ジョイランド わたしの願いのレビュー・感想・評価
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家族、社会、生き様が巧みに織り交ぜられた秀作
パキスタンで一旦は上映禁止の憂き目にあったとか。保守的な考え方が幅を利かせる当国ではタブーに触れるのかもしれないが、しかし我々の目からするとこれは家族や社会をめぐるテーマを巧みに織り交ぜた優れたヒューマンドラマだ。一つ屋根の下で暮らす3世代家族。その中で不安定な立ち位置にいる、既婚者で無職の息子。ようやく得た仕事がトランスジェンダーの踊り手ビバのバックダンサーというところから物語はテンポよく展開し、どんな圧力にも屈せず力強く生きるビバと、家庭内で個を抑えながら生きる主人公とのギャップが、愛と憧れと軋轢を生んでいく。心が引き裂かれる場面もある。が、それ以上に、笑いもあり、表情も豊かで、街は躍動感に満ち、そして何より典型的な憎まれ役を設けることなく、各々にスポットを当てじっくり描写を重ねる語り口が秀逸。誰もが自分らしく笑顔で生きるにはどうすればいいのか。タイトルが投げかける余韻は切実で、深い。
これはよい映画だ!
パキスタンの古都、ラホールでの物語。
この映画では、家父長中心主義が目立つが、一つはイスラム教の影響だろう、名にし負う男性中心社会。映画で出てきた劇場の観客は、男性が多かったし、おそらく彼らが気にしていた世間体はイスラム教の影響か。ただし、ラホールでの家父長主義は、それだけではない気がした。インドーパキスタン社会の伝統からくるものでは。
一見、家父長ファザーが、長男夫婦と3人(4人になった)の子供、次男夫婦からなる9人の大家族を仕切っているようには見える。しかし、実際には、女性がかなりの実権を握っていて、はっきり意見を言う。表立っては男性中心社会にみえるが、女性が財布を握っている日本の社会と、どこか似たところがある。
長男夫婦こそ、夫のサリームが妻のヌチを支配しているが、次男夫婦は、奥さんのムムターズの方が強く、夫を尻に敷いていることは皆が認めていた。第一、次男のハイダルは、長いこと外で仕事をせず、家事や兄貴の子供の面倒をみて、皆に慕われていた。
男性に強さが求められる社会では、南太平洋の国のように、第3の性が認められることがある。それがパキスタンにおけるヒジュラー、現代のトランスジェンダーと同じ。ところが、ヒジュラーは社会の目に負けず生きてゆく必要があるので強くならざるを得ないが、その周りには、弱い男たちが寄生することになる。それを象徴しているのが次男のハイダルだろう。家父長や兄貴からのプレッシャーがきつかったのか、彼は仕事を探しに出て、劇場のバック・ダンサーの職を得る。グループを率いているのが、ヒジュラーのビバ。
しかし彼が仕事に出るとなると、家で家事をこなす人間が必要になる。選ばれたのが、次男の嫁ムムターズ。彼女は、メイクアップ・アーティストの仕事に打ち込んでいたのに、心ならずも家に入る。しかも、ハイダルは、強いビバに惹かれて、秘書がわりとして働くようになり、家に帰るのも遅くなるばかり。しかし、ムムターズは、家の中では自分が上位だったプライドもあり、ハイダルに文句も言えず、孤独を深める。その全ての責任は、優柔不断なハイダルにあるのだと思う。
彼女が一番楽しかったのは、兄嫁のヌチ(彼女も本当はインテリア・デザイナー)と二人で、夜の遊園地(ジョイランド)で遊んだこと。それにしたって、家では問題が起きてしまったのだが。
この映画を見ていて、最初は戸惑った。私の目では、それぞれの役者を区別することは難しかったから。それまでの経緯もカットバックで示されるだけだったし、普遍化のためかイスラム教の影響も表面上、出てこなかった。だけど、我慢して見ていたら、次第にそれぞれの顔に特徴があることがわかり、漸く見分けることができた。最後まで見て、心が洗われ、救われるような気がした(カタルシス)。それぞれの人間が、ムムターズもビバも、それからハイダルも、自分の運命と懸命に戦っているように見えたから。
