「幕間のダンサーたち」ジョイランド わたしの願い レントさんの映画レビュー(感想・評価)
幕間のダンサーたち
いまだ古い価値観に縛られる人々。個人の価値観が尊重され誰もが生きやすいジョイランド(喜びに満ち溢れた国)への道のりはまだまだ遠い。
家父長制がいまだ色濃く残るパキスタン。そのパキスタンの都会で父と兄夫婦と同居する無職のハイダルは妻が働きに出ていて、専ら家事と兄夫婦の子供たちの世話をしていた。
心優しい彼だが父や兄に対して自己主張できず家では肩身の狭い思いをしていた。また、男の孫ができないことから父親からプレッシャーも受けていたし、妻のムムターズが仕事に出ていることにもくぎを刺されていた。
そんな彼がようやく見つけたダンサーの仕事でビバとの運命的な出会いを果たす。ビバに次第に魅了されハイダルは本来の自分を見つけ出す。今までの自分はこの社会の古い価値観に縛られ本来の姿ではなかった。家父長制の社会において何かと男らしさを求められてきた、そして跡継ぎを生むために存在するものとして。
そんな彼がビバと出会ったことで自分の中の本当の自分を見出した。次第に彼はビバと本当の自分にのめり込み、いつしか妻を構わなくなって行った。
ムムターズも仕事を辞めて子を授かるが、喜びもつかの間、自分は兄嫁のようにただ嫁いだ家の跡取りを生んで育てるだけに残りの人生を捧げるのか、自分にとっての生きがいであった仕事まで奪われて。絶望のあまりその場から逃げだそうとするが、結局家出もできずに戻るしかなかった。そんな自分の気持ちをハイダルは察してはくれない。
追い詰められて結局自死を選んだムムターズ。そんな彼女の気持ちに気づいてやれなかった自分への怒りと兄や父への怒りで初めて感情をあらわにするハイダル。
ジョイランド、遊園地は普段抱える悩みや社会のしがらみから解放されて誰もが心から楽しめる場所。でもそれはひと時の夢でしかない。夢から覚めれば厳しい現実が待っている。
ビバやハイダルたちは舞台の合間、すなわち幕間で踊ることだけを許されたダンサーだった。けしてメインの舞台では踊れない。
それはまるで世の中の古い価値観と自分自身の価値観との狭間で揺れ動く、この社会で自分の生きたいように生きられない若者たちの姿のようでもある。
ビバに捨てられ、ムムターズをも失ったハイダル。海に泳ぎだした彼が誰もが生きやすい喜びに満ちた国ジョイランドにたどり着くことは果たしてできるのだろうか。
パキスタンは女性の就業率は南アジアで最下位に近く、ジェンダーギャップ改善のための施策もなされているが現実には追い付いていないようだ。女性やLGBTの保護を法律で定めてもそれが世間一般にまで浸透するにはまだまだ時間がかかるし、ハイダルの家のようにいまだ古くからの家父長制を引きずりその下で苦しんでる人が多い。
君主制から民主制へと移り変わる中でいまや個人の人権が尊重される時代。それぞれの価値観の多様性が認められるなかでいまだ古い価値観に縛られ生きづらさを感じる人々。
いい加減個人の生き方を尊重できない家族制度から脱却すべきだが、いまだ先進国といわれる日本でも選択的夫婦別姓制度も認められないありさまだ。
家父長制の下で人はその価値観に縛られる。当の父親でさえも家長として威厳を保つことを強いられるが、もはや高齢で体が衰えた父親はトイレを我慢できず粗相をしてしまう。それでも威厳を保ち続けねばならない父親の姿も憐れであるし、男らしさを求められる次男や家庭に入ることを強いられる嫁も然り。
主人、嫁、跡取り、個人をそんな枠組みにはめ込み個人の意思や個性を尊重できないような家族制度はもはや時代遅れだ。今は君主による国家運営を家族運営にもリンクできた時代とは違う。
いまや互いの個性を尊重し合い助け合うことでしか個々の人間が家族として共に暮らす意味はないのではないか。
作品冒頭で産気づいた兄嫁を病院に送り届けるハイダルを俯瞰で捉えたシーン、終盤ではこれと対になるようにムムターズの棺が運ばれるシーンが描かれる。兄嫁が生んだ女の子たちの未来をまさに暗示しているかのようであった。このまま古い価値観に縛られていては子供たちの運命も暗澹たるものとなるだろう。そんな監督の強いメッセージが伝わってきた。
レントさん、やっと今日見ることできました!ご報告遅くなりました。こんなに重いと思わず、見てから深呼吸して少しぼーっとしてすぐに家に帰りました。本当は私も一緒に海の中に泳いでいきたかったです。
パキスタンの話なのね信じられない!でなくて今のと日本とおんなじだよ!と心の中で叫びました