ザ・ルーム・ネクスト・ドアのレビュー・感想・評価
全98件中、1~20件目を表示
変わった座組のアルモドバル映画
アルモドバルは英語圏でもやっぱりアルモドバルな映画を撮るという印象は、短編だった『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』から変わらないのだが、主演の2人の演技の上品さもあって随分とさっぱりした映画になっというか、やはりスペインの役者と撮っているときの方が純正のアルモドバルだなとは思ってしまった。もちろんティルダ・スウィントンもジュリアン・ムーアも申し分なく魅力的で、ジョン・タトゥーロだっていい異物感だと思ったけれど、英語圏の演技とスペイン人の演技は本質的に何が違うのだろうかと興味深く考える機会になった。またすべてのカットがアルモドバル的であるにも関わらず、アルモドバル汁が『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』より希薄だと思ってしまったのは、単にテーマが違うからという理由かも知れないし、今回の作品のほうが年齢的な成熟が反映されやすくてソフィスティケイトされたのかも知れない。いずれにしても、本作みたいに変わった座組のアルモドバル映画はもう数本は観てみたい。
どう死ぬかは、どう生きたかということ
自分の命が残り少ないと察知した女性が、最期の日々をかつての親友に託して旅立とうとする。尊厳死、安楽死というワードで括られがちな映画だが、よく見るとそうではなく、どう死ぬかというテーマは、どう生きたかに繋がり、看取る側も自分の人生とどう向き合うかについて言及した、アルモドバルらしい斬新な視点がここにはあった。
そして今回も、アルモドバルは使う服や食器の色彩、部屋に飾られたアート、小説、映画を使って、観客の五感を常に刺激する。すべてに意味があるのだ。1度観ただけではなかなか全部理解できないのだが。
中でも最も斬新な提案は、死ぬ間際まで人は美しくあれ!ということだと感じた。それは死期が迫るほどに美しく、細く、カラフルになっていくティルダ・スウィントンに象徴されている。
自分らしい死に方とは
誰が監督とか知らず、ティルダが出ていること、死の捉え方に興味があって観ました。
ほとんどがマーサ(ティルダスウィントン)とイングリッド(ジュリアンムーア)の2人の会話で進んでいきます。
戦場記者で死と隣り合わせで生きてきたマーサはずっと前から死の準備ができていると言います。しかし、新しい治療が功を奏さないと悟ったときの取り乱し方は真に迫っていました。わずかな希望に自分の生を丸ごと託したのに、死との境目を面前に晒されて、心が波立たないわけはない。
看取る役割を引き受けることになるイングリッドも心が乱れます。イングリッドの少しコミカルさも含んだ人間らしさー例えばお互い共通の元彼とよりを戻したことは口にしないーも、物語に真実味を与えるスパイスになっていると思います。
人間らしさといえば、マーサも娘と断絶して生きてきた不器用な生き方が回想を交えて再現されます。人は時代に翻弄されながら生きているのですね。
マーサが選択する自分らしい死は、法律的にはアウトです。尊厳を持った生き方、死に方とはなんだろうと考えさせられます。
夜明けまで映画を一緒に観て、一緒に森を散歩すること、何気ない日常の一コマのようなことが、マーサにとって心残りを吹っ切るきっかけとなります。
この映画の死生観の基礎は、元彼が口にする地球温暖化と極右、新自由主義がマーチしている悲観的な世の中への捉え方にあると思いました。しかしイングリッドは、そんな世の中かもしれないがやり方はあるはずだ、と。イングリッドの人間らしさ、柔軟さがこの映画に希望を与えていると思いました。
調べてみると、アルモドバル監督は抑圧に抗ってきた方なんですね。
最後のキリスト教福音派と思われる、感情を交えない警察官の頑なさとイングリッドとのやりとりがあるのは必然ですね。
ティルダの衣装やインテリアの色使いがとても素敵。もう一度観てみたいと思う映画でした。