マダムは綺麗でした
イスラム教徒が人口の大多数を占める国で作られた映画としてはセンセーショナルだと思うけど、内容としてはなんかいろいろ盛り込んで爪痕残そうと躍起になってるかのように必死さがなんだか哀れに思えた作品。
相手がクィアとか関係なく、出来る嫁に養われていた無職の夫が仕事を手にして外の世界に出ていった矢先に他の人に心奪われ、葛藤しながらも一線を越えてしまう決意をし……みたいなありがちなストーリー。ところどころに宗教観をベースにした考え方や発言が見られる点は勉強になるけど、総じてナンダコレ感が否めず悲惨。一体あたしは何を観させられているんだろう……『世の中の混沌』が伝えたいメッセージということなら百万歩譲って理解は出来るけど……なんて考えていたら2つ隣のお席に座られていたお爺さんが思わず普通の大きさの声で『なんちゅー映画だよ!』とついつい漏らしちゃってた。
うん、まさに(╭☞•́⍛•̀)╭☞それな。
人間味のあるドラマがツボを得た構成で展開
兄弟各夫婦と父同居の中、家事をしていた弟がダンサーの職を得て諸問題が発生する。
この監督はとても丁寧で映像が綺麗。そして見せ方が上手い。
性意識の揺らぎ。また封建的なパキスタン社会の中で苦悩する女性。
主人公の気弱さはまるで自分を見ている様だった。秀作。
パキスタン第2の都市ラホール。 古都であり、保守的な街だ。 中流家...
パキスタン第2の都市ラホール。
古都であり、保守的な街だ。
中流家庭の次男ハイダル(アリ・ジュネージョー)は現在無職、美容師の妻ムムターズ(ラスティ・ファルーク)が家計を支えている。
ハイダルは老齢の父の面倒を見、兄夫婦の子どもの面倒を見、兄嫁とともに家事全般を引き受けている。
厳格な父の就職命令で、友人の紹介で職を得たハイダルだったが、それは成人向け劇場の舞台で踊るダンサーの仕事だった・・・
というところからはじまる物語で、トランスジェンダーの女性ダンサー、ビバ(アリーナ・ハーン)にハイダルが惹かれていく・・・と展開する。
これだけのあらすじだと、コメディ風の映画なのかしらん、とも思う。
が観終わった感想は、「家族と個人の物語。さながらヴィスコンティ映画のよう」でした。
主婦としてのハイダルの生き方は、美容師の仕事にやりがいを感じる妻の気持ちを尊重したものであったのだが、根底には、パキスタンの家父長制度のなかで、「自由に生きる」生き方だった。
が、ダンサーとして職を得、仲間から疎まれるとともに、ビバに惹かれていくことで生来の気質が湧き出てしまう。
ハイダルは、もともと同性愛気質があったのだろう。
トランスジェンダーのビバと出逢って、それが出てしまう。
妻は、結婚前にそのあたりを察している・・・
(だから、ふたりの間に子どもがいないのだ)
妻ムムターズも察しているが、家に縛られずに、一個人として認めてくれるハイダルを選んだのだが、ハイダルの就職で家に縛られてしまう。
さらに、女性性としての歓びも得られず煩悶し、さらなる悲劇の芽を作ってしまう・・・
悲劇の芽は、ムムターズのお腹の子なのだが、不義姦通の結果の義兄との間の子・・・
煩悶としているムムターズをみた義兄は、そのとき・・・
偶発的・衝動的に関係を結んでしまった(とみた。映画では具体的に描かれないが)。
イスラム社会での不義姦通は西洋社会のそれよりも罪が重い。
特に、女性側への罪が重い。
この悲劇の芽を感じさせるのは、老齢の父と隣家の叔母との関係に、それとなく描かれる。
家族・家を包み込むような不穏で悲劇を生み出すような雰囲気・環境・・・
旧弊な家族観vs.現代的家族観という対立軸からみえる以上に、かなりの生臭さがまとわりついているように感じました。
