただ、このラインナップみるとどうしても主観バリバリでセバスチャンスタン(トランプ政権化ではとれないよね)やティモシーシャラメよかったやん…ブロディ、戦場のピアニストで取ってるからええやんなんて思ってしもた🙄
ユダヤ人建築家ラースロー・トートの半生を通してアメリカの闇が見え隠れする秀作
初のIMAX鑑賞です。なぜ今まで見てこなかったかというと料金が高いからです。そしてなぜこの作品をIMAXで見たかというと都合の良い時間はIMAXしか上映がなかったからです(笑)
エイドリアン・ブロディのアカデミー主演男優賞受賞に納得の作品でした。215分の長尺に尻込みしてましたが、途中休憩が15分あり、内容的にも映画に没入でき上映時間は全然気にならなかったです。リアル・ペインもそうでしたがこの作品もホロコーストを内包した映画でした。なんだか最近多いように感じます。
1951年ホロコーストを生き延びたユダヤ人建築家ラースロー・トートはブダペストからアメリカに渡るが、そこは決して安住の地という訳ではなく苦難の連続で…というお話で、昔から建築に興味のあった私には興味深いお話でした。
入場時に「建築家ラ―スロー・トートの創造」というリーフレットをもらったので、てっきり実在する建築家かと思ってましたが上映後調べてみると創作だったことに驚かされました。ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展とか実際にある祭典まで登場するので、リアリティを追求する徹底ぶりがすごい。それに加え、エイドリアン・ブロディの迫真の演技。
映像美も随所に感じられました。画面構成など美術センスも良い映画だなあと感じました。
大理石の白い採石場のシーンも印象に残りました。
ラースローは結局実業家ハリソンに振り回され続ける訳ですが、この富と権力を振りかざす嫌な人物がまるでアメリカを象徴するかのような人物として描かれているのですが、昨今のアメリカとシンクロするようでそれはそれで恐ろしいと思いました。
ホロコーストの影響で骨粗しょう症になり歩けず痛みの発作に苦しめられる妻エルジェーベト。
話すことができなくなってしまった姪のジョーフィア。
そしてラースローはドラッグ中毒から抜け出せない。
しかし、ハリソンにとっては所詮他人事なんです。
彼にとっては富と権力と名声が大切なのであって、それ以外には関心がない。
逆に鉄道事故などでそれらが脅かされたときには平気で雇い人をクビにし、とにかく自己保身が最も重要といわんばかりの行動をみせる。
もっとも許せないのはラースローの才能に嫉妬し支配欲に駆られ〇〇〇するところです。
妻エルジェーベトがハリソンの屋敷に単身乗り込み告発する場面は見応えありました。
そして行方不明になったハリソンを捜索中にラースローの設計したコミュニティセンターの教会の天窓から月の光が差し込み十字架が映し出されるという見事なオチ。
大作だけあって中身の濃い映画でした。これはこれで一大叙事詩ですね。
しかし、実業家ハリソンという人物を通して現在のアメリカの闇が見え隠れしてしまうとは、結局のところそれが主題なのかもしれませんね。
今のアメリカは決して自由の女神に象徴されるような自由な国ではないのだと。
長い割に全く面白くない
暗い、長い、抑揚そんな無い、ノンフィクションじゃないらしい、内容濃くもないわで別に3時間半もかけて観るような内容じゃないな
という評価です。
感動も興奮も何もありません。
もっと時間削れるし、
もっとテンポ良くできるし、
もっと盛り上げれるんじゃないですか?と見ていて思いました。
そんな面白くありません。
「重厚」だが「浅い」のでは?
自分の人生を建築物に取込
完璧すぎて、少し息苦しいかも。
お尻がブルータル。
3時間20分あるから椅子の良い映画館を選ぶべし。
全く実在しない人間をよくここまで史実のように描けたなぁと驚愕する。たぶんそういう裏テーマで制作してだんだろう、脚本がすごいのか役者が凄いのか監督が凄いのか、、、全部か。
しかしぶっちゃけまいどのユダヤネタ映画なのでホロコーストや収容所の辺りはまだ分かるが、当時のアメリカでの風当たりや宗教的な異端視など不勉強な日本人にはピンとこない部分が多い。という訳で自分が完全にこの映画を楽しめてない事が残念である。
もう一つの軸は支配階級と下級市民、そして才能という物への羨望ってなかんじ。
話は大戦後生き残り才能あるユダヤ人の上がったり下がったり人生なんだけど、なんか後半の石切場のくだりが無理やりで唐突でイヤな感じがしたんだが、昔「パピオン」だったか「バーディ」だったか見た時に侮辱の仕方としてのレイプという存在が有ると知ったんだけど、それだったのかなぁ、、、。
あと最後の回顧展での説明は何だか設計思想が急に矮小化された感じがして残念に思ったなぁ。もっとスマートに中盤とかでやる事は出来なかったのかな?