かなり物足りない
ヴェネツィア金獅子のアルモドバルにティルダスウィントンとジュリアンムーアでテーマが安楽死と言うことで期待値をダーンと上げてしまったのを見逃し続けてようやく観れたが、そこまで面白くなかったな。
それくらいイメージではマスターピース感あったので。
タイトルは某ガールズグループと間違えそうになるけれどいいタイトル。原作があるんですね。とても文学的。そして作家と記者?の設定なので会話もとても文学的というか知的。なるほど、尊厳死考えそうな感じはある。
段々と痩せゆくティルダはどんどん妖精か幽霊かわかんなくなるくらい凄みがありつつ、肝心の薬を置いてきたり、こうしたら死の予兆よ、みたいなことを言うので引っかかったり意外に遊んでるのがイタリア人だなあ。ホッパーの絵が出てくるけど、ベランダのソファの色と服の色、肌の色、髪の色、そんなところがアルモドバルでしたね。とは言えやはり物足りない。
アメリカだからか。。
4番目の友
癌を患うマーサが計画的な死を選ぶことを決意し、病気の噂をきっかけに再会した旧友・イングリッドに残りの日々の立ち合いを依頼する物語。
映像美や静謐な空気感、死を扱いながらも悲劇で終わらず生者の物語として〆る点など、映画としてはとても良いものだと思う。
旧交を温める思い出の話題と、人生を締めくくる回顧の話題が交互に出たり、ジャーナリストとして事実と共にあったマーサと作家として感情と共にあったイングリッドの対比も面白い。終わりを選んだ人の後始末について触れるのも、扱った問題を美化するつもりはないというスタンスが見える。
そうして映像作品としてもシナリオとしても優れ、丁寧に作られているだけに、ただ一つ、非常にマーサファーストな世界観が引っかかった。
母親不在のシングルマザー家庭で娘が父親を求める態度を「しつこい」と評し、治験の意義を無視して投げ出す点はまだしも、犯罪幇助に問われそうな形で友人を巻き込むのはマーサの人物像との矛盾を感じた。また、ストーリー上のイングリッドがあまりにも『理解あるイングリッドちゃん』で、イマジナリーなのではないかと疑った。
マーサを知性と思考力を持つ自立した人として繰り返し描写している分、旅立ち方を決意するまでの準備の甘さや大人らしからぬ振る舞い、イングリッドの都合のよさが悪目立ちしていて、ティルダ・スウィントンのような超然とした役者でなければマーサの印象は違ったように思う。登場人物達と自分では『自立した大人』像が違うのかも知れないし、マーサの振る舞いこそが安楽死や尊厳死に対する作り手のアンサーなのかも知れないが。
その他、死を恐れるイングリッドが介護でも看護でもない形の看取りを経験することで成長する点や、病気と闘うことを当たり前とする同調圧力や強いサバイバーであることを尊ぶ風潮へ疑問を投げかける点など、鑑賞後に掘り下げたくなるような魅力的なポイントも多く、得るものが多い作品だったと思う。
映画の必要があるの?
素晴らしい色彩に包まれながら、死というものを見つめ直す映画
病に侵され安楽死を望むマーサ、そして再会したかつての親友イングリッド、前半はニューヨークの病院や自宅を舞台に二人が語り合い、後半は自らの意志で安楽死を臨むマーサとともに、森の中の美しい家へ。そこで二人が過ごした数日間を描いたドラマ。
余命宣告を受けたことで感じる死生観を見事に描いており、自分に置き換えたらと思うと、台詞それぞれが重く響く。
多少現実離れしたストーリーながら、自分自身が納得して、自ら美しく死を迎えるということに対しての憧れを抱かせる。
舞台となる家、衣装などにこだわりが感じられ、マッチした音楽とともに、洗練されたスクリーンに没入できる。
マーサを演じたティルダ・スウィントン、親友イングリッドを演じたジュリアン・ムーアが好演。万人向けの映画とはいえないが、自分自身の死生観に被る点も多く、実際人生の終盤に入っていることもあって、先日観た「敵」と同様、自分自身が歳を取ったが故に深く感じるものがあった。
死生観、自死を選択した人の尊厳と付き添った人の尊厳 マーサの死の感...