終盤に重なる悲劇の輪を食い止める役割は、長兄の嫁が担っているのだが、男児を産まないため、因習から逃れる役割を果たせずに、悲劇が続いてしまう。
この重なる悲劇の輪が、ヴィスコンティ映画のよう」と思わせたのでしょう。
すごい映画でした。
監督・脚本(共同)は、サーイム・サーディク。共同脚本は、マギー・ブリッグス。
パラドックスが実態を
持つ時代に
脳を肥大化し生存競争を勝ち上がってきた人類が
自ら創り出したテクノロジーで
これまで覆い尽くし偽り続けた事実に向き合うことに
そんな時代を象徴するような映画だと思った。
例えば、本来、子を得ることは種の保存原理であって
結婚は種の保存原理とは別物で有るはずだが
それも人間の都合で内包した営みに。等
パラドックスはあらゆるモノごとに存在する。
それを解きほぐし詳らかに表に出す。
そう言う時代が来たんだなぁ。と安堵と共に溜息が
ついつい出てしまいましたわ◎
いい意味で新しくも哲学的な映画🎬
スタンダードサイズの画角
今回も評判を聞きつつ、天候が悪かったり条件が合わずにまだ観られていなかった作品から。公開3週目のサービスデイ午前中回、新宿武蔵野館はそれなりの客入りです。
ざっと振り返り、純粋に「パキスタン映画」と言える作品は初めてかもしれない私。パキスタンという国について良く知らないばかりか、むしろインドや欧米によって作られた映像作品から、どちらかと言えば「ネガティブな印象」の方に寄ってしまっていると思います。その背景にあって当然切り離せないのがイスラム教なのですが、そもそもイスラム教は疎か宗教についての理解度が低すぎる自分にとって、それを安易に否定の主旨にすることはできません。
なお、パキスタン映画である本作において、特に宗教が前に出てくることはありません。ですが、物語りで扱われる幾つかの「ジェンダー問題」にイスラム教が根底として影響していることは否めないと思います。では、それが「イスラム教でなければ避けられるのか?」と問われれば間違いなく「否」。なので、これを単に「異国の作品」という目で観るのではなく、同じようなことが現代の日本にだって起き兼ないと思いつつ、その中にパキスタンの方の国民性に触れるべきだと思います。
それを踏まえて、本作の話の中心となる家族、そしてその家族に関わる人たちという小さな世界の中でもいろいろな問題が見えてきます。まず、序盤のやり取りからすぐにわかる「男尊女卑」と「家父長制」ですが、これはあくまで家族の問題。むしろ厄介なのは、「世間体」であり、そこからの「集約と解放」にがっつりジェンダー問題が絡んでくるところが、強い憤りと何もできないやりきれなさを感じます。そして、その状況を象徴的に見せるスタンダードサイズの画角(1.33 : 1)。逃げ場のなさが強く伝わり、観ていてとても息苦しさを感じます。(やはり、ちゃんとカーテンで画角に合わせた調整をしてくれる劇場はいいですな)
はっきり言って、どの立場からも目を背けたくなる辛い作品であることは確かです。ただ、やはり男性は特に心して観るべき内容かと思います。物語中にちょいちょいみられる、男性が気にするメンツは心底どうでもいいと思えて小ささを感じますし、また集まるとすぐに始まるホモソーシャリティから出る言動は本当に醜い。男性陣、ともに気を付けましょう。
一人ひとりがやり切れなさと生きづらさを感じて。
優しいのは良いけど、何ともはっきりしないハイダル。ビバといる時は自分を見つけたかのよつに、欲を爆発させている姿を見ていると思わず「しっかりせい!」と言ってしまいそうになりました。
世帯を持つ選択、自分の人生を生きる選択、色々あるけど一人ひとりそれぞれが抱えてる思いや葛藤がとてもうまく表現されていました。
ムムターズがお腹に宿した子は本当にハイダルの子だったのかな?
静かで力強い映像美と音楽も作品にマッチしていて切ないけどとても良かったです。
やはり、どこも同じか?
