ブルータリストのレビュー・感想・評価
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215分の長尺ですが・・・
長さを全く感じさせない映画です。
途中15分のインターミッションが入りますが、これにも工夫が施されていて、プロローグ、第1部と第2部、エピローグの大事な繋ぎ目となっていて、あのカウントダウンも観客を飽きさせない要因のひとつとなっています。
肝心の映画の中身ですが、実在の人物ではなく、ハンガリー出身の別の建築家をベースにイメージした架空の人物だそうです。アメリカ映画は偉人を実名で映画化することが多いので、そこに拘る方も少なからずいらっしゃいますが、例えば、日本映画で言えば、山崎豊子さんの原作を映画化した場合は本作のような感じになるので、個人的違和感はありませんでした。
思ったよりも芸術映画って感じじゃなく、ゴッドファーザーのような、大河ドラマをイメージするとわかりやすいと思います。
215分観終えたときの満足感は最高です。
長いと思って敬遠してしまうと損します。
この逞しい演出力に引っ張られる
遥かなる、到達地へ
天才が故に、できたこと。
天才が故に、遺せたもの。
天才が故に、苦しんだこと。それは…
最近、気付いたんですけど、映画の主人公って、こういうキャラだよねっていう型に嵌めて、映画を観ている私がいます。(その型から大きく逸脱したのが「ジョーカー フォリアドゥ」。結果、ラジー賞にノミネート。私は、その勇気を讃えます。)
せっかく足を運んだのだから、何か得るものがある。映画館を出る頃の私は、どこまでレベルアップしているのかしら、なんて期待しちゃうわけです。でも、それは、考えようによっては、他者に期待しているだけで、自分に全く期待していない。挙げ句、期待ハズレだと、思いっきりコキおろす。そうでもしないと、存在の堪えられない自分に、気付いてしまう。他者を攻撃することで、自我を保とうとする。そんな過去の私が、フラッシュバックしそうです。
個人的に好きかどうかは、別として、濃い映画ですね。全く隙がない。張詰めた人間関係が続く。マーティン・スコセッシ並みに、観ているだけで、疲れます。ラースローが、そうであるように、この映画のプロデューサーと監督さんも、ある意味、天才かも。今時、こんな長い映画、よほどブレない意思がないと、出来ないよね。
ブレない何かを、持ち続けること自体、天才なのかな。何かを創ることで、何かを伝える。その何かが、よく分からない私です。(因みに私、大槻ケンヂの「人として軸がブレている」と云う曲が、大好物です。)
ところで、この映画のお金持ちおじさん、どう思います?。最初、ガチ切れしていた書斎、他者が褒め称えると、態度急変。あれはあざけ嗤うべきヒトなのか、あるいは、世間の価値観なんて、あの程度でしかないと云う皮肉なのか、どっちだと思います?。
何かを創ること。
何かを遺すこと。
他者に評価(及び、批判)されること。
その重圧を表現するには、やはりこれだけの時間とエネルギーが、要るようです。おかげで私の感想文も、インターミッションが要るレベルの長さになりました。
以上、映画には興味あるけど、建築にまるで興味のない私の感想文でした。
登場人物みんな業が深い、巨大建築の3時間35分
モダニズムとは何か
2024年。ブラディ・コーベット監督。ナチスドイツの迫害を逃れてアメリカに渡った著名なユダヤ人建築家が、不幸な境遇から這い上がっていく姿を丁寧に描く。一流の腕とセンスを持ちながら、親友に裏切られ、パトロンに振り回され、やっとアメリカに呼び寄せることができた妻は病に侵されていて、、、。
権力の塊のようなパトロンに見出され、次第に自らもその似姿になっていく主人公の姿には痛々しいものがあるが、主人公が構想する建築物と主人公の魂のあり方がいまいち説明不足な感じ。なぜあのような建築物を作ったのかの説明が、ユダヤ人の出自や妻の強制収容所体験といった「外面的でわかりやすい」説明のもとに回収されている。モダニズム建築を求める何か、もっと荒々しい心の叫びのようななにかが、あのコンクリート打ちっ放しの巨大建築物にはみなぎっているような気がする。そこはあえて不問にしたのかもしれないが。
才能ある「アーティスト」と「現実の権力」(金や生活)との相克、人生の不如意の話であり、具体的なモダニズム建築のありように迫っているわけではない。
感動的な再会のその後
インターミッションがあって助かった。
もしなかったら座席が悲惨なことになっていたと思う。
「絨毯の方がまし」と怒られそう。