音楽はその時代に合わせた作りになってるせいで最後がチャラい、、、と思ったら関心領域的後半無音、、、
どうしたいんじゃい!と思った。
あ、あとバウハウス出の主人公だからオープニングとエンドロールのタイトルデザインがカッコよい、マネしたい。
スクリーンから緊張感が伝わらない。
アカデミー主演男優賞おめでとうございます。
3月の寒い朝、映画館に入りインターミッションもある長尺の作品を観たら冷たい雨は雪混じりに変わっていた。ハンガリーに生まれホロコーストを生き抜いたユダヤ人のラースロー・トートの物語だったので、彼はもっと寒い思いをしてきたんだろうなぁ、。とか思い家に帰ってから、映画館で渡された小冊子を観たら、最後のページの下に小さく「本編の内容は一部を除きすべて架空の内容」とあった。色々検索したら実はフィクションでしたのオンパレード。
実話感たっぷりの映画だったので、戦禍の中のホロコーストの画像は無くてもユダヤ人の苦難が想像できたし、最初の図書館や丘の上のコミュニティセンターの建築の様子は実在するブルータリズムなんだな、。とか思ってました。
壮大な歴史物語で色んなものが詰まっているが、観客に突きつけたいものが何なのかが凡人の私にはわからない。もう一度、ちゃんと見直してみてから考えてみたい。
本日がオスカー発表日、作品賞は逃したがエイドリアン・ブロディは主演男優賞を獲得。歴史に名を刻んだ作品となった。
私には難解過ぎる
A284 「2001年」以来のインターミッション
2025年公開
上映時間4時間弱!
絶対漏らすわ!
しかし注意書きで2時間弱で休憩に入ります、が
映し出され安堵。
で早朝上映だったので爆睡必至と思っていたのだが
結構見入れた。
ただ突き刺さる名作までは届かず。
ユダヤ人の話も欧米人程訴えられるわけではないので
インパクトにはならず。
ただ時間の濃さは凄い。出演者それぞれが物語に
浸りこんでいるなあ、と感心する。
それと最近は個人的に物語に外部ノイズが入るのが
嫌ではないんだがドキドキするもんで
しかし本作はこちらが想像できる線で抑えてくれているのも
ありがたい。
昨今のテレビ業界の正味1時間分しかないバラエティを
中身のないロゴ満載のうすーい4時間スペシャルとは
全然質が違う。比較するのも失礼なんだけどね。
クレジットがいわゆるパンフレット風になっていて
デザインの極致のような表し方も面白かった。
70点
鑑賞日 2025年3月2日 イオンシネマ草津
パンフ購入 ¥990
配給 PARCO/ユニバーサル映画
◇アメリカモザイク社会と建築物の構造
世紀のお騒がせ男-トランプ大統領は連邦政府が新設する建物は「人々の称賛を集める」古典主義建築が望ましいとする「美しい連邦公共建築(Beautiful Federal Civic Architecture)」と題された大統領令を発令しました。自らの趣味を押し通し、ブルータリズムやポストモダン建築のデザイン性を否定するような独断的大統領令に対して、米建築家協会は全面的反対を表明しています。
この映画の主たるモチーフである"ブルータリズム"は戦争と深い関係を持った建築様式でもあるようです。コンクリート打ちっ放しの幾何学的直線から成り立つデザイン。第2次世界大戦で荒廃した都市の復興の際、予算が不足していてもコンクリートは容易に安価に調達可能であり、大量に均一的に入手されたコンクリート建築には、短い工期で建設可能というメリットもありました。
主人公の建築家、ラースロー・トートは、明るい未来への希望を抱いてヨーロッパから渡米したユダヤ人です。しかし、理想やあるべき姿を明確に抱いた彼の設計姿勢は、アメリカの気まぐれな資本主義的妥協の産物社会の中で、大きく蛇行し取り止めもなく迷走を始めます。
多種多様な民族の寄せ集めであるアメリカ移民社会の特徴は、究極の相対主義なのかもしれません。多種多様な宗教や主義主張、民族的人種的な価値観の相違を越えて、資本(お金)こそが客観的な正義なのです。
215分という上映時間。100分(前半)+15分(休憩)+100分(後半)という建築物のように整然とした構成。建築家の天井高へのこだわりの種明かしを聞かされる結末に、この作品が独りよがりの建築家の伝記だけにとどまらずに、これからのアメリカ社会におけるそれぞれの生き様についての問題提起であると痛感しました。四角い部屋で分割されたコンクリートの教会は、人種や宗教、性別や貧富の差によって細かく分断されていくアメリカ社会を象徴するものでもあったのです。
とても上質で訴える力は強い映画だったが ぶっ刺さるところまでは至ら...