自分の命の終わりは自分で決めたい
深いようで深くもない
途中、退屈してしまった。
ファッションやインテリアは色彩豊かでセンスよく素敵ですが、ストーリーとしては淡々と進んでいき、死というテーマのわりには、重くはないけど、残るものもないです。
死ぬときに誰かそばにいてほしい、というのはだいたいの人が思うのかもしれないけど、相手の生活や時間を無駄に奪ってしまうのではないか、とか、そんな嫌なことに付き合わせたら悪い、とか例え家族であってもやっぱり普通は遠慮して言い出せないのだと思う。それを特に親しくしていたわけでもない人に頼むというのは、よくもわるくも我儘で自己愛の強い人、というかんじで共感したり同情したりっていう感情もなく見終わりました。
生と死をめぐる静謐な会話劇
これほどまでに「死」について濃密に描かれた映画があっただろうか。
しかもその死は暗くどんよりとしたものではなく、ポジティブで静謐に描かれる死だ。
2024年ベネチア国際映画祭のグランプリ受賞。名将ペドロ・アルモドバル監督初の英語劇でにして、円熟味を感じさせる研ぎ澄まされた作品だ。
ニューヨークが舞台、そしてアメリカの近代画家エドワード・ホッパーの「複製画」が大事な場面で使われていること、ジェイムズ・ジョイスの短編「死せる人々」が引用されることなどから英語を使ったのではないだろうか。
戦場記者だった末期がんを患うマーサ(ティルダ・スヴェンソン)は元同僚の小説家イングリッド(ジュリアン・ムーア)と再会すると、苦痛を伴う治療をやめて安楽死を選ぶと告げる。
そして、最後の数日を思い出がある自分の部屋ではなく郊外の別荘を借りて、イングリッドと過ごすことになる。
ただし、死の瞬間は隣の部屋(ルーム・ネクストドア)にいてほしいと言い、自分の部屋の扉が閉まっていたら旅立った合図だという。
ほぼ2人の会話劇でありながら、後半はサスペンス仕立てで展開し、画面に釘付けにするあたりはアルモドバルのストーリーテラーとしての真骨頂と言える。
また、映画はマーサの今までに至る人生がインサートされる。とりわけ娘との関係性の話はアルモドバルが過去作品でもテーマにする複雑な母性ともつながる。
ストーリーは劇的な展開やどんでん返しなどは無くシンプル。75歳の監督の引き算の美学だ。
ストーリーはシンプルだが、色合いは賑やか。マーサの洋服の色や病院や部屋の装飾はビビッドな色合いや現代アートで彩られている。死を前にしてもポジティブである象徴のように。
モネが晩年研ぎ澄まされた感覚でシンプルに「睡蓮」を描き続けたことを想起した。
会話劇を抑揚をもって演じ切ったティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアなくしてこの映画は存在しない。
唯一気になったのは、がんの先端医療も不法な安楽死の薬も高額で富裕層でなければ手に入らないということ。
お金がなければ自らの命の選択もできないと捉えられなくも無い。
死を受け止める名優ふたり
とにかくすべてが美しい。
どの場面をとっても絵画を観ているような気持になりました。
病室、ベランダの植物、キッチンの花や果物、壁・ソファ…美しくないものを見つける方が難しい。
主演のふたりも既に60歳を超えていると思いますがしわの一つ一つですら美しく、抑え目のトーンの鮮やかな色彩の景色にパチッとはまり、艶やかで鮮やか。
貴族のような大ぶりの重いトーンの花の終わりを迎える間際を観ているようでした。
ティルダ・スウィントンの瞳は淡いブルーですが、大きく黒々と静かにすべてを飲み込むようでマーサの寂寥感が瞳に現れているようでした。
彼女のみつめる先は何が映っていたのでしょう。
死に近い場所で生きてきたマーサが選んだ尊厳死。
考えれば考えるほど深みにはまって正しいとされることに疑問を感じてしまう。
そしてマーサの様な尊厳を選ぶことにも疑問がわいてしまう。
多分私には私に訪れる「その時」まで分からないのだろうと思う。
尊厳の内容は十人十色であるだろうから。
そしてイングリッドをはじめ、死に寄り添おうとする人々の言葉の一つ一つがとても真摯で響いた。心から生まれる言葉は穏やかで耳ではなく心に響く。
死にゆくマーサとたびたび会話や回想に出てくる生の象徴のセックスと言う言葉。
生を貪るように交わったであろう過去が色々な人の会話から想像できる。
背徳感などは本物の死を目の当たりしたらとてもちっぽけなことなのだと言う。
マーサの枯れゆく命との対比をこんなところからも感じ取れる。
そして尊厳など関係なく訪れるのが死であることもマーサの職業からちらつかせる。
望むと望まざると奪われ続ける死がすぐそこにある現状を垣間見せながら「死」そのものを重石に置いた作品なのだろうと「尊厳死」に気を奪われていた私はしばらくしてから気づくお粗末さ加減でした。
命のあるものと命が枯れてゆくもの。
雪はどちらにも同じように降り積もるのだと、繰り返されたセリフに頷きながら染み入りました。
この名優ふたりでなかったら、鑑賞後はざわつきがおさまらなかったかもしれない。
舞台「おやすみ、お母さん」が頭をよぎった〜だいぶ違うけど〜 マーサ...
