「堂々たる大作」ブルータリスト ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
堂々たる大作
映画の序盤で逆さまに撮られた自由の女神像が画面に映し出される。このショットがとても印象的で、本作のテーマを端的に象徴しているように思った。
ラースローはアメリカへ渡り自由と夢を手にする。しかし、その代わりに多くの大切な物も失ってしまう。愛する妻との関係や宗教、自尊心etc.この逆さまの自由の女神像には、そんな”アメリカン・ドリーム”に対するアイロニーが象徴されているような気がした。
本作は15分間のインターミッションを挟んだ全3時間半強の大作である。少し臆する上映時間だが、実際に観てみるとテンポよく話が進むので、自分は終始退屈することなく観ることが出来た。
物語は前半と後半に区切られている。前半はラースローがハリソンからの寵愛を受けて建築家として大成していく内容。後半は一転して、ある不幸な事故をきっかけに凋落していく内容となっている。人生の浮き沈みを骨太に活写した所に見応えを感じた。
思うに、ラースローは職人というよりも芸術家肌な建築家という感じがした。頑なに自分が思い描く理想像を追い求め苦悩していく。これは芸術家に限らず天才と呼ばれる人に課された宿命とも言える。古今東西語られてきたテーマであり、普遍的な面白さが感じられた。
また、ラースローとハリソンの主従関係には資本家による労働搾取、ラースローの姪の顛末にはユダヤ人移民に対する偏見や差別といったメッセージも読みとれた。
今作はこうした多岐にわたる見方が出来るのも魅力だと思う。
監督、共同脚本はブラディ・コーベット。若干36歳という俊英だが、この年齢でこれだけの大作を撮ったということに驚かされる。
彼は元々は俳優出身で、若い頃から様々な作品に出演した経歴を持っている。映画監督としては「シークレット・オブ・モンスター」で長編デビューを果たし、自分は大分前に鑑賞したことがある。
「シークレット~」は第一次世界大戦後に誕生した独裁者を描く架空のドラマで、どこか悪魔的な雰囲気をまとった一風変わった作品だった。当然そこにはヒトラーが投影されていることは間違いなく、ホロコースト後を描く本作と相通じるものが感じられる。
演出は「シークレット~」の時と同様に時折幻惑的なテイストが見られるのが面白い。
例えば、ラースローが見る悪夢やジャズクラブにおける鏡を使ったシュールな演出等。このあたりにはコーベット監督の独特のセンスが感じられた。
後半の洞窟のパーティーシーンも中々シュールでユニークだった。また、オープニングタイトル、エンドクレジットの挑戦的なデザインも面白い。
ただ、今回の演出は基本的にリアル志向にある。ラースローは実在の人物ではないが、そう思わせるようなリアリティが感じられた。これはリアル志向な作風のおかげであろう。途中で記録映像風な演出も挿入されてくる。
惜しむらくは後半。ラースローの一大プロジェクトが、ある事故によって中断してしまう展開である。ここで盛り上がったドラマが失速してしまった。彼が強引にプロジェクトを推し進めるなどすれば、狂気めいたドラマへと飛躍しただろうが、そうはならない。どうしても観ているこちらのテンションが寸断されてしまうのが残念である。
映像は要所に素晴らしいものが見つかる。
前半はラースローの従兄が住むペンシルバニア州の下町の一角やハリソン邸といった屋内が続き、画面に余りメリハリが感じられない。ところが、中盤で街を一望できる丘のロケーションが登場してから一気にスケール感が出てくる。以降は丘の上の建造が始まり、画面に俄然風格が生まれてくる。
極めつけは、イタリアの採石場のロケーションであろう。この神秘的な空間には見惚れてしまった。
ちなみに、先述の丘の上のシーンだが、個人的にイングマール・ベルイマン監督の「第七の封印」のラストを連想した。登場人物たちが死神に連れられて丘の上を歩いていく映像で、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
ある意味で、本作のハリソンもエゴイスティックで傲慢な悪魔のような男だった。彼の身勝手な言動がラースローたちを不幸へと導いたと考えれば、ハリソン=死神という捉え方は案外的外れと言えなくもない。