劇場公開日 2024年10月4日

「音楽の無力に直面し、なお音楽の力を信じるということ。国を想う魂のスピーチに思わず感涙。」ビバ・マエストロ!指揮者ドゥダメルの挑戦 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0音楽の無力に直面し、なお音楽の力を信じるということ。国を想う魂のスピーチに思わず感涙。

2024年11月24日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

いや~~
泣くわ、こんなん。
ずるいよ、作り方が(笑)。
ラストの飲み会での演説はヤバい。
で、あの演奏会でしょ?
マジで涙腺が決壊しそうになった。
プロの演出だよね。

最近観たドキュメンタリーのなかでは、出色の出来だ。
まず、語り口が丁寧だし、とっつきやすい。
ドゥダメルの誠実で温厚な人となりがよく伝わるし、愛されている理由がよくわかる。
彼の出自と、彼が育ってきたエル・システマの組織や概要、彼がいま抱えている大きな問題についても、門外漢が観てもすっと理解できるようにつくってある。
映画的なギミックとしても、いろいろな図像が「消えていく」アニメーションをはさむことで、本作のテーマ――故郷の喪失、関係性の喪失、ライフワークの喪失といった部分をうまく表現している。

登場曲は超名曲だけで固めていて、音楽の力も大いにあて込んでいる。
ベートーヴェンの5番のリハで、ドゥダメルの指揮者としてのこだわりと指導力を示し、
ベートーヴェンの9番のリハで、彼の友愛と連帯への理想主義的だが切実な想いを示す。
プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」のリハでは、「距離」に苦しむ姿を見せつつ、
ドヴォルザークの9番のリハでは、子供たちを乗せて「ゾーン」に導くカリスマ性を示し、
チャイコフスキーの4番のリハでは、愛する恩師の死に対する深い哀悼の念を分かち合う。

その他、バーバーの弦楽のためのアダージョや、マーラーの交響曲第5番の冒頭、マルケスのダンソン数種など、適所にドンピシャの音楽が置かれていて、ミキシングも抜群に良い。指揮者の言葉や指示で「音が変わる」瞬間や、「オケに生気が宿る」瞬間を、うまくとらえて音として刻印している。音楽に身を任せているだけでも、ぐっと乗っていける音楽ドキュメンタリーになっているのではないか。

語られている内容自体は、もしかすると結構いろんなことが「はしょられている」のかもしれない気もする。
実際、ドゥダメルはもともと国を出てアメリカで成功した指揮者で、現役のロサンゼルス・フィルの音楽監督(2026年からはニューヨーク・フィルの音楽監督)だから、ロスを簡単には離れられないし、ベルリンやウィーンでもしょっちゅう振っている、いわゆる「ジェット機指揮者」であって、もはや「ベネズエラの人」ではない部分ももともとある(ちなみにご家族はスペインにいるらしい)。単純に「国から出禁にされてかわいそう」といっただけの話ではないはずだし、ベネズエラ内部の音楽家たちから見ても、ドゥダメルは、ウィーン国立歌劇場でシェフをしていたころの小澤くらいには遠い存在なのだろうと思う。

政治的な内容に関しても、本当はもう少し複雑な背景がありそうだし、国家の側にも相応の理屈はあるのだろう。少なくとも暴動の実態は、この映画からはあまり伝わってこない。
ドゥダメルの思想も、作中で展開されているのはあまりに理想主義的な非暴力論で、実際はもう少し込み入った政治的主張をしているのではないかと思うのだが、製作者は「なるべくそのへんは簡素に、平易に、図式的に」まとめようとしている気配がある。

とにかく、紛争のなかで音楽は「無力」だということ。
それでも音楽には「価値」があり、演奏することには「意味」があるということ。
ベネズエラが生んだ「エル・システマ」は国家の誇りであり、国体の変化に左右されることなく未来に向かって継続されるべきものだということ。
そこさえ押さえておけばよい感じである。