70歳男性です。妻がインドネシア人と言う事もありイスラム教に改宗し結婚しました。また、この映画の舞台であるラホールには1998年に2度出張しています。空港の税関では酒の持込みは厳禁ですし、所謂イスラム国家です。なのでイスラム教の価値観に於ける社会、家族については作品を通じて良く伝わって来ます。でも、宗教以前に、男、女、第三の性、妻、夫、家長制度、世間体は、どこも同じと言う事が良くわかります。そして、最後に、あれだけ明るく自律的な女性が、結婚し家庭に閉じ込められた、本来であれば嬉しい男子を授かる妊娠が逆に彼女を家庭に縛り付ける。その事に絶望しイスラム教では禁じられている自殺を遂げ、その妻を助けるどころか第三の性とも言える女性(男)に恋を仕手しまい、妻の苦悩に気付かず、彼女の自殺で初めて自らの過ちに気付いたのは時既に遅し。そして、妻と約束したカラチの海で入水自殺をしようとするエンディング。パキスタンの今が垣間見える作品でした。
何によって誰が苦しみ、誰が虐げられるのか。 まるで無かったものにさ...
何によって誰が苦しみ、誰が虐げられるのか。
まるで無かったものにされる女性自身。
時々、描写がよく分からなくなるのだが、
その衝突すらも良かった。
今の話
すべての女・男・トランスジェンダーにとって今の話の映画。こんな国もこんな時代も「あった」んだね、では全然ない。最初から最後まで寄り添って共感できたのはムムターズだけだった。夫のハイダルは優しい人、妻を愛し大事にしていて家事をして姪たちの面倒も見て十分に家の中をまとめている。兄も父親もうざいのに何も言い返せないハイダル。情けなくて優し過ぎる人。
ビバと出会って自分の性指向がわかってオロオロするハイダルには同情した。ビバは生きる力が漲っていて強く美しい。誰だって惹かれる。だからビバにどやされて最終通告を受けた彼にも同情した。ビバとハイダルは正反対、上手くやっていける訳がない。
ヌチはうまい具合に家父長制ファミリーに合わせながら、ムムターズにもっと体の線が出る服にしろとか色々賑やか。ムムターズは居心地がいいゆったりした服のがいいと言う、メイクアップの仕事が好きだし彼女の性格なんだろう。でも最後に男達に吠えたのはヌチ。男達はきちんと言語化できない、反論できない。当たり前だ、「家父長制」だから、そうなってるから。そこで思考停止。
窓越しのプロポーズのシーンはかわいらしく悲しい。
音の使い方がユーモアあり自然の音(海の波音!)もとても良かった。映像は悲しいだけでなく笑える場面もたくさんあり、遠くから近くからの映像を共に素敵に使っていた。細部も丁寧で説明し過ぎでなくていい映画だった。
トランスジェンダーとか関係なくても、優柔不断すぎるお前が悪い。
パキスタンの保守的な家庭で育った主人公の男が、トランスジェンダーの女性との出会いをきっかけに、これまで当たり前のように過ごしていた毎日が、若い夫婦の、家族の人生が大きく変わっていく。
そして悲劇の結末を迎えることになる。
そもそも、全ては、主人公が妻となる女性と結婚の際に「妻になっても働きに出て良い」と安請け合いの約束をしておきながら、結局父親にさからえずに約束を破ったことから始まる。
自分は仕事に出て、そればかりか仕事先で浮気までしたお前が悪い。
挙句の果てに、浮気がばれて、妻に出て行かれそうになると泣きつく。
泣きたいのは妻の方のはずなのに。
もっと許せないのは、トランスジェンダーのダンサーとの仲を、バックダンサー仲間からかわれて、かつらをかぶせられて、写真まで取られても逆らわないのには、本当にあきれて、頭にきた。
なんか、70から80年代の、山田太一、市川森一、とかのドラマを思い出してしまった。
映像美に包まれながら、それぞれの葛藤を強く感じる映画
舞台はパキスタンの大都市ラホール。トランスジェンダーのダンサーに恋する、自分に自信のない夫、自立心があり外で働くことを望む妻。そして、差別の中にいるダンサー。
そんな主人公のハイダル、妻のムムターズ、ダンサーのビバそれぞれの葛藤を描いている。
