「『孤独のグルメ』をベースに『タンポポ』『寅さん』「松重分」を混交したダシの妙味に舌鼓。」劇映画 孤独のグルメ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
『孤独のグルメ』をベースに『タンポポ』『寅さん』「松重分」を混交したダシの妙味に舌鼓。
ああ、なるほど、
ラーメン屋を再興させるお話だから
『タンポポ』のマークなんだな!!
終盤に入ってようやく気付いて、帰りにパンフで答え合わせ。
僕はちょうど伊丹十三が俳優から監督に鞍替えして、『お葬式』でヒットを飛ばした時期のことをよく覚えている。あの伊丹監督が第二作に何を撮るんだろうなと、みんなが期待をみなぎらせていたら、思いがけずマカロニ・ウエスタンテイストのラーメン屋再建物語『タンポポ』を出してきて、驚かされた。このあと、伊丹監督が『マルサの女』でさらに大ヒットを飛ばしたせいで印象が若干薄くはなっているが、『タンポポ』は日本ではめずらしいグルメ映画の走りであったし、ブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』を意識したセクシャルな要素も楽しい、それなりに衒学的で前衛的な映画でもあった。
松重監督は、そんなグルメ映画、ラーメン映画の嚆矢である『タンポポ』にオマージュをささげて、ラーメン屋「さんせりて」の商標イラストを『タンポポ』にしたというわけだ。
パンフでは、とにかく『タンポポ』カット(カウンターで食べている人たちを横アングルの寄りで撮る)をやってみたかったと、松重監督は発言している。
合わせて感じるのは、山田洋次監督の影響、とくに『寅さん』からの影響だ。
(パンフの監督インタビューでは寅さんには言及されないが、かわりに『幸福の黄色いハンカチ』の話が出てくる。)
「マドンナ」(杏&内田有紀)が出てきて、しばしのあいだ、五郎と温かな交流を深める展開があって、五郎は結局、相手のために「一肌脱ぐ」ことになる。とくに内田有紀のためには「離れ離れになっている想い人との仲を取り持つ」ことに。まさにやっていることは寅さんだ。
そのために五郎が「旅」をすることになる点、どこに行くにしても寅さんがいつも同じ腹巻とジャケットを着ているのと同様、五郎もいつでもどこでも(遭難しているときでさえ)同じ「背広」を着ている点。本当は好き同士の二人を引き合わせるやり方が「粋」で「さりげない」点。
いずれも、いかにも寅さんっぽい。
ここに、福岡県出身で、北九州の風土と食にこだわりがあり、韓国との交流にこだわりがある松重監督自身の「個性」と、思いがけないくらいに有能な「監督/脚本家としての才能」が加わって、この劇映画『孤独のグルメ』は成立している。
ちょうど、映画が4種類のだしの選定と調理をめぐる物語であるのと同様、本作では『孤独のグルメ』テレビドラマ版というベースの「だし」をもとに、伊丹十三や山田洋次のテイストを加え、さらには松重監督独自の味付けを加えているということだ。その4種混合の「マリアージュ」がまさに絶妙の「塩梅」で、作品を成功せしめている。
本作で語られる秘伝の「和系魚介とんこつスープ」の組成は、今回の劇映画『孤独のグルメ』のありようとの面白いアナロジーを形成しているというわけだ。
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今日はよんどころない事情で、珍しく公開初日に足を運んだが、僕は必ずしも『孤独のグルメ』テレビ版の良い視聴者ではない。
たまにやっていたら観る程度。ただし、原作のほうは月刊誌『パンジャ』に連載されていたころから読んでいた(2年近くで休刊した徒花のような雑誌だったが、チャイドルブームと『孤独のグルメ』を功績として後世に遺した)。原作漫画が、国内以上にフランスで大人気で、向こうでは作画の故・谷口ジローが巨匠としてガチで崇められているのも知っていた(おそらくなら、だからこそフランスが序盤の舞台なのだ)。
今回観て何より思ったのは、松重豊監督のバランス感覚の良さである。