タイトルクレジットがオシャレ。
見たことない感じ。
芸術がテーマなだけある。
冒頭から「子供には見せられません」な場面から始まって、「この映画は大人向け」と宣言してくる作り。
重厚な人間ドラマで、大衆向けではないけど、こういうのが好きな映画ファンは多そう。
前半は「どんなに建築家としての才能があっても仕事がもらえなければホームレスと同じ」というシビアな話。
ただ、才能はあるので、一度才能を認めてもらえた後は順風満帆で、前半は可もなく不可もなく。
インターミッション後、数年が経過したところから再開。
ここから一気に面白みを感じた。
前半の会話中に出てきた人物が後半から登場するが、「なんか思ってた人と違う」感が凄い。
勝手に理想化していたこっちが悪い。
悲劇的な運命で引き裂かれた恋人が苦難の末に念願の再会、なんてしたらその後はハッピーエンドになるのが普通の映画だと思うが、この映画はその後がリアルに描かれていくのが興味深かった。
よくよく考えたら、ホロコーストを生き延びてアメリカへ渡ってまず最初に風俗に直行するような夫なわけで、年老いた妻と感動的な再会を果たしたとしても、恋愛感情が昔のままではない場合があっても不思議ではない。
人生がうまくいくかどうかは金持ちの機嫌次第という展開は、トランプ大統領再選後のアメリカと通じるものがあり、憂鬱な気分になった。
1950年代当時には早すぎたかも知れないブルータリズム建築様式の第...
1950年代当時には早すぎたかも知れないブルータリズム建築様式の第一人者のユダヤ人が、あたかもアメリカに実在してたかの様な不思議な映画。
「何んで こんなシーン入れたんだろう?」と何回か思った。バスタブに◯◯する、忍び足で後ろから近づくとか。後、不思議な音楽の使い方も特徴的。
そして奇抜なオープニング、奇抜なエンディング。
撮影も特徴的で上下逆さまの自由の女神像が直ぐに横向きに写される、歩く主人公の背中をひたすら追うカメラ、走る自動車や列車の目線、長い尺の映画なのに "省略" して観客に「どうして そうなった?」と想像させる。
私が観た回(12:10 - 15:50)は結構観客が多かった 珍しいビスタビジョンのフィルム撮影映画。
映画館で集中して見るべき作品。
※100分 → インターミッション15分 → 100分 (休憩中の15分の画面は撮影がOKで家族写真とカウントダウンがある)
※休憩中に読む冊子がもらえる
※ブルータリズム:コンクリートやレンガなどの素材をそのまま使用し、装飾を極力排除した建築様式
壮大などんでん返し
毎度お馴染みのナチス物。今年は「リアル・ペイン 心の旅」に続いて早くも2本目でした。
そんな本作の特徴は、何と言っても3時間35分というインド映画ばりの上映時間の長さ。近年劇場で観た映画の最長は「アイリッシュマン」の2時間29分、続いて「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」の2時間26分だったので、恐らく自己最長記録と思われます。ただそれら2作は休憩なしのぶっ通し上映だったのに対して、本作は途中15分の中入りがあり、トイレの心配もなく観られたのは幸いでした。
肝心の内容ですが、ハンガリー出身の実在のユダヤ人建築家であるラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)が、ナチスの迫害を逃れてアメリカに渡り、そこでも辛酸を舐めながら自分を貫き通して建築家として名を残すまでの半生を描いたものでした。
ペンシルバニアに辿り着いたトートは、最初従兄弟を頼って本職の建築の仕事を始めたものの、客からのクレームというか契約違反が原因で金を支払って貰えないという理不尽の結果、従兄弟とも決別。その後は日雇い仕事で糊口を凌いでいたところ、以前クレームを付けて来た大富豪ハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアース)に建築の才能を見出されてビッグプロジェクトを任される。でも芸術家気質の主人公は周りと調和が取れず、大富豪とも最終的に決裂。
また、後半になってヨーロッパに取り残されていた妻エルジェーベト・トート(フェリシティ・ジョーンズ)が姪っ子とともにようやく再会を果たすものの、夫婦仲はしっくりしなくなっていく悲劇。それでも妻は最後まで夫の側に立ち、寄り添っていたのがせめてもの救いでした。最終的に建築物が完成し、ラストは一応ハッピーエンドでした。