安楽死を認めたい気持ちと認めたくない気持ち
むずい。
とても知的な作品。
全てのシーンや会話に何かしらの意味があるような気がするが、自分の読解力だといまいちはっきりせず、もやもやすることが多かった。
あと、ずっとミステリーな雰囲気を漂わせているのに、「実はそういうことだったのか!!」みたいな展開がなくて、それが逆に新鮮に感じた。
最後まで観ると、この映画は「ミステリー(最後に真相がわかるドラマ)」ではなく「「サスペンス(最初から真相がわかっているドラマ)」だったことがわかる。
自殺することを知っていて、それを止めなかったことを隠蔽しようとする人間の話。
だんだんと犯人視点で描かれるサスペンスになっていく。
後半、主人公が警察に盲点を突かれるところがサスペンスっぽい。
映画を観てると「ネクストドアじゃないじゃん」と思っていたが、警察との会話で「ネクストドア」が重要なキーワードだったことがわかる(「ネクストドア」にはもっと深い意味があるんだろうけど… )。
「安楽死」について考えさせられる内容だった。
主人公は癌で苦しむ友人を手助けするわけだが、自分も昔、同じような病気だったので、この友人の死にたがる気持ち、わかる気がしてしまった。
入院中に「あそこから飛び降りたら死ねそう」みたいなことを考えていたのを思い出した。
あの頃は精神がおかしくなっていたので…
後半、警察は主人公に「自殺は犯罪。許さない」と発言。
これが今の社会の考え方だと思うが、本人が強く望むなら好きにさせてあげても良いのでは?とチラッと思わないこともない。
一方で「尊厳死を認めることが本人の意思の尊重でもあるし、社会の負担を減らす意味にもなる」みたいな意見も出てきたと思うが、こちらについては反対したい気持ちがある(矛盾しているように見えるかもしれないが)。
この意見が出てきた時に、2022年公開の日本映画『PLAN 75』を思い出した。
個人が積極的に望むならともかく、国にとって負担になるからという理由で、それを本人に促そうとする動きは許容し難い。
ちょっと人工的だけど、とても品のいい映画
ちょっと人工的だけど、とても品のいい、いい映画を見たな、と思った。
自分自身も自分の死を受け入れる時が近い(まだ先だけど、若い時と比べて、という意味で)ので、とても切実さは感じられた。その意味では、先日見た「敵」を思い出す。
会話劇的なところもあり、会話のカットバックが印象的。
小津映画もそうだけど、小津映画に限らず、会話のカットバック(それぞれを交互に映す)って、映画手法の中でも、白眉の発明だったよな、と改めて思う。
で、それがとても論理的で倫理的で、でも過激的でもあり、面白く魅力的。ふと大島渚の映画を思い出す。
そんな会話劇がジュリアン・ムーアとティルダ・スウィントン(この人は初めて。すごくいい)の揺るぎない演技のなかで展開される。
何か結論があるわけでなく、終了は死、それも尊厳死。
映像が美しく、出てくる建物、服装、街並み、など洗練されている。特に終のすみかになる別荘は、美しい。
音楽もゆったりして全体に流れているけど、殊更盛り上げるものでなく、寄り添う感じで好感。
いい映画体験でした。
僕は、「死んだら全部終わり」と思っていたが
末期ガンで余命僅かとなった友達から「心が決まったら薬物を飲んで安楽死したいので、その日まで隣の部屋で一緒に過ごして欲しい」と依頼された女性の物語。ジュリアン・ムーア、ティルダ・スウィントンという二大女優の実質的には二人だけの会話劇です。
二人が語る過去の思い出・後悔、死への怯えの言葉は何気ない物までもが切実で、観る者の足許からゆっくりせり上がって来ます。僕は、死んだら全てはそこで終わりで、その後になど何もないと思っています。なのに、人間は死んだらどうなるのかなぁ等と、この映画と並走しながら
ぼんやり考えていました。死んだらどうなるかと言う事は、どの様に生きたかと言う事の裏返しなのでしょうか。この歳になると染みるなぁ。
地味だけれど深く素晴らしい作品でした。
死のイメージと対照的な鮮やかな色使い
全98件中、1~20件目を表示