― ― ― ―

この映画自体は、「権力に音楽が蹂躙される」様を描く映画ではあるのだが、「エル・システマ」の理念の中核には、実はクラシック音楽のもつ「権威性」に素直に依拠している部分もあるように思う。
それを貧民街の子供たちに無償で分け与えることによって、子供たちに「誇り」と「力」を持たせ、生きていくための中核を形作る作業こそが、エル・システマの根幹でもあるからだ。それが、軍隊であり、武器であるかわりに、オーケストラであり、楽器であるということだ。
芸術の権威性というのは、意外に「よりどころ」としては機能すると僕は思っていて、結局は日本で子供にピアノやバレエを習わせるのも、そう異なる次元の話ではない。子供たちは芸術を学ぶと同時に、それを形作ってきた歴史と遺産によって精神的に「武装」するのだ。

南米の徒手空拳の貧しい子供たちにとって、それは日本や欧米よりもずっと命にかかわる切実な問題である。
成り上がる手段として、軍隊に入るか、サッカー選手になるしかなかったところに、「クラシック音楽」という思いがけない(しかもきわめて平和的で教養的な)第三の選択肢を与えて、ヤクの売人になる以外に道がなかったはずの子供たちに文化的に生きるすべを与えた、エル・システマと、そのグルであるアブレウの功績は果てしなく大きい。

― ― ― ―

言いにくいことなのだが、
もともと僕はドゥダメルという指揮者自体には、あまりシンパシーを感じたことがない。

これまでの来日公演で少なくとも
2013年のミラノ・スカラ座公演の『序曲集』プロと、『アイーダ』(演奏会形式)全曲
2014年のウィーン・フィル公演の「ツァラトゥストラ」&ドヴォ8プロ
2015年のロサンゼルス・フィル公演のマーラー交響曲第6番
2019年のロサンゼルス・フィル公演のアダムス&マーラー交響曲第1番と、ジョン・ウィリアムズプロ、マーラー交響曲第9番の3公演
の計7公演を生で聴いているはずだが、実のところ、あまり感心したことがない。

ドゥダメルという人はとてもオケとの協調性を大事にする人で、偉大なオケと来日するときには、オケの流儀に合わせた穏当で守旧的な解釈をとって演奏することが多いのだ。
あえて自分の個性を強く打ち出すことはなく、どちらかというと、オケの弾き癖にまかせてうまく情報整理してまとめていく感じ。シモン・ボリバルとのCDで聴くような、ドゥダメルならではのラテン的な高揚感だとかイケイケの解釈というのは、すっと鳴りを潜めてしまう。
マーラー演奏に関しても、彼のアプローチはラトルやアバドにも似て、原典準拠の純音楽的スタイルである。
バルビローリやミトロプーロスのような、主情的で狂気を秘めたマーラー演奏を激しく好む僕のような好事家からすると、彼のはだいぶと薄味で陽性のアプローチだ。マリス・ヤンソンスの9番ほどに聴いていて腹立たしい怒りを喚起されるわけではないが(笑)、僕の興味のないタイプの演奏家であることは間違いない。

ところが数年前に、ドゥダメルの変化を感じさせる映像を観た。
ドゥダメルがマーラーの交響曲第2番をミュンヘン・フィルと教会で演奏しているDVDなのだが、ふだんは颯爽とスポーティに振っているイメージの強いドゥダメルが、レナード・バーンスタインのごとく楽曲に没入しながら涙目で振っている様子がうかがわれる。演奏もかなりケレンのきいた情緒的な側面を見せていて、ずいぶんとこの人も変わってきたんだなと思わされた。

その背後に、2017年以降の本作で描かれたような厳しい状況が存在し、2018年の恩師との悲しい別れがあったとすれば、なんとなく得心がいくというものである。

― ― ― ―

指揮者という仕事は、身体の動きを用いてオケに指示を出す役割であることは確かなのだが、その前に指揮者は、「口」でやりたい音楽をオケに伝え、「口」で各楽器のプロの猛者たちを説得する必要がある。
だから、「顔」や「オーラ」で相手を屈服させられるほどのカリスマや老齢者を除けば、基本的に指揮者は弁が立つし、話がうまい。そして、「人たらし」である。
この映画でも、ドゥダメルがリハを通じて楽団員と意思疎通をはかり、相手に自分の目指す音楽のヴィジョンを伝える姿は何度も描かれている。