以上、祖国でもアメリカでもぶっ叩かれて半ば精神的におかしくなってしまった主人公・トートの物語でしたが、とにかく音楽や映像が特に素晴らしく、筋や役者の演技を際立たせていました。トートが作ったマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティーセンターの造形美は、画面を通してすら荘厳さが伝わってくるほどで、また大理石の採石場の場面なども、まるで異界に行ってしまったような浮遊感があって素敵でした。主演のエイドリアン・ブロディの演技も真に迫っていたし、彼を称賛し、嫉妬し、蹂躙した大富豪ハリソンを演じたガイ・ピアースの”アメリカらしさ”を地で行く演技も良かったです。
前述の通り、途中15分程の休憩を挟んでくれたことや、物語の展開が非常にテンポが良かったこともあり、3時間35分の長丁場も案外あっという間でした。
で、最後までトートが実在の人物だと信じて疑わなかった私ですが、鑑賞後に入場時に配られた「建築家ラースロー・トートの創造」という冊子を読んだら、なんと「本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です」とのこと。まんまとブラディ・コーベット監督に騙されてしまうという壮大などんでん返しに、非常に驚いた次第です。
そんな訳で、本作の評価は★4.6とします。
215分は長く感じなかった
アメリカ映画は生きていた
空白の時間
全編に流れる薄明るい映像、彼の半生、彼の作品、タイトル、エンドロール・・・ 一貫したデザインが美しくも冷たい
第二次世界大戦後のアメリカを舞台に、ハンガリー系ユダヤ人の建築家ラースロー・トートの30年にわたる数奇な運命を描く。
来場者特典として配られたリーフレットから実在の人物かと思いきや架空の存在だったラースロー・トートは、同様の運命をたどったであろう人々の象徴として創造される。
15分のインターミッションを挟んだ前半・後半ともに100分という構成もまた建築の対称物のようだ。
さらにこの長さも、ラースローの半生を感じさせるために必要だった十分な長さである様に感じる。
彼がデザインしたとする家具から建造物、スタイリッシュなタイトルやエンドロールのタイポ・グラフィ、逆さまな自由の女神までもが彼の作品の美しさを表して、映画で描かれる、歓びが少なく常に苦悩に満ちて冷たい半生もまた彼の作品を思わせる。
統一された印象が薄明るく美しい。
大事なのは到達点であって旅路ではない
やっぱり長い
小冊子「建築家ラースロー・トートの創造」
第97回アカデミー賞において10部門にノミネートされている本作。以前はスカラ座だったTOHOシネマズ日比谷のSCREEN12(東京宝塚ビル地下)は同劇場最多座席数の大きな箱ながら、平日の割にそこそこの客入りで作品に対する注目度の高さが判ります。
本作の監督、ブラディ・コーベット。今作で初めて「アカデミー賞監督賞」にノミネートされたわけですが、彼のフィルモグラフィーでを過去の監督作品を確認すると『シークレット・オブ・モンスター(16)』『ポップスター(20)』となかなか個性を感じさせる2作品。そして本作でも裏切らず「いろいろと戸惑わせてくれる作品」に仕上がっています。
まず入場時に配られた小冊子「建築家ラースロー・トートの創造」。鑑賞前にあまり情報を入れないようにしている私は、それを見るともなしにサッと目を通してバッグに仕舞い込み、これから始まる長丁場に備えます。なんせ、本作の上映時間は215分。ただ、本作は大きく2部構成となっており、開始から1時間40分ほどで1部が終って15分のインターミッション(途中休憩)が入ります。その間は客電も点き、スクリーンにはカウントダウンも表示されるため落ち着いてトイレ休憩も可能。高揚感たっぷりで終わった1部のことを考えつつ、本作の主人公ラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)に興味が湧き始めた私。そういえばと思い出し、改めて例の小冊子に目を通します。そうこうしているうちにカウントダウンは1分を切り、再び小冊子を仕舞って2部に控えます。実は「劇場でのインターミッション初経験」の私、再開後の2部にすぐ集中できるか若干の不安もあったのですが、、2部の冒頭で早速、1部で出演のなかった「あの人」の登場シーンに、流石の存在感と演技力にすっかり涙腺を刺激された私。そこからは、1部以上に波乱万丈が続き「果たして、ラースロー・トートはこの偉業を成し遂げるのか?」心配がやまない展開。で、全て観終われば幾つか冗長に感じるシーンもなくはないのですが、215分の上映時間はインターミッションの効果もあって案外長くは感じませんでした。