アメリカ映画の伝統とは
この作品、物語の筋はある意味移民にまつわる非常に伝統的なアメリカ映画である。正直何かすごい意外性があるタイプの映画ではない。ただ、作品のスケール感、音楽、映像、演技のクオリティが素晴らしく、映画を観ていることの充実感が非常に高い。
なぜ私がこの作品をアメリカの伝統的映画と言ったか。この話は呪いの物語だからだ。一つは権力の呪い。そしてもう一つは芸術の呪い。
権力についての物語は何度も何度もアメリカ映画史の中で語られてきた。市民ケーン、ゴッドファーザーパート2、ゼアウィルビーブラッドなどなど。権力を手に入れれば入れるほど、その人物は幸せになるのではなく、呪われていく。そのことをわかっていても止められない。権力のゆがみのようなものがこの映画でも何度も描写されている。なぜそのような物語が何度も何度もこの国では作られるのか?それはアメリカという国家の覇権国としての力と、そこからくる苦悩がいつも物語の根底に流れているからだ。アメリカ映画はキャラクター、物語というメタファーを通してアメリカという国家を映し出す。
富豪のハリソンと建築家ラースローはどちらも呪われているのだが、その呪いの種類が違う。ハリソンはまさにトランプ的なアメリカの権力志向のマッチョイムズだが、ラースローの場合は自分の究極のアイデアを形にすることに人生をかけていて、そのためにたくさんの物を犠牲にする。それは宮崎駿の風立ちぬで主人公がたくさんの人が不幸になっても自分の究極の飛行機を作るという夢をあきらめられないのと同じである。彼は「美」に仕えている。ただ、そのためにはハリソンという悪魔との取引が必要であり、それにより彼はむしばまれていく。それはもちろん、映画監督という仕事の狂気、この作品を作っているブラディ・コーベットの自分自身への言及でもある。
クレジットタイトルのグラフィックデザイン、映像と音楽のクオリティから感じる野心。わざわざ、ビスタビジョンのフィルムで撮った映像(現代の映画はカラーグレーディング処理により色とライティングをを演出のために統一させすぎて、逆に色の豊かさにかけているという事を今作では思い知らされる)で、超大作のような映像のスケールをこんな規模の作品でやってしまう度胸。
例えば一昨年のトッドフィールドのTARのような本当に表現自由度の高い作品は確かに今の時代にもある。ただ、そのトッド・フィールドにしても、アリ・アスターのようなA24関係の作家であっても、実はちゃんと観客にショックを与えるようなツイストやギミックは用意しているのだ。ある意味タランティーノ、ポール・トーマス・アンダーソン以降のアメリカインディペンデントの映画のあり方とでも言えるだろうか。私はPTAの大ファンだし、それが悪いと言いたいのではない。ただ、今の時代はそういう映画しかないのが問題だと思う。逆に映画表現の自由度がせばまっているような気がするのだ。
文学作品のように個人的な物語を積み上げて積み上げてゆっくり、しっかりと見せていくという、昔なら当然のようにあった映画のストーリーテリングをやるのが現代では逆に勇気がいることなのではないか。他人に刺さろうが刺さらまいが、巨費がかかろうが、自分が信じる物語を自分のために作る。そこに映画という芸術の素晴らしさと狂気を同時に感じる。私はここらへんで、やはりマイケル・チミノやテレンス・マリックの70年代の作品を思い出さずにはいられなかった。
あと、最後にもう一つ。この映画の最初の自由の女神のシーン。音楽とともに、本当ならとても開放感があるシーンとなるはずだ。ただ、私はこの映画を2025年の3月2日に見た。つまり、アメリカが自由の国では最早無いのではと、世界中が感じている中で見た。だから、あの逆さまに移された自由の女神のシーンには開放感よりもむしろ不穏さがあり、複雑な感情になった。そして、実際にこの映画は主人公と妻にとってアメリカは彼らが思っていた国ではなかったという結論へと向かっていく。ハリソン家の東欧移民への態度にもそれは見て取れる。私は見終わった直後、この映画は普遍的ではあるが、同じ「アーティストと権力」をテーマにしたTARと比較すると現代性が欠けているのではと思っていたが、実はそうではなかった。この映画はひょっとしたら時間が経つとともに、更に深い意味合いを帯びてくることになるのかもしれない。