この指揮者のもつ「言葉」の力が最大限に発揮されているのが、ラスト間近、アブレウ追悼コンサート直前の夕食会で、ドゥダメルがベネズエラの若者たちに語る感動的なスピーチである。
これは、本当に胸を突き動かされるスピーチだ。
彼は若者たちに、君たちはベネズエラという国の、文化の、音楽の「根っこ」だと語り掛ける。たとえ花がすべて手折られても、春は必ず来る。根っこさえあれば、また花はいつか開く。
そして、国に残るという選択肢を選んだ彼らのことを、心の奥底から誇りに思うと、熱く賛辞を述べる。エル・システマが、厳しい政治状況下にあってもなお生き残っている現状を語り、未来永劫失われないその価値について称揚する。
そこには、祖国を出てアメリカに渡ってしまったドゥダメルの「うしろめたさ」と「申し訳なさ」も含まれていることだろう。それでも、共通する偉大なる恩師への愛と敬慕の念を紐帯として、ベネズエラの音楽家たちを結び付け、ウィーン・フィルやベルリン・フィル、ロサンジェルス・フィルからもメンバーを呼んで「教育」というエル・システマの重要な要素を踏襲しようとするドゥダメルの想いは、疑いようもなく本物だ。

僕は、ううっとこみあげてくる嗚咽をぐっと抑えながら、シモン・ボリバルと、ユースと、ウィーン・フィルと、ベルリン・フィルと、ロス・フィルの混成部隊によるチャイ4の魂の爆演を、涙目で観ていた。
そう、音楽は無力だ。
でも、音楽は大きな力を持っている。

音楽の政治的な無力をまざまざと見せつけられてなお、
音楽のもつ連帯と融和の力を朴訥に信じつづけること。

少しお花畑に感じるかもしれないけれど、
お花畑に殉じて、ただピュアに、一途に
愛と非暴力を語ることもまた「力」なんだろうなと
思わされる真摯なドキュメンタリーだった。

― ― ― ―

以下、箇条書きにて。
●リハで、ベートーヴェンの運命の出だしの刻みに執着して、何回もシモン・ボリバルにやり直させるあたり、大指揮者バルビローリがハレ管とのリハで、ブルックナーの7番のスケルツォ冒頭の「トゥリタッタ、トゥリタッタ」の刻みに納得がいかず、えんえん何度もやり直させているのを思い出した。ふだん何気なく聴いているような演奏でも、こういう膨大な「こだわり」の積み重ねのなかで出来ているんだろうね。

●ベネズエラ本国の音楽やってる子供たちからは、ドゥダメルは完全にスター扱いで、サインとかねだられてて、ほとんど小澤みたい――というか、力道山とか大鵬とか王さんレヴェルの人気ぶりでビビった。あの状況下である意味、天狗にならずに「いい人」で居続けているドゥダメルってすごい人なのかも。

●奥さんが白人で、めちゃくちゃ美人。完全に嫁選びの仕方が「成功したラティーナ」(笑)。

●リハ終わりに何かかっこいいことを言って、「ランチ!」って締めるの、すげえレナード・バーンスタインっぽかった(笑)。

●ラストの追悼コンサートのヴィオラの最前列で、ベルリン・フィル名物のあのおでぶさん(ホアキン・リケルメ・ガルシア)がドーンと構えてたな。

●ラストの、タンゴみたいなダンスとロマっぽいヴァイオリンは何だろう?
すっげえ楽しそうだったけど。あと、貴重なドゥダメルによるヴァイオリン演奏シーン!
終映後、ダッシュで吉祥寺から横浜まで移動して日本フィルの演奏会に行かねばならず、パンフを買えなかったので、細かいことがわからない……。

じゃい