そしてすっかりお昼のピークタイムが過ぎ、いつもは行列のできるラーメン屋に待ちなしで入店。この時点で本作を「建築家ラースロー・トートの伝記映画」と勘違いしている私、配膳を待つカウンター席にてWikipediaを検索、、ん?該当がない??。。何でだ?と思いながら改めて「小冊子」を出し、今度は注意深く目を通してようやく気付く小さな級数の注記に目を凝らすと…「本書の内容は一部を除き全て架空の内容です。」何と、全て創作だったとは。。。まぁそれを知ると、本作(特にエピローグ)に強く感じるシオニズムに対し、どうしても「今起きていること」が引っかからずにはいられないのですが、唯一無二の作品性と役者達の素晴らしい演技に対する高い評価は納得の一言。騙されたことも含め、すっかり楽しみました。いやはや参りました。
商業映画としては実に含みをもたせた展開。安易な解釈を許さない。
世に難解な映画はたくさんあるがこの作品は別に難しくはない。観るのが苦痛になるといったところもない。でもこれほど異様な展開で進行する映画もあまりなくて全く先が読めなかったし観たあとでも腹落ちがなかなかしない。
入場時に「建築家ラースロー・トートの創造」と名打ったリーフレットをもらえる。映画のサービス品であるのだが美術展で配られるリーフレットと同じ体裁で、トートが設計したマーガレット・ヴァン・ビューレンコミュニティセンターの概要やその美術的位置づけを写真入りで解説してある。でもこれは全く架空のものなのである。そうこの作品は実在もしくはモデルがある人物の評伝ではなく完全なオリジナル脚本によるフィクションである。科学者なり芸術家の「業(ごう)」みたいなものを描いているという点では「オッペンハイマー」に似ているんだけどね。アイデアの素みたいなものはあったんだろうけどまさかこれがオリジナルだとは、と原作本、漫画があって当たり前の邦画を見慣れている日本人観客としては思うのです。
ところで、パンフレットには書いてあるかもしれないけど「Brutalist」の語源の話です。意味としては1950年代に英国のAlisonとPeterのSmithon夫妻が提唱したコンクリート打ち放しでそのテクスチャーを活用した建築家のことです。だからフランス語の「beton brut」〜生(き)のコンクリート〜からbrutを取り、同じような傾向の建築家をbrutalistと呼んだようです。建築様式としては割とすぐにモダン建築(ほらル・コルビジェや丹下健三なんかの)に吸収されたようだけどね。英語のbrutal(野蛮な)とは語源が一緒なのかもしれないけれど多分そちらではない。
ところでトートは自分は「Brutalist」だとは一言も言ってないし、まわりからそのように言われている場面もない。バウハウス出身だから流れとしてはそちらではあるんだけどね。ただこのbrutというのはトートの性格を表しているんだと理解することもできる。つまり純粋だとか、世間知らずだとかそういう意味で。
そうこの映画が予想できない展開になるのはトート自身の考え方や行動の傾向が全く予想できないから。周りのハリソン・フォンビューレンや妻のエルジューベトのような個性の強い人に引っ張られ右往左往しているだけのようにみえる。そして脚本上の仕掛けとしては、建築家だけに建築物に彼の思想は凝縮されているということで映画の最後にヴェネツィアで開かれる建築ビエンナーレでもはや身体がいうことのきかない彼に代わり姪のジョーフィアが種明かしをする。ここでホロコーストの記憶を残すこと、希望への足がかり、妻への愛などが建築の思想として披露されるが彼自身の発言でないから本当のところは分からない。私には彼が造ったたものは、彼自身を(そしてハリソンも妻も)永遠に閉じ込めておく牢獄に見えたけど。ホロコーストの傷跡というものは人の心の中で再生産されていくんだということなのかもしれないね。
最後に「Brutalism」のことだけど、建築様式としては過去のものにはなったがデザインの世界では生き残っているようです。例えばネットサイトのデザインなんかに。この場合は、非対称であるとか、文字だけ、写真だけといった素材の少なさ、バックを黒白一色にするとかが特徴になるようです。つまりこの映画のタイトルバックやエンドクレジットは「Brutalism」のデザインということです。凝ってるよね。
アカデミー賞大本命の理由が分からん
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