大都市の喧騒をあえて感じさせない撮り方、現代のパキスタンにおいても今なお残る、古くからの価値感、男尊女卑、家父長制を強く感じさせる造り。
家の中の閉塞感と外界の開放感をコントラストよく演出している点、脚本は見事というしかない。
切なくそして悲しいストーリーながら、役者たちの素晴らしい演技とともに終始繊細に描かれており、何よりその映像の美しさに圧倒される。
パキスタン本国では、保守層の反対により、一旦上映禁止となるも、ノーベル平和賞受賞のマララ・ユスフザイらの支援などにより、上映が実現したことからも、パキスタンに今なお残る人々の思想や価値観について、考えさせられる。
2時間あまりの作品ながら、集中を切らすことなく没入。
因習という牢獄
パキスタン映画を観るのは初めてかも…
インド映画とは違う、というか思ってたよりずっとモダンな映画だったことにビックリ。
とはいえテーマ的にはモダンなインド映画に近しいともいえる、「(家父長制というにとどまらない)『因習』という誰も幸せにならない牢獄」についての映画だった。
男はかくあるべし、女はかくあらねばならない。という家父長制的な価値観だったり、トクシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)だったり、男も女もヒジュラー(第三の性)もそれぞれに囚われてて、誰も幸せにはなれない社会的な因習…
それに対し登場人物たちはみんなあまりにも人間だった、それが哀しい結果を生む…
割り切れないものを割り切れないままに受け入れられないのは不幸でしかないよね、と思い知らされる。
コレ、現代日本に生きる我々もまったく無縁ではない。大事…
豚キムチ鍋で一杯やれないなんて耐えられないので、絶対ムスリムは無理な男のレビューです
邦題やポスターの印象は明るい感じで、花嫁はどこへ?と同じような映画だと思ったのだが·······
兄嫁のパシリに使われる弟が憧れたひとは······
2022年の第75回カンヌ映画祭に初めて出品された純パキスタン映画とのこと。
ビバ(Biba)役のアリーナ·カーンは男前の女優さんだなぁと思っていたら·····メジャー映画の主演になったパキスタン初のトランスジェンダー。そのあと、2023年にミス·トランス·パキスタンになった。パキスタンのラホーレのムスリムの家庭に生まれた。映画産業が盛んなインドとパキスタンは昔から犬猿の仲だし、トランスジェンダーが主演の映画に対して、パキスタン政府はとても厳しく対応したようだ。
その点では是非観ておきたい映画なんだが、スクリーンに映されるサイズ同様に狭く、終始息苦しい。
出産祝のヤギのお肉(ハラム)のお裾分けをご近所に。
子沢山の長男の嫁さんにパシリ扱いされる弟。ブライダルサロンでメイクとして働くお嫁さんはとても素敵。彼女は映画プロデューサーとしても活躍しているようだ。風采のあがらない弟の嫁さんにしては聡明な人に感じるわけだ。長男を特別待遇する習慣は戦前戦後の日本然り、特別なことではないのだが、病院でビバを見た時のハイダルの表情にヤバそうな不穏な展開の始まりを感じた。
バックダンサーはいくらなんでも無理なんじゃないの🤔
家父長制
今月インド映画「花嫁はどこへ?」を鑑賞したが、今度はパキスタン映画
どちらも家族がテーマだが、根底に流れるメッセージは一緒
おいおい、パキスタンは今だに家父長制が根強く残っている社会!? なんて他人事のように観ている日本でも、今だに同性婚、選択的別性さえ認められていないのだから笑えない現実
主要キャストの女性陣が男性陣より「男前」という皮肉がこの映画をあらわしている、と思います オワリ
幕間のダンサーたち
いまだ古い価値観に縛られる人々。個人の価値観が尊重され誰もが生きやすいジョイランド(喜びに満ち溢れた国)への道のりはまだまだ遠い。
家父長制がいまだ色濃く残るパキスタン。そのパキスタンの都会で父と兄夫婦と同居する無職のハイダルは妻が働きに出ていて、専ら家事と兄夫婦の子供たちの世話をしていた。