シオニズムの映画、建築家の映画、芸術家とパトロンの映画、そして反トランプの映画……。
とても「豊かな」映画だと思う。
何が「豊か」かというと、
「時間」の使い方が。
すべてのシーンにおいて、ゆったりと構えて、
じっくり、手をかけて撮ってある。
時間の制約を気にせず。撮りたい間合いで。
きょうび伝記映画で、こんな「贅沢」な時間の使い方をする映画は本当に稀なので、そこはとても心地よかった。
「映画がいくら長くなっても全く気にしない」という前提で、無尽蔵に、時間というリソースを使って撮り上げる、おおらかなスタイル。
なんていうか、「源泉かけ流し」の温泉みたいな「豊かさ」を感じる。
あるいは「拾い放題」の果樹農園のような。
ふだん気にかけていることを、気にしないでいい豊かさ、とでもいうのか。
なぜか昔から、映画業界というのは「上映時間」を異様に気にする業界だ。
なるべく長くなりすぎないように。
客の飽きがこない程度の長さで。
コンパクトにまとめていくのがベター。
そう考える上層部と、長尺で撮りたい監督とのあいだで、今までにどれだけの激しい衝突と闘争が繰り返されてきたことか。
その「せちがらさ」から、
なぜか『ブルータリスト』は
完全に「解放」されている。
インディペンデント映画の、
インディペンデントたるゆえんである。
上映時間が何時間になろうが、まったくかまわない、
そんなことはどうでもいい、気にしない、考慮だにしない、
とにかくすべてのシーンを、撮りたいテンポでじっくり撮る。
そのことを優先して、結果長くなったところで、観てくれる人はちゃんと観てくれる。
その確かな理念に基づいて、本作は「自由」に撮られている。
凄いな、と思うのは、主人公であるラースローの人生を描くために「とりたてて必要のない」ようなシーンまで、じっくりと腰を据えて撮っている部分だ。
すなわち「主人公の人生を語る」ことだけに汲々としない。
3時間半の映画を、2時間半にするために、切り詰めない。
思えば、僕たちは、あまりに「説明的」で「せかせかした」映画に慣らされてきたのではないか。たとえば、マーティン・スコセッシのような。
本作の間合いは、たとえばベルイマンやヴィスコンティといった監督に代表されるような、欧州のテンポ感であり、語りの感覚だと思う。アメリカ人の撮った21世紀の映画としては、なかなかに得難いものだ。
結果として『ブルータリスト』は、
そこまで劇的でも、派手な話でもないのに、
観ると3時間半もかかる、不思議な映画となった(笑)。
収容所生活とか、脱出劇といった要素は敢えて、前段階の要素として捨象される。
物語は、無事に到着するところから始まり、そのまま主人公はさくっと従弟の家に迎えられる。
家具製作の手伝いを始めてからも、大きな波乱めいたものはない。
なんとなく、従弟の奥さんから嫌われるとか。
(この辺、ちょっとエミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』っぽいかも)
施工主と、リフォームで衝突するとか。
結果的に、家を追い出されることになるとはいえ、
「いかにも映画らしい波乱」があるわけではない。
そこからも、起きることはどれもちっぽけだし、世界観は常に狭い。
「復活劇」といっても、喧嘩した施工主が気を変えて雇い直してくれただけの話だし、結局映画のなかでは、ひとつの建物を延々ちまちまと作っているだけだ。
2時間くらい経って、ようやく奥さんと姪っ子がアメリカに渡航してくるが、ここにも劇的な要素は何もない。ふつうに電車で着いて、部屋も与えられ、基本よくしてもらえている。
終盤の展開も、切迫感があって濃密ではあるが、お話としてはむしろ広がりをもたず、「個」と「個」の精神的な闘争の話に終始している。
こういう、「大きな物語」をあえて志向しない映画を、3時間半の長尺で撮って、飽きさせず、満足感を与えて綺麗にまとめるというのは、想像以上に難しい作業だ。