最初、予告編を観たときは、僕が著しく苦手としている福田雄一監督に似たテイストがほの見えて、「俺、最後までこれ我慢して観られるのかな??」と思うくらいにビビらされたものだったが、実際に観てみると、思いがけないくらいに「抑制された」つくりの映画版だった。
すなわち、テレビシリーズのテイストから外れないよう、どんなときでも「通常営業の五郎さん」になるように、きわめてこまやかに作られていた、ということだ。
たしかにスケール感は増した。
三か国をめぐるロードムーヴィー仕立て。遭難アクション。多数のサブキャラ。
でも、基本の部分は驚くほど、「いつもどおり」に作られている。
決めぜりふ。孤独ショット。食事時のふるまい。食べ方。BGM。
そこの『孤独のグルメ』としての「型」は、意地でもゆるがせない。
だからこそ、違和感が少ない。すっと入っていける。
いつもの世界線の延長上に、劇映画をきちんと位置づけられる。
むしろこのドラマとしての「冒険」は、映画ならではのスケール感とは別のところにある。
「食」の受容について、いつもの食べ歩くだけの「受け」の姿勢から、「料理を調理する」側へと一歩踏み込んでいる部分。これこそが、海外渡航よりもマドンナ要素よりも、なにより一番の「冒険」要素かもしれない。
それでも、じゃあ「五郎さんに作らせるか」ってところまでは敢えて踏み込まないのが、松重監督なりのバランス感覚だ。
あの五郎さんが、ふだんの食べて評価するクリティックの側から、とある味を求めて食材を集めるプレイヤー側に一線を越える。特別感のある、踏み越え方。だからこそ、この作品はテレビドラマ版ではなく「劇映画」として、作られねばならなかった。
それでも「本当に食材を見つける」人間は内田有紀だし、「本当にだしを調合する」人間はオダギリジョー。そこはちゃんと「プロ」に任せて、五郎はコーディネーターとしてしか動こうとしない。そこでぎりぎり「食べる人」としての「五郎さん」のキャラクターをつぶさないよう、配慮がなされている。この辺が、五郎が五郎として五郎のまま「冒険」できるギリギリのラインだというわけだ。
結果として、劇映画の展開は「いつもの裏」を行く作りになっている。
すなわち、通常版の『孤独のグルメ』は、「見ず知らずの店に当て勘で入って、その雰囲気や味から類推して店の背景を夢想する」作りである。しかし今回の劇映画は、「店の背景や夫婦の置かれている状況はすべてわかったうえで狙ってその店に行って、そういった事態を解決できる究極の味を逆算して見出していく」作りとなっている。
「味」から「店の背景」を引き出していくドラマ版に対して、
「店の背景」から「味」を引き出していく内容に切り替えられている。
そこが劇映画の「キモ」ということだ。
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もう一点、特筆すべき点として、松重監督が仕掛けてきた複数の「メタ的遊び」の面白さがある。
『孤独のグルメ』というテレビドラマを知り尽くし、作品の内容にも積極的にかかわり、ついには監督を引き受けるまでに至った、熱くて覚悟の完了した男が、あふれかえる作品愛とスタッフ愛をこめて、作品内で入れ子構造を用いて『孤独のグルメ』を大胆にいじってくる。
これが、けっこううまく決まっていて、実に楽しい。
そこで出してきた俳優のあまりの互換性の高さにも爆笑したが(「みんな俺と同じこと考えてたのね、というか、松重さん自体思いっきり俺の代わりをやるならコイツってふつうに思ってたんだww」)、番組スタッフの実際の取材の動きを再現するとか、エキストラへの気配りを再現するとか、細かく番組やスタッフへの愛着を練り込んできているのが面白かった。
考えてみると、
パリに行ったらマジで杏がいるってのも、
韓国に行ったらユ・ジェミョンのイミグレがいるってのも、
ラーメン屋の店主役がオダギリジョーってのも、
ラーメン屋の常連の中川君が実はアレってのも、
さらにはこの映画の監督が松重豊というのも、
みんなある意味「出オチ」であり、メタな仕掛けだといえる。
松重さんは、こういう仕掛けが好きで、しかも実にうまい。
他にも、細かい部分で感心させられた点がいくつもあった。