心優しい彼だが父や兄に対して自己主張できず家では肩身の狭い思いをしていた。また、男の孫ができないことから父親からプレッシャーも受けていたし、妻のムムターズが仕事に出ていることにもくぎを刺されていた。
そんな彼がようやく見つけたダンサーの仕事でビバとの運命的な出会いを果たす。ビバに次第に魅了されハイダルは本来の自分を見つけ出す。今までの自分はこの社会の古い価値観に縛られ本来の姿ではなかった。家父長制の社会において何かと男らしさを求められてきた、そして跡継ぎを生むために存在するものとして。
そんな彼がビバと出会ったことで自分の中の本当の自分を見出した。次第に彼はビバと本当の自分にのめり込み、いつしか妻を構わなくなって行った。
ムムターズも仕事を辞めて子を授かるが、喜びもつかの間、自分は兄嫁のようにただ嫁いだ家の跡取りを生んで育てるだけに残りの人生を捧げるのか、自分にとっての生きがいであった仕事まで奪われて。絶望のあまりその場から逃げだそうとするが、結局家出もできずに戻るしかなかった。そんな自分の気持ちをハイダルは察してはくれない。
追い詰められて結局自死を選んだムムターズ。そんな彼女の気持ちに気づいてやれなかった自分への怒りと兄や父への怒りで初めて感情をあらわにするハイダル。
ジョイランド、遊園地は普段抱える悩みや社会のしがらみから解放されて誰もが心から楽しめる場所。でもそれはひと時の夢でしかない。夢から覚めれば厳しい現実が待っている。
ビバやハイダルたちは舞台の合間、すなわち幕間で踊ることだけを許されたダンサーだった。けしてメインの舞台では踊れない。
それはまるで世の中の古い価値観と自分自身の価値観との狭間で揺れ動く、この社会で自分の生きたいように生きられない若者たちの姿のようでもある。
ビバに捨てられ、ムムターズをも失ったハイダル。海に泳ぎだした彼が誰もが生きやすい喜びに満ちた国ジョイランドにたどり着くことは果たしてできるのだろうか。
パキスタンは女性の就業率は南アジアで最下位に近く、ジェンダーギャップ改善のための施策もなされているが現実には追い付いていないようだ。女性やLGBTの保護を法律で定めてもそれが世間一般にまで浸透するにはまだまだ時間がかかるし、ハイダルの家のようにいまだ古くからの家父長制を引きずりその下で苦しんでる人が多い。
君主制から民主制へと移り変わる中でいまや個人の人権が尊重される時代。それぞれの価値観の多様性が認められるなかでいまだ古い価値観に縛られ生きづらさを感じる人々。
いい加減個人の生き方を尊重できない家族制度から脱却すべきだが、いまだ先進国といわれる日本でも選択的夫婦別姓制度も認められないありさまだ。
家父長制の下で人はその価値観に縛られる。当の父親でさえも家長として威厳を保つことを強いられるが、もはや高齢で体が衰えた父親はトイレを我慢できず粗相をしてしまう。それでも威厳を保ち続けねばならない父親の姿も憐れであるし、男らしさを求められる次男や家庭に入ることを強いられる嫁も然り。
主人、嫁、跡取り、個人をそんな枠組みにはめ込み個人の意思や個性を尊重できないような家族制度はもはや時代遅れだ。今は君主による国家運営を家族運営にもリンクできた時代とは違う。
いまや互いの個性を尊重し合い助け合うことでしか個々の人間が家族として共に暮らす意味はないのではないか。
作品冒頭で産気づいた兄嫁を病院に送り届けるハイダルを俯瞰で捉えたシーン、終盤ではこれと対になるようにムムターズの棺が運ばれるシーンが描かれる。兄嫁が生んだ女の子たちの未来をまさに暗示しているかのようであった。このまま古い価値観に縛られていては子供たちの運命も暗澹たるものとなるだろう。そんな監督の強いメッセージが伝わってきた。
自由を求める人たちだってわかってたけど、 その自由さが思ったのより...
自由を求める人たちだってわかってたけど、
その自由さが思ったのより上をいっててびっくりした
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