若い監督にはなかなかできないことだが、それをブラディ・コーベット監督は成し遂げてみせた。
アカデミー賞候補に挙がるのも、むべなるかな、と思う。
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●一義的に言えば、『ブルータリスト』は、シオニズムの映画であり、真正面からユダヤ人移民の苦悩を描いた映画である。
わざわざ主人公に『戦場のピアニスト』で一度亡命ユダヤ人役を演じたエイドリアン・ブロディをふたたび起用してまで、「これはそういう映画だ」と、これ見よがしに強調してきている。
エイドリアン・ブロディは、おそらくあの「巨大な鼻」のせいで、欧米人から見ると本当に「ユダヤ人らしいユダヤ人」なのだと思う。
ついこのあいだ、ブラッドリー・クーパーがユダヤ人のレナード・バーンスタインを演じるにあたって、「つけ鼻」を用いたという理由でバッシングされたことがあった。裏を返せば、それくらい「大きな鼻」はユダヤ人のアイコンとして欧米で深くしみついた共有イメージだということだ。そういえばフランス映画の『ふたりのマエストロ』でも、ユダヤ人親子役には巨大な鼻をもつユダヤ系俳優が起用されていた。
逃亡時にブロディの鼻が一度「折れて」、その痛みに耐えるためにヤク中になるという展開は、まさに「ユダヤ人であるがために人生をへし折られた」主人公の暗喩である。作中では、もう一回彼が「鼻を傷める」シーンが出てくるが、やはりこれも彼のキャリアの挫折と呼応している。
●それから、この映画は、「建築」の映画でもある。
丘の上に、ひたすら大型の建造物を建て続ける話という意味では、ケン・フォレットの『大聖堂』をどうしても思い出さざるを得ないが(あれは12世紀中葉を舞台に、イギリスの架空の町で一人の石工が大聖堂を建築するまでの群像劇だった)、本作で扱われているのは、「ブルータリズム」建築(コンクリートを用いた無骨な外観のモダニズム建築の一様式)だ。
なにせ、本作のタイトルは『ブルータリスト』。わざわざタイトルに付すくらいに、監督にとって主人公のこの属性は重要だということだ。
主人公のラースロー・トートは架空の人物だが、その経歴に関してはハンガリー出身でドイツからアメリカに渡ったブルータリズムの建築家、マルセル・ブロイヤーと共通する部分が多い。
ユダヤ人で、バウハウスでグロピウスのもと学び、戦争を機にアメリカに渡り、鉄パイプを曲げたモダンな椅子をデザインし、うちっぱなしのコンクリートを素材とした建築を得意とした著名な建築家。
おそらくなら、ラースローという人物は、ブロイヤーの人生を土台に、監督がさまざまな亡命ユダヤ人の物語を重ねて作り上げられたキャラクターということなのだろう。
50年代にブルータリズム建築が流行した背景には、戦後の経済的に厳しい時代にあって、資材であるコンクリートが著しく安価だったということがある。これは、50年代アメリカの変革を描こうとする本作でも、結構重要な要素だと思う。
華美で旧弊な上流社会が、モダンで大衆的なデザインと美学を獲得していく過程においてもまた、資本主義が密接にかかわっていることが如実に示唆されているからだ。
実は、これは舞台芸術においても同じことが言われていて、ワーグナー楽劇における新バイロイト様式の発端には、極度の資金難とコスト削減の必要性があったとされる。
ブルータリズムと新バイロイト様式。資本主義の「負」の要素が、芸術の新たな動きを加速させたというのは、興味深い現象だ。
なお、コンクリートの打ち放し建築といえば、日本人なら誰しもが安藤忠雄を思い出すはずだ。
独学で構築された彼の建築美学は、どちらかというとル・コルビュジェからの影響が強く、必ずしも50年代~70年代のブルータリズム建築の継承者とは考えられていないようだが、今回の映画できわめて重要な建築上のアイディアとして扱われる「光の十字架」は、まさに安藤忠雄のトレードマークのようなものだ。
茨木春日丘教会の壁に穿たれた「光の十字架」がつとに著名だが、淡路島にある「海の教会」では、十字架型の天井採光から差し込んだ光が壁に「光の十字架」を浮かび上がらせるという、まさに本作に出てくる大聖堂と同じ意匠が用いられている。