●内田有紀が海岸べりで「私はいまとっても幸せで」といって振り返るシーンが、逆光になっていて表情が陰になってよく見えないのに感心した。彼女の実はさみしくて満ち足りない気持ちや、自分の心に対してウソをついているうしろめたさが、一瞬の「陰」と表情に集約されている。
●登場したときのオダギリジョーは、あからさまに世間でいうところの「難あり店主」であり、SNSなら炎上必至のかなり感じの悪い態度で客に接していたが、だしの食材を目にして、何かしら感じ入るところがあってからは、理不尽だったり不機嫌だったりの理由で怒鳴り散らすようなことは一切しなくなるし、「なんか物足りないんですよね」とかかなり不敬な煽りを中川君からされても、突っかかりもせず、むしろ「そうなんだよねえ」と素直に応対している。
このへんのキャラクターづくりも、バランス感覚が非常に良いと思う。
●五郎さんは、ラーメン屋に対して最後まで食材の提供主が奥さんであることを伝えない。同様に、完成したスープを奥さんに送るときにも、スープの作成を夫のラーメン屋に頼んだことは敢えて伝えない。ただ、「さんせりて」のロゴ入りの中華どんぶりを同封するだけだ。内田有紀はひとくちで、それが「自分の提供した食材で、夫が作ったスープ」であることに気づく。
なんと品の良い演出! なんと粋なはからい!
●終盤の「例の撮影」シーンで、「六郎」役の俳優が、心のナレーションを口で出して言う。そこで「それやっちゃうともう『孤独のグルメ』じゃなくなっちゃうんだよね」と客にいったん思わせておいて、「本番では心の声は言いませんので!」と本人に言わせる。巧みな上げ下げで、ここも演出がうまいと思った。
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その他、観ていて思ったことなど。
●アバンの飛行機内での「ビーフの機内食がどうしても食べられない」ネタって、これもしかしてブニュエルの『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(食べたいのに食べられないネタの不条理映画)を意識されてます??
●フランスでのシーン、エッフェル塔とビストロでの食事はロケだったけど、その前の到着してしばらくって、ものすごく合成っぽくなかった? 気のせいかな?
●塩見三省って昔からこんな演技だったっけ? ちょっと軽くなにかあったような印象。
●いっちゃん汁の味捜しで、「あの食材だ」って確定されるまでのロジックが、僕には今ひとつわかりにくかった。
●SUP(サップ)で海を渡ろうとするとか、さすがに原作のテイストからかけ離れすぎているんじゃないかとは思ったけど、これもしかして「スープ」とかけたダジャレ?
●遭難先の「女しかいない島」って、ちょっと新版のほうの『ウィッカーマン』(ニコラス・ケイジ版)を想起させる。あれは、蜂の社会を模したフェミニズム・ホラーで、こちらは「龍宮城」に例えられる「傷ついた女たちの楽園」だという違いはあるけれど。
●フレンチのシェフ出身のこだわりのラーメン店主が、コロナと食材の高騰で没落していく流れって、旧京都全日空ホテルの総料理長だった松村氏がラーメン店「勝本」と「八五」を大行列店として成功させながら、コロナの影響で負債額12億で倒産させた(のちに復活)のを思い出させる。
●とにかく、松重豊は食べ方がきれい。ええっと思うくらいリフトして、それがびっくりするくらい容量の大きい口腔に、するっとスムーズに吞み込まれる。口から出っぱっているものが消えるスピードが異様に速い。このへん、実は作品の根幹だと思う。
●塩見三省の落ちは、なんとなく読めていました(笑)。
ただあれ、別に「味が物足りない」という総意から干しだらに変えただけで、もしかすると「エソ」のだしを使ったままのスープなら、おじいちゃんに満足してもらえたのかも。あと、前に「さんせりて」で出していたラーメンの味が、なぜ「いっちゃん汁」に近いのかについては、さりげにあまりちゃんと因果関係が説明されていない気もする。
●あえてシリーズのために映画化を言い出し、結局は自分で監督をするにいたった松重さん。ちょっと『刑事コロンボ』とピーター・フォークの関係性を思い出しました。またぜひ、次なるチャレンジを!