現在、アメリカでは安藤忠雄に建築を依頼するのが、大富豪にとっての最大のステータスともきく(カニエ・ウエストとか、ビヨンセとか)。コーベット監督がブルータリストを題材に映画を製作しようと思いついたときに、同じ打ち放しのコンクリート建築を得意とする安藤の仕事が脳裏をよぎったということは、十分に考えられるのではないか。
他にも、本作に「建築」にまつわる要素は多い。
たとえば、バウハウスといえば、本作に特徴的なデザイン化されたオープニングとエンディングのクレジットは、まさにバウハウス的な美学に彩られている。
オープニングの洒落た処理にも感銘を受けたが、斜行するエンドロールというのは人生で初めて観たので、おおいに驚いた。
あと、建築絡みでいうと、ラストで捜索隊が到達する市民センター兼大聖堂の「地下」空間は、明らかにオーソン・ウェルズの『オセロ』に出てくるアル・ジャディーダの地下貯水槽を意識してるよね……?? この監督さん、実はかなりのシネマフリークではないかと思う(なにせ、わざわざハンガリーでフィルム撮りして、ビスタビジョンを採用しているくらいのオタクぶりである)。
●それから、この映画は、芸術家とパトロンの関係性を描いた映画でもある。
本作における新興の大富豪ハリソンは、単なる「悪役」として描かれているわけではない。
資本家であるがゆえに、芸術にあこがれ、新奇な創造に焦がれ、天才に執着する、ある意味とても「人間味のある」パトロンとして描かれている。
一方で、主人公のラースローもまた、一筋縄ではいかない人物として描出される。彼があちこちで厄介者扱いされるのは、単なる出自の異質性のみに起因するものではない。自堕落で、傲岸で、短気で、恨みがましい。しかも重度のヤク中である。天才であるのは間違いないが、やりにくい人間であることに変わりはない。ハリソン一家からすれば、たしかに、「われわれは十分あなたに我慢させられている」と言いたくなるようなキャラクターだと思う。
そのなかで、監督はきわめて粘っこく、「才能はあるけど社会不適合者の天才」と「成功者だが芸術的センスをもたない俗物」の、数十年に渡る精神的闘争を描き込んでいく。
そこにあるのは、敬意と嫉妬、支配と被支配、援助と恩義、実際的な用途と芸術的な要請のせめぎあう、熾烈でインティメットなマウント合戦だ。
僕は意外とガイ・ピアースが熱演するハリソン氏を嫌いになれなかった。
大理石鉱山での「アレ」も、どうしても手の届かない天才を、なにがなんでも征服したいという妄念が劣情へとねじ曲がったとすれば、なんだか可哀そうな気すらしてくるくらいだ。
●で、最後に、本作は反トランプの映画でもある。
そもそも、ブルータリズム建築はトランプが前政権時に「醜い」とレッテルを張り、連邦政府の建物は「美しい建築」(=古典様式)にしなければならないとする大統領令を出したいわくつきの建築様式だ(翌年バイデンが取り消し)。監督はこの件に言及したうえで、「人々を苛つかせる」からこそテーマにしたかったと述べている。
共同脚本家のモナ・ファストヴォールドが、ハリーJr.役の若手俳優について「ジョー・アルウィンは初めて起用した俳優だけど、彼の演技を観てすぐに、まるでトランプ支持者のような姿を見ることができて安心した」と言っているくらいで(笑)、ハリソン一家とその仲間たちをトランピストに見立てて、ユダヤ人建築家との差異を際立たせ、やがて「愚弄」する「明快な意図」をもって作られた映画であることは間違いない。
本作のラストはまさに、「親トランプ的人物」に復讐したいという、リベラル寄りの制作者の「怨念」の発露でもあるだろう。
個人的に、そういう映画の作り方自体は気に食わないけれど、「だからこそ」この作品はアカデミー賞にもノミネートされている、というわけだ。
なお、今年のアカデミー賞の「傾向と対策」については、また別のところで書いてみたい。
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